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もずやの民芸論 第11話
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もずやの民芸論 第11話

2013-10-19 19:31




    ここでは、『用の美』について書かれています。

    つまり、用いられる為につくられたものにこそ、美が宿るという事です。

    用の美という言葉は間違えて使われている事がありますが、用いられるモノ、つまり実際に使えるモノで美しいモノという意味ではありません。

    用即美、つまり用いられることが美しさの条件であり、美しいモノは用いられてさらに美しくなる、そういう意味です。

    用の美という言葉の誤用を目にするにつけ、民芸論は遠くなりにけり、という感じがします。

    用いられるモノとはどういうものでしょうか。

    逆に柳がどういうモノを否定しているかというと、『観賞用』です。

    実際の生活の中で使われているモノ。

    だからこそ、使いやすく、強靱で、安価でなければならない。

    そういう訳です。

    ということは、飯茶碗、湯飲み茶碗、水瓶、米びつ、調味料などを入れる壺、ご飯を炊く釜、などなど、私たちが繰り返し手に触れるものということになります。

    そういうモノはまた、使われて美しくなります。

    茶道で使う茶碗や茶杓などを見ているとそういう感じがします。

    使い込まれて美しくなる、ということは現実にあるのです。

    駒場の日本民芸館の展示品を見るときに、この視点を外してはいけません。

    現実の使用のために作られたモノがそのまま美しいなら、未使用の新品ばかりをずらりとならべるべきです。

    そうでなければ、経年による『間接の美』が加わって、民芸論の視点が曇ってしまうだろうと想います。

    染織品で、日本民芸館に新品はあったでしょうか?

    私は記憶にありません。

    私が所属する日本民芸協団の日本工芸館には現代の作り手の新品が多数収蔵されています。

    柳が運動をしていたころは、今と違ってまだまだ民芸と言うにふさわしいモノはたくさんあったはずです。

    もう一つ。

    柳は民芸品として、大津絵や沖縄の厨子甕をあげています。

    大津絵のどこが民芸なんでしょうか?

    沖縄の厨子甕は、お骨を入れるためのもので、何度も使用されるものではありません。

    そもそも、柳が民芸の美を発見したという木喰仏。

    これのどこが民芸の美なんでしょうか。

    たしかに共通する部分は感じます。

    つまり、『素朴さ』であり、『必要最小限の細工』です。

    厨子甕は鑑賞物ではないけど、大津絵はまぎれもなく鑑賞物です。

    また、紅型ももともとは、芝居の幕として使われていたモノです。

    また、廉価でもないし、庶民のモノでもない。

    芭蕉布はいいとしても、首里の織物も民芸ではありません。

    手サージという飾り布がありますが、これも日本民芸館に多数収蔵されています。

    これも、繰り返し使われるモノではないはずです。

    でも、これらはすべて美しいのは確かです。

    つまり、民芸の美というモノは確実に存在するけれど、民芸論が間違っているのです。

    確か、益子だったと想いますが、1日に数百個の絵付けをするおばあさんの話がありました。

    同じ絵付けを、何十年も、一日に数百個する。

    その絵付けをした土瓶が何かのコンテストで最高賞を受賞したんです。

    柳は『それみろ!』と言うわけです。

    くらわんかの話も出てきます。

    つまり、たくさん作ることが美に繋がった、ということはあるわけです。

    昔はとてつもない熟練工がいたんです。

    その熟練工がつくるもの。

    普段使いのモノだからまた、たくさん作る。

    いま、100円ショップで売っているような感じで、使い捨ての様に使われていた。

    鉄道で売られるお茶も、今は、缶やペットボトルに入ってますが、ちょっと前はビニールだったし、もっとまえは、本物の土瓶だったんです。

    横川の釜飯のいれものありますね、あんな感じだったんです。

    ヨーロッパのアーツ・アンド・クラフツ運動の場合は、機械生産を批判したものでしたが、柳が行ったのは、鑑賞用、貴族的工芸への批判だったんです。

    貴族的工芸がもてはやされるけども、そんなものは美しくないよ!こっちの私たちの身近にあるものの方が美しいんだよ!

    それは正しい評価です。

    貴族的工芸が美しくない、あるいは美しくなかった理由。

    それは、『個性』を重んじるからです。

    私は柳に欠けていたのは、自分が敵視する貴族的工芸への分析だと想います。

    個性=美ではない。

    また、個性は美を狙ってもいない。

    個性は個性であって、美には直結しないのです。

    貴族的工芸=個性の追求であり、個性の追求が目指すモノは『美しい!』という言葉ではなく『すごい!』という驚きなのです。

    たとえば、ムンクの叫びやピカソのゲルニカをみて、美しいと想う人はいないでしょう。

    途中でやめてしまいましたが、アーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーボー、アール・デコと連なる運動には、西洋的道徳観が非常に大きく関係しています。

    だから、ヨーロッパのこの流れを知らずして、民芸論は語れないのです。

    つまり、私たち日本人の価値観には無いものが、訳もわからず商業的な理由だけで、ドカンと入ってきた。

    何がええのやろ?と想いながらも高く評価され、高く売れるから作る。

    西洋ではこれがええらしいで!となれば、日本人は珍重するわけです。

    ところが、私たちの美意識には個性という概念が本来無いんです。

    美は美として絶対的なモノとして存在する。

    日本は美の国だと言っても良いくらい、国中に美しいモノがあふれている。

    自然はもとより、仏像や建築物、そして、匠たちが作り出す数々の器物。

    そこに個性などというケチくさい矮小なものは本来必要無いのです。

    心を静めて思い返してみると、今でもなお、本当に美しいと感じるモノには個性がないのです。

    着物でいえば、いわゆる作家モノと言われるモノよりも、職人さんが作ったモノの方が圧倒的に美しい。

    なぜか?

    民芸論は、民芸は美が器物を追っかけてくるが、貴族的工芸は作り手が美を追いかける、と説明しています。

    これが間違っているんです。

    貴族的工芸は美を追いかけてはいないのです。

    美ではなく個性の発現を追求している。

    だから、作家名を記すんです。

    だから、作品にテーマをつけるんです。

    私のモノの見え方であり、私が感じたモノ、私が言いたいこと、考えたこと、それを表現するのが西洋的芸術なんです。

    らくだの絵。

    なんじゃこれ、しんきくさいな!

    名前をみたら、平山郁夫。

    こら、すごいわ!人間国宝やん。

    平山が描いたものだからすごいと想い、そうでなければ、辛気くさい絵としか見えない。

    だれが作ったか知らんけど、この茶碗きれいな、お皿もきれいな。

    これでご飯食べたら美味しいかな、このお皿に料理盛りつけたら美味しそうに見えるかな。

    これが、私たち日本人の美意識なのだろうと想うのです。

    すなわち、民芸の美というのは、私たち日本人がもともと持っている美意識に帰ろうというものであり、そう想えば十分なんです。

    民芸運動の功績というのは多大なものですが、その論理の構築については、じっくりと考察する必要があると想います。

    なぜなら、そこから、今を生きる工人が活きていくヒントがみつかるかも知れないからです。





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