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  • 獄中十八年 徳田球一編 四.七高生から代用教員

     沖縄中學卒業後、一年間東京で豫備校生活をしたのち七高に入つたが、貧乏で學資もなかつたので、はじめ母の異母弟にあたる叔父の家に世話になつた。この人は大してわるくなかつたが、その母がひどい人で、わたしが琉球人の腹だというのでおなじ食卓でめしをくうことをこばみ、ぜんぶ下男と一しよにさせた。湯殿はあつたがわたしが湯に入るときたないといつて湯にも入れない。だかわたしは町の銭湯にいつた。そういう侮辱をうけるのでとうていがまんができなくなり、寄宿合に入つたが、さうなると金が足りないので、とうとう高等學校は一年在學しただけで中途退學し、一九一三年(大正二年)に琉球にかえつてしまつた。  高等學校では、英語の教師に松本という人がいた。これがいつも琉球人をばかにして、わたしがなにか質問すると「きさまは琉球人のくせに、おれにきくことはないじやないか」と吐くようにいう。とうとわたしはかんしやくをおこしてストライキをやつた。琉球人をなぜ侮辱するか、と大々的にみんなを煽動してストライキをはじめ、とうとうその男を仙臺の二高に追いやつた。 高等學校というところは、ただ語學ばかりおしえるところで、じつにつまら...

    2016-12-02

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  • 獄中十八年 徳田球一編 三.小學校で最初のストライキ

     わたしはこのような善良な祖母と、 わるい祖母の二人に育てられ、まえに述べたようにおさないときから社會の罪惡面を身近く見せつけられたので、よわい人たちにたいする同情と、それらの人々を不正な壓力からまもろうという氣もちが若いときからつよかつた。そして小學校の五年のとき最初のストライキをやつた。校長は琉球人でない輸入校長だつたが、琉球にくる輸入敎員がみんなそうであるように、ざんぎやくで、わるい人間だつた。學校でもいわゆる鹿兒島のスペルタ的敎育で、なぐつたり、けとばしたり、「琉球人のばかやろう」などといつた。これにたいする反感が昂じてわたしたちはストライキをやつた。 どういうストライキかというと.體操の時間の一ばんさいごに「別れ」をせすに先生がかえつたので、「別れ」をしないから別れるなといつてがんばり、そのままみんなで家へかえり、三日ばかり同盟罷業をやつた。こんご、なぐつたりけつたり琉球人をばかにする暴言を吐くなら學校に出ないといつてがんばつたが、とうとう敎師の方が折れておとなしくなつた。わたしは小學校に人つてから出るまで級長だつたので.偶然このストライキも指導することになつた。  中...

    2016-11-23

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  • 獄中十八年 徳田球一編 ニ.親孝行でとうる

     わたしは子供のとき非常に親孝行だつた。今でも村では親孝行とうわさしているという。親孝行は特に母と、父方の祖母にむかつて集中し、母方の祖母には前に述べたようにむしろにくしみをもつていた。  私の母は父と結婚したことによつて母方の祖母と對(対)立する立場にあつた。というのは、この父が非常に酒のみで、金をためるということを知らず、人にたのまれるとなんでもくれてしもう性質で、祖母の氣にいらなかつたからである。そんなことでいつも貧乏つづきであつたため、祖母はたいへん母をきらつていた。そして何度もわたしの父母を離婚させようとしたらしいが、けつきよく實(実)現しなかつた。そんなわけでわたしとしては祖母をにくむ氣もちが母への愛をよけいに深める結果となつていつた。わたしの鄕里は道がわるく川には橋もなく、あるいてわたらなければならないようなところもあるが、わたしはいつも母をせおつてそういうところをあるいた。母親をせおうことなどは普通の人のやらぬことなので、私はたいそうな孝行者だといわれたが、じつさいにも母にたいする愛情は深かつた。  母のつぎにわたしの幼年時代の愛情の對象となつたのは妹である。わ...

    2016-11-14

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  • 獄中十八年 徳田球一編 一.小さな正義派

     一八九四年(明治二十七年)沖縄縣 國頭(クンチャン)郡 名護(ナゴ)村にうまれた。わたしが共産主義者になつたのには特殊な事情がある。―わたしの祖父は鹿兒島で舊(旧)藩時代に船乗りからだんだん立身してきた廻船問屋だつた。琉球に船をもつてきて、外國からのいろいろな物資を非常に安く買い、それを鹿兒島や門司や大阪に賣りさばく商賣をしていた。そういう船問屋は、みんな琉球で女をもつていた。私の父はそういふ鹿兒島人と、その妾の琉球の女とのあいだにうまれたのである。わたしの母もやはりそういう船問屋の主人と琉球人の妾とのあいだにうまれた。 わたしの祖母はひどい貧農の娘で、その生れ故郷の家はまるでブタごやのようなあばらやだつた。祖母はそういうところにうまれ、女郎に賣られ、やがて祖父の妾になつてわたしの父をうんだ。母方の祖母は、貧乏な職人の家にうまれ、その家には女の子が三人ゐたが、二人まで女郎に賣られた。祖母はこの悲惨な家にうまれたのであるが、これらの家には稅金を収めるのに金がなく、賣るものもなく、つまりはその子に當る私の祖母たちを賣らねばならなかつた。値段は慶應年間のことだが、大體十五、六才のこどもで...

    2016-11-02

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  • 【獄中十八年:徳田球一・志賀義雄】(時事通信社、1947年2月15日発行)を《連載するにあたって》

    ■二十世紀の残滓である「共産主義」は、歴史的な役割はすでに終了したにも関わらず、日本では本質を曖昧にして、国政選挙に於いて野党統一候補として政権奪取を目指しています。 『獄中十八年:徳田球一・志賀義雄』は、敵の敵は「味方」の論理で、日本と戦ったマッカーサー連合国最高司令官が、「自由と民主主義」に相反する「共産主義者」を解放し、GHQ占領下初頭に占領政策の「手駒」とし、都合よく使われていた蜜月期に、出版された貴重な資料本です。 その執筆者は、初代 日本共産党徳田球一書記長(在任期間 1945年12月3日~1953年10月14日)と志賀義雄が記した著書ですが、ほとんどの図書館に所蔵されていません。 共産党の創業者の一人でもある徳田球一が、自ら語った共産党の発足に至る実態を知ることが、産経新聞やオピニオン誌を手にして情報を得ている保守国民には、必読の書なのです。 これから一年間に亘って『獄中十八年:徳田球一・志賀義雄』の徳田球一の執筆部分を『水間条項・国益最前線』動画の会員に毎月2~3項目を公開することにしました。 日本人は、なんとなく共産党を支持している国民がおりますが、同書には、《第一回の...

    2016-11-02

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