品陀リウキさん のコメント

どうか落ち着いてw

 当然ながら、ソクラテスに自我が無いわけではないですよ?
 minatoさんは先にソクラテスを「無知の知」の機械、という
表現をされましたが、それは半分正しく、半分違ってる、と
思われます。

 と、いうのも、ソクラテスは哲人・哲学者であり、哲学の
原語は「フィロソフィア」・・・すなわち、
「フィロ(愛する)・ソフィア(智)」であり、よって、
哲学は智を愛する学問、となり、そうしてみるとソクラテス
は「無知の知」という真理・真実のソフィア(智)を深く深く
愛するがゆえにそれに機械のごとく徹する人間的自我を持つ、
愛の深い人物、と言えることになるわけです。

 そこが愛以前の感情を持たない機械や、そもそも愛を憎悪
するニヒリストとの決定的違いでしょうね。


 つまり、結局のところ問題はこの私、品陀リウキやminatoさん
の智や知、真理への愛が、はたしてどの程度のもんか、
 ということになるわけですw

 ある論を展開して打たれ叩かれて悔しいのは結局、それが正論
なのに誤論と扱われてる時や、逆に正論でなく誤論と気づかされ
た時ですから、やっぱり、論戦に勝てない以上はまだまだソクラ
テスの「フィロソフィア(愛智)」に比して、愛が足らない、と
謙虚になるほかはないでしょうね。

 まあ、そもそもソクラテスが相手にした、智への愛を自覚しない
ソフィスト(単なる智者)を相手に論を戦わすならまだ実りもある
でしょうが、そもそもの愛がなく、智そのものやことの当否正誤も
どうでもよく、虚しさを紛らわすためだけに小理屈で絡んでくる
惰性的ニヒリストは相手するだけ無駄ですので、くれぐれもご用心
をw
No.5
63ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 僕が打たれ弱いということはこのブロマガをよく読んでくださっている人ならよく知っているかと思います。今回は僕のちょっとした経験談からなぜ打たれ弱いのかを述べてみようと思います。  僕の記事が話題の記事としてニコニコのヘッドラインに載ったとき、コメントの炎上で僕はとてつもない精神的苦痛を味わいました。ただでさえ打たれ弱いのにあれだけのコメントが来たのですから、もう二度と味わいたくない苦痛でしたね。そういうわけで話題の記事に載せないよう、プロフィールに断ってあるわけです。  精神的苦痛を味わう主な原因は辛辣なコメントにあるわけですが、もう一つあります。それは、そのコメントの論理に対して何ら対抗手段をもつことができないでおり、それ故に傷ついてしまうのです。つまり、「これこれのケースではこう対処しよう」というノウハウを体に染み込ませていないから、反射的に傷つく反応が生まれてしまうのです。  これに対して僕は長年悩み続けましたが、いろいろと考えた結果、次のような結論に至りました。 ①まずは期待せずに実験的に対象に向き合う ②相手の論理の正当性をくみ取り、それを自分から切り離して謙虚に考える(受け止める必要はない) ③「そういうお前はどうなんだ?」を使う  ①に関しては結構前から述べていることです。期待をせずに実験的に向き合う。つまり、対象を認識する前に「さて、どんなメッセージがあるのかな?」と実験をするような態度で臨むということです。これで自分への心理的コミットメントが極端に減り、精神的苦痛が大幅に和らぎます。  ②に関してはこういうことです。つまり、相手がどんなに辛辣にコメントをしていても、その相手の論理に何かしらの正当性があれば、それだけを切り抜いて自分から切り離し、謙虚に考えるということです。自分が傷つく理由は、相手の論理に正当性があるから、相手の言うことにも一理あるからなのです。そもそも本当に的外れなことなら傷つくこともありませんし、萎えることもありません。相手にも正しい何かがあるということを自覚し、それで傷ついているのだということを知る。こうすることで、その後、十分に議論して自分なりの価値観を形成していき、次に同じような内容のコメントがあっても大丈夫なように対処方法を体に染み込ませておくのです。  ③に関しては、「お前はどうなんだ?」と言うことによってまずは自分を棚に上げ、相手を攻撃するようにします。こうすることで、相手の方に意識が向き、まるで相手を狩るように集中して、自分が傷ついていることを忘れてしまうのです。  ①から③に共通するのは、まず自分から問題を切り離して考えるということです。できるだけ心理的コミットメント(自己への感情移入のような介入)をしないようにすることが重要なのです。関心を自己に向けるのではなく他者に向けること。できるだけ心理的コミットメントをする対象を相手に向けることです。できるだけ相手に関心をよせ、その後に自己にフィードバックする。すぐに無媒介に自己にフィードバックしてしまうから極端に傷つくわけで、一度相手の主張を相手に当てはめてみてから、自己に向けて、真剣に議論するべきなのです。これによって、自己から問題を切り離して一時的に苦痛をそらすことができるだけでなく、相手を主観的に分析して攻撃し、それによって自分から自分自身にフィードバックして自分を分析することができるわけです。  要するに、問題を棚上げして相手を攻撃し、その攻撃の後、「じゃあ自分こそはどうなんだ?」と自分で問うことで、自分のペースで考えることができるようになるということです。つまり、傷つく原因の一つとして、期待外れの不意打ちを食らって相手のペースで考えさせられるというのがあるのです。  これは個人のみの問題にも応用できます。何か失敗をしたときに、もう一人の自分がけなしてきたとします。そこで、「じゃあ、お前はどうなんだ?」と問うてみるのです。するとどうでしょう、もう一人の自分は何も語ることができないではありませんか。一度やってみてください。絶対に語ることができません。なぜなら、もうひとりの自分の言葉を発するのは自分自身だからです。そもそも答えられるわけがないのです。そこでこう言うのです。「おまえ、いっちょまえに文句言う割りには、そういうところで黙るんだな、卑怯者だね」と。これでひとまず悪意のこもったもう一人の自分を黙らせることができます。  結局、精神的に傷つく理由は、その対象が相手にしている内容に自分が含まれていると思いこむからなのです。考えてみてください。他人事ならまったく傷つかないのに、自分のこととなるとすごく傷つきますよね? でも、逆の発想で、あたかも他人事のように振る舞えば、傷つくことはないのです。実際に僕はこれでだいぶ自己のコントロールが利くようになりました。  皆さんも、ぜひ試してみてください!!! あとがき  攻撃と言うと物騒な感じですが、もともと狩りをしていた人間に備わっている本能みたいなものです。攻撃をされるとやり返したくなるわけですが、実際に暴力をふるうのではなく、観念として架空の他者をつくり、それを攻撃する感じです。愚痴をこぼさないとやっていけないように、攻撃をしないと気が済まないというのが人間の性のようです。皆さんも、我慢せずにどんどん発散しましょう! ただし、リアルに暴力という手段に訴えないように。 三行まとめ 傷つく理由は瞬時に不意打ちを食らって自分のペースで考えられなくなるから。 傷つく理由は対象の言っていることが自分のことだと思い込み過ぎてるから。 問題を自己から切り離し、他者に当てはめ攻撃(分析)してから自己に回帰せよ。 関連記事 「 強い心をつくるための必要最低限なこと 」
《み》のブロマガ 思索跡地
 Yes, we could. Because, already can.

 (そう、私達はできたはずなのだ。何故なら、もう既にできるのだから。)



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 (プロフィール更新日:2019/01/10)