ユージン・ウィグナー『自然科学における数学の理不尽なまでの有効性』
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ユージン・ウィグナー『自然科学における数学の理不尽なまでの有効性』

2016-10-23 17:38
    〈数学の理不尽なまでの有効性〉。自然科学と数学の関係を論じるときにしばしば引用されるこのフレーズは、当論文のタイトルからきています。
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    ・原文は こちら です。
    ・〔四角いカッコの中〕は訳者による補足です。
    ・引用文もすべて niconicoffee 訳です。
    ・原文対照訳も ここ に置いておきます。
    ・以前私が訳したジム・シモンズも引用していましたね。
    ・その他の情報は最後に置きました。
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    『自然科学における数学の理不尽なまでの有効性』

    The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences

     ユージン・ウィグナー
      by Eugene Wigner



    1959年5月11日、ニューヨーク大学におけるリチャード・クーラント記念数理科学講演〕

    「自然科学における数学の理不尽なまでの有効性」――『純粋数学および応用数学の交流誌』第13巻第1号(1960年2月)所収。ニューヨーク、ジョン・ワイリー&サンズ社



    「数学とは、これを正しく眺めたならば、真理を有するばかりではなく、至高の美をも兼ね備えているのである。まるで彫像のような、冷たくて禁欲的な美。人間の弱き本性におもねる美ではなく、絵画や音楽のように豪奢に欺く美でもない。そうではなくて、崇高な純粋さであり、もっとも偉大な芸術だけが示しうるような厳格な完璧さの美なのだ。歓喜の、高揚感の、人間以上の何かであるという感覚の、精髄としての美。それはすなわち、最高の卓越性を証明する試金石だ。詩のなかに見いだされるその美が、数学のなかにも確かにある。」
      ――バートランド・ラッセル『数学の研究』 原文
       〔邦訳『バートランド・ラッセル著作集4 神秘主義と論理』江森巳之助訳、みすず書房、p71 〕



    こんな話がある。高校の同級生だった二人が再会して、今どんな仕事をしているかを語り合った。

    一人は統計家 statistician になっていて、人口の推移を研究している。彼は自分の書いた論文を、その同窓の友人に見せる。その論文の冒頭には、よくあることだが、ガウス分布 Gaussian distribution正規分布〕が登場する。統計家はこの古い友人に、この記号は実際の人口を表していて、その記号は平均人口を表しているんだよ、などと説明をする。ところが友人の方は、こいつ俺をからかってるんじゃないだろうな、と半信半疑。「どうしてそんなことがわかるんだ?」とこの友人が尋ねる。「それに、この記号はいったい何だよ?」

    「ああ、これは π (パイ)さ」と統計家。「パイって何だ?」と友人。「π っていうのは、円の周りの長さと、直径の比さ」と統計家。するとこの友人はこう言った――「ははあ、やっぱり俺を担いでやがったな。人の数と、円の周りの長さなんて、関係あるわけないじゃないか」。


    この級友の考え方は、いかにも単純素朴なものであり、私たちは思わず笑いたくなってしまうところだ。

    しかし、それはそうなのだけれども、私は最初にこの話を聞いたとき、不気味な感じ eerie feeling を覚えたことを認めなくてはならない。というのも、この人の反応こそが、素直な常識的感覚 plain common sense の表れにちがいないからだ。

    この話を聞いてから、さほど日の経たないうちに、私がもっと狼狽してしまうことが起きた。

    なにやら悩んでいる様子の学生がやってきて、私にこう打ち明けたのだ(ここに引用するのは、当時プリンストン大学の学生だったF・ワーナー君の言葉である)――「ぼくたちは、自分の作った理論を検証するとき、どんなデータを選んでいるかというと、かなり狭い範囲のデータを使っているわけですが、でもそれって…」と。

    「もし仮にですよ、ぼくたちが無視した現象のほうに注目して、ぼくたちがいま注目している現象のほうは無視して、それで何かの理論を作り上げたとしたら、どうなるんでしょうか? いまの理論とはほとんど共通性がないのに、でもやっぱり、同じくらい多くの現象をちゃんと説明できるような、もう一つ別の理論ができちゃうんでしょうか?」

    私は認めざるを得ない。そういうことはあり得ないと言えるような、ハッキリした証拠はない、と。


    いま記した二つの話は、この論文の主題をなす二つの論点を描き出してくれている。

    第一の点は、〈数学の概念は、まったく予想外のさまざまな文脈のなかに登場してくる〉ということ。しかも、予想もしなかった文脈に、予想もしなかったほどぴったりと当てはまって、正確に現象を記述してくれることが多いのだ。

    第二の点は、予想外の文脈に現れるということと、そしてまた、数学がこれほど役立つ理由を私たちが理解していないことのせいで、〈数学の概念を駆使して、なにか一つの理論が定式化できたとしても、それが唯一の適切な理論なのかどうかがわからない〉ということ。いうなれば、私たちはこんな立場にいる。ある人が、一束の鍵を手渡されて、幾つものドアを次々に開けてゆく。すると、いつも一つ目か二つ目の鍵でドアが開いてしまう。 はたして、鍵とドアの組み合わせは一意的に対応しているのかどうか、疑わしく思うようになってしまうのだ。


    この二つの問題について、いろいろと述べてみるわけだけれども、新しいことはほとんど言えないと思う。たぶん、ほとんどの科学者は、なにかしらの形で、こういうことを考えてみたことがあるはずなのだ。だから私の主な狙いは、いくつかの側面から光を当ててみることにすぎない。

    〔この二つの論点をさらに言い直すと、〕第一の点は、〈数学は自然科学のなかで、ほとんど神秘的 mysterious なまでに、途方もなく役立っているのだが、そのことには何の合理的説明もない〉ということ。第二の点は、〈数学の概念の、まさにこの奇怪な有用性 uncanny useflness のせいで、物理学の理論の一意性 uniqueness が疑わしく思えてしまう〉ということ。

    第一の点、つまり、〈数学は物理学のなかで、理不尽なほど重要な役割を演じている〉ということを立証するために、次のような問いについて二言三言づつ述べておくことが有用だと思うのである。

    その問いとは――「数学とは何か」。そして、「物理学とは何か」。それから、〈数学はどのようにして物理理論の中に入ってくるのか〉。最後に、〈物理学のなかで数学が演じる役割の成功は、なぜこれほど不可解 baffling に感じられるのか〉。

    第二の点、すなわち〈物理理論の一意性〉については、あまり多くを述べずにおこうと思う。というのも、この第二の問いに適切に答えるためには、実験面でも理論面でも、今日に至るまで着手されたことのないような、複雑で精緻な研究が必要であろうからだ。


    数学とは何か?
    WHAT IS MATHEMATICS?


    〈哲学とは、間違った使い方をするために、間違った専門用語を発明するというだけのことである〉と言った人がいる。(この言葉は、ワルター・ドゥビスラフ 〔W. Dubislav 1895-1937 ドイツの論理学者・科学哲学者〕の『現代における数学の哲学』〈ベルリン、Junker and Dunnhaupt Verlag 社〉1頁からの引用である)

    この言い方を真似て、私はこう言わせていただこうと思う――〈数学とは、巧みな操作 skillful operations の科学であり、巧みな操作をするという目的のためだけに概念や規則を発明するのである〉。

    私がいちばん強調したいのは、〈概念を発明する invention of concepts 〉というところだ。もし、なにかの定理を作るときに、公理のなかに始めから登場している概念だけを使って定式化しなくてはいけなかったとしたら、きっと、数学が面白い定理を生み出すなどということは、とっくに絶えて無くなってしまっていたことだろう。

    さらにその上、こういうことがある。初歩的な数学――とりわけ初等幾何学――で使われている概念というのは、現実の世界がじかに提示してくるような存在〔点や線、自然数など〕を記述するために定式化されている、ということは正しい。しかし、もっと高度な概念になってくると――とりわけ、物理学できわめて重要な役割を演じているような概念は――、そうとは言えないように思われるのだ。

    たとえば、〈数の対 pairs of numbers の操作の規則〉は、分数の操作と同じ結果が出るように設計されていることは明らかである。ただし私たちは、分数を初めて学ぶときは、〈数の対〉という概念に触れたりはせずに学ぶのだ。

    〈数列の操作〉――つまり、無理数の操作――についての規則も、私たちが既に知っている様々な〈量 quantity〉の操作の規則とそっくりになるように設定された規則、という範疇にまだ属している。〔数列 sequences ここでは無限小数の意か〕

    〔しかしながら、〕もっと高度な数学的概念になってくると、そのほとんど――複素数、環、線形演算子、ボレル集合などなど、ほぼ無限に列挙できるけれども――は、数学者が、自分の独創性 ingenuity と、形式の美しさへの感性 sense of formal beauty を誇示するため、具合のよい題材となるように考案したものなのである。もっと言えば、そういう高度な概念の定義をするときにこそ、それを考えた数学者の独創性が、まず最初に実演されている。〈こういうふうに定義すると、面白くて独創的な考察をいろいろと適用してゆくことができる〉と理解して定義しているのだから。

    数学的な概念が定式化されるとき、そこにどれだけ深い思想が込められているのかということは、のちにその概念が運用されたとき、どれほどの巧みさ skills を発揮するかということによって認められるようになる。偉大な数学者たちは完璧に、ほとんど容赦なきまでに、論証できる範囲はことごとく成果を上げ尽くし、推論が許されない領域はみごとに回避してしまう。無闇矢鱈と突き進んでゆくのに、矛盾の沼地に嵌ったりはしない。このこと自体も、また奇跡である。ここで確かに言えるのは、私たち人間の推論能力 reasoning power が、ダーウィンが言うところの〈自然選択の過程〉をつうじて形作られたなどとは、とうてい信じがたいということだ。人間の推論能力は、あまりに完成されたものであるように思われるのだから。しかしそれはまあ、本論の主題からは外れてしまう。

    あとでまた取り上げるので、いちばん大事な点を覚えておいてほしい。それは、〈数学者が作り出した興味深い定理のうち、公理のなかに含まれた概念しか使わずにできたものなど、ほんの一握りしかない〉ということ。そして、〈公理の中に含まれていなかった概念というのは、論理の独創的な操作 ingenious logical operations ができるようになるという見通しのもとで定義されたのである〉ということ。ここで〈論理の独創的な操作〉というのは、その操作それ自体や、その結果として得られる大きな普遍性や単純性が、私たちの審美眼に適う appeal to our aesthetic sense ということなのである。(マイケル・ポラニーは『個人的知識』(シカゴ大学出版、1958年、p.188)で、こう述べている。「数学の最も明白な特徴を認めることなしに数学を定義する、などということはできない。それなのに、我々がそこから目を背けているせいで、こうした困難〔「数学とは何か」を定義することの難しさ〕の全てが生じている。数学の最も明白な特徴とは、面白い interesting ということである」)。〔邦訳『個人的知識』長尾史郎訳、ハーベスト社、1985年、175頁〕


    いま言ったことの、とりわけ著しい例がある。〈複素数 the complex numbers 〉だ。

    私たちが〔現実の世界で〕経験することのなかには、複素数などという量を登場させるようなものは全然ないことは間違いない。むしろ、もし数学者の誰かに、「複素数なんて、どこが面白いんですか?」と尋ねたりしたら、その数学者は少々憤慨して、〔現実への適用例ではなく、〕〈方程式論 the theory of equations 〉や〈べき級数 power series 〉、そして〈解析関数 analytic functions の全般〉といった分野における、たくさんの美しい定理を挙げることだろう。それらはみな、複素数の登場によって生まれたのだから。数学の天才たちが成し遂げた、最高に美しい業績の数々。数学者なら、これを面白く思わないはずがないのだ。(この点に関連して、読者の興味をそそるかもしれないのは、直観主義に対するヒルベルトのかなり辛辣な言葉である。彼は、直観主義は「数学を破壊し、醜く disfigure しようとしている」と批判したのだ(ハンブルグ大学数学者ゼミナール紀要157号《1922年、もしくは全集《シュプリンガー社、ベルリン、1935年188頁)。


    物理学とは何か?
    WHAT IS PHYSICS?


    物理学者というのは、生物以外の自然界 inanimate nature について、さまざまな法則を発見することに関心を寄せる者のことである。この言い方を理解するためには、「自然法則 law of nature 」という概念を分析しておく必要がある。


    私たちをとりまく世界というのは、途方に暮れてしまうほど複雑である。そこで最も明らかな事実は、未来を予知することはできない、ということだ。

    「楽観主義者とは、未来のことは分からないと思っている人のことである」というジョーク〔作者不詳だが、物理学者エドワード・テラー、または物理学者レオ・シラードの作とも〕があるけれども、自然界についていうなら、そういう人こそが正しい。未来というのは、予言することが不可能なのだ。シュレディンガーもこう言っている――〈世界の測り知れないほどの複雑性にもかかわらず、出来事のなかに一定の規則性を発見できることがある、ということこそが奇跡である〉。

    そうした規則性の一つを発見したのが、ガリレオだ。すなわち、〈二つの石ころを同じ高さから同時に落とせば、地面に着くのも同時である〉という規則性である。

    〈自然法則〉とは、こういう規則性のことを言うのである。ガリレオの発見は、多くの種類の規則性の原型の一つとなった。これは実に驚くべき規則性であって、それには三つの理由がある。


    これが驚くべきことであるという、第一の理由はこうだ。この規則性は、ピサでだけではなく、またガリレオの時代だけではなく、地球上のどこででも真であり、いつでも真であったし、今後も真であろうということ。

    規則性に備わるこういう性質は、〈不変性 invariance 〉という特性がはっきりと認識されたということなのである。私は以前にも別のところ〔「物理法則における不変性」、岩崎ほか訳『自然法則と不変性』所収〕で指摘したことがあるのだけれども、ガリレオの観察とその普遍化という、この先例のなかに暗黙裡に含まれているのと同様の〈不変性の原理〉なしには、物理学というものはそもそも存在し得なかったのである。

    第二の驚くべき点は、〈いま話題としているこの規則性は、この実験に影響を与えてもよさそうな数多くの条件とは完全に独立している〉ということ。雨が降っていようがいまいが、室内で実験しようがピサの斜塔で実験しようが、石を落とす人物が男であろうが女であろうが、まったく関係なく正しいのである。なんなら、同時に同じ高さからであれば、二つの石を二人の別々の人間によって落としても、この規則性は正しく成立する。言うまでもなく、ガリレオの発見した規則性の真偽という点から見て、まったく何の関係もない条件というのは、このほかにも無数にある。

    観察の対象となっている現象について、何かの役割を演じていてもよさそうな周辺事情はいくらでもあるけれども、それが実は何の役割も演じていない――。このことも「不変性」と呼ばれている。しかしながら、この不変性は、先ほど述べた不変性とは性格が違う。一般的な原理としては定式化できないからだ。

    ある現象に影響している条件と、影響していない条件を、きちんと明らかにしてゆくこと。これは、ある分野を実験によって切り開いてゆくとき、最初の段階の一部となる。〈比較的少数の条件にだけ依拠していて、しかもその条件は、かなり簡単に作り出したり、再現したりできる〉という、そういう現象を見つけることは、実験者に技量と独創性があればこそである。(この点については、マーティン・ドイチュの図解論文を参照のこと『ディーダラス Daedalus 』誌、第87、86号、1958年)〔Martin Deutsch「核物理学研究における証拠と推理」〕。アブナー・シモニー A. Shimony 氏からは、これと同じ趣旨の一節がチャールズ・パース C. S. Peirce の『科学の哲学にかんする試論』(リベラルアーツ出版社、ニューヨーク、1957年)237頁にもあるとのご教示をいただいた。)

    いま話しているガリレオの実験について言えば、観察の対象を比較的重い物体に限定したことが、いちばんの決め手になったのである。こう言ってもよい――〈扱いやすい少数の条件にしか依存していない現象がなければ、物理学というものはあり得なかった〉。


    さて、ここまでに述べた二点は、哲学者の視点からは大いに重要なところだけれども、ガリレオ本人を最も驚かせたのがこの二点だというわけではないし、それ自体としては、なにか特定の自然法則を含んでいるわけでもない。自然法則は、〈重い物体が、ある高さから落下するときに費やす時間の長さは、その物体の大きさ、材質、形状とは無関係である〉という主張のなかに込められている。ニュートンの第二「法則」という枠組のなかでは、この主張は、こう言い換えられる――〈落体には重力という力が働いており、その力は質量に比例するが、大きさ、材質、形状とは無関係である〉。


    以上の議論の意図は、次のような点を思い返すことである。まず一つは、〈「自然法則」が存在するという、そのこと自体は、ちっとも自然ではない〉ということ。そしてもう一つは、〈ましてや、人がそれを発見できるということは、なおさら自然ではない〉ということ。(シュレディンガーは『生命とは何か』(ケンブリッジ大学出版、1945年、p.31)で、この後者の奇跡は人間の理解を遥かに超えているかもしれない、と記している。)〔岩波文庫『生命とは何か』23頁〕

    本論の筆者は、しばらく前に、「自然法則」の〈重層性 succession of layers 〉ということに注目を促す論文を書く機会があった。自然法則は層状に積み重なっていて、ある層はその前の層よとくらべて、より一般性が高く、より包括的な法則が含まれている。新たな層を発見することによって、それ以前の層しか知らなかったときと比べて、宇宙の構造をさらに深いところまで洞察できるようになる――。

    しかしながら、本論の文脈でいちばん大事なことは、そうした自然法則の全ては、その成果をどれほど遠くまで突き詰めてゆけたとしてさえも、非生物の世界についての私たちの知識の、ごく小さな一部分しか含んでいないということだ。

    すべての自然法則は、現在の知識にもとづいて未来のなんらかの出来事を予測させてくれるような〈条件命題 conditional statements 〔もし~ならば~である、という形の言明。条件文〕なのだけれども、世界の現在の状態の幾つかの側面は――というか実際には、世界の現在の状態のなかにある決定因子の圧倒的多数は――、その予測という点についていえば無関係なのである。この〈無関係さ irrelevancy 〉というのは、ガリレオの定理について論じるなかで第二の論点となっていた意味での〈無関係さ〉だ。(言うまでもないことと思うが、本論で触れたような形でのガリレオの定理は、自由落下する物体の法則についてガリレオが観察した内容の全てに触れているわけではない。)


    世界の現在の状態――たとえば、私たちの暮らす地球が存在していることとか、その地球上でガリレオの実験が遂行されたこととか、太陽やその他の環境が存在していること――については、自然法則は完全に沈黙している。

    これは、次のことと合致している。まず一つは、〈自然法則を使って未来の出来事を予測できるのは、世界の現在の状態のなかで、関係のある決定因子がすべて分かっているという、例外的な状況下だけである〉ということ。そしてもう一つは、〈きちんと動作を予見できる機械を構築することが、物理学者にとって、もっとも華々しい成果となる〉ということ。物理学者は機械のなかに、〈関係のある変数はすべて分かっているので、この機械の振る舞いは予測できる〉という状況を創り出すわけである。電波探知器 radar や原子炉 nuclear reactor が、そうした機械の例だ。


    上に論じたことの最大の目的は、〈自然法則はすべて条件命題であり、世界についての私たちの知識の、ごく小さな一部分にしか関係していない〉という指摘をすることだ。

    したがって例えば、古典力学というのは、物理理論というものの最もよく知られた原型であるけれども、それが何を与えるのかといえば、あらゆる物体についての、その位置やその他の知識に基づいた、位置の座標の〈二階微分 second derivatives 〉なのである。それらの物体がそもそも存在しているのかどうかとか、現在の位置とか、速度とかについては、この法則は一切なんの情報も与えてくれはしない。

    正確を期すために触れておくけれども、私たちは約30年前に、〈条件命題さえも、じつは、完全に正確というわけにはいかない〉ということを発見している。〔自然法則という〕〈条件命題〉は、確率的な法則なのだ。現在の状態の知識にもとづいて、非生物の世界の未来がもつ諸特性について、知的な賭けを可能ならしめるにすぎないのである。〈範疇命題 categorical statements 〔全ての~は~である、といった言明。無条件的に適用される命題〕が言えるようになるわけではないし、世界の現在の状態についての条件命題という形でさえも、範疇命題が言えるようになるわけではないのだ。

    〈自然法則というものは本質的に確率論的であること probabilistic nature of the laws of nature 〉 は、さまざまな機械装置にかんしても顕在化してくるし、少なくとも、原子炉をごく低出力で稼働させたときには証明することもできる。ともあれ、自然法則というものの及ぶ射程に、〈その本質は確率論的なものである〉ということに由来する制限を加えたとしても、本論の趣旨は何ら変わらない。



    数学は物理学のなかでどんな役割を演じているのか
    THE ROLE OF MATHEMATICS IN PHYSICAL THEORIES


    数学と物理学の本質について頭を整理したところで、いよいよ、物理学における数学の役割について検討を加える準備ができたと思う。


    私たちは日常的に、当たり前のこととして、物理学のなかで数学を使っている。自然法則の結果を評価するときや、そのときどきに優勢となっている条件、興味をそそられる条件へと、条件命題を適用するときにだ。このことが可能であるためには、自然法則が、もともと数学という言語によって定式化されていなければならない。

    しかしながら、すでに確立された理論の結果を評価するというのは、物理学のなかで数学が演じる役割のうち、いちばん重要なものではない。数学とは――応用数学は、と言った方がよいかもしれないが――、この働きをしているときは、主役を張っているとまでは言えない。道具として役立っているだけだ。


    数学は、道具として以上の、至高の役割をも、物理学のなかで演じている。それは、応用数学の役割について論じるなかで、〈自然法則が、応用数学を適用できる対象であるのは、そもそも数学という言語によって定式化されているからである〉と述べたときに、すでに前提されていたことである。〔すなわち、数学の至高の役割とは、〕〈自然の法則は、数学という言語で書かれている〉という〔ことであり、この〕言明は、300年も前に正当に述べられている(ガリレオの言葉とされている)。この言明は今日、かつてないほど正しさを増しているのである。

    物理学の法則を定式化するとき、数学の概念がどれほどの重要性を持つのかを示すために、思い出していただきたい一例がある。偉大なる物理学者、ディラックによって明確に定式化された量子力学の公理だ。

    量子力学には、二つの基本的な概念がある。〈状態 state 〉と〈観測量 observables 〉だ。〈状態〉というのは、ヒルベルト空間内のベクトルであり、〈観測量〉は、それらのベクトルに作用する〈自己共役作用素 self-adjoint operator 〉である。観測によって得られる可能性がある値は、この作用素の〈固有値 characteristic value 〉である。だが、このへんまでにしておこう。〈線形作用素 linear operators 〉の理論のなかで生み出されてきた数学の諸概念を列挙することになってしまいそうだ。


    物理学は、自然法則を定式化するために、数学の概念のなかから特定のものを選び出している、ということはもちろん正しい。そして、数学のすべての概念のなかで、物理学で使われているのは、ごく一部分にすぎないというのも確かだ。かといって、数学の概念の一覧表から、デタラメに選びだされた概念というわけではない。ほとんどの場合、とは言わないまでも、多くの場合は、まず物理学者が考案するのだけれども、あとになって、じつは数学者によって既に考え出されていた概念であることに気がつくのである、ということもまた正しい。

    しかしながら、よく言われているこれは正しくない――〈数学は、可能なかぎりもっとも単純化された概念を使うから、形式化を行うときは〔物理学に限らず〕これと同様のことが起こるのが当然なのだ〉。なぜかといえば、すでに私たちが見たように、数学の諸概念は、最も単純な概念だからということで選ばれたわけではないからだ。〈数の対からなる列 sequences of pairs of numbers 〉でさえ、最も単純な概念とは、かけ離れている。〔単純だからではなくて、〕巧妙な操作 clever manipulations や、驚くほど鮮やかな論証に使える従順さ amenalibity という理由で選ばれている。

    忘れてはならないのは、量子力学のヒルベルト空間は、〈エルミート内積 Hermitean scalar product を伴った複素ヒルベルト空間 complex Hilbert space 〉だということだ。複素数というのは、自然であるとか、単純であるとかいうこととはかけ離れているし、物理的なものごとを観察していて出てくるものでもない。先入観を持たずに見れば、これは間違いないところだ。そのうえ、複素数を使うことは、この場合、計算を楽にする技として応用数学が使えるということではない。量子力学の法則の定式化にとって、ほとんど必要不可欠だから使われているのだ。

    最後にもう一つ述べておくと、いまや、こう考えられ始めている。量子力学の定式化にあたっては、複素数だけではなくて、いわゆる〈解析関数〉が決定的な役割を演じることが運命づけられている、と。ここで私が言っているのは、〈分散関係 dispersion relations 〉という理論の急速な発展のことである。


    奇跡がここで私たちに突きつけられてる、という印象を抱かずにいることは難しい。〈人間の頭脳が、千もの論証を互いに矛盾に陥らせることなくつなぎ合わせることができるという奇跡〉や、〈自然法則が実際に存在していて、しかも、それを認識する力を人間の頭脳が持っているという二重の奇跡〉にも並ぶ、それほど目覚ましい奇跡である。

    数学の概念が、思わぬ形で物理学のなかに登場してくることへの説明と呼べるものに、私が知るかぎりいちばん近いところまで迫っている所見は、アインシュタインの言葉である――〈我々が受け入れてもいいと思える物理学の理論は、美しい理論だけだ〉。数学の概念が、これほど多くの才気の働きを惹きつけるのは、美という性質を持っているからである、と論じることもできよう。

    とはいえ、アインシュタインの所見は、せいぜい、私たちが信じてもいいと思えるような理論の特徴を説明しているだけであって、理論そのものの正確さについては何も語っていない。

    そこで私たちは、〔数学をもちいた物理理論がなぜこれほど正確なのかという、〕この後者の問いの方にとりかかるとしよう。


    物理学の成功は本当に驚くべきことなのだろうか?
    IS THE SUCCESS O F PHYSICAL THEORIES TRULY SURPRISING?


    物理学者が自然法則を定式化するにあたって数学を使うのはなぜなのかということの説明として一つありうるのは、〈物理学者というのは、いささか無責任な奴らだからだ〉というものだ。

    無責任であるからして、何か二種類の量のあいだに関係を見つけて、それが数学でよく知られている関係に似ていると、〈この関係は、数学で言うところのアレである〉という結論に飛びつく。なぜかと言えば、ただ単純に、他に似たような関係を知らないからというわけだ。

    この話の意図としては、〈物理学者というのは、いささか無責任な奴らである〉という非難を反駁してやろうというわけではない。だって、そうかもしれないのだから。

    しかしながら、大事なことを指摘しておく。物理学者の、往々にして荒くて生のままの経験が、数学的に定式化をすると、薄気味悪いほど多くの場合、広範囲の現象についての素晴らしく正確な記述になってくるのだ。これが示しているのは、〈数学とは、私たちが話せる唯一の言語である〉というだけではなく、それ以上に推奨されるべき理由があるということ。すなわち、まさに本当の意味で〈正しい言語 the correct language 〉であるということだ。いくつかの例をみてみよう。


    まず第一の例は、よく引用される例だけれども、惑星の運動だ。〈落下する物体の法則〉は、おもにイタリアでなされた実験の結果として、かなりうまく確立された。その実験は、〈正確である accurate 〉と言えるものでは――私たちが今日理解しているような意味での〈正確さ〉と比べれば――あり得なかった。空気抵抗のせいもあるし、当時は短い時間間隔を計測できなかったせいもある。それでも、その研究の結果としてイタリアの自然科学者たちが、物体が空気中を移動してゆく仕方について熟知するようになったのは、〔次に述べるニュートンの法則と比べれば〕驚くべきことではない。

    するとそののちに、〈自由落下する物体についての法則〉を、〈月の運動〉と関係づけてみせたのが、ニュートンであった。〈地球上で石ころを放り投げたときの軌跡が描く放物線 parabola 〉と、〈空のうえで月の軌跡が描く円軌道 circle 〉は、〈楕円 ellipse 〉という単一の数学的対象がとる、二つの特殊な場合にすぎないことを指摘したのである。そして、たった一つの数値的な一致――当時としては極めて近似的な――にもとづいて、〈重力〉という普遍的な法則があるとの仮説を唱えたのだ。

    哲学的観点からは、ニュートンによって定式化されたような形での〈重力の法則〉は、彼の時代にとっても、また彼自身にとっても、嫌悪すべきものであった。経験という面でも、ひどく乏しい観察にしか基づいていなかった。この法則を定式化するにあたって用いられた数学的な言語は、〈二階微分〉の概念を含んでおり、〈曲線に接する円 oscillations circle 〉を描こうとしたことのある人なら分かると思うけれども、私たちにとってさえ、直ちに理解できるような概念ではない。

    ニュートンが躊躇いながらも打ち立てた〈重力の法則〉は、ニュートン自身によって約4%の精度で正しさが立証されていたのだが、のちには、1%の1万分の1以下の精度という正確さが証明された。そのあまりの正確さから、〈絶対的正確さ〉という概念にほとんど等しいものと見做されるようにさえなった。物理学者たちが、その正確さの限界を見極めようとするほどの大胆さを取り戻したのは、ようやく最近になってからである。(例えば、R. H. Dicke, Am. Sci., 25 (1959)をみよ。)〔ロバート・H・ディッケ「重力――1つの謎 Gravitation – An Enigma」American Scientist 誌 47, 25(1959)〕

    ニュートンの法則というこの例は、繰り返し引用されているものだし、〈法則〉というものの記念碑的な模範例として真っ先に挙げられるべきものであるのは間違いない。数学者からみて単純な形へと定式化されており、あらゆる合理的な期待を超えるほどの正確さが証明されているのだから、それは確かなことだ。

    ただ、この例を使って、私たちの論点を繰り返させてもらいたいのである。

    一つには、この法則は、――特に、二階微分が登場している点で――数学者にとってしか単純 ではない。常識的な感覚 common sense にとっては単純ではないし、大学1年生にとってさえ――数学の才に恵まれていないかぎり――単純ではない。

    そしてもう一つには、この法則は、条件的な法則であり、射程が非常に限られているのである。この法則は、地球――それがガリレオの石を引きつけているわけだが――については何も説明していない。月の軌跡が描く円い形についても、太陽をまわる惑星たちについても、何も説明してはいないのである。そうした〈初期条件 initial conditions 〉をどう説明するかは、地質学者や天文学者へと丸投げしてしまっているのだ――もちろん彼らにも説明しがたいわけだけれども。


    第二の例は、量子力学――通常の初等的な量子力学――である。その起源は、ハイゼンベルグが考案した計算のルールが、ずっと昔の数学者たちによって確立されていた〈行列 matrices の計算のルール〉と形式的に同一であることに、マックス・ボルン 〔Max Born〕 が気付いたことにある。それに続いて、ボルンとヨルダン 〔Ernst Pascual Jordan とハイゼンベルグが、古典力学の方程式の変数である〈位置 position 〉と〈運動量 momentum 〉を、行列で置き換えることを提案した。彼らが、〈行列力学 matrix mechanics 〉のルールを、少数の高度に理想化された問題に適用してみたところ、非常に満足のいく結果が得られたのである。

    とはいえ当時は、行列力学が、もっと現実に沿った条件下でも正しさを証明できるという、合理的な証拠はなかった。事実、彼らは、「もし、ここに提案した力学が、その本質的な特徴について、すでに正しいのであれば」と述べている。実際には、彼らが提案した力学の、現実の問題への最初の適用――水素原子にかんする実験――は、数ヶ月後にパウリによってなされた。この適用は、経験と一致する結果をもたらした。これは申し分のない成果であったとはいえ、ハイゼンベルグの計算規則は、水素原子についての古い理論を含む問題から引き出されたものだったから、そのことを思えば、納得できないことではなかった。

    奇跡というのはそこではない。〈行列力学〉――というか、数学的にそれと同等なある理論――が、ハイゼンベルグの計算ルールが無意味であるような問題に適用されたときに奇跡が起きたのだ。

    ハイゼンベルグの計算ルールは、〈古典的な運動方程式の解は、なにかしらの周期性という特性をもつ〉ということを前提にしていた。しかし、ヘリウム原子の二つの電子についての運動方程式は――もっと重い原子が持つ、より多くの電子についての運動方程式もそうだけれども――、そもそも周期性という特性を持っていない。だから、ハイゼンベルグの計算規則は、そういう場合には適用できるはずがなかった。にもかかわらず、ヘリウムの基底エネルギー水準の計算――つい数カ月前に、コーネル大学のキノシタ〔木下東一郎〕と米国規格基準局のベイズリー〔Norman W. Bazley〕によって行われたもの――は、観測の精度、すなわち1千万分の1以内で、実験のデータと一致する。この場合はたしかに、もともと入れてもいないものが方程式から出てきてしまったのである。


    これと同じことは、「複素スペクトル complex spectra 」――すなわち、重い原子のスペクトル――の、定性的な特徴についても当てはまる。

    ヨルダンとの会話を思い出してみると、スペクトルについての定性的な特徴が導き出されたとき、彼は私にこう言っていた。〈量子力学の理論から導き出された規則〉と、〈実験的な研究によって確かめられた規則〉のあいだに不一致が生じていたら、そのときが、行列力学の枠組みを変更する最後の機会となっていたはずだ、と。

    言い換えると、ヨルダンはこう感じたのだ。ヘリウム元素の理論に予想外の不一致が起こっていたら、私たちは、少なくとも一時的には、途方に暮れてしまったはずだ、と。これ〔ヘリウム原子の基底エネルギー準位の評価〕は当時、ケルナー〔Georg W. Kellner〕とヒレラース〔Egil A. Hylleraas〕によって進められた研究であった。 数学的な形式はあまりにも明瞭であったから変更し難かった。だから、先ほど述べたヘリウムの奇跡が起きなかったら、本当の危機が訪れていたはずだ。

    もちろん、そういう危機が訪れたとしても、物理学はどうにかしてそれを乗り越えたことだろう。だが、それはそうだとしても、〈ヘリウム原子について起きたのと同様の奇跡が、繰り返し何度も起こらなかったら、私たちがこんにち知るような物理学はありえなかった〉ということも一方の真実なのである。ヘリウム原子の奇跡は、たぶん、初等量子力学の発展のなかで起きたうち、もっとも目覚ましい奇跡ではあったけれども、唯一の奇跡だったわけでは全くないのだから。それどころか、私たちはこう考えてさえいる。こうした奇跡の数が限られているとすれば、それはただ、同じような奇跡を追い求めようという私たちの意思が限られているからにすぎない、と。

    ともあれ、ヘリウムの奇跡にほとんど等しいくらい目覚ましい成功が数多くあり、それによって私たちは、量子力学は〈正しい correct 〉――私たちの言い方での〈正しさ〉だが――という、強い確信を抱くに至ったのである。


    最後の例を挙げよう。それは、〈量子電磁力学 quantum electrodynamics 〉からの一例、〈ラムのシフト Lamb shift の理論〉である。

    ニュートンの重力理論は、〔現実の世界の〕経験との明らかな結びつきをまだ保持していた。ところが、行列力学の公式と経験の関係はというと、ハイゼンベルグの定めた規則という洗練された形で、いわば昇華された形でしか入ってきていない。

    これが〈ラムのシフト〉についての量子理論となると、ベーテ〔Hans Bethe〕によって考え出され、シュウィンガー〔Julian Schwinger〕によって確立されたときには、純粋に数学的な理論だったのである。実験がじかに貢献していた点といえば、測定可能な効果が実在していることの証明だけだった。にもかかわらず、計算との一致は、千分の一よりももっと良好だったのである。


    上に挙げた三つの例――同様の例をほとんど無限に挙げてゆくことができるけれども――は、〈数学をもちいて自然法則を定式化するときには、操作のしやすさ manipulability という理由で選ばれた概念が使われているのだが、それが適切かつ正確なのである〉ということを、うまく描き出せていると思う。そして、ここで言う「自然法則」とは、ほとんど空想的なまでに正確であり、しかしその範囲は厳格に制限されているのである。

    これらの例によって具体化されている所見を、〈認識論の経験則 the empirical law of epistemology 〉と呼ぶことを私は提案する。〈不変性の法則〉と共に、この〈認識論の経験則〉は、物理学の理論にとって、なくてはならない基盤なのである。

    〈不変性の法則〉がなければ、物理学の理論は、事実という土台をまったく持てなかったかもしれない。そして、もし、この〈認識論の経験則〉が正しくなかったら、感情にとって必要不可欠な励ましと安心感が得られず、「自然法則」が成功裏に探求されることはあり得なかったはずだ。

    この〈認識論の経験則〉について、私と議論をしたことのあるR・G・ザック博士〔Robert G. Sachs 物理学者〕はこう言った――〈それは、理論物理学者の信仰箇条 an article of faith でしょう〉と。たしかにその通りである。

    しかしながら、博士はこれを信仰箇条と呼んだとはいえ、実例による十分な裏付けのあることなのだ――ここで述べた三例のほかに、なおも多くの実例によって。


    物理学のさまざまな理論の一意性について
    THE UNIQUENESS OF THE THEORIES OF PHYSICS


    上に述べた所見が根本的に経験的なものであることは、私にとって自明と思われる。これが「思考の必然 necessity of thought 」でないのはもちろんだし、それを証明するために、「これは〈非生物の世界〉についての私たちの知識の、ごく小さな一部分にだけ当てはまるのだ」という事実をわざわざ指摘する必要もないだろう。そもそも、〈位置〉それ自体とか、〈速度〉について、単純な表現がまったく存在していないのだから、〈位置の二階微分について、数学的に単純な表現が存在していることは自明である〉などと信じたりしたら馬鹿げている。

    であればこそ、〈認識論の経験則〉という、この素晴らしい贈り物が、かくも容易く、当然であるかのごとく受け止められているのは、驚くべきことだ。前にも述べたけれども、〈人間の頭脳が、千もの結論を一つなぎにして、なお「正しく right 」あり続ける能力を持っていること〉も、これと同じくらい素晴らしい贈り物である。


    どんな経験則にもつきまとう、不穏な性質がある。〈どこが限界なのかわからない〉という点だ。

    ここまでに見てきたのは、〈私たちをとりまく世界のいろいろな出来事には規則性があり、数学的な概念を用いると、そうした規則性を奇怪なほどの正確さで定式化できる〉ということだ。しかし他方で、世界には、もう一つの側面がある。〈正確な規則性なんてぜんぜん存在していない〉と私たちが信じている側面だ。私たちはそれを、〈初期条件〉と呼んでいる。

    ここで、おのずと湧いてくる問いがある――〈相異なる規則性、すなわち、様々な自然法則が、今後も発見されるであろうけれども、それらは単一の整合的なまとまりへと融合するものなのか。または少なくとも、漸近的にはそうした融合へと向かってゆくのか〉。

    もしそうでないならば、こうなってしまうかもしれない――〈いろいろな自然法則のなかには、たがいに共通するところを全く持たないものが、つねに幾つかは存在している〉。現在のところ、例えば、遺伝の法則や、物理学の法則が、そういう状態なのである。

    または、こういう事態さえあり得る――〈自然法則のうちの幾つかは、そこから得られる結論が矛盾して相容れない。にもかかわらず、それぞれが自分の領域のなかでは十分に信頼できるので、私たちは、どれかを捨てようという気持ちにはなれない〉。

    私たちは、そういう事態に匙を投げるかもしれない。あるいは、様々な理論どうしの矛盾を一掃することへの興味を失うかもしれない。つまり私たちが、「究極の真理」――自然のさまざまな側面を描いた小さな描像の数々が矛盾なく融合してできた単一の全体像――への興味を失うこともあるかもしれないのである。


    こうした、異なるあり方のそれぞれを、一つの具体例でもって描き出しておくと役立つかもしれない。

    いま、物理学のなかには、たいへんに有力で、注目の的となっている理論が二つある。量子現象の理論と、相対性理論だ。この二つの理論が、おのおのの出発点としている現象は、相互に排他的なグループをなしているのである。

    相対性理論は、天体などの巨視的な物体に適用される。〈一致する coincidence 〉という出来事――つまり、衝突 collision の分析を突き詰めたところにあるような〈一致〉――は、相対性理論にとって〈基本となる primitive 〉出来事であり、時空の一点を定義する。または少なくとも、衝突しつつある粒子どうしが無限に小さければ、一点を定義するはずである。

    量子理論は、微視的な世界に根ざしている。そして、その視点からすると、〈一致する〉という出来事――つまり衝突という出来事――は、たとえそれが空間的な広がりを全く持たない粒子どうしのあいだで起きた場合でさえ、〈基本となる〉出来事ではないし、時空間のなかで明瞭に特定 isolate することは全くできない。

    この二つの理論は、異なる数学的概念によって運用されているのである。相対性理論は〈4次元のリーマン空間 the four dimensional Riemann space 〉だし、量子論は〈無限次元のヒルベルト空間 the infinite dimensional Hilbert space 〉だ。 いまのところ、この二つの理論は統一されるべくもない。〈この二つの理論の両方がその近似であるような一つの数学的定式化〉といったものは全く存在しないのだ。

    この二つの理論の統一は本質的には可能なことであり、いずれ私たちはそれを見出すであろうと、すべての物理学者は信じている。だが、そうは言っても、この二つの理論の統一は叶わないであろうと想像することもできる。この例は、どちらも考えうる二つの可能性――さきほど述べた〈統一できる〉ということと〈対立したままである〉ということ――の、両方の具体例なのである。


    究極的には、この二つのどちらを期すべきなのだろうか。その兆候を垣間見るために、私たちは、少しだけ無知である振りをしてみることができる。つまり、私たちが実際に有している知識水準よりも低いところに立って考えてみるのである。

    もし、この低い水準の知性で二つの理論の融合を見出すことができるのならば、現実の知性の水準でも見出せるはずであると、自信をもって予想することができる。しかし逆に、このいくぶん低水準の知識において、互いに矛盾する理論にたどり着いてしまうとすれば、二つの理論が永遠に対立しつづける可能性は、私たちにとっても排除できるものではなくなってしまう。

    知識と発想力の水準は、連続的な変数である。そうであるからには、比較的小さな変更を加えたからといって、そこから得られる世界の描像 picture が、〈整合する consistent 〉から〈整合しない〔矛盾する〕 inconsistent 〉へ変わってしまうことは、ないと考えてよいと思う。
    (このくだりは、大いに躊躇ったのちに記した。筆者は、認識論について論じる際には、〈人間の知的水準は、絶対的な尺度上のただ一点に位置している〉という理想化を捨て去ることが有用だと信じているのである。場合によっては、人間以外の種族がもつ知性の水準では何を獲得できるかを考察することすら有用であろう。とはいえ筆者は、本文で記した考え方は簡潔すぎるものであり、その信頼性について批判的な鑑定へと十分に供し得るものではないことは承知している。)

    この視点から考えてみると、〈私たちが偽であると知っている理論のなかには、驚くほど正確な結果を与えるものもある〉という事実は、都合の悪い要素である。

    私たちが、いくぶん少ない知識しか持っていなかったとしたら、そういう「偽」な理論が説明できる現象の数は、そうした理論を十分に「証明する」に足るほど大きなグループをなすものとして、私たちの目に映っていたはずだ。ところが、そういう理論は、〔現実の〕私たちにとっては、「偽」であると考えられている。その理由は、〈そうした理論は、突き詰まるところまで分析すれば、より包括的な描像とは両立しない〉ということと、〈そうした偽の理論が十分に多数発見されたら、やがては互いに対立しあうものであると証明されることになる〉ということだけなのである。

    それと同様に、こういうことがあり得る――〈十分と思われるほどたくさんの数値の一致によって、私たちが「証明されている」と考えている理論も、じつは、私たちの発見手段の届かないところに、より包括的な理論が存在し得るのであって、それと対立するから「偽」である〉。仮にこの通りだったとすると、私たちが有している理論の数が、ある一定数を越えて、十分に多数の現象のグループをカバーするようになるや否や、理論どうしの対立が始まってしまうと予想しなくてはならないだろう。

    先ほど述べた、理論物理学者の信仰箇条とは対照的に、これは理論家の悪夢だ。


    「偽」であると分かっているのに、恐ろしく正確に一群の現象を記述できてしまう理論の例をいくつか考察してみよう。いくぶんかの善意によって、そうした例が与える証拠のいくつかは却下することができるだろう。

    ボーアが原子構造について抱いたアイデアは、いち早く先駆的ではあったけれども、適用範囲はつねにかなり狭いものであった。それと同じことはプトレマイオスの周天円 Ptolemy's epicycles についても言える。私たちの現在の〈優位な立ち位置 vantage point 〉から見れば、そうした幼稚な理論でも記述できた全ての現象について、正確な記述をすることができる。

    だが、いわゆる〈自由電子の理論 free-electron theory 〉には、上の例と同じことは、もはや当てはまらない。自由電子の理論は、金属、半導体、そして絶縁体の特徴――ほとんどとまでは言わないまでも、多くの特徴――について、見事なまでに正確な描像を与えてくれるのだ。

    具体的に言うと、自由電子の理論は、〈絶縁体が電気に対して示す比抵抗は、金属の1026倍にもなりうる〉という事実を説明してくれる。ところがこの事実は、「本当の理論 real theory 」をもとにした場合は、適切に理解することが決してできないのである。それどころか、自由電子の理論からすれば抵抗が無限大になると予測されるような条件下で、抵抗が無限ではないと示すような、実験による証拠はないのだ。にもかかわらず、私たちは、〈自由電子の理論は、粗い近似にすぎないのであって、固体 solids についての現象の全てを記述するにさいしては、もっと正確な描像によって取って代わられるべきである〉と確信している。

    私たちの実際の〈優位な立ち位置〉から見ると、自由電子の理論が呈しているこの状況は、苛立たしいものではある。だが、乗り越えがたい非整合性の悪しき予兆、というほどのものではなさそうに思われる。とはいえ、理論と実験のあいだの数値の一致は、理論の正しさの証明として、どれだけ信用に値するものなのかという点について、自由電子の理論は疑いを喚起している。つまり、私たち物理学者は、こうした疑いを抱くことには慣れているのである。


    いつの日か、もし私たちが、〈意識〉という現象や、生物学についての理論を確立して、しかもそれが、非生物の世界についての現在の理論と同じくらい一貫性があり説得力があったとしたら、いま述べた例よりも、ずっと難しくてこんがらがった事態に陥るはずだ。

    生物学にかんする限り、〈メンデルの遺伝の法則〉と、それに続く〈遺伝子 genes の研究〉は、そうした理論の始まりを充分に形作っているのかもしれない。さらに言えば、そうした理論と、すでに受け入れられている物理学の原理は対立すると示すような、なんらかの抽象的な議論が見出されることも、かなりあり得ることだ。

    こういう話は、きわめて抽象的な性質の話になりうるから、何らかの実験によって、一方を有利にしたり、他方を有利にしたりする形で、その対立を解消することは不可能かもしれない。もし、そうした対立の続く状況になったら、私たちの信仰――私たちの理論と、私たちが形作る諸概念の現実性 reality への信仰――は、重大な緊張に晒される。「究極の真理」と私が呼んだものを探求する営みに、根深い不満足感がつきまとうことになるであろう。

    そうした事態がありうるのは何故かといえば、その根本は、私たちは、自分の理論がなぜこれほどうまくいくのかを知らないというところにある。してみると、〈正確である accuracy 〉というのは、理論が〈真である truth 〉ことや、〈整合性がある〔矛盾しない〕 consistency 〉ことの証明にはならない。実を言えば、筆者としても、もし、遺伝についての理論と、物理についての理論が、正面から対峙したならば、上に記したような事態にかなり近いことになると考えているのである。


    最後に、もっと明るい調子で話を締めくくることにしよう。

    物理学の法則を定式化するさいに、数学という言語が適切であること。この奇跡は、私たちの理解を超え、私たちには分不相応な、素晴らしい贈り物である。私たちは感謝すべきであり、こう希望する。将来の研究においても、この素晴らしい贈り物がそのままであることを。そして良きにつけ、悪しきにつけ、喜ばされるのであれ、あるいは恐らくは惑わされるのでさえあれ、学問の広く様々な分野へと広がってゆくことを。

    〔おわり〕

    ==================================

    【訳者(niconicoffee)より】


    〈数学の理不尽なまでの有効性〉。「数学とは何か」および「物理学とは何か」を論じるときにしばしば引用されるこのフレーズは、当論文のタイトルから来ています。

    ネタバレになりますが――

    タイトルと問いと結論が一緒です。「物理学の法則を定式化するさいに、数学という言語が適切であること。この奇跡は、私たちの理解を超え、また私たちには分不相応な、素晴らしい贈り物である」。

    ウィグナーは、数学をこう定義します。「数学とは、巧みな操作 skillful operations の科学であり、巧みな操作をするという目的のためだけに概念や規則を発明するのである」。また、ポラニーの言葉を引用します。「数学の最も明白な特徴とは、面白い interesting ということである」。つまり、数学の概念の多くは、自然だから(現実のなかに見て取れる)とか、単純だから(それ以上単純な概念がない)という理由で採用されているのではないのです。そうではなくて、人間にとって「論理の独創的な操作」のために使いやすいとか、「面白い(興味深い) interesting 」とか、「審美眼に適う(美しい) appeal to our aesthetic sense 」いう理由で採用されている。それが一体どうして、物理法則の驚くほど正確な記述に用いることができるのか?

    ウィグナーは、その理由を見つけることができません。奇跡としか考えられないのです。

    したがって、この論文の趣旨は、この奇跡の輪郭をできるだけ具体的になぞってゆくところにあります。数学がなぜこれほど役に立つのかは、最後まで「 unreasonable = un〔否定〕+ reason〔根拠、理性、妥当性〕+ able〔適する〕=理由がない、人間の理解力を超えている、桁外れである」にとどまります。そしてそれゆえに、物理学の一意性への疑いも晴れません。

    ウィグナーはこの奇跡に〈認識論の経験則〉という名前を与えます。数学によって自然法則を定式化すると、なぜかそれが適切であり正確であるという奇跡が繰り返し何度も起きるということ。この経験則への信頼がなければ、今日の物理学はありえなかったし、また今後も前進しえない、と。


    大筋としては、「数学が役に立ちすぎる件」を、〈数学とは何か〉、〈物理学とは何か〉、〈物理学における数学の役割〉、〈数学の成功はなぜ不可解に感じられるのか〉という四点に分けて確認し、そして最後に「数学が役に立ちすぎるせいで物理理論の一意的が疑わしい件」について、やや抽象的な考察を加える、という構成です。私が数学・物理を理解していないせいだとは思うのですが、前半は比較的読みやすいのに、後半はだいぶ難解です…。

    文系の私でもタイトルを知っているくらい有名な論文ですが、ググっても邦訳が見つからない。これはもしや、本邦初訳の栄誉を(勝手に)担う好機! …と喜び勇んで一通り訳したところで、念のためよくよく検索し直したら、既に訳されていることを発見しました。40年以上前に出版された絶版本への収録だったせいで、ウェブ上にほとんど情報がなかったんですね。

    「自然科学において数学がおかしなほど有効であることについて」岩崎洋一・江沢洋訳 、E・P・ウィグナー『自然法則と不変性』岩崎洋一ほか訳、ダイヤモンド社、1974(昭49)年、p324-349所収

    さすが翻訳大国ニッポン。ともあれ、絶版本につき入手困難なので、拙訳をうpしておきます。上記先行訳も大いに参考にさせていただきました。

    Wikipedia の当論文の項 には、関連文献がたくさん紹介されています。


    ●「unreasonable」の訳語について

    unreasonable は、
    ・reason を「理由、根拠」と解するなら、「理由のない、根拠のない」
    ・reason を「理性(人間の理解力)」と解するなら「理由がわからない、人間には理解できない」
    ・reason を「妥当性」と解するなら「異常な、途方もない」
    といったところが基本的な意味でしょうか。
    ウィグナーは、この三つの意味を重ねているように思います。したがってこの論文のタイトルは、「自然科学にとって、数学は途方もなく役立っているのだけれども、その根拠は見つからないし、根拠があったとしても人間の理解力を超えているのかもしれない」と訳す――というわけにもいかないので、この三つのニュアンスを感じさせる訳語として「理不尽」を選びました。

    では、なぜ、理由がわからないことが問題なのか?
    数学が役に立つ理由がわからなくたって、役に立つならそれでいいんじゃないのか?

    それは本文にあるように、数学を使った理論が、「どこまで正しいのかがわからない」ことや「一意的なのかどうか疑わしくなってしまう」こと、ひいては、「複数の理論が対立してしまうかもしれない」ということにつながるからです。

    そして、ウィグナーが気がかりにしているのは、合理と不合理(理性と非理性)の関係をどう捉えたらよいのか、ということだと思います。根拠あるもののみを受け入れ(合理)、理由を知りたいと思う(理性)ことこそが科学の推進力なのに、数学がこれほど役に立っていることは unreasonable である。物理理論がいわば非合理的に合理的であり、科学者がいわば非理性的に理性的であるという、このことは問題ではないのか? いつか、科学の歩みを躓かせる恐れがあるのではないか?

    (ちなみに、日本語の「合理的」と、英語の reasonable にはズレがあるように思います。日本語の「合理的」は、「理由なんかわかんなくたって役に立てばいいんだよ!」というニュアンスがありますが――つまり、目的との一致を「理」と捉えているのだと思いますが――、英語の reasonable は「理由、根拠」との一致です。ですから、文脈にもよるかもしれませんが、「理由がわからなくても役に立てばいい」というのは、reasonable とは呼ばないと思います。)

    ウィグナーは、(やや唐突に)こう結論します。理由はわからないけれども、数学は異様に役に立つ。これは経験則であり、繰り返される奇跡である。この素晴らしい贈り物を今後もますます享受できることを願おう――。

    これは、「私たちはあくまで reason を重んじたい。unreasonable なことはなるべく認めたくない。でも、数学が役に立つという unreasonable な奇跡だけは、しぶしぶ喜ばなくてはならないのかもしれない」という気持ちで言っているのだと考えれば、この論文がよく理解できるような気がします。


    〔おわり〕


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