• 電王戦FINAL第5局感想 ~魔法が解ける時~

    2015-04-13 16:38
    開始49分で異例のスピード決着となった電王戦FINAL第5局。色々なメッセージを読み取れる結末でした。



     49分の間に起きたことについて話題は尽きませんが、純粋にこの対局について、棋士の指し手にも開発者の投了にも、何ら問題はなかったと思います。勝利のために最善の手を指すのは当たり前ですし、敗勢を察したら投了するのは将棋ではごく一般的な行為だからです。

     一方でこの対局は、電王戦のルールに関する議論にも一石を投じることとなりました。スポンサーや視聴者への配慮を求める声もありました。しかし、もし指し手の意図や早い終局に不都合があるとするなら、それは対局者の責任ではなくルール自体の問題でしょう。
     今回のルールは棋士が対策を行えるよう、ソフトを貸出した上にバージョンアップを禁止するというものです。勝てる手順を探させること、その穴を塞がせないことがルール自体に盛り込まれているのです。ルールに沿って最良の手を探した結果があの作戦だったのでしょう。
     また、投了の判断については別の対局でも物議を醸しましたが、勝勢で嫌がらせのように投了するならともかく、負けだと判断して速やかに投了するのはむしろ、美しいとされてきたことです。ルール上も開発者には投了の権利があり、そのタイミングについては何も規定されていません。早い投了を避けたいのであれば、評価値の差や経過時間、手数などで投了を制限することもできますし、合法手が無くなるか持将棋が成立するまで指し続けるルールにすることも出来ました。
     更に、AWAKEに弱点が存在したこと自体を問題とする意見もありました。しかしソフトに弱点があるからといって、開発者には何の責任もありません。どんな開発者にも、ソフトの完全性を保証することは出来ません。だから業務であればバグや欠陥を修正するのは契約に含まれるのが普通ですが、今回はそれを禁じたルールに基づいて対局が行われたのです。

     ただし、開発者の発言はとても残念なものでした。ルールに納得して出場した以上、ルール内の手を指したことに対して批判したり、感情的になったりするべきではありませんでした。ルールに同意しないのであれば、そもそも出場するべきではなかったでしょう。
     ただその発言は、今まで人々が連盟にどれほどの幻想を抱いてきたかを、改めて感じさせるものでもありました。連盟の権威の源泉は、所属棋士の棋力にあります。そして強い者たちが美学や伝統を語ることによってファンは心酔し、彼らこそ将棋文化の継承者と認めてきたのです。しかし、コンピュータを前にして強さと美しさが両立しなくなった今、これまでの姿勢が彼らの首を絞めようとしているのかもしれません。この辺りの問題については、つい先日のエントリー(日本将棋連盟批判 ~名人戦のウソ~)でも話題にしたところです。
     
     電王戦FINALの最終局という舞台で開発者が口にした失望の言葉は、プロへの幻想が少しずつ崩れていった電王戦のこれまでを象徴するものでした。棋士たちは勝つことでファンに魔法を掛けてきたのに、勝つために選んだ指し手によって、自らその魔法を解いてしまったのかもしれません。

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  • 日本将棋連盟批判 ~名人戦のウソ~

    2015-04-08 20:24
    ■はじめに
     このブログではこれまで、日本将棋連盟に対して批判的な立場で発言を行ってきました日本将棋連盟批判 ~将棋は誰のものか~ など連盟が将棋を自分たちの占有物のように扱っていることが、将棋文化にマイナスの影響を及ぼすのを懸念しているためです。今回のエントリーは名人戦をテーマにしています。名人戦及びそれに至る順位戦は、日本将棋連盟の棋士制度の根幹を成すものですが、そこには大きな問題があります。
     その問題を明らかにするためにまずは、ここ数年行われている電王戦について考えてみたいと思います。

    ■電王戦と日本将棋連盟
     電王戦は、コンピュータソフトと日本将棋連盟の所属棋士が対局を行う企画で、2012年に始まりました。身内同士の対局を興行の主体としてきた連盟は電王戦で初めて、自分たちを凌駕する可能性のある相手と戦うことになりました。電王戦では勝敗だけでなく、それに関わる棋士たちの言動にも注目が集まりました。これまで表には現れなかった連盟棋士たちの意識が、一般にも知られるところとなったのです。電王戦を通じて、棋士たちが連盟を将棋の中心と考え、他を傍流扱いして軽んじているのではないかと感じ、違和感や不快感、不信感を覚える将棋ファンの声も増えてきました。
     連盟に対する批判の直接的な原因は、彼らが外部に対して「連盟流」を強いていることにあります。電王戦のようないわば他流試合において、連盟だけが将棋の本家であるような態度を取ったり、ルールにないことを要求したり、ソフト開発者を貶めたりするようなことが何度もありました。
     以前行われた電王戦の付随企画では、たまたま居合わせた審判でも立会人でもない連盟棋士が運営に介入し、見当はずれの解説を行った挙句に独断で対局を中止させる事態が起こりました。更にこの棋士はツイッター上でその対局者を激しく非難しますが、自分が批判されると発言を削除して無かったことにしてしまいました。彼は今に至るまで釈明も謝罪も行っていません。
     また、先日の電王戦では解説の連盟棋士がコンピュータソフトの投了タイミングについて、「連盟流」のアンリトゥンルールを主張し、まるでソフト側に問題があるかのような発言を繰り返しました。中立であるはずの解説役が、自分たちの身内にしか通用しないローカルなマナーを他者に強いようとしているのです。
     極めつけは、裁判にまでなった事例です。これは連盟の発行する月刊誌上で、ソフト開発者に対して根拠のない中傷を繰り広げ、係争となったものです。この件について、のちに連盟は記事が事実無根であったことを認めて謝罪すると共に、和解金を支払うこととなりました。
     ここで挙げたのは一例に過ぎません。連盟の外部に対する態度を巡っては、他にも様々なトラブルが生じています。こんなおかしなことを続けていては、せっかく将棋に興味を持った新しいファンは離れていってしまいます。
     その一方で、連盟を是とするファンがいるのもまた、事実です。そしてそういったファンの一部が、「連盟流」を主張してトラブルを生んでいるケースもあります。インターネットの対局場の中には日本将棋連盟と全く関係のない所もありますが、対局者の一方が場のルールにないことを押し通そうとして問題となるのをしばしば目にします。中には、外部公開を想定していないサイトでの対局を一方的にWeb配信した上に、相手の態度や指し手を「連盟流」で断じて非難する者もいます。これは直接的に日本将棋連盟の責任ではありませんが、将棋ファンに連盟が絶対的な存在だと思わせていることによる問題です。

    ■将棋の継承者
     さて、それでは日本将棋連盟を絶対的な存在だと思うファンがいるのは何故でしょうか。
     これには二つの理由が考えられます。一つは、彼らが最も棋理に近い存在であったからです。しかしこれはコンピュータ将棋の台頭によって危ういものとなり、近い将来完全に覆されることとなるでしょう。教えるのがうまい、解説がうまいなど他の理由もあるかとは思いますが、大前提である「棋力」において彼らはもはや、絶対的な存在ではありません。
     今回問題にするのは、もう一つの理由である「将棋文化の継承者」としての日本将棋連盟についてです。連盟のことを将棋の本家や総本山、あるいは統括団体のように考える人はかなりの数で存在します。しかしそうした思いは、彼らの一方的な勘違いではありません。これまで連盟自身が、将棋の代表者であり文化の継承者であることを喧伝して権威付けを図ってきた経緯がありました。連盟の所属棋士たちも自らをそのような存在と考え、それが電王戦で目にしたような連盟と将棋ファンとの間の軋轢を生み始めています。しかしそうした権威付けの中には、事実に基づかず根拠のないものもあります。

    ■名人戦の問題点
     事実に基づかない権威付けの最たるものが、名人戦の制度です。「名人」という言葉自体は一般的なものですから、日本将棋連盟が「名人戦」と銘打った将棋大会を催すのも、優勝者に「名人」の称号を与えるのも自由です。どのような形式で行うのかも、優勝者である名人の地位をどのような扱いにするのかも、彼らの身内の大会なのですから、外部がとやかく言うことではありません。
     名人戦で問題なのは、5回の名人位獲得を条件として与えられる、「○○世名人」という称号です。これによって連盟は、江戸時代の名人位と現在の名人位との連続性を主張していることになります。連盟が一世名人としているのは江戸時代の将棋指しである大橋宗桂で、現在の「○○世名人」はそれに連なるものとされています。しかし、その根拠が本当にあるのでしょうか。
     連盟の主催する名人制度は過去に一度断絶した上に、全く異なる制度に作り変えられたものです。元々の名人位は、江戸時代の家元制に基づくものでしたが、明治に入って断絶し、家元ではない者が名人を名乗るようになりました。更に昭和に入ると、当時名人を名乗っていた者やその周囲の者たちが、身内の将棋大会の優勝者を名人とするよう制度を改変しました。この改変を行った者たちの流れを汲んだのが、現在の日本将棋連盟です。以降彼らは、名人制度を継ぐ者として振る舞い続けることになります。
     問題の本質は、日本の皆のものであるはずの文化・歴史としての名人制度を、その起源から遠く離れた団体が独占的な所有物のように扱っていることにあります。仮に名人戦がオープンな大会であるなら、問題はないでしょう。皆のものなら家元制が崩壊した今、誰でも参加できるのが当然だからです。ところが名人戦は、日本将棋連盟の棋戦の中でも最もクローズドなものとなっており、連盟に所属しない者が名人、ひいては○○世名人の座に就くことは出来ません。このことによって、古くからの将棋文化を継承しているのは唯一、日本将棋連盟である、というメッセージを発しているのです。
     このように現在の名人戦は、制度的にも組織的にも過去とは別物の、連盟の内輪で行われる将棋大会に過ぎません。にも関わらず、○○世名人という僭称で家元制との連続性があるかのように見せかけて、根拠のない権威付けを行っていることになります。そしてそれが、一部の将棋ファンを惑わせたり錯覚させたりしているのです。日本将棋連盟が将棋の絶対者である、という誤った前提が元になって、冒頭で挙げたような様々な問題が生じています。
     外部に対して声高に、「連盟流以外を認めない」などと主張するのは、幻滅や硬直化しか招きません。うんざりしてファンが離れていけば将棋文化は衰退するでしょうし、これまでなかったようなルールや大会のアイデアを考えついた人がいても、文句を言われることを恐れて委縮してしまいます。

    ■未来へ向けて
     それではこれを改善していくには、どうすればよいのでしょうか。おそらくは連盟自身も悪意があってこのような態度を取っているのではないはずです。自分たちが将棋文化の中心だという思い込みが、これまでのような言動を生んでいるのだと思います。名人制度の改変にしても、「自分たちは将棋が強い」というのがイコール「伝統の継承者である」という思いに繋がっていったものだったのでしょう。
     しかし電王戦や外部との交流を通じて、連盟の所属棋士たちも自分たちが当たり前だと思ってきたことが、実はそうではなかったと気づき始めているのではないでしょうか。対局結果もさることながら、外部に対する態度で棋士たちが自失を繰り返したことにより、多くの反発を目の当たりにすることとなりました。
     力でソフトの後塵を拝しつつある今、これまでと同じスタンスで連盟が生き残るのは困難です。「日本将棋連盟は将棋の所有者や監督者ではなく、将棋という既存のルールを利用して活動する団体の一つである」、ということを謙虚に認めてこそ、未来が開けてくるのではないでしょうか。解説や見せ方を含めた将棋興行の巧みさは彼らの財産ですし、将棋の面白さを伝える普及のノウハウも連盟の強みのはずです。
     連盟には未だ大きな力があります。それをマイナスに作用させて将棋文化を道連れに沈んでいくのではなく、将棋文化を担う一員としてその発展に貢献してほしいと願っています。
  • プリパラ考察~レオナちゃんのスカートの中がどうなっているのかについて~

    2014-11-16 20:461
    テレビアニメ、プリパラ18話「レオナ、全力ダッシュなの!」で主要キャラの一人、レオナ・ウェストが男性であることが判明しました。初登場からずっと男性説が囁かれてはいたものの、子供向けアニメの主要キャラとしては珍しいこともあり、公式の回答を待ち望んでいたファンも多かったことと思います。

     今回は、レオナのキャラクター性について色々と考えてみたいと思います。ただしニコニコ動画で視聴しているため、テレビ版で出ているかもしれない新情報には追い付いていない可能性があります。18話までを視聴した時点で書いていますので、ご了承ください。

     さて、レオナがいわゆる男の娘だったことが明らかになったわけですが、一口に男の娘といってもその在りようは色々です。アニメに出てくる同種のキャラとしては昨期の「ひめゴト」に登場した有川ひめが記憶に新しいところですが、比較するとレオナとは大きな違いがあることが分かります。有川ひめは
    ・性自認は男性
    ・意に反して女装させられる
    ・葛藤しつつ、まんざらでもない

    というキャラで、視聴者は「彼が何かに目覚めそう」な様子を楽しむと共に、「自分も何かに目覚めそう」になってドキドキすることになりました。いわばフェティシズムを楽しむための作品で、「男の娘」の描写としては最もポピュラーなもの言えます。

     しかしプリパラは朝アニメで、主な視聴者は子供です。当然セクシャルな面を強調するわけにはいきません。18話を見る限りでは、レオナの性自認は男性のようです。また、女装はするもののフェティシズムは伴わなず、外的要因(姉・ドロシーの影響)でクロスドレッサーになったのが見て取れました。また、レオナ自身は恥ずかしがりの性格であるにも関わらず、女装・男装をすることや男性なのを知られることに対しては、羞恥心を持っていないように見えます。

     なかなか珍しい設定で、朝アニメで男の娘を出すため、色々と気を使って練った結果と言えるでしょう。みれぃそふぃが分かりやすい例ですが、プリパラではキャラクターの二面性や意外性を前面に押し出した作品作りがなされています。その最たるものがレオナの性別で、難しくても何とかバランスを取って表現しよう、ということだったのだと思います。

     しかしレオナは、奇をてらうだけのキャラではないはずです。いくらギャップを楽しむためとはいえ、繊細な扱いが必要な設定ですし、マイナスに捉える視聴者もいるかもしれません。みれぃそふぃの設定には、「プリパラでこんなに変われるんだよ」という視聴者(の女の子)に対するメッセージが込められています。しかしレオナを見た男子小学生が「ぼくもプリパラで女の子になろう!」なんて思って夢中になる、というのは考えにくいでしょう。ですからレオナは、直接男児に向けてのメッセージを背負ったキャラではないのです。

     アニメプリパラの主要な目的は、ゲームのプロモーションです。アニメにも出てきますが、プリパラのゲームには「トモチケ」というシステムがあります。これによって積極的に友達を誘う動機付けがなされており、メーカーにとってはユーザー獲得のための工夫ということになります。レオナの目的は、誘う対象の拡大を視聴者に示唆することにあるのではないでしょうか。つまり「誘うのは別に女の子じゃなくてもいいんだよ」ということです。男の子が自発的にプリパラを始めることは少ないでしょうが、仲のよい女の子に誘われれば、やってみようと思うかもしれません。

     これこそが、レオナちゃんのスカートの中に隠された秘密だったのです!

     と、スカートの中という言葉が象徴的なものだったことにして終わりにしたいところなのですが、せっかくなので直接的な意味でも少し考えてみたいと思います。

     プリパラの世界ではフィジカルな特徴が変化します。ドロシーレオナはそれが殆ど見られませんが、らぁらのように身長が大きく変わるケースもあります。スカートの中のフィジカルな特徴についても、現実世界とは異なるものになっている可能性があるわけです。

     性差による特徴には様々なものがありますが、最もシンボリックなのは胸とスカートの中でしょう。レオナの胸については、女性らしさを意図的に省いていることが以前から指摘されていました。18話においてもラスト付近でドロシーと向き合った際、明らかな違いがありました。すなわち、胸については男性の特徴を有しているように描写されているのです。目に見えるフィジカルな特徴が男性であるということは、スカートの中についても同様である可能性が高いのではないでしょうか。

     何しろ深夜アニメではありませんので、それが明確になる日は決して来ないでしょう。でも今年は、「ありまぁす」という有るのか無いのかよく分からない迷言でお茶を濁せるのがいいですね。しばらくはレオナの一挙手一投足から目が離せません。