• 『最弱無敗』から学ぶラノベ学②

    2016-02-10 16:16



     そもそも何故私がこの一連の記事を書こうと思ったかと言いますと、その理由は『最弱無敗』から学ぶラノベ学①に貼り付けたと思います、第五話の最後のシーンにあるのです。

     まだ見てない人の為にその場面を簡単に纏めますと、
     要するにヒロインの一人『クルルシファーちゃん』呼びにくいな…が自分を救ってくれた主人公『ルクス君』にべた惚れして、それですごい積極的なアプローチを試みるわけですね。

     具体的に言うと、
     上げる下げる上げる耳元で告白頬を掴むキス囁くベロチュー
     という感じです。ルクス君うらやま。いやあ藤居ゆきよさんの名演技が光る光る。

     正直中々に強烈で鮮烈なシーン……でしたが……。
     じゃあ何故、これを見て私がこの場面を見て記事を書こうと思ったのかと言えば、このシーンが昨今のラノベアニメの演出にしては斬新さがあるように感じたからです。

     ちなみにこの場面までの流れは当然の如くテンプレのオンパレードでした。
     残念ながらお世辞にも褒めることは出来ないです。
     でもこの最弱無敗はその作画が素晴らしいこともあり、またBGMや声優さんの演技・チョイス、そして脚本やキャラクターの人間性、その他には展開の演出にも度々光る物があるように思いました。
     なんだかんだテンプレゾーン以外は結構面白かったりします。
     
     それに何もテンプレが全て悪いということではないのです。むしろ程度によっては良いことかもしれません。
     何せテンプレというのは前述の通り受け継がれた歴史であり、培われてきた知識であり、
     すなわち王道です。
     これは持論ですが、
     王道無き物語にエンターテイメントはない、とそう思っています。

     故に大事なのは作品全体の流れを『テンプレ=王道』としながらも、その中に斬新な演出を付け加えていくことなのです。
     つまり視聴者に既視感を与えない、目新しい作品となっていれば、それは
     テンプレでありながらもテンプレを脱却できている、ということになります。

     でも上記のシーンを見て自分は「おお。いいなこの演出」と感じつつも、同時にこう思いもしたのです。
    今のシーンに対し、確かに自分は斬新さを感じた。
     しかし、斬新な演出とは一体何なのか。斬新さの一般化というのは可能なのか?」と。
     斬新さの一般化、というのは何か矛盾したイメージを感じますが、言い換えるなら『斬新さの定義づけ』と考えて貰って構いません。

     これが可能であれば『親の顔より見た展開』を越え、売れ線を抑えつつも物語らしい物語を
    生み出すことが可能になるんじゃないか。そんなことを考えたのです。

     従って今回からはテンプレートに沿った形のラノベアニメ。
     憚りなく言うと『クソアニメ』が『クソアニメ』という評価を抜け出すため、具体的にどうするべきだったのか。どういう形にするべきだったのか、というのを研究していきたいと思います。
     
     よってこれからそれを考える上で制作に以下の縛り条件を設けます。
     ・典型的ライトノベルアニメ(以下ラノベアニメ)のテンプレに則った進行を心がける
     ・ラノベアニメにおいて広範に見られる設定を流用する
     ・ラッキースケベなどのリアリティを失わせる展開も挟む

     多分これ、おそらくなんですが、多くのライトノベルライターに対し、編集さん側が『暗に求めている条件』に近い物なんじゃないかと思います。
     もっと分かりやすく言うと、
     編集が『作者を誘導している方向』と言ってしまってもいいでしょう。
     ちなみに最弱無敗の作者さんは最初のほう、オリジナリティ溢れる作品を作って世に出していたようですが、徐々にこちら側へと舵を切り、結果『最弱無敗』という作品が生まれました。 
     また話は変わりまして、同期に出現しその酷似っぷりが大きくインターネット上を賑わせた『アスタリスク』と『キャルバリイ』の両作品。
     本当に示し合わせたように、これら二つの第一話は似ていました。
     類似点については

     学戦都市アスタリスク 落第騎士の英雄譚 設定 似てるに関連した画像-02

     こんな感じです。
     自分は1クール、これらの両作品の全話を視聴しました。
     その上で言わせて貰うと、二話以降も類似する部分は何度も見ました。 

     でもすごいですよね?
     この両作品がアニメ化するとなって、そして決まった放映時期など、おそらく全てが偶然でしょう。特にアスタリスクなんて、分割2クールが決定しており、ゲームなどにもなっている勝負作品です。出来うることなら不安要素は排除したいと企業側も考えていたことでしょう。
     なのに同時期に流された。その上面白くない方の劣等生なんて烙印を押されたり……
     これほど似た内容の作品が。

     この事実って一体どういうことなんでしょうか。
     当然、作者としては他作品と似てしまうことは避けたいことのはずです。
     何分こうしてネットで、テンプレだとかパクリだとか言われてあげつらわれるのです。
     そして、そう言った風評というのはその作品を通じて、作者の今後の物書き人生にも悪影響を与えることでしょう。
     じゃあ何故毎時期、狙ったようにこれらのテンプレラノベアニメは出現するのか?

     そこには前の記事で書いたとおりの事実、つまり作者が制作しやすく、当たりやすいという点もあるのでしょうが、……。
     さりとてそれでも右向け右で、これほど似たような作品が、レーベルという垣根を越えて出現するという現実は不可思議です。
     要するにこれって、作者の発想が全く偶然に同じ境地に至った――
     と考えるより、編集などの企業側が手堅い商品を欲して圧力をかけて濫造している。
     そう考えた方が自然じゃありませんか。ということです。
     だって正直いまいちに思えるテンプレ型ラノベが、もっと評価されるべきだろうオリジナリティ溢れるラノベを抑えて毎度アニメ化しているわけですよ。
     この事実を見るだけでも、何か不自然さを感じませんか?

     もちろんこれはただの推論に過ぎませんし、作者が売れる作品を作ろうと、まるで闇の力に手を出す主人公の如き心境でテンプレを利用しているのかもしれません。
     あるいはそのどちらも、という可能性もありますし、本当にすごい超すごい偶然が積み重なっているのかもしれません。
     ともかく真実は分からないのです。
     ので、もしそうであると仮定したとき、私たち制作者側から見た場合の、その体制の利点について考えてみます。

     上記の仮定を事実であるとしたとき、つまり企業はテンプレラノベを求めているっていうことになります。
     いわば看板の一つにしたいと思っているわけですね。
     つまりは押し出したい作品。
     となれば、
     『そういった作品に対しては、作者が求める以上のバックアップを企業側は提供してくれるのではないか?
     と、そういう風なオプションがあってもおかしくないでしょう。

     つまりです。
     企業側が求めている作品を意図して作り、尚且つ斬新さのある目新しい物語を生み出せれば、企業の大きなプッシュを得て自作品を世に出せるかもしれない。ということなのです。
     こういった時代の潮流というのはいつまでも続く物ではありません。
     これは限られたチャンスです。
     物書きとして生計を立てようと考えている、もしくはラノベで一発を狙う人は、この一点を狙わなければでしょう。
     オリジナリティ溢れる作品は、まあおいおい書いていけばいい。
     ひとまずは売れること、売ることが大事なのですから。


     では次回からはもう少し具体的なところ。
     お話がテンプレート型であることによる弊害・問題について考えていきましょう。


     







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  • 『最弱無敗』から学ぶラノベ学

    2016-02-10 00:27





     相変わらずのテンプレートシナリオですねこれは……

     という当たり前の感想は置いておきつつ、このブログの趣旨に立ち返ります。

     つまりはどういった作品が売れ線をもち、そして面白い作品と言えるのか。
     そのことについて研究していくってことですね。

     ちなみに自分は前々からこうしたテンプレ作品にはかなり辟易していました。
     「まあそれは当然そうだよな」と理解を示していただける人も居れば、
     「いやいやこの作品は面白い」と反対意見を持つ人もいるでしょう。そこは様々です。
     けれども、おそらくこのアニメサブカルチャーの文化に浸りきった人たちにとって、こうした石鹸枠とか言われる作品にはあまり好感を抱けないことでしょう。
     だって先が分かりきってるし。ニコニコのコメントでも「しってる」とか「しってた」
    とかよく流れてますよね。
     先が見えるって言うのは案外悪いことだけでもないんですが、さりとて予想できすぎる、そしてその予想を一切裏切らずしっかりとその上を走って行く作品ってまあ微妙ですよね。

     時代を変えてきた英雄的作品は皆、そういったテンプレの地平から離れた場所にいます。
    まどまぎ然り、エヴァ然り、進撃然り。
     
     だというのに、
     何故こうしたテンプレ作品は毎度毎度必ずと言って良い程出現するのか?
     その点について疑問に感じたことはありませんか?
     自分は感じました。こんなん作るよりもっと別の作品をアニメ化してくれ(衰退の二期はまーだかかりそうですかね?)と。あるいはリメイク(まずはイリヤの空を頼む……っ)してくれ……と何度も思いました。

     まあでも営利企業に理由なき行動なんてないでしょう。
     当然の如く、こうしたありきたりテンプレ作品を生み出す理由があります。
     そのいくつかについて、自分は予想を立ててみました。それがこれ――

     ①『テンプレには凝縮された歴史』
     ②『常に表れる新規層』
     ③『テンプレートの安心感』
     ④(『テンプレートによるシュールギャグ化』)


     この三つ(四つ)があるのではないかと考えました。
     最後の項目に関してはまあおまけみたいなものです。
     上記の三つを再現する内に偶然発生した副産物的な要素と考えて良いでしょう。
     ともかくこれら三つの要素について解説していきます。
     
     まず一つ目。
     『テンプレには凝縮された歴史』です。
     テンプレートというのは要するに『型』ですね。
     つまりは女の子とお風呂でばったり居合わすとか、転んだ拍子にラッキーなアレをしたりとか、何故か女の子しかいない学園に配属されることになっちゃったりとか。
     そういういわば『お約束』的展開、それらの一連のことです。
     こういった諸要素というのは今や自分にとっても、あるいはサブカルに熟達された人なら「あーはいはい」と、通勤時の車窓から見られる風景の如く、あっさりと頭の中を流れ去っていくことでしょう。

     さりとて、これらは視聴者の求めに沿った洗練された演出に違いありません。
     何故なら、ラッキースケベやら凡才とされてきた主人公の唐突な覚醒など、これらは現実世界において容易に起こりえないことであり、尚且つ読者にとって求められている現実だからです。
     
     物語、特にライトノベルなどのファンタジー系作品に求められているのは
     『欠けた現実の埋め合わせ』なのです。
     楽して可愛い女の子にもてたいとか、いきなり最強になりたいとか、剣と魔法の世界に行ってみたいとか。
     そういう叶いっこないだろう夢を、叶えてくれる場所。
     それがファンタジーの世界なのです。

     であるからこそ、作品には多数、読者を満足させる要素を盛り込んでいく必要があります。
     そしてそれは前述したとおり、「女の子にもてたい」とかそういう願望を、読者の変わり身たる主人公が達成していくということに他なりません。
     
     しかしながら、書き手としては『読者の願望の達成』という目標を忠実に行うことは、実は中々難しいのです。
     何故ならそういった願望というのは案外探すのも大変だからです。
     確かに「女の子にもてたい」という願望は誰しも有していることでしょうし、それは読者にしても書き手にしても明らかです。
     ですが、女の子にもてるにも順序が必要です。
     だってある日突然、いきなり、何の理由もなく、学校の女の子が自分を見て黄色い声を上げるようになった……とか、「えっ何それは……」としか思えませんよね。
     そういった順序。あるいはモテるようになった理由の偶然性……などなど。
     これらを書き手は求めていくことになりますが、しかし読者の求める理想図に対し正鵠を射るというのは至難です。
     物語というのは積み重ねであり、どんな名作も一つの布石を失うだけで、あるいはテンポが重くなったり、場面の順序を入れ替えたり、そんな些細な変化で駄作になってしまいます。

     であるから書き手は先人たちを頼ります。
     以前に評価を得た演出とそこまでの流れというのは、特定の視聴者層(後述)には確実に受けます。何故なら以前に評価を受けているからです。
     斬新であることは素晴らしいことのように思えますが、しかし常に転んでしまう危険性を孕んでいます。
     一方で使い古された演出というのは積み重ねてきた歴史の中で、少しずつ改良がなされ、僅かずつ、しかし確実に進歩を続けています。その効果や能力に関しては保障があるのです。

     これがテンプレ作品が溢れるように存在する第一の理由でしょう。
     
     そして第二に『常に表れる新規層』です。
     どんなものでも、どんな場所でも、時間が進んでいる限り、確実に新しい存在、新しい層というものが生まれ続けています。
     それは人間の肌やら細胞やらにしてもそうですし、学校にも四月には新たな一年生が加わることでしょうし、会社にだって、野球のプロにだって、サッカー選手にだって、何にだって新しい存在は表れます。
     ということで、こうしたアニメというものを視聴する層にもまた新規と呼ばれる人々が確実に一定数出現します。
     彼らにとって、殆どはアニメという存在そのものが既に斬新で奇抜で、大概何でも面白く見えるはずです。
     決して馬鹿にするつもりはありませんが、それでも以前に読んだ少年漫画を久々に読み返してみて「あれ、このお話ってこんなもんだったかな……?」
     そんな感想を持つ事ってありませんか?
     それと同じです。いろいろな作品・物語に触れて新しい知見を持った後、以前に読んだ作品に立ち返ると、初めての時に感じたようなあの衝撃はもう得られないと言うことを知るでしょう。むしろ過大評価しすぎていた、とそう感じることが殆どなのではないでしょうか。
     
     そしてそれはアニメも同じこと。
     私たちにとって、酷いテンプレとしか思えない作品も、初めて見る視聴者層には長年培われてきた歴史とその成果が、衝撃を以て受け入れられることでしょう。
     
     これが前述した『特定の視聴者層』です。
     彼らは土台が真っ新なので、常に同じ反応を示します。去年に、一昨年に、こうしたテンプレ作品を見た人々と同じように感じ、同じような感動を抱くのです。(これは悪いことではないですし、それを非難するつもりもないですよ~)
     対してサブカルに浸りきった人々を狙って、下手に傾いた作品というのはこうした新規層には受けが悪いです。当たればデカイですが、外れる可能性も高いです。
     総じて、新規層を狙うということは多分商業としても手堅く、よってこういうテンプレ作品が一定の供給を保っているのでしょう。

     そして最後が『テンプレートの安心感』です。
     これに関しては、この最弱無敗というアニメを見ていて気付きました。
     というのも自分はこうしたテンプレアニメが本当に嫌いでした。
     こんな安っぽいラノベ作品でも一応エンターテインメントの端くれである以上、書き手が努力し思考して、既存のものとまた違った、新しい物を生み出していくべき……
     みたいなことを考えていたからです。
     
     だからニコニコのランキングにあっても絶対に避けて通っていたのですが、しかし『禁呪詠唱』という話を見て印象が変わりました。
     はっきり言って、あっちもクソアニメなのは正直間違いないのですが、そのクソさに突き抜けた部分があってすごい感心したんです。

     それは四つ目に挙げたテンプレのギャグ化というところが何より大きいんですが、ともかくこのチープさはニコニコ動画特有の視聴者の突っ込みと一緒なら楽しめる、と言うことに気付いたんですね。

     そういう経緯でこれら石鹸枠と呼ばれるアニメを見始め、(アスタリスクやキャルバリィなど……)今ここに至って、そしてようやく思ったのが

     『次の展開が分かる、見なくても大体こんなもんだろうと話のアタリを付けられるな』

     ということでした。そしてそれに付随して思ったのが

     『大体これくらいの作品って分かると、何となく安心感があるな

     と。
     つまり最初から視聴において期待値は殆どゼロに近いながらも、どういった場面で楽しむかということを弁え始めたわけですね。

     これの何が良いかというと、新しいアニメを見始めたときのあの裏切られた失望感を覚えることがないからです。
     アニメの視聴を開始して、そして見るのをやめる。このやめるまでの間にあることと言えば、単に面倒になったとか様々ありますが、一番大きいのは求めていたものと違う演出・展開が出てきたときでしょう。

     それは事前の予告などから推測される展開から程遠かったとか、ゆっくりほんわかな空間で百合系の展開が繰り広げられるかと思えば、実はゾンビ物だったとか、そういうことです。

     一般に、求めていたものと違った物が目の前に出てきたとき、人はそれを否定します。
     オーダーした料理と違う品が出てきたら、怒らないにしても、店員さんに「違いますよ」と声をかけるくらいはするでしょう。そして叶うならば本来注文した物と取り替えて貰うでしょう。
     それと同じように、見ている作品が望んでいた物と違えば、視聴者はあっさりと見るのをやめます。

     しかしこうしたテンプレ作品は、オーダーした物と出てくる料理に差異が全くありません。
     まるで統一された規格であるかのように、ぴたりと同じような感触の作品が表れます。
     これは新しい作品に臨む視聴者にとって一種の安心感となるのではないでしょうか。

     そしてその作品を手に取ること、見ることを簡単にしている――
     つまり裾野を広げているという事実はあるんじゃないでしょうか。

     以上が自分が考えたテンプレアニメ濫造の理由・意味です。

     じゃあテンプレじゃない売れるラノベはどうやって作るんだよ?

     というのは自分も聞ける相手がいれば訊ねたいところですが、今度はその辺りについて考えていくことにしてみましょう。














  • かずさtrue√感想 雪菜ビデオレター考察

    2013-08-27 15:151
    WHITE ALBUM2 かずさtrue√感想

    ほんの一つのボタンの掛け違えのような……そんなシナリオ。

    雪菜TルートとかずさTルートはcodaシナリオでも過程は殆ど同じです。
    春希が丁寧に丁寧に隠していた曜子の病をかずさに知られ、かずさがホテルに籠もる。
    そして春希が選択を迫られる。
    一体誰を選ぶのか。誰を救うのか。

    そして決定的な選択肢としてあるのが、
    「春希が雪菜に、曜子の病について相談するか、否か」
    ただこの一点でしょう。
    ただそんな一点の選択肢で、雪菜は天国にも地獄にも行ってしまう。しかしかずさはどちらにせよある程度の幸せは保証されているというのが……。

    でもこのかずさTルートの魅力、というのも語弊がありすぎですが、それを生み出しているのは「雪菜の壊れっぷり」に一端があるでしょう。
    何せ雪菜が壊れるからこそ、友人達は激怒し、雪菜の家族は悲歎するのですから。そしてそれが胃がキリキリするような、えぐみを生み出しているのですから。

    以下印象的だった台詞集です。
    @デートの終わり、思い出の場所で雪菜は春希に別れを告げられる。そこで雪菜の発した、狂おしいほどの感情が込められた辛すぎる台詞。

    「やっぱり、会うんじゃなかった。
    しばらく、距離を置けばよかった。あなたから、逃げ続ければよかった。
    こうなるんじゃないかって……こうなっちゃうんじゃないかって、気付いてたのに
    なのに、なのに……
    あなたに会えるって誘惑に勝てなかった!
    あなたに抱きしめてもらえるかもって、淡い期待を捨てられなかった……っ」

    あまりに深すぎる雪菜の愛。それがはっきり台詞に映っています。それでも捨てられてしまう雪菜が愛おしくて、不憫で。
    かずさT√攻略は二回目なのに、ついつい涙を零しそうになりました。

    @春希が別れを告げ、私の何が間違っていたのかな?という雪菜の問いかけに対し、春希は何も雪菜は間違っていないと答える。そして雪菜のこの台詞。

    「っ……それじゃ……直せないよ。教えてくれないと、直せないよ……っ」

    これも雪菜のいじらしさを端的に表し、且つ崩壊の始まりも見せる、悲しいけど名台詞なのよねこれ。

    @いよいよかずさが過去を清算するために雪菜を呼び出す。だが予想外に雪菜はさも楽しげにかずさと会話をする。そして雪菜は会話の中、段々と我に返っていき……。

    「そんなことある。
    あなたはたくさんのものを持ってるよ。
    ピアノに、賞に、女性としての魅力。それに、それに……
    愛する、ひと。
    全部、かずさが持ってる
    いつの間にか、かずさのものになってる……」

    雪菜のあまりの豹変ぶりに鳥肌が立ちました。特にこのシーンは冒頭から雪菜の異常な程の高いテンションから、いつはち切れるのか、という期待感もあったからこそ。
    これは予想出来た豹変ではあるのだけど、それだけにぞっと怖気立ちました。個人的にかずさTルート一番の名台詞。

    @引き続きかずさと雪菜の邂逅において。

    「ね、かずさはどう思う?
    わたし、やっぱりあなたに勝てないかなぁ?」

    勝者と敗者の絶対的すぎる「差」。それを雪菜は目の当たりにしていて。
    勝敗に拘泥するような人間ではないのに、雪菜はこういう言葉を口にしてしまう。そんな雪菜の狂気の台詞です。

    @かずさのコンサートを目前にして、出会った二人。そこで雪菜の発言。

    「そっか……よかった。うん、本当によかった! 頑張ってね!
    あ~、わたし見に行けないけどごめんね」

    高いテンションであっさり吐かれた一言に、ついつい二度見してしまいした。
    コワイ……。

    @断罪されるため、遂に春希は友人達の前に連れ出される。そして事実を明らかにする春希。そのあまりの外道な行いに女性陣は春希に憤怒し、罵倒をぶつける。だが武也だけは春希を引引っ張り上げることを諦めていなかった。武也が内に秘める、春希への親愛と必死な思いの伝わる台詞。

    「けど俺、お前の親友だから。
    望みがないってわかってるけど、それでも、まだお前の親友だからさ……
    だから、これが最後の頼みだ……頼むよ春希……元のお前に、戻ってくれよっ!!
    お前が一言、雪菜ちゃんの元に戻るって言ってくれれば、俺が何もかも元通りにしてやる!
    伊緒も、朋も……みんな説得する!
    お前の言ってしまったこと全部なかったことにしてやる。
    だから、だから……」

    WHITE ALBUM2影のヒロインこと、春希の親友。飯塚武也によって吐かれた熱い名台詞。
    ここで涙したという人も多いのではないでしょうか。
    学生時代から「一途に」愛してきた伊緒に嫌われてさえ、春希と諦めず向き合おうとするその姿勢。まさしく、春希の親友なのでしょう。脇役にもこういう輝く名シーンがある。それがWHITE ALBUM2が名作である理由の一つですよね。

    @春希に捨てられ狂気に陥る雪菜。それでも雪菜は春希を諦められない。その思いの丈を決死の思いで雪菜は春希に伝えたのだが。そこでの春希の台詞。
    「俺、……俺……、は
    …………かずさが、好きなんだ」

    いや、確かに、確かに、雪菜をいち早く諦めさせてあげることが正解でしょう。でもね、それでもこの台詞は無いだろ! と思いました。どんだけ外道やねん。やはりかずさTルートではどう言いつくろったところで、春希君はクズですね。


    そして最後に。ここからビデオレターの考察です。

    私はこのビデオレターを見て、そして他の考察サイトをぱらぱらっと見て、得た結論。それがこれです。

    まずこのビデオレターが届く時節は、かずさが春希と暮らし始めて二年目。
    これは奇しくも「雪菜が春希と愛を育んだ期間」と同じです。
    そしてビデオレターに映る雪菜は、春希に捨てられたあの頃とは違いました。二年前、春希に愛されていたあの頃に近い、生き生きとした表情、声。
    そして以前ICで春希に捨てられた時、雪菜が捨てたはずの「歌」を、このビデオレターでは歌っているのです。
    codaの劇中、かずさT√に突入した後、雪菜は歌おうとしても歌えなくなっていました。届かない恋,powder snowなどいずれも途中で力尽きるように、雪菜は歌うのを止めてしまうのです。
    この惨状から、CC以前にも増して、雪菜にとって「歌」が春希と密接に結びついているということは明らかでしょう。
    何せCCでは「敢えて歌おうとしなかった」雪菜が、今度は「歌おうとして歌えない」という状態になっているのですから。
    それに春希の回想でさんざん取り上げられている過去、つまりはCCにおいて雪菜を愛し、歌を取り戻させたバレンタインライブ前の一時。
    あれは、無論ですが、雪菜もことある事に思い出していたでしょう。
    何分、視聴者は春希サイドからしか見えないですから、分かりにくいですが、雪菜は春希以上に過去を思い出していることでしょう。そして当然、春希以上に擦り切れ傷ついているはず。それはあの瑞々しかった小木曽雪菜という人間が、あそこまで崩壊していく様でしっかり描かれています。
    となれば、IC・CC時点以上に雪菜にとって「春希」と「歌」の関係は密接です。
    それを今度はこれ以上の余地も無い、こっぴどい捨てられ方をした後、果たして、尋常な心持ちで歌えるのでしょうか。
    そしてビデオレターでの、春希とかずさに対して、あの雪菜の朗らかな態度。
    それらを含めて考えると、雪菜は以前の状態に回帰している。もしくはかずさTルートで頻りに描かれていた雪菜の精神的な異常が今なお続いている。というような推察が出来るでしょう。
    ですが雪菜はかずさと春希が共にいることはしっかりと分かっている様子です。従って、正しく現状認識をしていることになります。
    では何故雪菜はビデオレターを送れたのか。歌を歌えたのか。
    たった二年では雪菜は春希のことを忘れられない。それは物語が実証しています。
    となれば何かしらの「よりどころ」、ビデオレターを送るべき「理由」があって彼女はビデオを撮り、歌い、春希達に向けて送ったのではないかと考えられます。

    ここまでの推察をまとめると、ビデオレター内部では「小木曽雪菜」の心は多少なりとも壊れている。だが現状は正しく認識出来ている為、完全に壊れてしまっているわけではない。
    しかし普通、雪菜はこの時点でビデオレターを送ることは精神状態から出来ないはず。よって雪菜側には何かしらの「送るべき理由」があった。

    そして次に考えるのは、武也達、雪菜の友人が外ではあれほど沈痛な面持ちだった割りに、ビデオレターの中では明るく元気に雪菜と接しているというところです。
    何故「雪菜の日」はあれほど重苦しく語られなければいけない言葉なのか。
    その態度の差は何なのか。ビデオレターでのあの違和感は何か。

    私の直感で申しますと、あの情景は雪菜の幻想を守るための演技。というように見えました。

    これの根拠は冬馬曜子の台詞二点。
    日本の病室での一幕「子供のところに居るべきときは居なければならない」という台詞が一点。
    ビデオレターの前にあった、「覚悟して受け止めなさい」という文面が一点。

    まず前者について。
    確かに翌月にプラハ公演を控えているかずさですが、しかし、曜子がそれを理由に上記の台詞はまず言わないでしょう。
    あれは子を守る母の台詞です。ある程度の解釈のぶれはありますが、少なくとも、娘の晴れ舞台を見に行く前の台詞ではないだろうことは言えます。
    よってこれよりかずさにとって「耐えがたい出来事が起きる」あるいはいずれ「起きてしまう」ということなのでしょう。
    それをあのビデオレターと繋げて考えるのは難しいように思えます。しかし曜子がパソコンを使って綴っている文面は春希が見るビデオレターの添付されているメール、その文面と同じです。よって何かしら関係性があってもおかしくない。
    だが、普通の感性で(例えばWHITE ALBUM2のストーリーを見ていない人が)あのビデオレターを見て、何か悲劇性を感じるでしょうか。娘を守るべきを、思うでしょうか。
    よってあのビデオレターには曜子が「かずさを守りたい」と思ってしまう意味合いが含まれている、ということになります。
    続いて第二の台詞。これもやはり前述の通り、余人にとっては、あのビデオレターは「覚悟をして見る」程のものではないでしょう。やはりその内容の中に別の意味がある。ということになります。

    そして雪菜の歌った歌について。あの歌の最後、締めくくりは
    「I still love you.」と終わりますが、その文面には様々な考察が為せます。
    ですが、まだ私は春希君を愛しているよ。という意味が含まれていることはまず間違いありません。

    あれほど酷い目に遭わされて、それでも尚「powder snow」という「別れた恋人を想う歌」を歌う雪菜の姿には狂気すら感じられるでしょう。
    それに、春希とかずさに想うところがありすぎるだろう武也達。彼らは何故、恨みたい春希達へのビデオレターであれほど楽しげに出来たのでしょうか。
    また雪菜にとっては最早トラウマ以外の何物でもない「学園祭」の話をどうして楽しげに語ることが出来るのでしょうか。
    以上の点から鑑みれば、彼らは雪菜の前でそう演じなければならなかった、という考察が為せるのです。
    ではその演じる必要性とは何か。
    それはおそらく「雪菜に合わせなければならない」という必要性。
    つまり周囲の認識としては「雪菜は壊れてしまっている。二年前を求めすぎて、あの瞬間に魂が回帰してしまっている」そういう印象なのでしょう。劇中でも再三、その不可解な言動が指摘されていました。
    ですがそこは認識の乖離で、実は雪菜本人は壊れてはいない。というよりもしっかりとした認識だけはちゃんとある。
    だから最後の最後の一言。春希達の暮らすウィーンに宛てるビデオレターの中、雪菜はドイツ語で「私は今でも歌っています」と話せる。

    よってこのビデオレターには純然たる意思があるのです。
    壊れてはいても、確実に現実を理解している雪菜の意思が。


    では全てを総合します。
    まず雪菜は当然、春希を吹っ切れてはいない。
    そして捨てられた予後であり、雪菜は精神に異常を来している。以前のあの優しい彼女とは違う状態である。二年前雪菜を侵食した狂気は、未だ密やかに彼女の仮面の下にある。
    その上で雪菜は、春希を強く想起させる「歌」を歌っている。
    従って、冷静で狂気的なメッセージがこのビデオレターには含まれており、それは春希達へ宛てられる物である。
    そしてビデオレターが送られたタイミングは、奇しくも雪菜が春希と過ごした期間である二年後。


    つまり、二年前。雪菜が、イスタンブールで、幸せのゴール間近。
    婚約を寸前にして、そこへ今まで思い出そうとせず、忘れたつもりになっていた、「かずさ」がふと現われたあの場面。

    それを二年後の今。
    春希と、かずさは同じように忘れていたであろう「雪菜」が(少なくとも雪菜側は二人の状態をそう推察しているだろう)あの運命の日と似たような形で唐突に二人の目の前に現われた。
    このビデオレターは春希達にそう映ることでしょう。


    よってこのビデオレターに含まれた本意とは、
    雪菜が地獄へ落とされ始める、あの瞬間を再現しようとしていた。
    というところにあると考えられるのです。

    何せ雪菜にとって歌とは、春希の象徴です。
    雪菜が歌を歌うということは、かずさがピアノを弾く時春希と触れ合っていたことと同様に、
    幻想の春希と触れ合うことなのです。それはかずさも一瞬で理解出来るでしょう。
    ですがそのことはあくまで余人である武也達、友人面々には分からないことです。(これが彼らと雪菜の認識齟齬の根拠となる)

    だからこそ「今もまだ歌っている」(=「今も春希君を忘れていないよ」)の一言であり、このビデオレターの真意を総括すると、

    「今度は私が、春希君を取り戻しに行くよ。」

    そういうメッセージである。と考えられるわけです。

























    ですがこの推論には色々な矛盾がありまして。
    ・雪菜はかずさを本当に憎めるのか。
    ・公式インタビュー記事情報との齟齬。
    ・復讐目的であるのなら、周囲のあの楽しげな雰囲気は何なのか。
    ・武也の「今の自分のこともな」という台詞。
    ぎりぎりまで矛盾を削ぎ落とし、尚且つこの推論を真実と仮定した場合の擦り合わせは、まぁいいとこ「雪菜には復讐目的もあった」と出来るくらいでしょうか。
    そしてもしかすると、雪菜は実際にこの後、春希とかずさの居るウィーンへ飛ぶのかもしれません。
    でも復讐とかではなく、ただ会うために。色々話すために。それなら曜子の言葉にも色々納得がいきますからね。

    しかし、普通に考えて、このビデオレターの意味は、いよいよ雪菜が春希達のことを吹っ切れて、元気な自分たちの今を伝えたかった。そう見えます。
    それじゃあ曜子の台詞や、雪菜が二年やそこらでは確実に引きずったままであることを考えると矛盾が発生する。そんな気もするんですが、案外、曜子の台詞は春希たちを緊張させようという遊びなのかも知れないし――事実インタビューにもそのように書かれていますし――結構、二年で雪菜は春希達を吹っ切れたのかもしれないですね。

    と、考えてしまうとやはり此方の方が有力説でしょうか。それで全てがミスリードを誘っていただけだった、という。
    でもそうなるとそれは何かあまりに平凡で、……。
    けど雪菜があるいは僅かでも幸せになったという終わりなら、それはそれでいいかもなと思いました。

    以上、長文のご精読感謝致します。