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んょみさん のコメント

父親が『親が子にしてやれるのは水飲み場に連れて行くことだけ』と言っていたのを思い出しました。
水を飲むかはおまえの自由だと。
「お上」という昔ながらのステレオ縦構造から、戦後の自由主義の過渡期に生まれた教訓のような気がします。

世代で変わる価値観、Mistirさんの論に共感する若者も多いと思います。
数十年後、「母上」の『勉強しなさい』が死語になるほどの老い先に、こんな結果が待ってたかと笑い飛ばして死にたいものです。

道を辿った結果にブロマガに回帰したMistirさんを『おかえりー』と迎えつつ、次の記事でどんな考えを披瀝してくれるのか、楽しみにしてます。
早く書けよ(台無し
No.5
72ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
ドーモみなさん、「超絶結果主義者」のMistirです。 今回は、ちょっとだけ難しい記事です。というか、なるべくふわっとした記事を書いて皆さんに判断を委ねることにしました。 早速ですがみなさん、この「 結果主義 」って言葉、どう思う? 普通、良い印象は持たないよね。 「結果さえ良ければ全ていい」とかさ。「 どんな手段を使ってでも結果さえ出ればいい 」みたいなね。 僕も実はそういう考え方には賛成出来ない。 じゃあ「結果主義」ってどういう意味かっつーと…… 「 結果が全て 」って考え方ってことです。 アレ、一緒じゃね? どういう意味なのか、もうちょい言いましょう。 例えば……「モテたい」っていう願望、あるじゃないですか。でも、我が心の師、 所ジョージ に言わせるとこのようになります。 「モテようと思って何かやることなんてのは、全然、気持ち悪いだけで、一生懸命やってれば、結果モテるってことなんですよ。でも、今の若い子たちは、モテるためにどうすればいいんだろうって、そっち行っちゃうからダメなんだよ。一生懸命やってりゃね、モテるの。やがて。」 ここでピンと来た人は察しの良い人ですね。 僕の言う「結果主義」は、要するにそういう意味です。 ……どういう意味だよ!って思われちゃうかもしれないけど。 要は、 「あらかじめ結果を想定する」のではなく「結果的にこうなった」っていう考え方 にフォーカスを当てる生き方、みたいな。 例えば、プロのピアニストになろうとするのではなく、多分本当にピアノが上手い人は目の前にある譜面を全力でひとつひとつこなしていたら 「結果として」 プロになっちゃったんじゃないか、っていう考え方です。 で、最近はもう一歩進んで、 「僕はなんでこんな考え方になったんだ?」 っていうことを考えてます。 努力ができないから?飽き性だから? 多分、その辺りだと思うんだけど、やっぱ「義務が嫌い」「自由が好き」みたいな感情が人一倍強いってことがでかいのかなって思う。 さらに、この「義務が嫌い」っていう言葉は結構、重い。「ゆとり世代はこれだから」ってサラッとスルーしないでくれたまえ。 ほら、 「勉強しようと思ったのにオカンが『勉強しなさい』って言ってきて、いまやろうと思ったのに!ってなっちゃってやる気がなくなっちゃった」 ってあるじゃない。 それはもちろん「言い訳」なんだろうけど、「言い訳」以上の本質的な問題も含んでいる。 「勉強しよう」という「自分の意志」が「勉強しなさい」という言葉で「上からの命令」という、次元の低い枠組みに吸収されてしまう。 「自分の意志」が「奪われる」 。 これって凄く凄く大きなことだ。 僕は、「 僕の意志を行使する 」っていう願望が、物凄くでかい。 それは言い換えると「自由」ってことだ。 実を言うと、これだけ「義務が嫌い」と言いながらも「義務がないと動けない」みたいな自分もいる。例えばだけど、仕事が無いなら絶対に朝6時半には起きない。 でも、そこに「義務」があったとしても、 「俺は俺の意志で行動してる」 って信念みたいな何かしらの感情を少しでも持てるなら、大分違う。それがたとえ「自分を騙した結果」だったとしても。 今からこの記事は核心部分に入ります。 この「自分の意志で行動する」ことに対して、おそらく主導権を握っているのは「こちら」、つまり「自分」サイドだ。世間に文句を言えば言うほど、「自分の意志で行動する」ことはできなくなる。だから、自分が自分の責任で「自分の意志で行動する」ことを決断しないといけない。 これは、よくブラック経営者(じゃなくても、ごくごく常識的な社会人)が言う「主体性を持って行動せよ」とは全く違う。それよりも、もっと大きな問題だ。 「主体性を持たないこと」を決めるのも、「主体性を持つこと」も、判断としての最終責任を負うのは「結局自分」ってことだ。 で、その責任を負わなかったらどうなるのか……? 多分、ツライ人生だよねぇ。 って、僕はそういうことを言いたかったのです。 僕はあくまでも僕の意志で行動していたい。 そりゃあ、さ。社会は好き勝手を許してくれるわけじゃないよ。仕事中に全裸になれないしさ。なりたくないけど。 でも、そういう意味じゃない。 意地でもいい、意地を張っているだけでもいい。「 俺は俺の意志でこうしてるんだ! 」を貫きたい。 その結果、絶対にどこかに辿り着くじゃろ 、と僕はまったり思っているのです。 その分、「あらかじめ目標を持って、そこにまっすぐ進むような生き方」、言い換えれば「プロセス主義」が苦手です。その考え方は「そうすれば結果が得られるし、得られなかったとしてもまた次の挑戦がある」となる。これって要は「結果」なんだよね。結局はプロセスをもとに次の結果、次の結果……と結果を追い求める。もちろん、「従来の結果主義」も僕は苦手です。意外と(??)私は善人なので「結果さえ良ければ何してもいい!」なんて思わない。 あと、先程述べましたが「主体的に行動すること」を押し付けられるのも嫌いです。 「 主体性くらい、僕の責任で負わせてくれ 」。 そう、僕は…… 「 自分の責任くらい、自分に背負わせてくれ 」 という考え方が好きなのです。 まあ、言葉がカッコイイだけって気もしなくもないけどね。 で、最近ワイン飲みながら飯食いながらニコ動見ながらよく考えるのが、 「 俺はどこまで俺の意志でここにいるんだ? 」 ってことです。 この考え方突き詰めると、絶対に宗教に辿り着いちゃうんだよなぁ、って思ってます。 たまーにみんなで飲んでる時とか、 「 なんで俺は東京にいるんだ? 」とか言っちゃうときがあるけど、その裏側はこういう考え方が含まれているのですよ。うん。 大抵理解されないし、自分も理解されると思ってないのに口走っちゃうからダメだなぁって思ってるんだけど。 僕はマッチョマンじゃないので、「全て自分の意志で選んだ!我が人生に過ちは無い!」なんて、言えません。多分、後悔はない。だけど「多分」です。 ワイン飲みながら「どこまでが俺の意志だったんだろうね」って考えるのが限界です。 そして、いつも結論は同じ。 「どんな道を辿っても、必ずこんな『結果』だったんだろうな」って。 結論は同じだって解ってる。 「 必ず俺は、ここに来るのさ 」。 それでも僕は、考えるし、語る。語るし伝えるし聞く。そしてまた、考え、語る。 そんなMistirをこれからもよろしくお願いします。 ではまた次の記事で。
語れることを、語りたい。



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