私たちはもう別れたはずだった。

理由はいろいろあったけど、いちばんの原因は私の仕事。繁忙期をなかなか抜け出せず、同じ会社にいるはずの彼と2週間会えないことだってザラだった。

疲弊するあまり、思いやりの欠片も持てなかった私は、彼からの別れ話もすんなり受け入れてしまったのだった。

それでも、私の視力は彼に関してのみとにかく良かったから、背が高くて猫背な彼を、満員電車でも食堂でもすぐに見つけられた。

そのたびに少し誇らしい気持ちになって、やっぱりアイツには私がいちばんお似合いなんじゃない? と勘違いしては、改めて彼に好意を抱いている自分に気付かされた。

「好きだった」ではない、「まだ好きだ」。

この感情の違いはとても大きい。関心ないフリしても、何かにつけて彼を連想してしまう。

「このまま一生、引きずるのかなあ」

ちょっとした恐怖すら覚え始めたある日、夢を見たのだった。二足歩行するネコが、私に飴玉が入った袋をくれる夢。

「この飴玉を舐めると、あなたがいちばん『忘れたい』と思っているものを忘れることができます。過去の記憶や、いまあなたを不幸にさせている存在、『忘れたい』と思うものをイメージしてから、この飴を舐めてみてください」

そのていねいな説明が嘘でも本当でも、たいして関係ないと思った。どうせ夢のなかでの話だし、目を覚ませばこの夢自体を忘れるだろうから。

たかをくくって目を覚ましたところで、青ざめた。夢で見た飴玉が、この手にしっかりと握りしめられていた。

──そんなことがあったとする。この世界に、ひとつだけ恋を手助けする未来のテクノロジーが存在したとする。それをあなたが手にしたら、どんな恋をするだろう。

この連載では、ライター・カツセマサヒコが、ひたすらありもしない「もしも」を考えていく。

Chapter 1「だめだ、全部忘れちゃおう」

別に特別なふたりだったわけじゃない。

他人から見たらありふれた恋のひとつにすぎないだろうし、忘れたところでこの世界には何の影響もない。

でも、それでも、私にとっては人生最大の恋だったんだ。

食事はぜんぜん喉を通らないし、彼を忘れたくない気持ちはまだ強い。さすがにこんな魔法のような道具に頼るほど、熱烈に忘れてしまいたい思い出じゃない。

「自然と忘れられるようになるまで、きちんと向き合おう」

そう決意した朝だった。覚悟は、隣の席に座る後輩のひとことによって、もろくも崩れ去った。

「聞きました? 先輩が付き合ってた山本さん、管理部の人と一緒に通勤してたらしいですよ」

「ああー...らしいね? 知ってるよ?」なんて言いながら、思いきり動揺した。もちろん聞いてない。

なんで? もう、次いんの? 早くない...?? いや別に、どれだけインターバル置けって話じゃないけどさ...。

デスクに座ってパソコンの電源を入れるが、ログインパスワードすらろくに浮かばない。不安と不満と怒りと動揺で、明らかに狼狽している。

ダメだこれ。朝決めたばっかりだけど、現実がキツすぎる。もう忘れるしかない。

リュックの外ポケットに入れていた飴玉の袋をひったくるように取り出して、給湯室に向かう。極端に視野が狭くなって、水のなかに潜ったように周りの音がぼんやり聞こえた。

誰もいないことを確認すると、自販機横のスペースに身を潜める。

いま聞いた話を含め、彼に関するすべてのことを頭に浮かべ、ビー玉よりひと回り大きいほどの水色の飴玉を、口にそっと放り込む。

これできっと、アイツとの過去はすべて消える。猫背の後ろ姿も、踵が少し削れた革靴も、捨てられないおそろいのキーチェーンも、全部忘れられるんだ。

そうなるはずだった。

でも、現実は、私の口に飴玉は入ってこなかった。口元まであと数センチのところで、彼の右腕が、私の手をぎゅっと握りしめていた。

「危なかった」

いつになく真剣な顔で、どちらかと言えば怒ったような顔で、あいかわらず吸い込まれるような瞳で、私とは執務フロアが違うはずの彼が言う。

「何で、いんの...?」

驚くというよりも、呆気にとられる。

普段あれほど職場で絡むのを嫌がっていたくせに、どうして給湯室なんかに...? 

それに、どうして私が飴玉を舐めるのが「危ないこと」だと分かるの...??

疑問が次から次へと湧き出た。

Chapter 2「お前、変なネコに会っただろ」

「お前、変なネコに会っただろ」

不可解な顔をした私の気持ちを察したのか、彼はゆっくりと話し始める。

「3日前かな。おれも、夢でそのネコに遭ったんだよ。そんで、このダッサい靴下もらった」

エメラルドグリーンの未来的すぎる靴下を見せながら、彼は言う。

「これ、『人の行動を予測できる靴下』らしい。履いて、行動を予測する相手をお前に決めてたんだ」

「え...なんで私にしたの? 別れたじゃん」

「いや、ストーカーみたいな発言するけど、おれ、そう簡単に忘れられないし、むしろ別れてからめっちゃ引きずるタイプだから」

「はあ? 自分から別れ話したくせに? しかも管理部の人と付き合ってんじゃないの?」

「それ、ウワサになってるけど間違い。お前の気持ちがこっちに向いてくれるなら、よろこんで復縁したいって思ってるから、お前を追ってた」

...最近の男って、わかりづらすぎる。

あまりに女々しい意見に落胆しそうになるが、でもそれが彼の性格そのものなわけで、いまさら怒ったり呆れたりする気にはなれないんだよな...。

むしろ、淡々と話してるけれど、3日前から私の行動はすべて彼に予測されていたわけで、そのほうがよっぽど問題だと悟った。

「えっと、待って、ちょっと...え、本当に全部見えちゃうの? 離れていても?」

「うん、靴下を履いてるうちは、全部」

「それはちょっとさ、プライバシーの問題もあるし、今すぐ脱ぎ捨ててくんない...?」

「えー、楽しいんだけど、これ」

ニヤつきながら彼は言う。

「でも、履いててよかった。そんな飴玉飲まれたら、一生こうして話せないかもしれなかった」

その笑顔に連れて、私も思わず苦笑いする。

「いや、プライベートを予知してのぞき見してくる変態的な元カレだったら、話さないほうがマシだったかも」

「じゃあ、おれももう靴下脱ぐからさ、お前もその飴玉、一緒に捨ててくんない? そんで、仕事もふたりのことも、忘れたりしないで、もうちっとバランスとれるように一緒に考えよ?」

クシャクシャと髪を撫でられて、気付く。私は、このゴツゴツした長い指が好きだったんだな。

「わかった。じゃあそのダッサい靴下、とりあえず脱いでもらって、管理部の子と何もなかった証明から始めてもらおっか」

満足そうな笑みでうなずいてから、彼は言う。

「このデザイン、そこそこ、気に入り始めてたんだけどなあ」

忘れようとしたって、事実は事実で残り続ける。

だからこそ忘れるのではなく心にしまう形で、私たちはまた一歩未来へと進むことを決めたのだった。

いまはただ、あのエメラルドグリーンの危険すぎる靴下が誰かに拾われたりしないことを願うばかりだ。

──忘れたいシーンってめちゃくちゃあるんですが、でもそれって、意外と時間が解決してくれるものだから、この歳になればほとんどがいい思い出になっている気がして。

飴玉なんて使わなくていいよ、という話を書きたかったのに、気付けば「ネコの特殊能力総当たり戦」みたいな話になってました。

忘れたい思い出は、じつは忘れたくない思い出。苦い経験こそいつか甘くなると思って生きてみるのも一興かと思っています。

撮影(トップ)/田所瑞穂 撮影(3、4枚目)/出川光 写真(2枚目)/Shutterstock 文/カツセマサヒコ

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