南京事件と歴史観のことについて考えてみる。
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南京事件と歴史観のことについて考えてみる。

2014-02-17 14:42
  • 11
ハロー、Mistirです。
たくさんのコメント、マジでありがとうございます。

……それにしても、あのときは疲れました。マジ疲れました。
返信そのものにではありません。あれはやるといったからにはやる、その程度の話。
だけどなぁ……なんで……
なんで、政治議論が始まっちゃったのか。

「ネトウヨの消失」の記事は、最終的に「そういった議論から、自分の及ばぬところにある議論から離れたい」に着地します。なのにコメント返信の中でそういった議論に深入りしてしまうことが多く……それどころか、南京事件や慰安婦、今の政権が「自由」かどうか……みたいな問題さえ登場。
……疲れました。

だけど、誠実なコメントを頂ける嬉しさで光の速さで復活。

やっぱりあれだけ長い(自覚はある)文章をじっくり読んでいただいて、なんらかの形で影響を与えられるってメチャクチャ嬉しいことなんですよね。うん。
こういった嬉しさがあるからこそ、書いたり描いたりしたいって気持ち、たまにウジウジしてると忘れちゃう。覚えとかないとなぁ。

さて、そんなこんなで政治の話なんて絶対もうやらんぞと思っていましたが、どうしても思うことがあって政治の話をします。歴史観の話です。

今回の話は結論がすっきりするものではありません。モヤモヤしたまま書いています。皆さんの意見を(全レスできるか分かりませんが……)是非お聞かせいただければありがたい。


先程も言いましたが、前回の記事に対するコメントで「南京大虐殺を無かったと言う人を歴史修正主義者と呼ぶ」って書き込んでた人がいて、それにカチンと来て(「何故カチンと来たか」……それも非常に大事な話題です。後述します)議論じみたことになってしまいました。

そのあとTwitterで「俺はもう誰が何と言おうが『南京大虐殺(南京事件)に関しては議論が割れている』以上のことは言わねーぞ!」って宣言すると、

「日本の政府、日本の司法、日本の歴史学会が南京大虐殺を認めているのに「議論が割れている」というのは一体どういうことですか?」(原文ママ)」

って返信が飛んできた。
…………

ハイ、前者はとにかく、後者はもう相手にすることすら嫌だ。結果的にちょっと相手にしちゃったんだけど……


でもね、おかげで歴史観のことがちょっとだけ分かってきた。
こんなんで分かるか!とも言いたくなるけど、それでもちょっとだけ見えることはある。

今回は、その話をしようと思う。


そもそも例えば南京事件ってことについて知ろうとするとき、僕らは何を使うだろうか。
ネット、本、新聞……なんでもいい、とにかく「情報」が必要だよね。
だけどさ、その情報も何かを経由して書かれた情報だ。真偽の程を探るためにはいわゆる「メディア・リテラシー」が必要だ……ってのはもう耳が痛くなるほど言われたことだ。

さて、問題はここから。
メディア・リテラシーの限界」のお話。
現実的な意味で「歴史」を論じる。学者でもなく、素人である我々が「論じる」。そのとき……何を参考にする?
僕のブログに南京事件の件でコメントをくれた人に「どうぞ南京事件を証明できるならその記事貼ってください」って皮肉交じりで言ったらぺたっとwikiを貼られてしまった。僕は確かに反論できなかった。……ネット情報にネット情報で反論するのスゲー嫌だし、そうじゃなくてもさ、例えば……アマゾンかどこかで「南京事件」で検索するといくらでも出てくる本の情報をもとに反論したとしても、泥沼にハマるのが滅茶苦茶嫌だった。嫌で嫌で仕方なかった。
何故「嫌」なのだろう?面倒だからか?まあ面倒だからってのもある。だけど恐らく僕は気付いていたのだろう、ここで反論しても不毛だってことに。キリがないどころか、目的さえ無いということに。さらに言えば、事実として……僕に大義が無いことに。


ここで思考実験。僕が仮に「南京事件は絶対あったに違いない」という立場なら……もし「南京事件は無かった」と言う人が証拠として「そういった本」の中の一冊を提出してきたら……僕はどうする?


僕はこう言うだろう。
日本で発売されたそういう本が日本に都合良い結論を書いていることは当たり前だろう」と。そうは言わなかったとしても「僕が信ずる本」なり「僕が信ずるネット」の記事をポンと出して反論することになるかな。もちろん「南京事件はあった」という立場の。もしかすると「論文」だったらもうちょっと信ぴょう性は上がるかもしれないが、論文も信じられたものではない世の中だ、というのはさておき……。

さて、今度は「南京事件は無かった」の立場に立とう。
例えばだけど……「この証言こそが南京事件がなかった証拠だ!反論してみろ!」って僕が何かテキトーな記事から引っ張ってきて突き付けたとする。
この時点で既に、二点問題があるんだ。
まずは、その「テキトーな記事」の信ぴょう性。
次に……もし、その内容に「反論」された場合、その「反論」の情報源の信ぴょう性。

さらに言えば、南京事件1つに限ったとしてもそういった「情報」の数は非常に多く、ある意見が「正しい」と仮に100%証明されたにせよ、何か別の「情報」が現れる。キリがない。それを追求すると一生モノになってしまいそうだ。
さあ、「僕たちは何のために議論している」のだろう?
証明のため?正しい答えに至るため?本当か?

少し違った角度からも見てみよう。
僕にTwitterで「南京事件に対して議論が割れているとは何事!」と言ってきた人が「お前はアポロ11号が月に行ったことさえ『議論が割れている』っていうのか?」と話をすり替えてきたことをきっかけに、少し考えてみたのです。

僕たちは何をきっかけに、歴史上の出来事を信じるのか」と。
例えば、「織田信長が天下統一を進めた」事実を否定する人はほとんどいないでしょう。ですが、その情報を僕らはどこから身に付けたのだろう?教科書、歴史漫画、ゲーム……
果たして「織田信長が天下統一を進めた確固たる証拠を提出できる人」は存在するだろうか?
「ここで提出されてるよ」ではなく、自分自身が、直接。


この話が極論であることはよーーーーーく分かってるんですよ。
こんな「通念」疑ってたらキリがない。……さあ、ここからこの記事の主題です(サービス精神を身に付けました)


議論が割れている歴史問題に直面すると、僕たちはこの「通念」の大切さを見失う。

「通念」が1つでないことを見失う。
必ずしも論理だけで全てが語れるわけではないことを見失う。
現実として論理だけが通用しているわけではないことを見失う。

おそらく議論が割れている歴史問題に直面したとき、僕たちにできることは……よっぽど徹底的に学んでいる人ではない限り「信じたい通念を信じる」ことだけなんですよ。賛成派にせよ反対派にせよ「情報」を用いるわけで、その「情報」は広い意味での「通念」です。そこに「論理」は、実は厳密な意味では欠落している。前提となる「情報源」の信ぴょう性を追求するとキリがないってだけでなく、そこで語られている前提となる条件が複雑極まりないことが非常に多いから。それこそ「学者に任せる」以外の道はほとんどない。例えばね、「おおっ、この情報論理的だな!これを僕と違う立場の歴史観の人に突きつけよう」ってなったとして……それで僕と違う立場の人はどうなるだろう。色々と考えられるけど……みなまで言うまい。

これはもはや「信仰」の問題です。
我々は信じたいものを信じている。事実を信じているわけではない。事実は歴史問題において、数学や物理学のように確かなものではない。

信仰をめぐるバトルの悲惨さと言ったら説明不要でしょう。
ひっどいことにしかならない。僕が最初にイラッとしてしまったのも、うっすらと「信仰」していたものを否定された気持ちになったからなのでしょう。

もちろん、歴史について学ぶことが不要であるとは全く言いません。それこそ無茶苦茶です。でもさ、歴史観の違いでバトルになったとして、その目的が「相手の間違いを認めさせること」だとすれば……こんな哀しいことはない。

だったら、何が我々にとって有意義なのか。
ここから最も僕の言いたいことです

まずは、歴史観について多様性を認めること。自分と異なる歴史観について持ってる人がいたとすれば、「ああ、そういった信仰か」と受け流すこと。コレはもちろん「ハナから相手にしない」という意味ではありません。その上で、その歴史観に対して疑念があれば「敬意を払った上で質問」することが大事。相手に何かを認めさせることを目的にするくらいなら、疑念の解消を目的にしたほうがよっぽどいい。そして最後まで礼儀を大事にすること。これは自分にも欠けていたことだと最近気付いた。

何度も言うことになるが、歴史的に議論が割れていることを「証明」するのは(学者や在野のプロならともかく普通は)「不可能」なのであって、それに関しては「どうでもいい」を貫いたほうが健全だ。僕は「何か」を信ずるしかなくて、信じた上で「これから(本当の意味での)議論がどう動くか」を見守り、「信ずるもの」に近いことを言っている人を支持するしか無い。完全な中立性が存在しないことは、よく分かっている。僕もこれからもどちらかの立場に立ち続けるだろう。その立場がたとえ変わることがあったにせよ。

そうやって見守るだけの僕が、誰かとカギカッコ付きの「議論」をする。あまりにも不毛だ。

議論ではなく、疑念の解消を。
そのために、ヒトとして最低限の敬意を。
相手を屈服させるための議論は議論ではない。
相手を屈服させたとして、何一つ生まれない。

……分かっちゃいる。分かっちゃいるんだ。本当にこのことを突き詰めて「歴史は信仰の問題だ」なんて結論付けちゃったら、本当に僕は歴史を何も学べなくなるし語れなくなる。難しすぎる話だ。それでも僕は多分「何かを信じて」その土壌の上で本を読むことだろう。

あー、そーいや大槻ケンヂの小説に出てくるモブキャラに色んな宗教に「真理」見出しちゃって滅茶苦茶になるキャラいたよね。ネタキャラってか本当ほとんど出てこないキャラだけど。もしかしたら、今の僕はそいつなのかも。うーん……

皆さんは、何を信じますか。
モヤモヤしたままこの話終わり。

……あー、念のため。この話は国内かつ僕たちのような一般人限定です。外務省が海外に対してどんなスタンスで「歴史観」を語るべきか……なんて話に広げたくないです。それは全くの別問題。

どーもローテンションになってしまいました。次はもっと書いてて楽しいこと書きたいですね……


※おまけ
南京事件の話だけど、「あった」と言う人がいて、それに対して「無かった」を説明するのって……なんだか最近痴漢冤罪みたいな話になってるよね。ほんとに痴漢したのかどうか。違いは、痴漢冤罪よりも「情報」が圧倒的に多いこと。良くも悪くも。「無かった」に対して「あった」を説明しようとすると、「(痴漢で例えれば)当初の検察の主張」から引用せざるを得ないことが多くて、なかなかやっぱり「議論」は進まないってことになる。ループしがちなのかも。
それとさらにもう一つ、「議論が割れていること」なんて証明できません。ネットで議論されてるページをポンと貼って「ほら、議論割れてるだろ」なんて言うのは「ネットの情報は玉石混淆」っていう僕のスタンスと合わないし。でもそもそも、そういった玉石混淆の情報を僕自身も発信してるわけで……複雑極まりないね。
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他1件のコメントを表示
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「相手を屈服させるための議論」を好む方はネットだけでなく現実にもたくさんいらっしゃいますね。

レッテル貼り、強弁、多数派工作、そのほかいろいろな力を駆使すれば他人の意見は容易に捻じ曲げることができるということを経験的に知っておられるような方です。

勿論、ある程度そのような「政治力」を使わなければ物事を動かすことなど出来ませんが、そのようなやり方が長い間まかり通るようになると、次第に周囲から反対意見が聞かれなくなり内輪の理論と世間の常識が乖離してしまうようになります。

「健全な議論」のためには自らの意見を主張することと同じくらい他人の意見に耳を傾ける必要がある。貴方の文章を読んでそのように感じました。
68ヶ月前
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今回も楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。

真実(客観性)から信仰(主観性)に考えを切り替えたところと、議論の不毛さを述べているところと、敬意の大切さについて述べているところが、素晴らしいと思います。結局は完全な客観は存在しないですからね。ただ、元々政治的信念を持たない人に説明してみて、納得してくれる話であれば、ある程度は「信ぴょう性有り」と考えても良さそうかな、、、と思うくらいです。

「学のある人」は客観で話したがり、「そうでない人」は主観で話していると思います。そして、「そうでない人」は『主観で話してるので論点が交わらない』、ということをよく知っているのか、大人対応で不毛な議論を避けます(笑)。「そうでない人」の方が大人対応という不思議な現象です。

参考までに、今まで一回もスベった事なく相手(左翼の方々)の心を動かした話があるので紹介いたします。
「日本の朝鮮占領政策は、差別ではなく同化であった。インフラ整備、日本語教育、創氏改名、国会議員選出等々、すべての政策は『同化』を目指している。つまりは、朝鮮人を完全な日本人にしたかったのである。もし、朝鮮半島が大戦後も日本領であったならば、朝鮮も沖縄や北海道と同じようになっていただろう。すなわち、日本語を話し、日本名を持ち、見た目が日本人で(少々毛深い)、沖縄の方言を話す沖縄県民と同じように、日本語を話し、日本名を持ち、見た目が日本人で(少々顔が薄い)、『朝鮮の方言』を話す『朝鮮県民』ができていたに違いない」

この話には、左翼の方々も心を動かされるようです。一度お試しいただければ嬉しいです。
68ヶ月前
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南京については、歴史学的には「犠牲が無かった」や「30万人殺された」などといった極端な見解は示されていません。
もう解決していることですし、神経質にならなくてもいいのではと思います。 
メインの議論についてはMistir さんが書かれていることの反復になってしまいますが
たとえば、「信長は庶民を皆殺しにしたんだって」と言われても「へー」としか思いませんよね? そういうことです。
今回のような自分が信仰しているものに関しての議論は、どのように持論=信仰しているものを正当化するかです。
信仰しているものが否定されるので、感情的になり相手を屈服させようとするのだと思います。論点ずらしがいい例ですよ。議論の是非を確かめるのではなく、ただ相手を負かそうとするだけなのですから。
人は見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じる。by古美門研介
論は都合のいい情報でそれらしく語る推測でしかありません。
逆の立場になれることはとても素晴らしいことだと思います。自分の立場の心理(なぜそれを信仰するのか なぜそれを信仰することになったのか)、そして相手の立場の心理(同じく)を考えればもっと深まると思います。人が信仰するもので、人の心情がわかり、人の心情が分かることにより、なぜそれを信仰するのかが分かるはずです。
68ヶ月前
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哲学ってのは考えれば考えるほど答えが無くなっていくよね。その果てにある答えが「答えなんて無い」なんだろうね。でもそれは答えであってでもそれは答えでなくて・・・の繰り返し。
どっかの神話に「ウロボロス」という蛇がいてね、自分の尾を飲み込み続けるんだってさ。当然蛇は前に進みながら飲み込んでいくからずっと同じことを繰り返すんだって。昔の人はこれを世界として例えた。僕はこれは至極的確であると思う。
なればこの世の答えはすべて「無限ループ」でもあるのかもね。
結局のとこ歴史なんて過去の事だから正直どーでもいいんだよね。それが悪いことなら繰り返さないようにすれば良いし、今がちゃんとしているなら昔のことなんて暇な時に話の話題として出すくらいで十分だよね。
68ヶ月前
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いろいろ皆の意見を見てみたけど。もし相手が自分を論破して屈服させようものなら、「そーですか」で終わらせようと思う。
みんな自分を認められたいんだから認めるところは認めてしまえば良い。だからと言って自分の意見はしっかり持っていたいものだけどね。自分の意見がなければそれを糧とすれば良い。
68ヶ月前
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>>1
ありがとうございます。
結局自分に都合の良い情報だけをジャンクフードのように摂取してしまう。人間である以上それは避けられないところもあるので、なるべく心に余裕を持って色々な情報を得たいものですね。
68ヶ月前
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>>2
ありがとうございます。
政治力を自分のために行使しても、一時的につまらない快楽が得られるだけですもんね。僕も人の話を聞かない傾向がありそうなので注意が必要かもしれません。
なんにせよ、何も得られない議論は虚しいものです。
68ヶ月前
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>>3
こちらこそ、ありがとうございます。
中立、あるいはもっと明確に無知な人に対して教えるのならば有効ではありそうですね。

うーん……その歴史観に対しても今はコメントし難いw
ただ、少なくともある程度の真実は含まれいるだろうなとは感じました。……それにしても、なんでこんなことになってしまったのでしょうね。今の日韓情勢は何というか、国内の反応も含めて不毛です。逆に言えば、それだけ日本が平和だなーと感じたりもします。不毛の領域で済んでますからね。
68ヶ月前
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>>5
ありがとうございます。
この問題に限って言えば「虐殺」の言葉がひとり歩きし過ぎていますね。もうあまり触れたくはないですが、どうも慰安婦の問題と言い、ほとんど痴漢冤罪か実際に痴漢したのかの構図になっているのは見ていてイライラする。ま、今は「どうでもいい」ことなんですけどね……選挙や署名活動が行われるまでは。
とりあえずしっかりと煽り抜きの議論ができれば、意見の異なる人でも凄く楽しかったりします。Twitterなどが特にそうですね。文字制限がある分議論の論点が定まりやすいので、すり替えたりしない相手ならかなりすっきりと話せます。
68ヶ月前
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>>7
ありがとうございます。
多分、本当の意味で僕は「歴史が苦手」なのかもしれません。そういったことが苦手だからこそ、(ロラン・バルトによると)釈明も弁明もしないテクストに惹かれるのかもしれないです。
どうしても屈服させようとする人がいると逆にその人の意見の真逆を信奉したくなったりしますから、それにも注意が必要かもしれませんねw
68ヶ月前
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