しょうせつ その身を求めて
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しょうせつ その身を求めて

2014-04-04 22:42
    いちおーさいうぷ

    新しいのやっとこさ書けました!!!!!!!!!!!!!!!!!


    なんだかんだけっこうかかっちゃいましたねええええええええええ

    童貞が道程捨てるために頑張るお話です!!!!!!!


    よかったら読んで下さいね。





     毎週欠かさずに聞いている深夜のラジオ番組が終わり、僕はその電源を切ると、蛍光灯の消えた暗い部屋の中で一人、なにゆえに、自分は二十四年間ものあいだ童貞であるのかと、改めて考えてしまうのだった。
     容姿に関しては、決して悪いほうではないとの自負がある。良くもないが悪くもない、客観的視点に立ち点数を付けるのなら、概ね六十点というところであろう。しかし、容姿というものは、彼女を作り自らの童貞を捨てるという目標を達するまでの要因としては、それを満たしていないであろうと思う。それは、街中を不細工な男が綺麗な女を連れて歩いているという事実を、幾度となくこの目で見ていることからも、明らかなことである。ともなれば、やはり内面、自身の人格の性質によるものが極めて大きいものだとの結論に至らざるを得ないのだ。
     つい先週まで勤めていた中華料理店のアルバイト先で、こんなことがあった。そのアルバイト先に、僕と同時期に入った同世代の男(仮にAと呼ぶ)は、人当たりが良く、いつでも不必要なほどにハキハキと喋る男で、僕がまともに話をしたことも無いバイト仲間達と瞬く間に打ち解け(バイトが始まってから二週間ほどが経った頃、作業が遅い、と社員に一人こっぴどく叱責されている僕の背後で、彼がバイト仲間からカラオケに誘われているのを聞いたこともある)、ついには僕が好意を持っていた、同じくバイトの女が、そんなAの事を好きになってしまったのである。なぜその女がAのことを好きになったのかという事実を僕が知り得たのかというと、Aとは帰り道が同じであった僕に、帰りのその道中で自身の連絡先が書かれた紙を渡して欲しいと頼まれたから、という、なんとも情けない事情からであった。そしてついにはAとその彼女は付き合うことになってしまったのである。彼女のほうはなかなに愛嬌があって可愛いものだったが、そのAというのは贔屓目で見たとしても、とても格好の良い男とは言えず、むしろ僕のほうがいくらか二枚目なほどであった。そしてそのときもやはり僕は、自身の人格の性質を恨んだものである。仕事の手順を要領よく覚えていくAの脇目で、社員やら年下のバイトやらに、覚えが悪い、と叱責される自身の様は、どれだけ贔屓目に見ても、とても格好良いと思えるような代物ではなかった。そんな僕の姿を、きっと彼女は気にも留めていなかったであろう。むしろ、要領の悪いださい男、とでも思われていたのかもしれない。ついに嫌気がさした僕は、休憩時間中にそのままバックレてしまうという愚行に走ってしまう始末であった。

     そもそも高校を卒業して以来、ずっとニートであった僕が、なにゆえに二十三にして初めてアルバイトをしようと思い立ったのか、理由は単純明快である。ただただ、ひたすらに、彼女が欲しかったのである。その本質を言えば、女とやりたかったのである。僕には友人と呼べるものがただ一人いるが、僕と同じく高卒のニートで、半年前までは童貞であったのだけれど、一年ほど前からケーキ屋でのアルバイトを始めて、そこで初めての彼女と、ついに、捨てたのだった。残される形となった僕は、これはいよいよ不味いと思い、四ヶ月前に中華料理屋でアルバイトを始める運びとなったわけである。しかし、先ほど述べたように、そのアルバイト先でちんともかんともいかなかった僕は、ついに童貞を捨てるどころか、女の子とまともに話をすることもなく、辞めてしまったのであった。こうなると僕は、とうとう追い込まれる形となった。アルバイトを始める他に、童貞を捨てるその手段というものが、まるで思い付かなかったのである。風俗に行けばよい、という奴もいるのであろうが、昔から妙にプライドだけは高い節がある僕は、素人童貞などという浅ましい人種には、どうしてもなりたくはなかった。自分の人生史に、その事実が残ることを想像しただけでも悪寒が走る。そんなことを沸々と考えながら、生活の昼夜逆転が、さらに半分ほど過回転していた僕は、先ほどまで酒を煽っていたこともあって、まどろみ、意識は部屋の闇に徐々に融けていくのであった。

    「終わってみれば、なんだ、こんなもんかって感じでさ」
     山口は灰皿で煙草を揉み消しながら、嬉々と言う。
    「でもあれだな、クンニだけは駄目だ。ありゃあ無理。臭くてしょうがねえよ。マジでゲロ吐きそうになったし」
    「へえ、俺はしてみたいんだけどな、クンニ」
    「いやあ、あれはやめておけ、舐めるよりも舐めてもらったほうがずっといいぜ。昨日も舐めてもらってそのまま顔にぶっかけちゃったよ」
     山口は煙草の火を揉み消すと、本棚から僕が一昨日買ったばかりの漫画本を抜き取ると、読み始める。
    「お前もとっとと捨てちゃえよ、童貞」
    「そりゃあ、捨てられるものなら今すぐにでも捨てたいけど」
    「バイトはなんで辞めちゃったんだ? 可愛い子が居るって、始めた頃に言ってたじゃんか」「まあ、色々あって」
     ふうん、山口はそう息を漏らすと、漫画の世界に没入し始める。なあ、僕は言う。
    「どうしたら良いと思う」
    「何が」
    「彼女だよ。どうしたら出来ると思う」
    「そりゃお前、バイトしかねえだろうなあ」
     山口は意識の半分を漫画の世界に、もう半分をこちらの世界に向けながら続ける。
    「だってよ、俺らみたいなフリーターが女の子と出会う方法なんてそれぐらいしかないだろうよ。そりゃナンパが出来るような度量があるってんなら別だけど」
     ナンパをするという考えは、以前から僕のなかにもあった。しかし、バイト先の女の子とすら、緊張してしまってまともに話すことも出来ていないような僕が、そんな芸当をやってのけることが出来るわけもなく、もはや選択肢にも上がらない。
    「じゃあよ、バイト先でどうにもならなかった俺は、もう一生童貞のままってことかよ」
    「今のところ、そうなるわな」
     さも無関心そうに山口は言う。
     山口だってつい半年前までは僕と同じ童貞であって、共に飲みに出かけては、彼女が出来たらあんなことや、こんな変態的なプレイをしてみたいなどと、毎晩のように語り合っていたものだった。そのくせに、一人先に事を済ました途端に、こんな態度をとる始末である。しかし僕は、山口のこのような態度に、憧れを感じてもいた。以前の山口には決して無かった、男の余裕というものを感じさせたからである。更にもこの男は、その普段の細かな行動の節々にすら、その非童貞、独特たる雰囲気を覗かせるようになったものだった。その、未だ僕の持っていない、特有の雰囲気というものは、今の僕にはひどく魅力的に思えてしまうのであった。そんな山口を見ていると、益々に僕の童貞喪失への意欲というものは高まる一方であり、どうしようもない程の焦燥感をも抱くようになっていくのが当然の運びというものだった。
     そしていよいよ、僕は一つの、過去に消沈したはずの選択肢を、再びその水面へと浮き上らせると、決断を下したのだった。
    「……ナンパ、してみるわ」
     山口は、特に気に留める様子も無く、漫画のページを開きながら、マジで、と聞く。
    「ああ、ここまで来たら、もうそれしかない」
     自分に言い聞かせるように僕はそう呟く。しかし、いざその行為を実行すると決めた途端に、布団に胡坐をかいた足の力が一気に抜けていくほどの恐怖感と不安感が、ひたすらに僕を煽ってくるものであった。

     結論から言えば、僕はナンパをしなかった。というより、やはり出来なかったのだ。一度は駅前までは行って、僕なんかでもなんとかなりそうな、地味目の、いかにも処女臭い女に声を掛けようと試みたものの、その女に近づくまでは良かったのだが、やはりどうしても声を掛けるという芸当は、僕には出来ないことだった。これでいよいよ僕は、どうにもならないはめに陥ったのだ。
     山口へのナンパ実行宣言から一ヶ月ほどがたち、僕は幾度と無く、何か良い手は無いものかと思慮していたものの、やはりそんな考えは浮かばずに、僕はただただ自堕落に毎日を過ごしていた。
     しかし、そんなある日だった。何気なく点けていたテレビから流れる、朝の情報番組の特集コーナーに、僕の目は釘付けとなった。最近では、インターネット上のサービス、SNSを通じ、出会い、交際にまで発展する若者が急増しているという類のものだった。僕は思わず、これだ、と呟く。この番組を観る前から、ネット上で男女が知り合い交際するなんて事は知っていた僕が、なぜ今まで気付かなかったのか。僕はそんな自分を自嘲しつつ、しかし、新たなその可能性に胸を高鳴らせながら、早速テーブルの上のノートパソコンを開いた。僕はまずツイッターにアクセスし、登録すると、アイコンに顔写真が載っていて、顔面偏差値でいうところの五十以上の女達に、もし良ければお会いしませんか、とのリプライを送りまくる。二十人ほどには送ったというところで、僕は返信をただひたすらに待つことにした。丁度夕飯時であることに気付いた僕は一階の台所へと降りて行く。テーブルの上に今日のおかずである肉野菜炒めが、それぞれの皿へと盛り付けられていた。
    「丁度今出来たところよ。冷めないうちに食べちゃいなさい」
     母はそう僕に促すと、茶碗にご飯を盛り付け始める。この夕飯を食べ終える頃にはきっと、女達からの返信が、少なくとも四五件は来ているはずだ。僕はあえてスローペースで自らの皿に盛られた、その全てを食べつくし、特に観たくもないテレビ番組を一時間ほど眺めると、部屋へと戻った。
     高揚した僕の気持ちとは裏腹に、返信は一件も来ていなかった。しかし、よくよく考えてみれば、まだリプライを送ってから二時間程しか経っていない訳で、ツイッター初心者である僕には、ツイートを送信してからどれほどで返信が返ってくるものなのか、その間隔は掴めていないのであるし、きっと早とちりし過ぎていたのだろうと、自らを反省する。すると先程鱈腹飯を食べたことで、眠気が僕を誘う形となり、僕はパソコンを閉じると、部屋の電気を消し、ベッドへと倒れこむ。明日の朝が、ただただ待ち遠しかった。
     何がいけなかったのか、あれから一週間ほどが経っても、返信は一件も来なかった。自身のアイコンは、出来るだけ良く写るように工夫したつもりであったし(実際、中々に良く撮れていたと思っている)、リプライの文面も、出来るだけ丁寧に書いて送ったはずである。残る考えといえば、女達側のせいとしか思えない。少なくとも平均点はある容姿を持つ男から、あのような丁寧極まりない文章を送ってもらったというのに、何の音沙汰も寄こさないというのは、ビジュアルに対するセンスがないのか、人間的に何処か欠陥があるとしか思えない。これでは誠意を持ってツイートを送った相手に対して、失礼というものではないか。僕はもっとまともな女を探そうと、今まではアイコンの画像のみを見て送っていたのだけれど、プロフィール欄まで目を通し、聡明そうな女に対して、おおよそ十人ほどにリプライを送った。しかしついに、それから二週間ほどが経っても、ただの一件も返信が返って来ることはなかった。
     ツイッターの一件で、SNSというものを完全に見限った僕は、本当はフェイスブックという物にも手を出してみる予定だったのだけれど、そのページを開くまでも無く、ついに、僕の、ネットを介して出会いを求めるという手段は、完全に、その手中から離れる形となった。 するといよいよ、今までの僕を突き動かしてきた、その源にあった考えが揺らぎ始める。素人童貞でも構わないのではないか、という、自身への提案が、沸々と沸きあがってきたのだ。自身のプライドを大いに傷つける事になるのは確実ではあるが、そのようなプライドにいつまでもこだわっていては、このまま無駄に齢を重ねていく一方であり、三十歳童貞、などという、素人童貞と同様、むしろそれ以上に自尊心を傷つる結果に繋がるというものではないだろうか。そう考えながら僕は、今までの自身の価値観というものについて、改めて考え始める。そもそも僕は何故、そこまでに素人童貞という人種を、自身がそのような人種になる事を嫌うのか。それは自身のプライドの高さもさることながら、やはり、僕の心が僅かに持つ、純真な部分のそれに尽きる。どうしても、初めてのキスや性行為というものは、好きになった女と行いたいという考えが、十代の頃から、揺るがぬ価値観として僕のなかに根付いていたのだ。しかしこのまま一生童貞であるということもまた、僕のその価値観が許さない。最早、どっちに転んでも同じことなのだ。それならば、これから一生懸命に彼女作りに奔走するなどという面倒なことは辞めて、このままだらだらと、童貞のまま生きていくほうが楽なのかもしれない。しかし、僕にはどうしてもそれは出来なかった。生まれもった男の本能が、どうしてもそれを許さない。僕は、草食系男子などという、男として欠陥のある人種とは違うのだ。しかしそうは言いつつ、実際に女と会ってみてもまともに話すことすら出来ない。むしろ男として、人間としても欠陥があるのは、僕のほうなのかもしれないとも思う。何かの偶然で出会った可愛い女が勝手に僕を好きになって、告白されて、付き合って、性行為に至る、そんな妄想を毎晩のようにしたところで、それは到底有り得ない話である。しかしそう思う一方で、もしかしたら、と思ってしまう自分も居るのだ。何故なら、実際にそんな経験をした男は、数は少なくとも必ず存在するのだ。僕はもう、その可能性に賭けるしかないのではないだろうか。
     しかし、結局家に閉じ篭りっぱなしであった僕に、そのような事は当然起きるはずも無く、無駄に時間だけは過ぎて行き、そのまま一年もの月日が経つこととなる。

     
     山口は彼女との交際を今でも続けている。野外プレイだとかカーセックスだとか、やりたかったプレイは一通り済んだらしかった。今日もまた、彼女の家に遊びに行く(というよりやりにいくのだろうが)とかで、僕の部屋での飲み会(といっても二人きりだが)を抜けていった。一人残された形となった僕は、山口の置いていった缶ビール二本を立て続けに飲み干し、知らぬ間に眠ってしまっていた。
     昼過ぎに目の覚めた僕は、いつものように母が作っておいてくれているのであろう昼飯を食べようと、一階の台所へと降りる。しかし、なにやら聞き慣れぬ声が扉の向こう側から聞こえてくる事を察知した僕は、気付かれぬよう、そっと聞き耳を立てる。するとどうやら姉が友人を招いているらしかったので、僕は空腹をその場は我慢し、溜まりに溜まった小便だけをトイレで放つと、自室へと戻った。
     それにしても、その姉の友人らしき人物は一向に帰る気配が無かった。もう既に僕が起きてから二時間は経とうとしている。さすがに空腹に耐え切れなくなった僕は、億劫ではあったものの、再び台所へと向かう。
     キッチンへと続くリビングの扉を開けると、僕の思惑通り、姉とその友人が、楽しそうにソファに座って談笑をしていた。僕は、こんにちは、と少し俯きながら挨拶をする。そしてそのまま足早に向こうのキッチンの方へ行こうとしたのだけれど、思いのほか、その姉の友人が話しかけてくる。
    「弟君も、ちょっとこっち来て、一緒に話そうよ」
     僕はしくじった、と思った。こんな展開になるのであれば、もう少し空腹を我慢すればよかった。その姉の友人の意見に、姉も、そうだよ、こっち来な、などと同調する。
    「いや、でもお腹空いちゃって」
    「ああ、今日はお母さん、お昼ごはん用意してないよ」
    「え、どうして」
    「朝から木ノ下さんと出掛けてるもん。聞いてない」
     そういえば昨日の晩にそんな事を言っていたな、とその言葉で思い出す。ちなみに木ノ下さんというのは母の友人である。
    「クッキーあるから、これ食べなよ」
     僕は仕方なしにソファの空いた右端に座り、テーブルに置かれたクッキーをつまんだ。
    「写真では見たことあったけど、やっぱり似てるねえ、由香と」
     ここで僕は初めて、この姉の友人の顔をまともに見る。甘めに付けても、偏差値でいうところの四十二、といったところか。はっきりといえば、ブスである。
    「よく言われます」
    「目元なんて、そのまんまじゃん」
     僕は早くクッキーで空腹を満たし、この場から去りたい一心だった。姉とその友人(会話の流れから名は奈央子だと知る)は、僕ら姉弟の似てる、似てない話でやたら盛り上がっている。カーテンから漏れる初夏の日差しは、丁度僕の座るソファの右端のみに差し込む形になっていて、その眩しさに目を細める。カーテンを閉めようとも思ったものの、どうせこのクッキーを食べ終えればこの場を去るわけであるし、そのままにしておく。
    「壮太郎君、あんまり家族に迷惑掛けちゃ駄目だよ。今、仕事何もしてないんでしょう」
     ああ、面倒臭い。お前に何がわかるんだ。こちらの事情も知らずに他人のお前にとやかく言われる筋合いは無い。と言ってやりたいところだったが、僕はにやにやと情けなく笑ってごまかす。
    「うちの親も甘いんだよね。追い出しちゃえばいいって私はずっと言ってるのに。前にバイト始めたときは、褒めてあげようとも思ってたのに、すぐに辞めちゃうし」
    「へえ、何のバイト」
     中華料理店です、と僕は答える。
    「どうして辞めちゃったの」
    「なんというか、あまり他の人たちと馴染めなくて」
    「馴染めなかったって?」
     この女、こうもずけずけと他人の領域に入り込んで来るところをみると、きっと僕が最も嫌っている、がさつで図太い神経の持ち主なのであろう。仕方なく答える。
    「同じバイトの人達とも仲良く出来なかったし、社員とも上手くいかなかったというか」
    「ふうん、そっか」
    「社交性ないもんね、あんた」
    「うるさいな」
     皿のクッキーのそのほとんどを食べ終え、ようやく部屋に戻れる、とソファから立ち上がろうと思った時、奈央子さん(敬称を付けることに、多少の抵抗を感じる)が言う。
    「よかったらうちの店で働く? 居酒屋なんだけど」
     今の自分の、引きこもりっぱなしの現状に当然満足などしていなかったし、かといってまた自分から行動を起こす気力もなかったので、その提案を受け入れようかとも思ったものの、居酒屋などという体育会系の奴らの巣窟で働くことなど到底無理であると、僕は瞬時に結論を出す。
    「大丈夫です。では、ゆっくりしていって下さい」
     そう言い残すと、僕は足早に部屋へと戻った。

     夜の空気は少しの暖かさを含んだ風を、僕の顔へと優しく吹きつかせる。僕は毎日の日課としている深夜の散歩へと、今日もまた、一人出掛けていた。街の皆が寝静まるこの時間帯に自分の街を歩くのが、僕は好きだった。まるでこの街が丸ごと自分のものになったかのような、実際に経験したことのある者にしかわからないであろうこの感覚。何の変哲も無い日本建築の家や、何やらカラフルで幾何学的な形のした個性的な家。日本建築の方の家主の方が実は個性的な人物で、幾何学的な方の家主の方が実は、何の変哲も無い普通のサラリーマンが住んでいたりするのかもしれない。そしてそのどちらの人物も、もし仮に何かのきっかけで僕と関係することがあったならば、どちらかは僕に優しく接してくれ、またどちらかは当たりを強く僕に接してくるのかもしれない。しかしそのどちらとも、今は眠ってしまっている。でも僕は起きていて、こうして散歩なんかをしている。そんなことを考えることのできるこの時間が、僕は好きだった。
     結局今日、母が帰ってきたのは夜の十時頃で、僕は近くのコンビニで弁当を買って食べた。しかしその量にあまり満足出来ていなかった事もあって、今になって小腹が空いてくる。いつもの散歩より少し遠出にはなるものの、僕は駅前にある牛丼屋へと向かうことを決めると、踵を返した。
     店内には従業員が一人きりだった。僕は食券を買うと、テーブルの上に置く。すると従業員は、厨房のテーブル清掃をしていたその手を止め、僕の食券を取りに来る。注文の品を確認すると、また厨房へと戻って行って、調理を始める。深夜のバイトならば一人で気楽に働くことが出来るのかもしれない。月に一度もらえる祖母からの小遣いに、少し物足りなさを感じている僕は、働く気などはないものの、少し、こんなバイトをするのもいいかもしれない、と思ったりもした。そこで僕は姉の友人の、あの女の提案を思い返す。居酒屋でのアルバイトの提案である。改めて考えてみると、僕が台所から去る際に微かに聞こえてきた会話から、女は店長であるようだったし、例え多少のミスや僕の生まれ持った天性の要領の悪さがあったとしても、友人の弟という建前上、強く当たったりすることは出来ないのではないだろうか。寧ろ他の従業員よりも優遇される可能性だってあり得る。前回のアルバイトの時の立場とは、丸きりに違う状況で働くことが出来るのだということに、僕は気付く。さらにもしかすれば、あの女に女の子だって紹介してもらえるかもわからない。前回のように怒られることもなく、さらにもし彼女を作ることが出来、金まで貰えるとなれば、一石二鳥というものではないだろうか。僕はあの時瞬時に断りを入れてしまったことに悔恨する。頼んだどんぶりが運ばれて来ると、それを頬張りながら、明日の朝、姉に頼んで、奈央子さんにこの意思を伝えて貰おうと決めたのだった。
     
     その日の朝、夜通し起きていた僕は、姉が起きたところを見計らって、奈央子さんに自身の意思を伝えてもらいたいと頼む。忙しなく朝食をとりながら姉は快く承諾すると、間も無く一目散に家を飛び出して行った。
    「由香となんの話をしてたの」
     朝食を片付けながら母が聞く。
    「姉ちゃんの友達がバイト紹介してくれるっていうから、お願いしようかと思って」
     そう答えると母は、あらそう、と微笑むと、頑張りなさいよ、と呟き蛇口を捻った。開いたカーテンからは快晴の青空が見えた。久しぶりに朝の空を見た、と僕は思った。しかしとうに眠気が訪れていた僕は、年中カーテンの閉めっぱなしの部屋へと戻ると、電気を消し、そのまま眠りについた。夕方に目が覚め、やがて姉が帰って来ると、一週間後にはシフトに入って欲しいという旨を伝えられた。やはりいざ、アルバイトを始めるとなると、なんとも憂鬱な気持ちになった。しかしあの時とは状況が違うのだから、そこまで気負う必要も無いはずだ。僕は自身にそう言い聞かせながら、しかし心に多少の不安を残しつつ、ついにその日を迎えるのだった。
     
     電車で二駅先の街に着けば、五分ほど歩いたところにその店はあった。既に数人の客が入っているのが窓の外からわかる。二人組の若いサラリーマンは、ビールをテーブルの両脇に置き、なにやら首を傾げながら、笑い合っている。上司の愚痴でも垂れながら盛り上がっている塩梅だろうか。その向こうでは、女の三人組が真面目な様子で話し合っている。その内二人の顔が望めたが、特に可愛くもないので僕は気にも留めない。自動ドアを通り抜けて店内へと入ると、早速見知った顔があった。
    「ちゃんと来たね。靴はそこでいいから、こっち来てくれる」
     僕は促されるままにキッチン裏の事務所へと通される。ロッカーと着替え用の仕切りのカーテン、積まれたビールケースに置かれた灰皿、そしてなにやら事務処理用であるらしいパソコンが置かれたその部屋には、煙草の匂いがすっかりと染み付いていた。丁度仕切りのカーテンが開くと、二メートルはあるであろう背の高い男がお疲れっす、と低い声で呟くと僕と奈央子さんの間を抜けて部屋を出て行く。奈央子さんは僕に合ったサイズの制服を選ぶと、渡し、カーテンの中で着替えるようにと僕に促す。着替えを終えると早速厨房へと連れ出され、作業中の皆に一人ひとり挨拶をするように言われた。その場に居た四人と挨拶を交わし、次にホール担当のスタッフである三人との挨拶も終えと、今日はひとまず皿洗いをしてもらいたい、と奈央子さんは言う。簡単な作業の流れを教わると、僕は次から次へと運び込まれてくる皿やコップを水で洗い流し、業務用の食洗機にそれを放り込むという作業を三時間ほど続けた。このとき既に僕は、辞めたい、との考えが心の奥のほうから浮き上がってくるのを感じていた。こんな作業をあと五時間も続けなければいけないのか、と考えただけで、このまま黙って帰ってしまいたい心持ちだった。さらに今まで挨拶を交わした二人の女達のなかには、顔面偏差値でいうところの五十以上の女はいなかった。僕のやる気を著しく低下させた要因はそれが一番大きかった。これではもはや僕がこのアルバイトに期待していたものは、きっと得られないのだろう。所詮僕の人生なんてものは、こんなものなのだろうか。思えばいつだってそうだったと思う。今まで生きてきて、人生が好転したと思えたことなんて、僕にはほとんどないのだ。客観的視点に立つ誰かが、それは違うと異を唱えるかもわからないが、少なくとも僕は、心底そう思っている。ああ、またこれできっと僕は今まで通り、なにも良いことなんて起きることもなく、家にひきこもって生きていくのだろう。僕は洗っていた皿を思いっきり地面に叩き割ってやりたかった。そんな僕にまた、客の食い残した餃子の盛られた皿が運ばれてくる。その瞬間、僕は無心になると、工業用作業アームの如し、ひたすらに皿洗いを続けるのだった。
     ようやく上がりの時間が近づいて来ると、奈央子さんが僕の元へと寄ってきては、自分も上がる時間だから、他の皆に挨拶をしたら駅まで一緒に帰ろうか、と僕を誘う。僕は言われた通りに挨拶を交わし、事務所へと向かった。奈央子さんが先に機械でタイムカードに打刻をすると、続けて僕も打刻する。先に着替えてよいということだったので、僕は、汗で脇の所から腐った雑巾のような異臭を放つ制服を脱ぐと、私服に着替えなおす。カーテンを開けると、奈央子さんは隅に置かれたパソコンでなにやら作業をしていた。
    「なかなかキツかったでしょ、皿洗い」
    作業を続けながら、僕に聞く。
    「はい、僕、しばらくはこのまま皿洗いなんですか」
    「そうだねえ、最初は皆、皿洗いから始まるんだよ。でも一ヶ月もすれば調理もしてもらうから、安心して。皿洗いよりは楽だから」
     一番の目的であった彼女作りに暗雲が立ち込めていた僕に、一ヶ月も皿洗いを続けるなんて無理だよな、と思った。どうしてこうも女運がないのであろうか。偏差値五十以上の女なんて、街を歩けばいくらでもいるというのに。居酒屋のホールで働く女といえば、確率論的に、並以上の容姿の女が働いているのであろう、という僕の既成概念は、跡形もなく吹き飛んでしまっていた。
     どうやら奈央子さんは作業を終えたらしく、パソコンの電源を落とすと着替えを始める。そして着替え終えると、僕たちは共に店を出たのだった。
     駅までの繁華街には、やたらとカップルが多いように思えた。しかしもしかしたら、僕が意識してしまっているせいで、僕の目にだけやたらに多く映ってしまっているだけなのかもしれない。僕は外でカップルを見かける度に、その場へ車でも突っ込んで、二人共々死なないものかと、毎度のように思うのだった。ふと、今自分が女と二人で歩いているのだという事実に気付く。はたからみれば、僕たちはカップルに見えているのかもしれない。思えば、母や姉以外の女と二人で歩くなんて、生まれて初めてのことだった。
    「明日もちゃんと来なよ」
     奈央子さんがスマートフォンを弄りながら、僕に言う。
     僕は頷きながら、その確信は持てずにいた。明日の僕の行動は、明日の僕のみぞ知るのだ。
     君がさ、奈央子さんが続ける。
    「うちでバイトをしたいって思った一番の理由ってなんなの、お金、それとも女の子との出会い」
     一番はもちろん、出会いだ。お金も当然欲しいけれど、もし彼女さえ出来るのなら、そんなものは一銭もいらないとさえ、今の僕には思える。理想を言えば、金銭的余裕を持つ、年下好きな美人キャリアウーマンのヒモになれるのであれば、それが一番なのだけれど、そんな女達と僕とでは、まるで住む世界が違うということはわかっている。奈央子さんに出会いを求めてる、なんて言ったところで、紹介されるのはきっと、顔面偏差値五十もいかないようなバイト先の女達なのだ。言うだけ無駄というものであろう。僕は、お金ですね、と答える。
    「やっぱりそうだよね。今は欲しいものとかが出来たときには、どうしてるの」
     両親から小遣いをもらっています、と自分でも何故そう言ったのかわからないが、些細な嘘をついた。どうやら祖母からお小遣いをもらっている、ということは、僕の価値観では親からもらうことよりも恥ずかしい、との思いがあるらしい。いくらくらい、奈央子さんが聞く。月に一万円であることを僕は伝える。
    「それじゃあ、あまり欲しいものとか買えないでしょ」
     確かにそれはその通りではあるのだが、欲しいものを買うために働くくらいなら、それを我慢して働かずに済むほうを取ってしまうのだ。しかし所詮、その程度の物欲しさであっただけなのかもしれない。物欲が旺盛な人間が、僕には羨ましく思える。たとえば山口なんかは、釣りやギターが趣味であって、会うと毎度のように、あの釣具が欲しいだとか、何色のギターが欲しいだとかを言っている。何かに熱中できるそのことが羨ましく思えるのだ。僕には熱中できるような、その何かがまるでないのだ。だから彼のようにどうしても欲しいものというものが思い当たらないのである。人生の充実度というものは、そのような趣味があるかどうかでも、いくらか変わってくるものであろう。そう考えると、自分の人生の、その密度の低さというものに、甚だ嫌気が差してくる。
    「あまり欲しいものとかないので」
    「そっか、あんまり物欲が無いんだね。羨ましいなあ。わたしなんて、欲しいものがありすぎて、お金がいくらあっても足りないくらいなのに」
     でもさ、彼女が続ける。
    「物欲はなくても、彼女は欲しいでしょ」
     それは当然である。そもそも僕がバイトを始めようと決めた、第一の理由がそれなのだから。しかし、それももう期待は出来ないのではあるが。僕は肯定して頷く。
    「そりゃそうだよね。もう、何年くらいいないの、彼女」
     この女の、このずけずけと他人の個人的な領域に踏み込むようなところは、やはり嫌いだ、と思った。僕は本当ならば、今の年齢と同じ年を答えなければいけないところなのだけれど、やはりプライドだけは人一倍に高い節がある僕は、五年ほどですかね、などと答える。へえ、どうして別れちゃったの。一度も女と交際したことのない僕は、男と女の別れの理由など、到底思いつかず、しどろもどろに、なんとなく、などと答えてしまう。すると彼女は、ふうん、そっか、などと、特に興味もなさそうに答えた。
     丁度駅の改札口へと着くと、僕たちはそれぞれのホームへと向かうため、そこで別れたのだった。

     夕飯を食べ終え、両親が晩酌のために買い置きしている缶ビールをこっそりとニ本ほど拝借して部屋へと戻ると、一本目を一気に飲み下す。両親の前で酒を飲むのはなぜだか気が引けてしまう僕は、本当は夕飯にありつきながら酒を飲みたいところなのだけれど、毎回部屋で、一人隠れるようにして飲むのだった。二本目の缶ビールのプルタブを引くと、僕は明日のバイトについて考える。まずに、僕の交際する異性になり得る女というものが、今のところ一人も見当たらないことに、僕は辟易としていた。居酒屋で働く女というものは、他の飲食業と比べても顔の良い女が多いとのイメージがあったのに、あの店といったら、まるで深夜のコンビニ店員のような女たちしか居ないのだ。しかしそれは、まだ一日しか働いていないのであるし、まだ出会っていない、今日のシフトには入っていなかった女に期待をするというのも、有りなのかもしれない、と僕は結論付ける。すると次には、皿洗いという、苦痛以外の何者でもない、あの仕事内容に対する不満が湧き上がってくる。しかしそれも、もしも僕の交際する女性にふさわしい女がこれから現れるのであれば、きっと我慢ができるはずだ、と僕は思った。僕はただひたすらにそんな女が現れることを願いながら、二本目のビールを飲み干したのだった。
     
     結論から言えば、顔面偏差値五十以上の、僕の交際する女になり得る女は、そこで働いていた。ただ、本当にラインぎりぎりの、顔面偏差値五十ちょうどといったところではあるが、今の僕には十分であった。僕は今日、店に入った直後に、ホールで客からの注文を取るその女を見つけると、その後の皿洗い中ずっと、どうして彼女と仲良くなることが出来るものかと、ひたすらに考えを巡らせていた。やはりまずは、何気の無い会話から始まり、徐々に仲を深めていくというのが最も安定感のある策であるとの結論に至る。僕は、隙あらば彼女に話しかけてみようと、皿を洗いながら、意識は完全にホールで注文を運んで回る彼女へと向かっていた。
     僕が皿を洗い始めてから一時間ほどが経つと、彼女はホールの店員たちへ挨拶を始める。どうやらそろそろバイトを上がる塩梅であろう。ホールのスタッフ皆への挨拶を終えると、キッチンへと向かって来る。彼女はまず厨房に、大きな作業音が響く中でも聞こえるよう、腹に力の入った大きめの声で挨拶をすると、それとは逆方向の、一人黙々と皿洗いをこなしていた僕にも挨拶をしに来る。そこで妙な焦りを感じた僕は、今こそが、彼女となにか会話をするチャンスなのではないかとも思ったが、こちらはまだ仕事中であるし、やはりそれには無理を感じ、ただ挨拶だけを返す。すると彼女は、足取り軽く事務所のなかへと入って行くのだった。 それにしても、どうやら僕とはシフトの時間がずれているらしい。これでは彼女との仲を深めるどころか、離しかけることすら難しいかもしれない。どうしたものかと、一人皿を洗いながら考えてはみたものの、良い考えというものはなにも浮かぶことはなく、ついにバイトを上がる時間まで経ってしまうのだった。

     アルバイトを始めてから一週間ほどが経とうとしていた。相変わらずに僕は皿を一人ひたすらに洗っていて、洗い始めてから一時間ほどで彼女はバイトを上がって行く、という繰り返しが、ただただ続いていたのだった。
     ある日のことである。いつものように奈央子さんと二人、駅までの帰路に着いていると、ふと彼女が言った。
    「来週の飲み会、壮太郎君も来るでしょ」
    「飲み会?」
    「あれ、言ってなかったっけ。うちの店、二ヶ月に一度バイトと社員で飲み会開いてるの」
     僕は、ついにこの時が来た、と思った。ここまで一週間もの間、あの糞つまらない、疲れだけが溜まっていくだけの皿洗いをしてきた甲斐があったというものだ。
    「それって、全員が参加するんですか」
    「もちろん、当日にシフトが入ってる人は来れないけど、そうじゃない人は、皆来ると思うよ」
    「来週の、いつですか」
    「えっとね、水曜日かな」
     来週の水曜日となると、僕も彼女もシフトは入っていない。来週分まで自分と彼女の分のシフトをシフト表で調べていた僕は、ついに話し掛けるチャンスが来たのだと、ひとり心のなかで舞い上がる。
    「僕も参加します」
    「オッケー。六時半に駅前集合だから、遅れないようにね」
     駅で奈央子さんと別れると、憂鬱であった明日のバイトも、少し心持ちが楽になったような気がした。ついに、僕の童貞喪失へと端緒が掴めたかもしれないのだ。心踊らずには居られない。僕は顔をにやつかせながら、ホームで最寄り駅行きの下り快速電車を待った。

     比較的多く同じシフトに入っている、いかにも気の弱そうな三ツ谷というこの男は、僕より一月ほど前に入ったばかりの新人で、皿洗いの期間を終え、最近ようやく調理の担当に回されたようであった。毎度のように社員の男に怒られ、休憩時間が同じになったときには、よく僕に愚痴を垂れる。それは今日もまた同じである。
    「一気に色々教えられたって、覚えられるわけがないですよ」
     三ツ谷は煙草の煙をくゆらせながら言う。僕も口から煙を吐くと、適当に頷く。
    「だいたい教え方も下手なんですよ。あれをこうしてああしろとか。もっと具体的に言ってもらわないと」
     僕が一言も発しなくても、彼は壊れたCDプレーヤーのようにひたすらに愚痴をこぼし続けた。体育会系特有の、良く言えばあまり裏表のないさっぱりとした、悪く言えば頭の悪そうな暑苦しい男たちの多いこの職場では(僕は主に後者の印象を持つ)、三ツ谷のような、気弱で陰湿そうな男のほうがむしろ、親近感を覚えてしまうものだった。事実、彼と同じシフトの日は、他の者と同じシフトの日に比べて、いくらか気が楽な自分がいる。彼はその後もねちねちと愚痴を垂れ続けると、先に休憩を上がって行った。

     しっかりと顔を洗い、目やにが付いていないかとか、鼻毛は飛び出ていないか、などを、神経症者ほどに何度も確認をして、僕はついに家を出た。ようやく、僕の人生に変化を起こせるのだということが、僕にはとにかく嬉しかった。今まで決して回る事のなかった童貞喪失への歯車が、ようやく回り始めるのだ。これを喜ばずにはいられない。

     案の定、彼女は出席していた。十人ほどが集まった居酒屋の宴会場では、皆それぞれ仲の良いもの同士で集まっては雑談をしている。僕はというと、隅の席で三ツ谷と二人、共通の趣味であるアダルトゲームの話で少しの盛り上がりをみせていた。おすすめの原画家はいないかとか、そんな話だ。彼女はというと、ちょうど対角線上の席で、奈央子さんと、もう一人、恐らくバイトの女と三人で楽しそうに笑い合っている。しかし、僕はなかなかに彼女に話し掛けるタイミングが掴めずにいた。掴めているのなら、今こうして三ツ谷と二人、アダルトゲーム話で盛り上がってはいないだろう。そんな僕たちの様子に気付いた奈央子さんが僕たちのほうまで近寄ってくると、話し掛けて来る。
    「なに話してるの」
     僕たちが、いや、べつに、などと返すと、あっちで皆と話そうよ、と僕たちに促す。三ツ矢はあまり乗り気ではなかったようであったが、相反して当然乗り気であった僕は、ひょいひょいと彼女についていく。すると三ツ谷も仕方なしといった感じであとに続く。奈央子さんの横に空いていた席に僕と三ツ谷とで座ると、僕の隣に彼女が座る形となった。
    「聡美ちゃんとはシフトの時間が違うから、話すのは初めてなんじゃない?」
     奈央子さんがいきなりにして、僕にナイスアシストを入れてくる。僕は、待ってました、と言わんばかりに彼女に話し掛ける。
    「ここでのバイトって、長いんですか」
    「そうですね、大体一年前くらいからですかね」
     彼女は答える。
    「学生さんですか」
    「はい、専門学校に通ってます」
    「専門学校。なんのですか」
     僕は矢継ぎ早に聞く。
    「デザイン系です」
    「デザインってなんのですか、服とかですか」
    「いえ、グラフィックデザインって言って、広告とかのデザインについて勉強してるんです」「へえ、広告」
     僕はなんとかこの話題を盛り上げようと必死だった。なにせこの会話の盛り上がりこそが、僕のこの後の童貞喪失に大いに影響してくるのかもしれないのだ。緊張を感じながらも、次々に言葉を突いて出す。三ツ谷は奈央子さんとなにやら話しているようだし、僕はここぞとばかりに捲くし立てる。
    「なら将来は、有名な企業のチラシとかポスターとかを作ったりするんですね」
    「有名な企業かはわからないですけど、仕事内容はそんな感じですね」
    「すごいですね、なんだか僕には手の届かない世界って感じ」
     その言葉に、彼女は機嫌を良くした様子。しめた、と思った僕は畳み掛ける。
    「僕なんか高卒だし、そんな世界、入りたくても入れないですよ。やっぱりそういうのって華やかな世界なんでしょうね」
     彼女はさらに機嫌を良くした様子で、デザインに興味あるの、などと訊いてくる。
    「はい、あります。なんだかカッコいいじゃないですか。デザイナーとかって」
     これが決め手となったらしく、彼女はデザインとはなにか、デザインのすばらしさなど、全くどうでもいいことを嬉々と話し出す。僕は一滴の興味もないそれらの話を、いかにも興味津々と言った様子で聞く。しかし、その話に対する僕のあまりの関心のなさとつまらなさに、そろそろいい加減にしろよ、と思ったところで、ようやく彼女は満足したらしく、自らのデザイン論を語るのを終え、すっかり上機嫌な様子。そこで僕は、ここぞとばかりに酒を勧める。彼女はどうやら酒に弱いということであったが、僕は自分の分の酒を頼むのと同時に、彼女の分の酒も半ば強引に注文する。周りの者達はきっと、そんな僕の様子を見て、なにやら女に対して必死な奴、などと、心の中で嘲笑しているのであろうが、もはや僕にはそんなことはどうでもよかった。どうせもし、彼女と関係すら持てたのなら、こんなバイト、すぐにでも辞めてやるのだ。 二人分の酒が運ばれてくると、僕は彼女と乾杯する。勢いをつけるためにも、僕は注文した中ジョッキビールを、一気に飲み干す。
    「お酒強いんですね」
    「はい」
    「うらやましいです。私なんて缶ビール一本飲んだだけでも、へろへろに酔っ払っちゃうんです」
     それならば、彼女の頼んだカシスオレンジさえ一杯飲ませてしまえれば、今夜にもどうこうできる可能性があるということだ。僕は、俄然にテンションが上がり、さんざん彼女に酒をすすめ、強引に酒を注文する。少し嫌そうな顔を時折見せはするものの、酔わせてさえしまえば、こっちのものなのだ。その後も僕は、趣味はなにかあるかだとか、バイトと学校以外の時間はなにをして過ごしているのか、だとかを聞いて、話を繋ぐ。話を途切れさせてしまったら、僕にはもう彼女とどうにかなれるチャンスは永久に無くなってしまうような気が、僕にはしたのだ。

     それからどれほど喋り続けたであろうか。気付くと僕は自室のベッドの上だった。スマートフォンで時計を確認すると、画面のデジタル表示は朝の九時を示していた。僕は朦朧とする意識のなかで、あれからのことを思い出そうとする。しかしまだ眠気と気だるさも強く、思い出せたような、思い出せていないような、確実に思い出せたような気もするし、思い出せたと思っていることは実は夢なのかもしれないなどと、ぼんやりと頭のなかで考えていると、徐々に意識ははっきりとしてきて、僕はようやく昨日のことを、確信を持てるほどに思い出した。あれから、彼女を酔わせることよりも、自分に勢いをつける方に重きを置いてしまった僕は、彼女はまだ一杯の半分しか飲んでいないというのに、自分は次々と酒を煽っていくと、とうとう気分が悪くなり、一人トイレで吐き、会場へ戻ると、そのまま眠ってしまったのだ。曖昧ではあるが、奈央子さんがよろめく僕を支えてタクシーまで乗せてくれたような記憶も思い出した。僕はひどい自己嫌悪に襲われ、そのまま布団のなかで、何をするわけでもなにを考えるわけでもなく、膝を抱えてただただうずくまっているのであった。
     気付くと時計は昼の二時を示していて、腹も減ってきた僕は、ようやく布団から抜け出ると、その空腹を満たすため、台所へと降りて行く。どうやら母親は出掛けている様子で、僕はテーブルに置かれたチャーハンに掛けられたラップを剥がすと、食べた。赤ウインナーの入った、子供が好きそうなその味が、僕は大好きだ。それを食べ終えると、僕はソファへと倒れこむ。点けたテレビのワイドショーからは、アイドルとお笑い芸人の熱愛が発覚、などというニュースに、コメンテーターと呼ばれる人種の奴らが、なにやら盛り上がっている。僕は、画面は点けたまま、音だけを消すと、仰向けになって一人考えるのだった。いや、考えるというより、しみじみと一人自己嫌悪に陥るのだ。あのようなチャンスを逃してしまったのだ。それも、自らの失態によって。これを落ち込まずにはいられない。次にあのようなチャンスが来るのは、また二ヵ月後ということになるのだ。それまであのバイトを続けるモチベーションを保つことが出来るであろうか。僕にはわからなかった。ただただ落ち込んだ気持ちのまま、音の消えたドラマの再放送を眺めていると、そろそろバイトの時間であることに気付く。僕はしばし迷ったものの、僕の思考とは別の、僕にもわからない、どこか他の部分で出した結論が僕の体を動かすと、一人また最寄り駅へと向かっていくのだった。

     どうやら今日、彼女はシフトが入っていないらしく、その姿は見えなかった。
     なんだか、周りの者の視線が冷ややかに感じられる。その理由は明らかであった。どうにかして女とやりたい、という男の本能をあざあざと皆に見せつけ、かと思えば、一人酔い潰れ寝てしまった、その一部始終を、彼らは見ていたのだ。そのような目で見られても、いたしかたない。僕は足早に事務所へと入ると、着替えを済ませるのだった。
    「昨日はほんと、大変だったよ」
     バイトの時間までまだ少しあったことで、事務所内で煙草をふかしていると、奈央子さんがなにやらパソコンで事務作業をしながら言う。
    「すみません」
    「大学生じゃないんだから、そろそろお酒の飲み方、覚えないとね」
     僕ははにかむと、煙草を一口吸う。にしてもさ、彼女が続ける。
    「壮太郎くん、聡美ちゃんがタイプなの」
     タイプというわけではないが、童貞を捧げるには最低限のレベルの顔なんです、などと本心を語るわけにもいかない。
    「まあ、そんなところです」
     彼女はふうん、と息を漏らすと、キーボードを打ちながら続けた。
    「でもさあ、昨日はちょっとあからさま過ぎたんじゃない? 壮太郎くんが寝ちゃってから、皆に笑ってたよ、あいつ必死すぎるだろって。聡美ちゃんもあまりいい気はしてないみたいだし」
     その言葉に僕は、昨日の自分を省みてまたも激しく悔恨する。当然のことだ。飲めない酒を強引に勧められ、かと思えば一人先に酔い潰れて寝てしまったのだ。そんな男に好感など、持つはずもなかった。
     それにしても、である。このような状況を作り出してしまった以上、もはや彼女と僕の関係がどうこうなる可能性は、極めて低くなってしまったのではないだろうか。他の従業員からも、女を求めることに必死な、イタい奴、とでも思われてしまったのだろうし、あのような醜態を晒してしまったのでは、彼女からの好感を上げることはきっと、かなり難易度の高いものになってしまったと思う。これではもはやここで働き続ける意味はないのではないだろうか。しかしここでまた辞めてしまっては前回の僕と同じである。それに、バイト先に姉の友達が働いているというこの状況は、この先きっとあることではない。やはり童貞を捨てたいのであれば、この場でどうにかするしかないのだ。ここで何も起こせなければ、僕はきっとこの先もずっと変わることは出来ないだろう。
    「今日もまた主に皿洗いしてもらうと思うけど、そろそろ調理済みの料理の盛り付けとかも覚えてもらう事になるから、初日に渡したマニュアル読んで来週くらいまでには覚えておいてね」
     そう言い残すと、奈央子さんは事務所を出てホールの仕事へと戻っていく。僕も煙草を吸い終えると、仕事へと向かうのだった。

    「昨日の飲み会凄かったですね」
     休憩時間に共に煙草をふかしていた三ツ谷は言う。
    「猛烈アタックし始めたと思ったら、一人で酔い潰れちゃったじゃないですか」
     三ツ谷は少し馬鹿にしたような口ぶりでにやつきながら言った。
    「彼女に惚れてるんですか」
    「まあ、そんなところです」
    「そんなに可愛いですかね、あの人。ちょうど平均点って感じじゃないですか」
    「でも、ここで働く女のなかでは、一番マシじゃないですか」
     三ツ谷は、まあ、それもそうですね、と頷く。
    「どれくらいいないんですか、彼女」
     ここでも僕はやはり、本当のことは言えなかった。
    「五年くらいですかね」
    「へえ、けっこう長いんですね」
    「三ツ谷さんは彼女、いるんですか」
    「一応いますよ。大学の時に知り合って、もう三四年になりますかね」
     この言葉に、僕は心の奥で小さく落ち込む。どうしてこうも、僕の周りの男は皆、非童貞であるのか。そしてまた、何故僕だけ未だに童貞でいなくてはならないのか、と、僕は自らの運命を呪った。そしてこの男に対して芽生えていた親近感というのも、多少なり薄れる形となる。
    「でも、彼女ならいけるんじゃないですか。そんなにモテそうなタイプでもないですし。倍率は低いと思いますよ」
    「そうですよね。まあ、がんばります」
     その後僕と三ツ谷は、残りの休憩時間、またもアダルトゲームの話で多少に盛り上がり、休憩を上がるのだった。
     洗い終えた食器類を、決められた所定の場所へと片付けていると、泉が低く小さな声で、ぶっきら棒に僕に指摘する。
    「その小さい皿はそこじゃねえよ」
     どうやらもう長いことここでバイトを続けているらしいこの男は、バイトの初日、その背の高さに驚いたことが強く印象に残っていた人物だった。あ、すみません、と小さく謝り、何処へ置くべきなのかを訊ねると、泉はなにも答えず、僕の手から皿を掴み取ると、シンク下の戸棚を開け、同じ皿が積まれた、その上へと投げるように重ねた。すると泉はそのまま何も言わずにまた調理作業を始めた。その男の態度に、僕は苛立ちを感じながらも、また、次々に運ばれてくる皿を、ひたすらに洗うのだった。どうやらこの男は、先日の飲み会にも来ていないようであったし、僕と奈央子さんが知り合いであることを知らないのであろう。僕が彼女に少し告げ口をすればきっと、僕にもうそんな態度は取れなくなるというのに。そんなことを考え僕は鼻を鳴らして一人笑った。そう考えるとやはり、奈央子さんがいるということは実に頼もしいことだと思えた。前のバイトであれば、そうはいかない。どんなに嫌な奴がいたとしても、泣き寝入りするしかなかったのだから。そこで僕は一つの考えを閃く。わざわざ次の飲み会まで待って、聡美さんとの関係を深めようとしなくても、奈央子さんに、僕が彼女に好意を持っていると直接伝えてもらえばよいことではないだろうか。頼みさえすれば、二人で会う約束だってこぎつけてくれるかもしれない。僕は先ほどまで苛立ちを覚えていた泉に対して、このような閃きを与えてくれたことに対しては、感謝した。早速今日の帰りの道中にでも、奈央子さんに頼んでみよう。僕は気持ちの高揚を感じながら、すすいだ皿を食洗機へと放り入れた。

    「いいよ、全然。むしろ協力してあげるよ」
     僕の提案に奈央子さんは、予想以上の反応を示してくれた。
    「やっぱり五年間も彼女がいないのはきついもんねえ。なにより、由香の弟の頼みだし、壮太郎君と聡美ちゃんがくっ付けるように、出来るだけのことはしてあげる」
     僕はなんだか、もう彼女と付き合えることが確実になったかのような心持。でも、彼女が続ける。
    「前回のミスはちょっと大きかったかなあ。今の聡美ちゃんは、壮太郎君にそんなに良い印象は持っていないだろうし。あんな強引な手段に出る前に、わたしに相談してくれれば良かったのに」
     それは僕もそう思うけれど、やってしまったことはもう仕方がない。
    「それならさ、まず壮太郎君が聡美ちゃんに好意を持ってるってことを私が伝えて、でもまあ、言わなくてももう彼女もわかってるとは思うけど。それで、前回強引なことをしちゃったことを謝りたいらしいから、一緒にお茶でもしてあげてくれないかな、って頼んでみるっていうのはどう」
     なかなかに良い提案であると思った。僕は是非、とその提案を快諾すると、よし、となにやら気合を入れた様子の奈央子さん。
    「そうと決まれば、そのあとは壮太郎君の手にかかってるからね。頑張って」

     その日、僕はいつもよりも一時間ほど早く、家を出た。ついに、彼女との約束の日なのだ。奈央子さんはあの日の翌日、早速彼女にその旨を伝えてくれたらしく、それからさらに三日後の今日、僕と彼女のシフトの合う日に(というより、奈央子さんが今日に限り、同じシフトに入れてくれたのだ)、お茶の約束をこぎつけてくれたのだ。バイトまでの時間であるから、話せる時間は一時間ほどではあるものの、それほどあれば十分だと思った。僕は十分ほど早く、約束の店である小洒落たカフェへと着くと、彼女を待った。僕の前をいくらかのカップルが通り過ぎていく。僕もきっともうすぐに奴らと同じ立場に立つことが出来るのだと思うと、心持は高揚する一方であった。こんにちは、右斜め後ろから見知った声がする。
    「なか、入りましょうか」
     僕ははい、と頷くと店内へと入った。
     それにしても、さっきは少ししくじったと思った。このような洒落た喫茶店になど生まれてこの方縁のなかった僕は、どうやらこの店ではMサイズのことをトールサイズと呼ぶらしく、Mでお願いします、と頼んだ僕の注文は、トールサイズでよろしかったでしょうか、などと訂正されてしまったのだった。挙動不審に了承する僕の姿は、きっと彼女の目には無様に見えていたことであろう。だがしかし、もう既にそのような姿は見せてしまっているし、さほどは気にしなかった。今の僕は、とにかく「必死」なのである。
    「この間はすみませんでした、無理に酒を勧めたりして」
    「いえ、別に大丈夫ですよ」
     やはり「必死」である僕は、自らの心のなかに湧いて出る緊張を差し置いて、言葉をのどの奥から押し出す。
    「許してもらえます」
    「はい、全然気にしてないので」
     少しの沈黙。それでなんですけど、僕は切り出す。
    「奈央子さんから聞いてますか」
     彼女は、聞いてます、というような顔をした後、なにをですか、などと聞き返す。
    「僕が、その、あなたのことを気になってるっていうことです」
     自分でもよくもこんなにもはっきり言えるものだなと感心する。それほど今の僕は追い詰められているということであろう。彼女はうつむき少し黙ると、はい、と頷く。
    「よかったら、付き合ってくれませんか」
     こんな言葉がなぜか突いて出た。好意を知ってもらった後、徐々に仲を深めていくというのが僕の戦略ではなかったのか、僕は心のなかで自分を問い詰める。彼女の顔をちらりと見ると、驚いた顔で僕の目を見つめていた。そして、一瞬その目を逸らすと、それは、ごめんなさい、との返答を返す。そりゃあ、当然こうなる、僕は一人納得する。
    「そうですよね、でも、よかったらこれからも仲良くしてください」
     僕は先ほどの自身の告白をさほど後悔していなかった。自身に好意を持っている、との事実を伝えられた状態よりも、直接本人から告白されたのとでは、今後、彼女の僕に対する気持ちの持ちようも変わってくるであろうと思ったからである。きっと彼女は異性からの告白など、さほど、下手をすれば一度もされたことはないであろうし、であるならば、その数少ない相手である僕に、きっと他の異性とは違うなにかを感じてしまうのは、至極当然というものである。
    「はい、是非」
     彼女は微笑む。その後僕たちは、バイトの仕事内容についてだとかを話した。といっても、主に僕から作業の手順などについて質問をしていただけではあるが。

     共にバイト先へと入ると、他の従業員共が、なぜこの二人が共に、などというような目で僕たちを見る。そんななか、すれ違った奈央子さんは、少しの笑みを浮かべた顔で、僕たちを見やると、お疲れ、などとなにやら意味ありげに、僕に対して呟く。事務所内へと入ると、彼女はカーテン内で、僕はパソコンの置かれたテーブルの前で、それぞれ着替えを済ませると、共にタイムカードに打刻をするのであった。

    「で、どうだったの、彼女とは」
     いつものように駅までの道中、奈央子さんと歩いていると、早速訊いてくる。
    「ふられました」
    「え、ふられたって、もしかしてもう告白したってこと」
     僕は頷く。
    「壮太郎君さ、この前もそうだけど、ちょっと焦り過ぎなんじゃないの」
     焦りたくなくても焦ってしまうのだから仕方がない。僕だって、告白するつもりでしたわけではないのだ。
    「でも、僕の気持ちは伝わったわけですし、これからの僕次第だと思います」
    「うん、それは確かにそうだよね。それにしても、結構肉食系なんだね、壮太郎君って。五年も彼女がいないのが不思議なくらい」
     むしろ、生まれてこの方彼女がいないからこその、今の僕なのだ、と僕は思った。
    「これからの行く末、見届けさせてもらうよ」
     彼女はなにやら弄っていたスマートフォンをバッグへとしまうと言った。彼女に無様な負け犬姿を見せぬためにも、やるしかない、このとき僕は、過ぎ行く一組のカップルを横目に、そう強く思った。

    「一気に何種類もは覚えられないだろうから、今日はまず炒飯、作ってみようか」
     いつものように皿洗いをしていると、奈央子さんに声を掛けられ、言われるがままに奥の調理スペースへと通されると、彼女は言った。
    「じゃあ、泉君、教えてあげてね」
     泉はうっす、と気だるそうに低く呟く。奈央子さんは事務所でやることがあるらしく、泉に僕を託すと、去って行く。
    「よろしくお願いします」
     僕のその言葉がまるで聞こえていないかのように泉は掛けられたフライパンを乱雑な素振りで掴み取ると、そこへ油を注ぎ、ボタン一つで適量の米が器へと注がれる機械から注がれた米をまたも、乱雑にフライパンへと投げ入れる。その後、何種類かの調味料と卵をフライパンへと落し入れると、皿へと盛り付けた。
    「はい、やってみ」
     泉はぶっきら棒に言った。僕は、え、と返す。
    「え、じゃねえよ。今やったようにやってみろって」
     僕は言われるままに、先ほどの過程を見よう見真似でやってみる。まず、フライパンに油を引き、機械から米を器へと注ぐと、フライパンへと落し入れた。そして、一つの調味料を手に取ったところで、泉が言う。
    「それじゃねえだろ、まずはこっちを入れるんだよ」
     泉は五本ほどが置かれた調味料の一つを掴み取ると、掲げた。
    「あ、すみません」
     その言葉に、泉が舌打ちする。言われるまま、僕は泉の掲げたその一本を落し入れる。次にどの調味料を入れるのか、僕には見当もつかない。迷った挙句、一つを選び、掴み取ると、「お前、さっき俺が作ってたとこ、ちゃんと見てたか? それ、最後に入れる奴だろうが」
     お前、そう呼ばれたその時、沸々と湧き上がっていた僕の怒りはついに頂点へと達する。しかし、言い返して面倒なことになりたくなかった僕は、今日の帰り、奈央子さんにこの男の態度の悪さを伝え、改善させてやろうと決めた。そしてこころのなかで、馬鹿め、と彼を嘲笑する。僕が店長である奈央子さんと繋がりのあることも知らずに、こうも僕に強く当たるとは、実に間抜けなものである。そう思うと、この男に対する、僕の態度というものもいくらか余裕が出てくるというものであった。
    「すいませえん」
     僕はあえて間延びした声で返す。この僕の態度が、どうやら泉の気に障った様子。その後も泉は、さらに強い態度で僕に接した。炒飯の調理手順を覚えた頃には、傍から見ても険悪だとわかる雰囲気が僕たちの周りを包んでいた。

    「あの人、マジでうざいっすよね」
     休憩中、三ツ谷は言う。
    「新人に当たりが強いんですよね。あの人のせいで辞めていったバイトも、もう何人も見てますし」
     僕も奈央子さんという存在がなかったら、そいつらと同じく、すぐさま辞めていくのであろうな、と僕は思った。しかし、そう考えると、僕のような繋がりをもたないのにも係わらず、辞めずに続けている三ツ谷というのは、なかなに根性のある奴なのかもしれないと思った。
    「でも、仕事さえ慣れちゃえばあっちも何も言ってこないと思うんで、早く慣れることですね。て言っても、僕もまだ怒られっぱなしですけど、とくにあの人に」
    「あんなのが居るのに、よく続けられますね。このバイト」
    「僕は、今までいろんなバイトしてきて、怒られたりするのは慣れてるんで」
     今まで親近感を覚えていたこの男に、僕は自らの思い違いを気付かされた。三ツ谷は僕とは丸きりに違う。少し怒られただけで逃げるようにバイトを辞めてしまった僕とは。

    「言っても無駄だと思うなあ」
     奈央子さんは言う。
    「彼、ああいう性格だから、新人のバイトくんがすぐ辞めちゃうし、今まで私からも何度か注意したことあるんだけど、全然変わらないんだよね。私も困ってるんだけど。でも、普段はいい人なんだよ。ただ、仕事に対して真面目っていうか、スイッチが切り替わっちゃうって言うか。でも、一応言っておくよ。ただ期待はしないでね」
     これは少し不味いことになった、と僕は思った。奈央子さんに伝えることで改善されるものだと踏んでいた僕は、今日の泉に対する自身の態度を、後悔する。プライドだけは無駄に高いこともあって、人前で叱責されることが人一倍に嫌いである僕は、これから先、きっと人一倍に泉からの叱責を受けるのであろう。童貞を捨てるためとはいえ、それに耐えることが出来るのか、その自信は今の僕にはなかった。話は変わるけどさ、奈央子さんが言う。
    「聡美ちゃんとは今、どんな感じなの」
     どんな感じも何も、進展などあるわけがない。前回カフェへ行ったとき、連絡先の交換こそしたものの、積極的に電話やメールなどをしたところで、引かれるだけである。前回の失敗を経て、時間を掛けてゆっくりと彼女との仲を深めていくしかないと決め込んでいるのだ。それにしても、この調子では一体どれほどの時間がかかるものか、僕には見当もつかない。そもそも、彼女と付き合うことなど出来るのであろうか。どれほど僕が頑張ったところで、彼女が僕に振り向くことなどありえないということだって十二分にあるのだ。しかし僕には最早、選択肢などないのだ。この場でどうにか出来ないのであれば、一生童貞のまま生きていく、それほどの覚悟を持って臨んでいくしかないのだ。

     案の定、僕は毎日のように泉に怒られ続けていた。やめておけばよいものを、僕も奴に対してふてくされた態度をとってしまうのだから、まるで悪循環であった。この四週間ほどの間で、何度辞めようと思ったことかわからない。しかし、日が経てば経つほど、辞めるわけにはいかなくなる。ここで辞めてしまっては、なんのために今まで耐えてきたのかわからなくなってしまう。童貞さえ捨てることが出来たなら、きっと全ては報われるのだ。料理のほうも七割ほどは覚えた。あともう少しの辛抱で、泉との叱責ともおさらばというわけである。バイト二連休の初日、僕は久々に山口と共に近所の居酒屋へと飲みへ出掛けていた。
    「でもすげえじゃん、そんな奴がいるバイトを一ヶ月続けられてるってのは。前のバイトなんて、あっという間に辞めちゃったもんな、お前」
     山口は焼き鳥を頬張りながら言う。
    「彼女とどうにかなったならすぐにでも辞めてやるけどな。それまでは辞められねえよ」
    「壮太郎史上最大の決戦ってわけだな」
    「まあ、そんなところだ」
    「女ってものはほんとに良いもんだぞ。おっぱい揉んでるときなんか、こう、なんていえばいいかわかんないけど、ほんと、生きててよかった、みたいに思えるんだよな」
     その言葉に僕たちは二人して笑う。でも僕は、本当にその通りなのだろうな、と思った。それが男という生き物の真理なのだ。きっと。

     次の飲み会までようやくあと三日というある日のことであった。覚えた料理のなかで最も調理法が複雑である八宝菜を、なんとか作り終え、ホールスタッフの元まで運ぼうとした時である。
    「おい、それ、水菜が入ってねえだろ」
     仕上げに入れるはずの水菜を入れ忘れてしまっていることを泉が指摘する。
    「あ、すみません。作り直します」
    「こんなミス普通しねえぞ」
     その言葉のあと、泉がぼそりと呟いた言葉を僕は聞き逃さなかった。
    「馬鹿だな」
     僕はそれを聞いた瞬間、堪えようのない怒りが全身を支配していくのを感じた。今まで強く当たられても、なんとかその怒りをおさめてきたものの、その人間を単純かつ最も侮蔑する言葉には、生まれつき気の立ちやすい僕の性格もあいまって、最早制御不能な感情へとそれが変容すると、休憩時間まではあと数分残っていたのだけれど、そのまま事務所へと向かい、着替えると店を出た。僕が休憩時間中に外に出ることは初めてなことで、奈央子さんが物珍し気にレジのほうから僕を見ていたのが横目にもわかった。僕の思考は、泉への怒りがその全てを支配し、ただひたすらに僕の足は駅へと向かっていたのだった。  
     気付いた時、僕は最寄り駅の改札口を抜け、人も疎らな駅前の商店街を、自宅に向けて歩いていた。あのような男の下で働くなど、僕には到底出来ない。あのような侮辱的発言を発する男などとは、同じ空気すら吸いたくない。これでもう奴とも会わずに済むと思うと清々する心持であった。
     しかしであった。そう思うことで、ある程度心の落ち着きを取り戻した僕は、自らの行為を顧みた。これでは、前回のバイトのときと、何も変わっていないのではないか。もしこのままあのバイトまでも辞めてしまったとして、僕になにが残るのであろうか。また以前の、何も変わらない、変わりようのない生活が待っているだけではないだろうか。僕には最早、あのバイトしか残されていないのだ。もしかしたら、また違うバイト先では、今よりも優遇された、泉などという人種も居なく、聡美さんよりも顔の良い女が働く職場もあるのかもしれない。しかしそんなことを言っていてはきっとまた、少し気に入らないことがあると辞め、少し嫌なことがあると辞め、の繰り返しになるのではないだろうか。僕はこのバイトに全てを懸ける。そう誓ったはずなのだ。スマートフォンで時計を確認すると、休憩時間が終わるまで、あと十分であった。今から向かったところで到底間に合わない。皆から叱責されることは目に見えているし、特に泉にはきつくどやされることであろう。しかし僕は、自宅へと向かっていたその踵を返すと、駅へ向かって歩き出すのであった。







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