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【対訳版】ユージン・ウィグナー『自然科学における数学の理不尽なまでの有効性』
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【対訳版】ユージン・ウィグナー『自然科学における数学の理不尽なまでの有効性』

2016-10-23 17:45

    先ほど投稿した この翻訳 の、日英対訳バージョンです。原文を確認しながら読みたい方のために置いておきます。私の作業用ファイルも兼ねているので見苦しい点もあるかと思いますが、ご容赦下さい。改善すべき点がありましたらご教示いたたけますと幸甚に存じます。

    ==========================================
    ・原文は こちら です。
    ・〔四角いカッコの中〕は訳者による補足です。
    ・引用文もすべて niconicoffee 訳です。
    ・先行訳があります。「自然科学において数学がおかしなほど有効であることについて」(岩崎洋一・江沢洋訳 )、E・P・ウィグナー『自然法則と不変性』岩崎洋一ほか訳、ダイヤモンド社、1974(昭49)年、p324-349所収。〔ただし、底本が上記リンクとは異なります〕
    ==========================================

    『自然科学における数学の理不尽なまでの有効性』

    The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences

     ユージン・ウィグナー
      by Eugene Wigner



    1959年5月11日、ニューヨーク大学におけるリチャード・クーラント記念数理科学講演
      Richard courant lecture in mathematical sciences delivered at New York University, May 11, 1959 〕

    「自然科学における数学の理不尽なまでの有効性について」――『純粋数学および応用数学の交流誌』第13巻第1号(1960年2月)所収。ニューヨーク、ジョン・ワイリー&サンズ社
    "The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences," in Communications in Pure and Applied Mathematics, vol. 13, No. I (February 1960). New York: John Wiley & Sons, Inc. Copyright © 1960 by John Wiley & Sons, Inc.



    ――――――――〔段落0〕

    「数学とは、これを正しく眺めたならば、真理を有するばかりではなく、至高の美をも兼ね備えているのである。まるで彫像のような、冷たくて禁欲的な美。人間の弱き本性におもねる美ではなく、絵画や音楽のように豪奢に欺く美でもない。そうではなくて、崇高な純粋さであり、もっとも偉大な芸術だけが示しうるような厳格な完璧さの美なのだ。歓喜の、高揚感の、人間以上の何かであるという感覚の、精髄としての美。それはすなわち、最高の卓越性を証明する試金石だ。詩のなかに見いだされるその美が、数学のなかにも確かにある。」  ――バートランド・ラッセル『数学の研究』 原文
    〔邦訳『バートランド・ラッセル著作集4 神秘主義と論理』p71

    Mathematics, rightly viewed, possesses not only truth, but supreme beauty — a beauty cold and austere, like that of sculpture, without appeal to any part of our weaker nature, without the gorgeous trappings of painting or music, yet sublimely pure, and capable of a stern perfection such as only the greatest art can show. The true spirit of delight, the exaltation, the sense of being more than Man, which is the touchstone of the highest excellence, is to be found in mathematics as surely as in poetry.  -- BERTRAND RUSSELL, Study of Mathematics


    ――――――――〔段落1〕

    こんな話がある。高校の同級生だった二人が再会して、今どんな仕事をしているかを語り合った。 THERE IS A story about two friends, who were classmates in high school, talking about their jobs.


    一人は統計家になっていて、人口の推移を研究している。One of them became a statistician and was working on population trends. 彼は自分の書いた論文を、その同窓の友人に見せる。He showed a reprint to his former classmate. その論文の冒頭には、よくあることだが、ガウス分布〔正規分布〕が登場する。統計家はこの古い友人に、この記号は実際の人口を表していて、その記号は平均人口を表しているんだよ、などと説明をする。The reprint started, as usual, with the Gaussian distribution and the statistician explained to his former classmate the meaning of the symbols for the actual population, for the average population, and so on. ところが友人の方は、こいつ俺をからかってるんじゃないだろうな、と半信半疑。His classmate was a bit incredulous and was not quite sure whether the statistician was pulling his leg. 「どうしてそんなことがわかるんだ?」とこの友人が尋ねる。"How can you know that?" was his query. 「それに、この記号はいったい何だよ?」"And what is this symbol here?"

    「ああ、これは π (パイ)さ」と統計家。"Oh," said the statistician, "this is pi." 「パイって何だ?」と友人。"What is that?" 「π っていうのは、円の周りの長さと、直径の比さ」と統計家。"The ratio of the circumference of the circle to its diameter." するとこの友人はこう言った―――「ははあ、やっぱり俺を担いでやがったな。人の数と、円の周りの長さなんて、関係あるわけないじゃないか」。"Well, now you are pushing your joke too far," said the classmate, "surely the population has nothing to do with the circumference of the circle."


    ――――――――〔段落2〕

    この級友の考え方は、いかにも単純素朴なものであり、私たちは思わず笑いたくなってしまうところだ。Naturally, we are inclined to smile about the simplicity of the classmate's approach. しかし、それはそうなのだけれども、私は最初にこの話を聞いたとき、不気味な感じを覚えたことを認めなくてはならない。というのも、この人の反応こそが、素直な常識的感覚の表れにちがいないからだ。Nevertheless, when I heard this story, I had to admit to an eerie feeling because, surely, the reaction of the classmate betrayed only plain common sense.

    〔日本語の「常識」は「わきまえているべき知識」だが、英語の「常識〔普通の感覚〕 common sense」は、「人間が(半ば生来的に)当然持っているはずの判断力」であり、かなり意味が違う。日本語で「常識がない」は、「無知または無礼」だが、英語で「common sense がない」は、「異常である、健全な判断力を失っている」といった意味になる。従って、ここでウィグナーが述べているのは、「円周率と人口は関係がないという感覚は妥当であり、円周率が円と関係ないところで役立っているという事実は、あらためて考えると非常に異様だ」ということである。〕

    この話を聞いてから、さほど日の経たないうちに、私がもっと狼狽してしまうことが起きた。

    なにやら悩んでいる様子の学生がやってきて、私にこう打ち明けたのだ(ここに引用するのは、当時プリンストン大学の学生だったF・ワーナー君の言葉である)――「ぼくたちは、自分の作った理論を検証するとき、どんなデータを選んでいるかというと、かなり狭い範囲のデータを使っているわけですが、でもそれって…」と。I was even more confused when, not many days later, someone came to me and expressed his bewilderment with the fact that we make a rather narrow selection when choosing the data on which we test our theories. [1 The remark to be quoted was made by F. Werner when he was a student in Princeton.]

    「もし仮にですよ、ぼくたちが無視した現象のほうに注目して、ぼくたちがいま注目している現象のほうは無視して、それでなにかの理論を作り上げたとしたら、どうなるんでしょうか? いまの理論とはほとんど共通性がないのに、でもやっぱり、同じくらい多くの現象をちゃんと説明できるような、もう一つ別の理論ができあがっちゃうんでしょうか?」 "How do we know that, if we made a theory which focuses its attention on phenomena we disregard and disregards some of the phenomena now commanding our attention, that we could not build another theory which has little in common with the present one but which, nevertheless, explains just as many phenomena as the present theory?"
    私は認めざるを得ない。そういうことはあり得ないと言えるような、ハッキリした証拠はない、と。It has to be admitted that we have no definite evidence that there is no such theory.


    ――――――――〔段落3〕

    いま記した二つの話は、この論文の主題をなす二つ論点を描き出してくれている。 The preceding two stories illustrate the two main points which are the subjects of the present discourse.

    第一の点は、〈数学の概念は、まったく予想外のさまざまな文脈のなかに登場してくる〉ということ。The first point is that mathematical concepts turn up in entirely unexpected connections. しかも、予想もしなかった文脈に、予想もしなかったほどぴったりと当てはまって、正確に現象を記述してくれることが多いのだ。Moreover, they often permit an unexpectedly close and accurate description of the phenomena in these connections.

    第二の点は、予想外の文脈に現れるということと、そしてまた、数学がこれほど役立つ理由を私たちが理解していないことのせいで、〈数学の概念を駆使して、なにか一つの理論が定式化できたとしても、それが唯一の適切な理論なのかどうかがわからない〉ということ。 Secondly, just because of this circumstance, and because we do not understand the reasons of their usefulness, we cannot know whether a theory formulated in terms of mathematical concepts is uniquely appropriate. いうなれば、私たちはこんな立場にいる。ある人が、一束の鍵を手渡されて、幾つものドアを次々に開けてゆく。すると、いつも一つ目か二つ目の鍵でドアが開いてしまう。We are in a position similar to that of a man who was provided with a bunch of keys and who, having to open several doors in succession, always hit on the right key on the first or second trial. はたして、鍵とドアの組み合わせは一意的に対応しているのかどうか、疑わしく思うようになってしまうのだ。He became skeptical oncerning the uniqueness of the coordination between keys and doors.


    ――――――――〔段落4

    この二つの問題について、いろいろと述べてみるわけだけれども、新しいことはほとんど言えないと思う。たぶん、ほとんどの科学者は、なにかしらの形で、こういうことを考えてみたことがあるはずなのだ。Most of what will be said on these questions will not be new; it has probably occurred to most scientists in one form or another. だから私の主な狙いは、いくつかの側面から光を当ててみることにすぎない。My principal aim is to illuminate it from several sides.

    〔この二つの論点をさらに言い直すと、〕第一の点は、〈数学は自然科学のなかで、ほとんど神秘的なまでに、途方もなく役立っているのに、そのことには何の合理的説明もない〉ということ。The first point is that the enormous usefulness of mathematics in the natural sciences is something bordering on the mysterious and that there is no rational explanation for it. 第二の点は、〈数学の概念の、まさにこの奇怪な有用性のせいで、物理学の理論の一意性が疑わしく思えてしまう〉ということ。Second, it is just this uncanny usefulness of mathematical concepts that raises the question of the uniqueness of our physical theories.

    第一の点、つまり、〈数学は物理学のなかで、理不尽なほど重要な役割を演じている〉ということを立証するために、次のような問いについて二言三言づつ述べておくことが有用だと思うのである。
    「数学とは何か」。つぎに、「物理学とは何か」。それから、〈数学はどのようにして物理理論の中に入ってくるのか〉。最後に、〈物理学のなかで数学が演じる役割の成功は、なぜこれほど不可解に感じられるのか〉。In order to establish the first point, that mathematics plays an unreasonably important role in physics, it will be useful to say a few words on the question, "What is mathematics?", then, "What is physics?", then, how mathematics enters physical theories, and last, why the success of mathematics in its role in physics appears so baffling.

    第二の点、すなわち〈物理理論の一意性〉については、あまり多くを述べずにおこうと思う。Much less will be said on the second point: the uniqueness of the theories of physics. というのも、この第二の問いに適切に答えるためには、実験面でも理論面でも、今日に至るまで着手されたことのないような、複雑で精緻な研究が必要であろうからだ。A proper answer to this question would require elaborate experimental and theoretical work which has not been undertaken to date.


    ――――――――〔段落5〕

    数学とは何か?

    WHAT IS MATHEMATICS?


    〈哲学とは、間違った使い方をするために、間違った専門用語を発明するというだけのことである〉と言った人がいる。Somebody once said that philosophy is the misuse of a terminology which was invented just for this purpose. (この言葉は、ワルター・ドゥビスラフ 〔W. Dubislav 1895-1937 ドイツの論理学者・科学哲学者〕の『現代における数学の哲学 Die Philosophie der Mathematik in der Gegenwart 』〈ベルリン、Junker and Dunnhaupt Verlag 社〉1頁からの引用である)[2 This statement is quoted here from W. Dubislav's Die Philosophie der Mathematik in der Gegenwart (Berlin: Junker and Dunnhaupt Verlag, 1932), p. 1.]

    この言い方を真似て、私はこう言わせていただこうと思う――〈数学とは、巧みな操作の科学であり、巧みな操作をするという目的のためだけに概念や規則を発明するのである〉。In the same vein, I would say that mathematics is the science of skillful operations with concepts and rules invented just for this purpose.

    私がいちばん強調したいのは、〈概念を発明する〉というところだ。The principal emphasis is on the invention of concepts. もし、なにかの定理を作るときに、公理のなかに始めから登場している概念だけを使って定式化しなくてはいけないのだとしたら、きっと、数学が面白い定理を生み出すなどということは、すぐに絶えて無くなってしまうことだろう。Mathematics would soon run out of interesting theorems if these had to be formulated in terms of the concepts which already appear in the axioms.

    さらにその上、こういうことがある。初歩的な数学――とりわけ初等幾何学――で使われている概念というのは、現実の世界がじかに提示してくるような存在〔点や線、自然数など〕を記述するために定式化されている、ということは正しい。しかし、もっと高度な概念――とりわけ、物理学できわめて重要な役割を演じているような概念――は、そうとは言えないように思われるのだ。Furthermore, whereas it is true that the concepts of elementary mathematics and particularly elementary geometry were formulated to describe entities which are directly suggested by the actual world, the same does not seem to be true of the more advanced concepts, in particular the concepts which play such an important role in physics.

    たとえば、〈数の対(つい)の操作の規則〉は、分数の操作と同じ結果が出るように設計されていることは明らかである。ただし私たちは、分数を初めて学ぶときは、〈数の対〉という概念に触れたりはせずに学ぶのだ。Thus, the rules for operations with pairs of numbers are obviously designed to give the same results as the operations with fractions which we first learned without reference to "pairs of numbers." 〔「数の対」とは、分母・分子の整数の対のことか〕

    〈数列の操作〉――つまり、無理数の操作――についての規則も、私たちが既に知っている様々な〈量〉の操作の規則とそっくりになるように設定された規則、という範疇にまだ属している。The rules for the operations with sequences, that is, with irrational numbers, still belong to the category of rules which were determined so as to reproduce rules for the operations with quantities which were already known to us.〔数列 sequences ここでは無限小数の意か〕

    〔しかしながら、〕もっと高度な数学的概念になってくると、そのほとんど――複素数、環、線形演算子、ボレル集合などなど、ほぼ無限に列挙できるけれども――は、数学者が、自分の独創性と、形式の美しさへの感性を誇示するため、具合のよい題材となるように考案したものなのである。Most more advanced mathematical concepts, such as complex numbers, algebras, linear operators, Borel sets -- and this list could be continued almost indefinitely -- were so devised that they are apt subjects on which the mathematician can demonstrate his ingenuity and sense of formal beauty. もっと言えば、そういう高度な概念の定義をするときにこそ、それを考えた数学者の独創性が、まず最初に実演されている。〈こういうふうに定義すると、面白くて独創的な考察をいろいろと適用してゆくことができる〉と理解して定義しているのだから。In fact, the definition of these concepts, with a realization that interesting and ingenious considerations could be applied to them, is the first demonstration of the ingeniousness of the mathematician who defines them.

    数学的な概念が定式化されるとき、そこにどれほど深い思想が込められているのかということは、のちにその概念が運用されたとき、どれほどの巧みさを発揮するかということによって認められるようになる。The depth of thought which goes into the formulation of the mathematical concepts is later justified by the skill with which these concepts are used. 偉大な数学者たちは完璧に、ほとんど容赦なきまでに、論証できる範囲はことごとく成果を上げ尽くし、推論が許されない領域はみごとに回避してしまう。The great mathematician fully, almost ruthlessly, exploits the domain of permissible reasoning and skirts the impermissible. 無闇矢鱈と突き進んでゆくのに、矛盾の沼地に嵌ったりはしない。このこと自体も、また奇跡である。That his recklessness does not lead him into a morass of contradictions is a miracle in itself: ここで確かに言えるのは、私たち人間の推論能力が、ダーウィンが言うところの〈自然選択の過程〉をつうじて形作られたなどとは、とうてい信じがたいということだ。人間の推論能力は、あまりに完成されたものであるように思われるのだから。certainly it is hard to believe that our reasoning power was brought, by Darwin's process of natural selection, to the perfection which it seems to possess. しかしそれはまあ、本論の主題からは外れてしまう。However, this is not our present subject.

    あとでまた取り上げるので、いちばん大事な点を覚えておいてほしい。それは、〈数学者が作り出した興味深い定理のうち、公理のなかに含まれた概念しか使わずにできたものなど、ほんの一握りしかない〉ということ。そして、〈公理のなかに含まれていなかった概念というのは、論理の独創的な操作ができるようになるという見通しのもとで定義されたのである〉ということ。ここで〈論理の独創的な操作〉というのは、その操作それ自体や、その結果として得られる大きな普遍性や単純性が、私たちの審美眼に適うということなのである。 The principal point which will have to be recalled later is that the mathematician could formulate only a handful of interesting theorems without defining concepts beyond those contained in the axioms and that the concepts outside those contained in the axioms are defined with a view of permitting ingenious logical operations which appeal to our aesthetic sense both as operations and also in their results of great generality and simplicity. (マイケル・ポラニーは『個人的知識』(シカゴ大学出版、1958年、p.188)で、こう述べている。「数学の最も明白な特徴を認めることなしに数学を定義する、などということはできない。それなのに、我々がそこから目を背けているせいで、こうした困難〔「数学とは何か」を定義することの難しさ〕の全てが生じている。数学の最も明白な特徴とは、面白いということである」188頁)。〔邦訳『個人的知識』長尾史郎訳、ハーベスト社、1985年、175頁〕 [3 M. Polanyi, in his Personal Knowledge (Chicago: University of Chicago Press, 1958), says: "All these difficulties are but consequences of our refusal to see that mathematics cannot be defined without acknowledging its most obvious feature: namely, that it is interesting" (p 188).]


    ――――――――〔段落6〕

    いま言ったことの、とりわけ著しい例がある。〈複素数〉だ。The complex numbers provide a particularly striking example for the foregoing.

    私たちが〔現実の世界で〕経験することのなかには、複素数などという量を登場させるようなものは全然ないことは間違いない。Certainly, nothing in our experience suggests the introduction of these quantities.

    むしろ、もし数学者の誰かに、「複素数なんて、どこが面白いんですか?」と尋ねたりしたら、その数学者は少々憤慨して、〔現実世界への適用例ではなく、〕〈方程式論〉や〈べき級数〉、そして〈解析関数の全般〉といった分野における、たくさんの美しい定理を挙げることだろう。それらはみな、複素数の登場によって生まれたのだから。Indeed, if a mathematician is asked to justify his interest in complex numbers, he will point, with some indignation, to the many beautiful theorems in the theory of equations, of power series, and of analytic functions in general, which owe their origin to the introduction of complex numbers. 数学の天才たちが成し遂げた、最高に美しい業績の数々。数学者なら、これを面白く思わないはずがないのだ。 The mathematician is not willing to give up his interest in these most beautiful accomplishments of his genius.〔この一文の the mathematician は「数学者一般」と解した〕

    (この点に関連して、読者の興味をそそるかもしれないのは、直観主義に対するヒルベルトのかなり辛辣な言葉である。彼は、直観主義は「数学を破壊し、醜くしようとしている」と批判したのだ(ハンブルグ大学数学者ゼミナール紀要157号《1922年、もしくは全集《ベルリン、シュプリンガー社、1935年188頁)。) [4 The reader may be interested, in this connection, in Hilbert's rather testy remarks about intuitionism which "seeks to break up and to disfigure mathematics," Abh. Math. Sem., Univ. Hamburg, 157 (1922), or Gesammelte Werke (Berlin: Springer, 1935), p. 188.]


    ――――――――〔段落7〕

    物理学とは何か?

    WHAT IS PHYSICS?


    物理学者というのは、生物以外の自然界について、さまざまな法則を発見することに関心を寄せる者のことである。The physicist is interested in discovering the laws of inanimate nature. この言い方を理解するためには、「自然法則」という概念を分析しておく必要がある。In order to understand this statement, it is necessary to analyze the concept, "law of nature."


    ――――――――〔段落8〕

    私たちをとりまく世界というのは、途方に暮れてしまうほど複雑である。そこで最も明らかな事実は、未来を予知することはできない、ということだ。The world around us is of baffling complexity and the most obvious fact about it is that we cannot predict the future.

    「楽観主義者とは、未来のことは分からないと思っている人のことである〔An optimist is someone who believes the future is uncertain〕」というジョーク〔作者不詳だが、物理学者エドワード・テラー、または物理学者レオ・シラードの作とも〕があるけれども、自然界について言うなら、そういう人こそが正しい。未来というのは、予言することが不可能なのだ。 Although the joke attributes only to the optimist the view that the future is uncertain, the optimist is right in this case: the future is unpredictable. シュレディンガーもこう言っている――〈世界の測り知れないほどの複雑性にもかかわらず、出来事のなかに一定の規則性を発見できることがある、ということこそが奇跡である〉。It is, as Schrodinger has remarked, a miracle that in spite of the baffling complexity of the world, certain regularities in the events could be discovered. 〔本文には the joke としかないけれども、その内容を調べて本文に繰り入れて訳してみた〕

    そうした規則性の一つを発見したのが、ガリレオだ。すなわち、〈二つの石ころを同じ高さから同時に落とせば、地面に着くのも同時である〉という規則性である。One such regularity, discovered by Galileo, is that two rocks, dropped at the same time from the same height, reach the ground at the same time.

    〈自然法則〉とは、こういう規則性のことを言うのである。The laws of nature are concerned with such regularities. ガリレオの発見は、多くの種類の規則性の原型の一つとなった。Galileo's regularity is a prototype of a large class of regularities. これは実に驚くべき規則性であって、それには三つの理由がある。It is a surprising regularity for three reasons.〔三つの理由とあるが、一つ目は「不変性」、二つ目は「他の因子との独立性」、三つ目は…「条件命題であり、世界のごく一部について教えてくれるのみであるということ」?〕


    ――――――――〔段落9〕

    これが驚くべきことであるという、第一の理由はこうだ。この規則性は、ピサでだけではなく、またガリレオの時代だけではなく、地球上のどこででも真であり、いつでも真であったし、今後も真であろうということ。The first reason that it is surprising is that it is true not only in Pisa, and in Galileo's time, it is true everywhere on the Earth, was always true, and will always be true.

    規則性に備わるこういう性質は、〈不変性〉という特性がはっきりと認識されたということなのである。私は以前にも別のところで指摘したことがあるのだけれども、ガリレオの観察とその普遍化という、この先例のなかに暗黙裡に含まれているのと同様の〈不変性の原理〉なしには、物理学というものはそもそも存在し得なかったのである。This property of the regularity is a recognized invariance property and, as I had occasion to point out some time ago, without invariance principles similar to those implied in the preceding generalization of Galileo's observation, physics would not be possible. 〔「物理法則における不変性」“Invariance in Physical Theory”、岩崎ほか訳『自然法則と不変性』所収〕


    第二の驚くべき点は、〈いま話題としているこの規則性は、この実験に影響を与えてもよさそうな数多くの条件とは完全に独立している〉ということ。The second surprising feature is that the regularity which we are discussing is independent of so many conditions which could have an effect on it. 雨が降っていようがいまいが、室内で実験しようがピサの斜塔で実験しようが、石を落とす人物が男であろうが女であろうが、まったく関係なく正しいのである。It is valid no matter whether it rains or not, whether the experiment is carried out in a room or from the Leaning Tower, no matter whether the person who drops the rocks is a man or a woman. なんなら、同時に同じ高さからであれば、二つの石を二人の別々の人間によって落としても、この規則性は正しく成立する。It is valid even if the two rocks are dropped, simultaneously and from the same height, by two different people. 言うまでもなく、ガリレオの発見した規則性の真偽という点から見て、まったく何の関係もない条件というのは、このほかにも無数にある。There are, obviously, innumerable other conditions which are all immaterial from the point of view of the validity of Galileo's regularity.


    観察の対象となっている現象について、何かの役割を演じていてもよさそうな周辺事情は、いくらでもあるけれども、それが実は何の役割も演じていない――。このことも「不変性」と呼ばれている。The irrelevancy of so many circumstances which could play a role in the phenomenon observed has also been called an invariance. しかしながら、この不変性は、先ほど述べた不変性とは性格が違う。一般的な原理としては定式化できないからだ。However, this invariance is of different character from the preceding one since it cannot be formulated as a general principle.

    ある現象に影響している条件と、影響していない条件を、きちんと明らかにしてゆくこと。これは、ある分野を実験によって切り開いてゆくとき、最初の段階の一部となる。The exploration of the conditions which do, and which do not, influence a phenomenon is part of the early experimental exploration of a field. 〈比較的少数の条件にだけ依拠していて、しかもその条件は、かなり簡単に作り出したり、再現したりできる〉という、そういう現象を見つけることは、実験者に技量と独創性があればこそである。It is the skill and ingenuity of the experimenter which show him phenomena which depend on a relatively narrow set of relatively easily realizable and reproducible conditions. (この点については、マーティン・ドイチュの図解論文を参照のこと(『ディーダラス』誌、第87、86号、1958年)〔Martin Deutsch ”Evidence and Inference in Nuclear Research.” Daedalus Vol.87(1958) pp.88-98 のことか。この論文は、D.Lerner編”Evidence and Inference,” The Free Press, Glencoe, Ili,. 1959, pp.96-106にも収録されているもよう〕アブナー・シモニー氏からは、これと同じ趣旨の一節がチャールズ・パースの『科学の哲学にかんする試論』(ニューヨーク、リベラルアーツ出版社、1957年)237頁にもあるとのご教示をいただいた。) [5 See, in this connection, the graphic essay of M. Deutsch, Daedalus 87, 86 (1958). A. Shimony has called my attention to a similar passage in C. S. Peirce's Essays in the Philosophy of Science (New York: The Liberal Arts Press, 1957), p. 237.] 〔graphic essay 図解論文? 生き生きとした試論?

    いま話しているガリレオの実験について言えば、観察の対象を比較的重い物体に限定したことが、いちばんの決め手になったのである。In the present case, Galileo's restriction of his observations to relatively heavy bodies was the most important step in this regard. こう言ってもよい――〈扱いやすい少数の条件にしか依存していない現象がなければ、物理学というものはあり得なかった〉。 Again, it is true that if there were no phenomena which are independent of all but a manageably small set of conditions, physics would be impossible.


    ――――――――〔段落10〕

    さて、ここまでに述べた二点は、哲学者の視点からは大いに重要なところだけれども、ガリレオ本人を最も驚かせたのがこの二点だというわけではないし、それ自体としては、なにか特定の自然法則を含んでいるわけでもない。The preceding two points, though highly significant from the point of view of the philosopher, are not the ones which surprised Galileo most, nor do they contain a specific law of nature. 自然法則は、〈重い物体が、ある高さから落下するときに費やす時間の長さは、その物体の大きさ、材質、形状とは無関係である〉という主張のなかに込められている。The law of nature is contained in the statement that the length of time which it takes for a heavy object to fall from a given height is independent of the size, material, and shape of the body which drops. ニュートンの第二「法則」という枠組のなかでは、この主張は、こう言い換えられる――〈落体には重力という力が働いており、その力は質量に比例するが、大きさ、材質、形状とは無関係である〉。 In the framework of Newton's second "law," this amounts to the statement that the gravitational force which acts on the falling body is proportional to its mass but independent of the size, material, and shape of the body which falls.


    ――――――――〔段落11〕

    以上の議論の意図は、次のような点を思い返すことである。まず一つは、〈「自然法則」が存在するという、そのこと自体は、ちっとも自然ではない〉ということ。そしてもう一つは、〈ましてや、人がそれを発見できるということは、なおさら自然ではない〉ということ。The preceding discussion is intended to remind us, first, that it is not at all natural that "laws of nature" exist, much less that man is able to discover them. (シュレディンガーは『生命とは何か』(ケンブリッジ大学出版、1945年、p.31) で、この後者の奇跡は人間の理解を遥かに超えているかもしれない、と記している。) [6 E. Schrodinger, in his What Is Life? (Cambridge: Cambridge University Press, 1945), p. 31, says that this second miracle may well be beyond human understanding.]〔岩波文庫『生命とは何か』23頁〕

    本論の筆者は、しばらく前に、「自然法則」の〈重層性〉ということに注目を促す論文を書く機会があった。自然法則は層状に積み重なっていて、ある層はその前の層とくらべて、より一般性が高く、より包括的な法則が含まれている。新たな層を発見することによって、それ以前の層しか知らなかったときと比べて、宇宙の構造をさらに深いところまで洞察できるようになる――。The present writer had occasion, some time ago, to call attention to the succession of layers of "laws of nature," each layer containing more general and more encompassing laws than the previous one and its discovery constituting a deeper penetration into the structure of the universe than the layers recognized before.

    しかしながら、本論の文脈でいちばん大事なことは、そうした自然法則の全ては、その成果をどれほど遠くまで突き詰めてゆけたとしてさえも、非生物の世界についての私たち知識の、ごく小さな一部分しか含んでいないということだ。However, the point which is most significant in the present context is that all these laws of nature contain, in even their remotest consequences, only a small part of our knowledge of the inanimate world.

    すべての自然法則は、現在の知識にもとづいて未来のなんらかの出来事を予測させてくれるような〈条件命題〉〔もし~ならば~である、という形の言明。条件文〕なのだけれども、世界の現在の状態の幾つかの側面は――というよりも実際には、世界の現在の状態のなかにある決定因子の圧倒的多数は――、その予測という点についていえば無関係なのである。All the laws of nature are conditional statements which permit a prediction of some future events on the basis of the knowledge of the present, except that some aspects of the present state of the world, in practice the overwhelming majority of the determinants of the present state of the world, are irrelevant from the point of view of the prediction. この〈無関係さ〉というのは、ガリレオの定理について論じるなかで第二の論点となっていた意味での〈無関係さ〉だ。The irrelevancy is meant in the sense of the second point in the discussion of Galileo's theorem. (言うまでもないことと思うが、本論で触れたような形でのガリレオの定理は、自由落下する物体の法則についてガリレオが観察した内容の全てに触れているわけではない。) [7 The writer feels sure that it is unnecessary to mention that Galileo's theorem, as given in the text, does not exhaust the content of Galileo's observations in connection with the laws of freely falling bodies.]


    ――――――――〔段落12〕

    世界の現在の状態――たとえば、私たちの暮らす地球が存在していることとか、その地球上でガリレオの実験が遂行されたこととか、太陽やその他の環境が存在していること――については、自然法則は完全に沈黙している。As regards the present state of the world, such as the existence of the earth on which we live and on which Galileo's experiments were performed, the existence of the sun and of all our surroundings, the laws of nature are entirely silent.

    これは、次のことと合致している。まず一つは、〈自然法則を使って未来の出来事を予測できるのは、世界の現在の状態のなかで、関係のある決定因子がすべて分かっているという、例外的な状況下だけである〉ということ。It is in consonance with this, first, that the laws of nature can be used to predict future events only under exceptional circumstances, when all the relevant determinants of the present state of the world are known. そしてもう一つは、〈きちんと動作を予見できる機械を構築することが、物理学者にとって、もっとも華々しい成果となる〉ということ。It is also in consonance with this that the construction of machines, the functioning of which he can foresee, constitutes the most spectacular accomplishment of the physicist. 物理学者は機械のなかに、〈関係のある変数はすべて分かっているので、この機械の振る舞いは予測できる〉という状況を創り出すわけである。 In these machines, the physicist creates a situation in which all the relevant coordinates are known so that the behavior of the machine can be predicted. 電波探知器や原子炉が、そうした機械の例だ。Radars and nuclear reactors are examples of such machines. 〔 coordinates 変数?座標?


    ――――――――〔段落13〕

    上に論じたことの最大の目的は、〈自然法則はすべて条件命題であり、世界についての私たちの知識の、ごく小さな一部分にしか関係していない〉ということの指摘だ。The principal purpose of the preceding discussion is to point out that the laws of nature are all conditional statements and they relate only to a very small part of our knowledge of the world.

    したがって例えば、古典力学というのは、物理理論というものの最もよく知られた原型であるけれども、それが何を与えるのかといえば、あらゆる物体についての、その位置やその他の知識に基づいた、位置の座標の〈二階微分〉なのである。Thus, classical mechanics, which is the best known prototype of a physical theory, gives the second derivatives of the positional coordinates of all bodies, on the basis of the knowledge of the positions, etc., of these bodies. それらの物体がそもそも存在しているのかどうかとか、現在の位置とか、速度とかについては、この法則は一切なんの情報も与えてくれはしない。It gives no information on the existence, the present positions, or velocities of these bodies.

    正確を期すために触れておくけれども、私たちは約30年前に、〈条件命題さえも、じつは、完全に精確というわけにはいかない〉ということを発見している。 It should be mentioned, for the sake of accuracy, that we discovered about thirty years ago that even the conditional statements cannot be entirely precise: 〔自然法則という〕〈条件命題〉は、確率的な法則なのだ。現在の状態の知識にもとづいて、非生物の世界の未来がもつ諸特性について、知的な賭けを可能ならしめるにすぎないのである。that the conditional statements are probability laws which enable us only to place intelligent bets on future properties of the inanimate world, based on the knowledge of the present state. 〈範疇命題〉〔全ての~は~である、といった言明。無条件的に適用される言明〕が言えるようになるわけではないし、世界の現在の状態についての条件命題という形でさえも、範疇命題が言えるようになるわけではないのだ。They do not allow us to make categorical statements, not even categorical statements conditional on the present state of the world.〔「世界の現在の状態についての条件命題」というのがよくわからない…

    〈自然法則というものは本質的に確率論的であること〉 は、さまざまな機械装置にかんしても顕在化してくるし、少なくとも、原子炉をごく低出力で稼働させたときには証明することもできる。The probabilistic nature of the "laws of nature" manifests itself in the case of machines also, and can be verified, at least in the case of nuclear reactors, if one runs them at very low power. ともあれ、自然法則というものの及ぶ射程に、〈その本質は確率論的なものである〉ということに由来する制限を加えたとしても、本論の趣旨は何ら変わらない。However, the additional limitation of the scope of the laws of nature which follows from their probabilistic nature will play no role in the rest of the discussion.


    ――――――――〔段落14〕

    数学は物理学のなかでどんな役割を演じているのか

    THE ROLE OF MATHEMATICS IN PHYSICAL THEORIES


    数学と物理学の本質について頭を整理したところで、いよいよ、物理学における数学の役割について検討を加える準備ができたと思う。Having refreshed our minds as to the essence of mathematics and physics, we should be in a better position to review the role of mathematics in physical theories.


    ――――――――〔段落15〕

    私たちは日常的に、当たり前のこととして、物理学のなかで数学を使っている。自然法則の結果を評価するときや、そのときどきに優勢となっている条件、興味をそそられる条件へと、条件命題を適用するときにだ。 Naturally, we do use mathematics in everyday physics to evaluate the results of the laws of nature, to apply the conditional statements to the particular conditions which happen to prevail or happen to interest us. このことが可能であるためには、自然法則が、もともと数学という言語によって定式化されていなければならない。 In order that this be possible, the laws of nature must already be formulated in mathematical language.

    しかしながら、すでに確立された理論の結果を評価するというのは、物理学のなかで数学が演じる役割のうち、いちばん重要なものではない。 However, the role of evaluating the consequences of already established theories is not the most important role of mathematics in physics. 数学とは――応用数学は、と言った方がよいかもしれないが――、この働きをしているときは、主役を張っているとまでは言えない。道具として役立っているだけだ。 Mathematics, or, rather, applied mathematics, is not so much the master of the situation in this function: it is merely serving as a tool.


    ――――――――〔段落16〕

    数学は、道具として以上の、至高の役割をも、物理学のなかで演じている。Mathematics does play, however, also a more sovereign role in physics. それは、応用数学の役割について論じるなかで、〈自然法則が、応用数学を適用できる対象であるのは、そもそも数学という言語によって定式化されているからである〉と述べたときに、すでに前提されていたことである。This was already implied in the statement, made when discussing the role of applied mathematics, that the laws of nature must have been formulated in the language of mathematics to be an object for the use of applied mathematics.〔すなわち、数学の至高の役割とは、〕 〈自然の法則は、数学という言語で書かれている〉という〔ことであり、この〕言明は、300年も前に正当に述べられている(ガリレオの言葉とされている)。 The statement that the laws of nature are written in the language of mathematics was properly made three hundred years ago;[8 It is attributed to Galileo]

    この言明は今日、かつてないほど正しさを増しているのである。it is now more true than ever before.

    物理学の法則を定式化するとき、数学の概念がどれほどの重要性を持つのを示すために、思い出していただきたい一例がある。偉大なる物理学者、ディラックによって明確に定式化された量子力学の公理だ。 In order to show the importance which mathematical concepts possess in the formulation of the laws of physics, let us recall, as an example, the axioms of quantum mechanics as formulated, explicitly, by the great physicist, Dirac.

    量子力学には、二つの基本的な概念がある。〈状態〉と〈観測量〉だ。There are two basic concepts in quantum mechanics: states and observables. 〈状態〉というのは、ヒルベルト空間内のベクトルであり、〈観測量〉は、それらのベクトルに作用する〈自己共役作用素〉である。 The states are vectors in Hilbert space, the observables self-adjoint operators on these vectors. 観測によって得られる可能性がある〈値〉は、この作用素の〈固有値〉である。だが、このへんまでにしておこう。〈線形作用素〉の理論のなかで生み出されてきた数学の諸概念を列挙することになってしまいそうだ。 The possible values of the observations are the characteristic values of the operators ---- but we had better stop here lest we engage in a listing of the mathematical concepts developed in the theory of linear operators.


    ――――――――〔段落17〕

    物理学は、自然法則を定式化するために、数学の概念のなかから特定のものを選び出している、ということはもちろん正しい。そして、数学のすべての概念のなかで、物理学で使われているのは、ごく一部分にすぎないというのも確かだ。 It is true, of course, that physics chooses certain mathematical concepts for the formulation of the laws of nature, and surely only a fraction of all mathematical concepts is used in physics. かといって、数学の概念の一覧表から、デタラメに選びだされた概念というわけではない。ほとんどの場合、とは言わないまでも、多くの場合は、まず物理学者が考案するのだが、あとになって、じつは数学者によって既に考え出されていた概念であることに気がつくのである、ということもまた正しい。 It is true also that the concepts which were chosen were not selected arbitrarily from a listing of mathematical terms but were developed, in many if not most cases, independently by the physicist and recognized then as having been conceived before by the mathematician.

    しかしながら、よく言われているこれは正しくない――〈数学は、可能なかぎりもっとも単純化された概念を使うから、形式化を行うなら〔物理学に限らず〕これと同様のことが起こるのが当然なのだ〉。It is not true, however, as is so often stated, that this had to happen because mathematics uses the simplest possible concepts and these were bound to occur in any formalism. なぜかといえば、すでに私たちが見たように、数学の諸概念は、最も単純な概念だからということで選ばれたわけではないからだ。〈数の対からなる列〉〔座標の連なりの意? 複素数の列?岩崎訳では「無限小数ですら」となっている〕でさえ、〈最も単純な概念〉とは、かけ離れている。〔単純だからではなくて、〕巧妙な操作や、驚くほど鮮やかな論証に使える従順さという理由で選ばれているのだ。 As we saw before, the concepts of mathematics are not chosen for their conceptual simplicity ---- even sequences of pairs of numbers are far from being the simplest concepts but for their amenability to clever manipulations and to striking, brilliant arguments.

    忘れてはならないのは、量子力学のヒルベルト空間は、〈エルミート内積を伴った複素ヒルベルト空間〉だということだ。Let us not forget that the Hilbert space of quantum mechanics is the complex Hilbert space, with a Hermitean scalar product. 複素数というのは、自然であるとか、単純であるとかいうこととはかけ離れているし、物理的なものごとを観察していて出てくるものでもない。これは先入観を持たずに見れば間違いないところだ。 Surely to the unpreoccupied mind, complex numbers are far from natural or simple and they cannot be suggested by physical observations. そのうえ、複素数を使うことは、この場合、計算を楽にする技として応用数学が使えるということではない。量子力学の法則の定式化にとって、ほとんど必要不可欠だから使われているのだ。 Furthermore, the use of complex numbers is in this case not a calculational trick of applied mathematics but comes close to being a necessity in the formulation of the laws of quantum mechanics.

    最後にもう一つ述べておくと、いまや、こう考えられ始めている。量子力学の定式化にあたっては、複素数だけではなくて、いわゆる〈解析関数〉が決定的な役割を演じることが運命づけられている、と。 Finally, it now begins to appear that not only complex numbers but so-called analytic functions are destined to play a decisive role in the formulation of quantum theory. ここで私が言っているのは、〈分散関係〉という理論の急速な発展のことである。 I am referring to the rapidly developing theory of dispersion relations.


    ――――――――〔段落18〕

    奇跡がここで私たちに突きつけられてる、という印象を抱かずにいることは難しい。〈人間の頭脳が、千もの論証を互いに矛盾に陥らせることなくつなぎ合わせることができるという奇跡〉や、〈自然法則が実際に存在していて、しかも、それを認識する力を人間の頭脳が持っているという二重の奇跡〉にも並ぶ、それほど目覚ましい奇跡である。 It is difficult to avoid the impression that a miracle confronts us here, quite comparable in its striking nature to the miracle that the human mind can string a thousand arguments together without getting itself into contradictions, or to the two miracles of the existence of laws of nature and of the human mind's capacity to divine them.

    数学の概念が、思わぬ形で物理学のなかに登場してくることへの説明と呼べるものに、私が知るかぎりいちばん近いところまで迫っている所見は、アインシュタインの言葉である――〈我々が受け入れてもいいと思える物理学の理論は、美しい理論だけだ〉。 The observation which comes closest to an explanation for the mathematical concepts' cropping up in physics which I know is Einstein's statement that the only physical theories which we are willing to accept are the beautiful ones. 数学の概念が、これほど多くの才気の働きを惹きつけるのは、美という性質を持っているからである、と論じることもできよう。 It stands to argue that the concepts of mathematics, which invite the exercise of so much wit, have the quality of beauty.〔ここは誤訳してるかな…〕

    とはいえ、アインシュタインの所見は、せいぜい、私たちが信じてもいいと思えるような理論の特徴を説明しているだけなのであって、理論そのものの正確さについては何も語っていない。However, Einstein's observation can at best explain properties of theories which we are willing to believe and has no reference to the intrinsic accuracy of the theory.

    そこで私たちは、〔数学をもちいた物理理論がなぜこれほど正確なのかという、〕この後者の問いの方にとりかかるとしよう。

    We shall, therefore, turn to this latter question〔this latter question=理論の正確性の問題?〕.


    ――――――――〔段落19〕

    物理学の成功は本当に驚くべきことなのだろうか?

    IS THE SUCCESS O F PHYSICAL THEORIES TRULY SURPRISING?


    物理学者が自然法則を定式化するときに数学を使うのはなぜなのかということの説明として一つありうるのは、〈物理学者というのは、いささか無責任な奴らだからだ〉というものだ。 A possible explanation of the physicist's use of mathematics to formulate his laws of nature is that he is a somewhat irresponsible person.

    無責任であるからして、何かニ種類の〈量〉のあいだに関係を見つけて、それが数学でよく知られている関係に似ていると、〈この関係は、数学で言うところのアレである〉という結論に飛びつく。なぜかと言えば、ただ単純に、他に似たような関係を知らないからというわけだ。 As a result, when he finds a connection between two quantities which resembles a connection well-known from mathematics, he will jump at the conclusion that the connection is that discussed in mathematics simply because he does not know of any other similar connection.

    この話の意図としては、〈物理学者というのは、いささか無責任な奴らである〉という非難を反駁してやろうというわけではない。It is not the intention of the present discussion to refute the charge that the physicist is a somewhat irresponsible person. だって、そうかもしれないのだから。 Perhaps he is.

    しかしながら、大事なことを指摘しておく。物理学者の、往々にして荒くて生のままの経験が、数学的に定式化をすると、薄気味悪いほど多くの場合、広範囲の現象についての素晴らしく正確な記述になってくるのだ。 However, it is important to point out that the mathematical formulation of the physicist's often crude experience leads in an uncanny number of cases to an amazingly accurate description of a large class of phenomena. これが示しているのは、〈数学とは、私たちが話せる唯一の言語である〉というだけではなく、それ以上に推奨されるべき理由があるということ。すなわち、まさに本当の意味で〈正しい言語〉であるということだ。いくつかの例をみてみよう。 This shows that the mathematical language has more to commend it than being the only language which we can speak; it shows that it is, in a very real sense, the correct language. Let us consider a few examples.


    ――――――――〔段落20〕

    まず第一の例は、よく引用される例だけれども、惑星の運動だ。 The first example is the oft-quoted one of planetary motion. 〈落下する物体の法則〉は、おもにイタリアでなされた実験の結果として、かなりうまく確立された。 The laws of falling bodies became rather well established as a result of experiments carried out principally in Italy. その実験は、〈正確である〉と言えるものでは――私たちが今日理解しているような意味での〈正確さ〉と比べれば――あり得なかった。空気抵抗のせいもあるし、当時は短い時間間隔を計測できなかったせいもある。These experiments could not be very accurate in the sense in which we understand accuracy today partly because of the effect of air resistance and partly because of the impossibility, at that time, to measure short time intervals. それでも、その研究の結果としてイタリアの自然科学者たちが、〈物体が空気中を移動してゆく仕方〉について熟知するようになったのは、〔次に述べるニュートンの法則と比べれば?〕驚くべきことではない。Nevertheless, it is not surprising that, as a result of their studies, the Italian natural scientists acquired a familiarity with the ways in which objects travel through the atmosphere.

    するとそののちに、〈自由落下する物体についての法則〉を、〈月の運動〉と関係づけてみせたのが、ニュートンであった。〈地球上で石ころを放り投げたときの軌跡が描く放物線〉と、〈空のうえで月の軌跡が描く円軌道〉は、〈楕円〉という単一の数学的対象がとる、二つの特殊な場合にすぎないことを指摘したのである。そして、たった一つの数値的な一致――当時としては極めて近似的な――にもとづいて、〈重力〉という普遍的な法則があるとの仮説を唱えたのだ。 It was Newton who then brought the law of freely falling objects into relation with the motion of the moon, noted that the parabola of the thrown rock's path on the earth and the circle of the moon's path in the sky are particular cases of the same mathematical object of an ellipse, and postulated the universal law of gravitation on the basis of a single, and at that time very approximate, numerical coincidence.

    哲学的観点からは、ニュートンによって定式化されたような形での〈重力の法則〉は、彼の時代にとっても、また彼自身にとっても、嫌悪すべきものであった。Philosophically, the law of gravitation as formulated by Newton was repugnant to his time and to himself. 経験という面でも、ひどく乏しい観察にしか基づいていなかった。 Empirically, it was based on very scanty observations. この法則を定式化するにあたって用いられた数学的な言語は、〈二階微分〉の概念を含んでおり、〈曲線に接触する円〉を描こうとしたことのある人なら分かると思うけれども、私たちにとってさえ、直ちに理解できるような概念ではない。The mathematical language in which it was formulated contained the concept of a second derivative and those of us who have tried to draw an osculating circle to a curve know that the second derivative is not a very immediate concept.

    ニュートンが躊躇いながらも打ち立てた〈重力の法則〉は、ニュートン自身によって約4%の精度で正しさが立証されていたのだが、のちには、1%の1万分の1以下の精度で正確さが証明された。そのあまりの正確さから、〈絶対的正確さ〉という概念にほとんど等しいものと見做されるようにさえなった。物理学者たちが、その正確さの限界を見極めようとするほどの大胆さを取り戻したのは、ようやく最近になってからである。The law of gravity which Newton reluctantly established and which he could verify with an accuracy of about 4% has proved to be accurate to less than a ten thousandth of a per cent and became so closely associated with the idea of absolute accuracy that only recently did physicists become again bold enough to inquire into the limitations of its accuracy. (例えば、R. H. Dicke, Am. Sci., 25 (1959)をみよ。)[9 See, for instance, R. H. Dicke, Am. Sci., 25 (1959).] 〔ロバート・H・ディッケ「重力――1つの謎 Gravitation – An Enigma」American Scientist 誌 47, 25(1959)〕

    ニュートンの法則というこの例は、繰り返し引用されているものだし、〈法則〉というものの記念碑的な模範例として真っ先に挙げられるべきものであるのは間違いない。数学者からみて単純な形へと定式化されており、あらゆる合理的な期待を超えるほどの正確さが証明されているのだから。Certainly, the example of Newton's law, quoted over and over again, must be mentioned first as a monumental example of a law, formulated in terms which appear simple to the mathematician, which has proved accurate beyond all reasonable expectations.

    ただ、この例を使って、私たちの論点を繰り返させてもらいたいのである。Let us just recapitulate our thesis on this example:

    一つには、この法則は、――特に、二階微分が登場している点で――数学者にとってしか単純ではない。常識的な感覚にとってはシンブルではないし、大学1年生にとってさえ――数学の才に恵まれていないかぎり――単純ではない。first, the law, particularly since a second derivative appears in it, is simple only to the mathematician, not to common sense or to non-mathematically-minded freshmen;

    そしてもう一つには、この法則は、条件的な法則であり、射程が非常に限られているのである。second, it is a conditional law of very limited scope. この法則は、地球――それがガリレオの石を引きつけているわけだが――については何も説明していない。月の軌跡が描く円い形についても、太陽をまわる惑星たちについても、何も説明してはいないのである。It explains nothing about the earth which attracts Galileo's rocks, or about the circular form of the moon's orbit, or about the planets of the sun. そうした〈初期条件〉をどう説明するかは、地質学者や天文学者へと丸投げしてしまっている――もちろん彼らにも説明しがたいわけだけれども。The explanation of these initial conditions is left to the geologist and the astronomer, and they have a hard time with them.


    ――――――――〔段落21〕

    第二の例は、量子力学――通常の初等的な量子力学――である。The second example is that of ordinary, elementary quantum mechanics. その起源は、ハイゼンベルグが考案した計算のルールが、ずっと昔の数学者たちによって確立されていた〈行列の計算のルール〉と形式的に同一であることに、マックス・ボルン〔Max Born〕が気付いたことにある。This originated when Max Born noticed that some rules of computation, given by Heisenberg, were formally identical with the rules of computation with matrices, established a long time before by mathematicians. それに続いて、ボルンとヨルダン〔Ernst Pascual Jordan〕とハイゼンベルグが、古典力学の方程式の変数である〈位置〉と〈運動量〉を、行列で置き換えることを提案した。 Born, Jordan, and Heisenberg then proposed to replace by matrices the position and momentum variables of the equations of classical mechanics. 彼らが、〈行列力学〉のルールを、少数の高度に理想化された問題に適用してみたところ、非常に満足のいく結果が得られたのである。They applied the rules of matrix mechanics to a few highly idealized problems and the results were quite satisfactory.

    とはいえ当時は、行列力学が、もっと現実に沿った条件下でも正しさを証明できるという、合理的な証拠はなかった。 However, there was, at that time, no rational evidence that their matrix mechanics would prove correct under more realistic conditions. 事実、彼らは、「もし、ここに提案した力学が、その本質的な特徴について、すでに正しいのであれば」と述べている。〔?この一文、意味がわからない…〕Indeed, they say "if the mechanics as here proposed should already be correct in its essential traits."

    実際には、彼らが提案した力学の、現実の問題への最初の適用――水素原子にかんする実験――は、数カ月にパウリによってなされた。 As a matter of fact, the first application of their mechanics to a realistic problem, that of the hydrogen atom, was given several months later, by Pauli. この適用は、経験と一致する結果をもたらした。 This application gave results in agreement with experience. これは申し分のない成果であったとはいえ、ハイゼンベルグの計算規則は、水素原子についての古い理論を含む問題から引き出されたものだったから、そのことを思えば、納得できないことではなかった。This was satisfactory but still understandable because Heisenberg's rules of calculation were abstracted from problems which included the old theory of the hydrogen atom.

    奇跡というのはそこではない。〈行列力学〉――というか、数学的にそれと同等なある理論――が、ハイゼンベルグの計算ルールが無意味であるような問題に適用されたときに奇跡が起きたのだ。 The miracle occurred only when matrix mechanics, or a mathematically equivalent theory, was applied to problems for which Heisenberg's calculating rules were meaningless.

    ハイゼンベルグの計算ルールは、〈古典的な運動方程式の解は、なにかしらの周期性という特性をもつ〉ということを前提にしていた。 Heisenberg's rules presupposed that the classical equations of motion had solutions with certain periodicity properties; しかし、ヘリウム原子の二つの電子についての運動方程式は――もっと重い原子が持つ、より多くの電子についての運動方程式もそうだけれども――、そもそも周期性という特性を持っていない。だから、ハイゼンベルグの計算規則は、そういう場合には適用できるはずがなかった。

    and the equations of motion of the two electrons of the helium atom, or of the even greater number of electrons of heavier atoms, simply do not have these properties, so that Heisenberg's rules cannot be applied to these cases. にもかかわらず、ヘリウムの基底エネルギー水準の計算――つい数ヶ月前に、コーネル大学のキノシタ〔木下東一郎〕と米国規格基準局のベイズリー〔Norman W. Bazley〕によって行われたもの――は、観測の精度、すなわち1千万分の1以内で、実験のデータと一致する。〔「観測の精度」はどう訳すのだろうか…〕 Nevertheless, the calculation of the lowest energy level of helium, as carried out a few months ago by Kinoshita at Cornell and by Bazley at the Bureau of Standards, agrees with the experimental data within the accuracy of the observations, which is one part in ten million. この場合はたしかに、もともと入れてもいないものが方程式から出てきてしまったのである。 Surely in this case we "got something out" of the equations that we did not put in. 〔この一文、うまく訳せない…〕


    ――――――――〔段落22〕

    これと同じことは、「複素スペクトル」――すなわち、重い原子のスペクトル――の、定性的な特徴についても当てはまる。 The same is true of the qualitative characteristics of the "complex spectra," that is, the spectra of heavier atoms.

    ヨルダンとの会話を思い出してみると、スペクトルについての定性的な特徴が導き出されたとき、彼は私にこう言っていた。〈量子力学の理論から導き出された規則〉と、〈実験的な研究によって確かめられた規則〉のあいだに不一致が生じていたら、そのときが、行列力学の枠組みを変更する、最後の機会となっていたはずだ、と。I wish to recall a conversation with Jordan, who told me, when the qualitative features of the spectra were derived, that a disagreement of the rules derived from quantum mechanical theory and the rules established by empirical research would have provided the last opportunity to make a change in the framework of matrix mechanics.この一文もよくわからない…〕

    言い換えると、ヨルダンはこう感じたのだ。ヘリウム元素の理論に予想外の不一致が起こっていたら、私たちは、少なくとも一時的には、途方に暮れてしまったはずだ、と。In other words, Jordan felt that we would have been, at least temporarily, helpless had an unexpected disagreement occurred in the theory of the helium atom. これ〔ヘリウム原子の基底エネルギー準位の評価〕は当時、ケルナー〔Georg W. Kellner〕とヒレラース〔Egil A. Hylleraas〕によって進められた研究であった。 This was, at that time, developed by Kellner and by Hilleraas. 数学的な形式はあまりにも明瞭であったから変更し難かった。だから、先ほど述べたヘリウムの奇跡が起きなかったら、本当の危機が訪れていたはずだ。The mathematical formalism was too dear〔clearの誤植。他底本を参照〕 and unchangeable so that, had the miracle of helium which was mentioned before not occurred, a true crisis would have arisen.〔この一文もよくわからない…〕

    もちろん、そういう危機が訪れたとしても、物理学はどうにかしてそれを乗り越えたことだろう。 Surely, physics would have overcome that crisis in one way or another. だが、それはそうだとしても、〈ヘリウム原子について起きたのと同様の奇跡が、繰り返し何度も起こらなかったら、私たちがこんにち知るような物理学はありえなかった〉ということも一方の真実なのである。ヘリウム原子の奇跡は、たぶん、初等量子力学の発展のなかで起きたうち、もっとも目覚ましい奇跡ではあったけれども、唯一の奇跡だったわけでは全くないのだから。 It is true, on the other hand, that physics as we know it today would not be possible without a constant recurrence of miracles similar to the one of the helium atom, which is perhaps the most striking miracle that has occurred in the course of the development of elementary quantum mechanics, but by far not the only one. それどころか、私たちはこう考えてさえいる。こうした奇跡の数が限られているとすれば、それはただ、同じような奇跡を追い求めようという私たちの意思が限られているからにすぎない、と。In fact, the number of analogous miracles is limited, in our view, only by our willingness to go after more similar ones.

    ともあれ、ヘリウムの奇跡にほとんど等しいくらい目覚ましい成功が数多くあり、それによって私たちは、量子力学は〈正しい〉――私たちの言い方での〈正しさ〉だが――という、強い確信を抱くに至ったのである。 Quantum mechanics had, nevertheless, many almost equally striking successes which gave us the firm conviction that it is, what we call, correct.


    ――――――――〔段落23〕

    最後の例を挙げよう。それは、量子電磁力学からの一例、〈ラムのシフトの理論〉である。 The last example is that of quantum electrodynamics, or the theory of the Lamb shift.

    ニュートンの重力理論は、〔現実の世界の〕経験との明らかな結びつきをまだ保持していた。ところが、行列力学の公式と経験の関係はというと、ハイゼンベルグの定めた規則という洗練された形で、いわば昇華された形でしか入ってきていない。 Whereas Newton's theory of gravitation still had obvious connections with experience, experience entered the formulation of matrix mechanics only in the refined or sublimated form of Heisenberg's prescriptions.

    これが〈ラムのシフト〉についての量子理論となると、ベーテ〔Hans Bethe〕によって考え出され、シュウィンガー〔Julian Schwinger〕によって確立されたときには、純粋に数学的な理論だったのである。実験がじかに貢献していた点といえば、測定可能な効果が実在していることの証明だけだった。 The quantum theory of the Lamb shift, as conceived by Bethe and established by Schwinger, is a purely mathematical theory and the only direct contribution of experiment was to show the existence of a measurable effect. にもかかわらず、計算との一致は、千分の一よりももっと良好だったのである。 The agreement with calculation is better than one part in a thousand.


    ――――――――〔段落24〕

    上に挙げた三つの例――同様の例をほとんど無限に挙げてゆくことができるけれども――は、〈数学をもちいて自然法則を定式化するときには、操作のしやすさという理由で選ばれた概念が使われているのだが、それが適切かつ正確なのである〉ということを、うまく描き出せていると思う。そして、ここで言う「自然法則」とは、ほとんど空想的なまでに正確であり、しかしその範囲は厳格に制限されているのである。 The preceding three examples, which could be multiplied almost indefinitely, should illustrate the appropriateness and accuracy of the mathematical formulation of the laws of nature in terms of concepts chosen for their manipulability, the "laws of nature" being of almost fantastic accuracy but of strictly limited scope.

    これらの例によって具体化されている所見を、〈認識論の経験則〉と呼ぶことを私は提案する。I propose to refer to the observation which these examples illustrate as the empirical law of epistemology. 〈不変性の法則〉と共に、この〈認識論の経験則〉は、物理学の理論にとって、なくてはならない基盤なのである。 Together with the laws of invariance of physical theories, it is an indispensable foundation of these theories.

    〈不変性の法則〉がなければ、物理学の理論は、事実という土台をまったく持てなかったかもしれない。 Without the laws of invariance the physical theories could have been given no foundation of fact; そして、もし〈認識論の経験則〉が正しくなかったら、感情にとって必要不可欠な励ましと安心感が得られず、「自然法則」が成功裏に探求されることはあり得なかったはずだ。 if the empirical law of epistemology were not correct, we would lack the encouragement and reassurance which are emotional necessities, without which the "laws of nature" could not have been successfully explored.

    この〈認識論の経験則〉について、私と議論をしたことのあるR・G・ザック博士〔Robert G. Sachs 理論物理学者 1916-1999〕はこう言った――〈それは、理論物理学者の信仰箇条でしょう〉と。たしかにその通りである。 Dr. R. G. Sachs, with whom I discussed the empirical law of epistemology, called it an article of faith of the theoretical physicist, and it is surely that.

    しかしながら、博士はこれを信仰箇条と呼んだとはいえ、実例による十分な裏付けのあることなのだ――ここで述べた三例のほかに、なおも多くの実例によって。 However, what he called our article of faith can be well supported by actual examples -- many examples in addition to the three which have been mentioned.


    ――――――――〔段落25〕

    物理学のさまざまな理論の一意性について

    THE UNIQUENESS OF THE THEORIES OF PHYSICS


    上に述べた所見が根本的に経験的なものであることは、私にとって自明と思われる。 The empirical nature of the preceding observation seems to me to be self-evident. これが「思考の必然」でないのはもちろんだし、それ〔思考の必然ではないということ〕を証明するために、「これは非生物の世界についての私たちの知識の、ごく小さな一部分にだけ当てはまるのだ」という事実をわざわざ指摘する必要もないだろう。 It surely is not a "necessity of thought" and it should not be necessary, in order to prove this, to point to the fact that it applies only to a very small part of our knowledge of the inanimate world.

    そもそも、〈位置〉それ自体とか、〈速度〉について、数学的に単純な表現が存在していないのだから、〈位置の二階微分について、数学的に単純な表現が存在していることは自明である〉などと信じたりしたら馬鹿げている。It is absurd to believe that the existence of mathematically simple expressions for the second derivative of the position is self-evident, when no similar expressions for the position itself or for the velocity exist.

    であればこそ、〈認識論の経験則〉という、この素晴らしい贈り物が、かくも容易く、当然であるかのごとく受け止められているのは、驚くべきことだ。 It is therefore surprising how readily the wonderful gift contained in the empirical law of epistemology was taken for granted. 前にも述べたけれども、〈人間の頭脳が、千もの結論を一つなぎにして、なお「正しく」あり続ける能力を持っていること〉も、これと同じくらい素晴らしい贈り物である。 The ability of the human mind to form a string of 1000 conclusions and still remain "right," which was mentioned before, is a similar gift.


    ――――――――〔段落26〕

    どんな経験則にもつきまとう、不穏な性質がある。〈どこが限界なのかわからない〉という点だ。 Every empirical law has the disquieting quality that one does not know its limitations.

    ここまでに見てきたのは、〈私たちをとりまく世界のいろいろな出来事には規則性があり、数学的な概念を用いると、そうした規則性を奇怪なほどの正確さで定式化できる〉ということであった。 We have seen that there are regularities in the events in the world around us which can be formulated in terms of mathematical concepts with an uncanny accuracy. しかし他方で、世界には、もう一つの側面がある。〈正確な規則性なんてぜんぜん存在していない〉と私たちが信じている側面だ。There are, on the other hand, aspects of the world concerning which we do not believe in the existence of any accurate regularities.

    私たちはそれを、〈初期条件〉と呼んでいる。We call these initial conditions.

    ここで、おのずと湧いてくる問いがある――〈相異なる規則性、すなわち、様々な自然法則が、今後も発見されるであろうけれども、それらは単一の整合的なまとまりへと融合するものなのか。または少なくとも、漸近的にはそうした融合へと向かってゆくのか〉。 The question which presents itself is whether the different regularities, that is, the various laws of nature which will be discovered, will fuse into a single consistent unit, or at least asymptotically approach such a fusion.

    もしそうでないならば、こうなってしまうかもしれない――〈いろいろな自然法則のなかには、たがいに共通するところを全く持たないものが、つねに幾つかは存在している〉。現在のところ、例えば、遺伝の法則や、物理学の法則が、そういう状態なのである。 Alternatively, it is possible that there always will be some laws of nature which have nothing in common with each other. At present, this is true, for instance, of the laws of heredity and of physics.

    または、こういう事態さえあり得る――〈自然法則のうちの幾つかは、そこから得られる結論が矛盾して相容れない。にもかかわらず、それぞれが自分の領域のなかでは十分に信頼できるので、私たちは、どれかを捨てようという気持ちにはなれない〉。It is even possible that some of the laws of nature will be in conflict with each other in their implications, but each convincing enough in its own domain so that we may not be willing to abandon any of them.

    私たちは、そういう事態にさじを投げるかもしれない。あるいは、様々な理論どうしの矛盾を一掃することへの興味を失うかもしれない。 We may resign ourselves to such a state of affairs or our interest in clearing up the conflict between the various theories may fade out. つまり私たちが、「究極の真理」――自然のさまざまな側面を描いた小さな描像の数々が矛盾なく融合してできた単一の全体像――への興味を失うこともあるかもしれないのである。We may lose interest in the "ultimate truth," that is, in a picture which is a consistent fusion into a single unit of the little pictures, formed on the various aspects of nature.


    ――――――――〔段落27〕

    こうした、異なるあり方のそれぞれを、一つの具体例でもって描き出しておくと役立つかもしれない。It may be useful to illustrate the alternatives by an example.

    いま、物理学のなかには、たいへんに有力で、注目の的となっている理論が二つある。 We now have, in physics, two theories of great power and interest: 量子現象の理論と、相対性理論だ。the theory of quantum phenomena and the theory of relativity. この二つの理論が、おのおのの出発点としている現象は、互いに排他的なグループをなしているのである。 These two theories have their roots in mutually exclusive groups of phenomena.

    相対性理論は、天体などの巨視的な物体に適用される。 Relativity theory applies to macroscopic bodies, such as stars. 〈一致する〉という出来事――つまり、衝突の分析を突き詰めたところにあるような〈一致〉――は、相対性理論にとって〈基本となる〉出来事であり、時空の一点を定義する。または少なくとも、衝突しつつある粒子どうしが無限に小さければ、一点を定義するはずである。 The event of coincidence, that is, in ultimate analysis of collision, is the primitive event in the theory of relativity and defines a point in space-time, or at least would define a point if the colliding panicles〔誤植。誤 panicles 正 particles〕 were infinitely small. 〔primitive はどう訳すべきだろうか…〕

    量子理論は、微視的な世界に根ざしている。そして、その視点からすると、〈一致する〉という出来事――つまり衝突という出来事――は、たとえそれが空間的な広がりを全く持たない粒子どうしのあいだで起きた場合でさえ、〈基本となる〉出来事ではないし、時空間のなかで明瞭に特定することは全くできない。Quantum theory has its roots in the microscopic world and, from its point of view, the event of coincidence, or of collision, even if it takes place between particles of no spatial extent, is not primitive and not at all sharply isolated in space-time.

    この二つの理論は、異なる数学的概念によって運用されているのである。相対性理論は〈4次元のリーマン空間〉だし、量子論は〈無限次元のヒルベルト空間〉だ。The two theories operate with different mathematical concepts ­­­­--- the four dimensional Riemann space and the infinite dimensional Hilbert space, respectively. いまのところ、この二つの理論は統一されるべくもない。〈この二つの理論の両方がその近似であるような一つの数学的定式化〉といったものは全く存在しないのだ。So far, the two theories could not be united, that is, no mathematical formulation exists to which both of these theories are approximations.

    この二つの理論の統一は本質的には可能なことであり、いずれ私たちはそれを見出すであろうと、すべての物理学者は信じている。 All physicists believe that a union of the two theories is inherently possible and that we shall find it. だが、そうは言っても、この二つの理論の統一は叶わないであろうと想像することもできる。 Nevertheless, it is possible also to imagine that no union of the two theories can be found.

    この例は、どちらも考えうる二つの可能性――さきほど述べた〈統一できる〉ということと〈対立したままである〉ということ――の、両方の具体例なのである。 This example illustrates the two possibilities, of union and of conflict, mentioned before, both of which are conceivable.


    ――――――――〔段落28〕

    究極的には、この二つのどちらを期すべきなのだろうか。その兆候を垣間見るために、私たちは、少しだけ無知である振りをしてみることができる。つまり、私たちが実際に有している知識水準よりも低いところに立って考えてみるのである。In order to obtain an indication as to which alternative to expect ultimately, we can pretend to be a little more ignorant than we are and place ourselves at a lower level of knowledge than we actually possess.

    もし、この低い水準の知性で二つの理論の融合を見出すことができるのならば、現実の知性の水準でも見出せるはずであると、自信をもって予想することができる。 If we can find a fusion of our theories on this lower level of intelligence, we can confidently expect that we will find a fusion of our theories also at our real level of intelligence. しかし逆に、このいくぶん低水準の知識において、互いに矛盾する理論にたどり着いてしまうとすれば、二つの理論が永遠に対立し続ける可能性は、私たちにとっても排除できるものではなくなってしまう。 On the other hand, if we would arrive at mutually contradictory theories at a somewhat lower level of knowledge, the possibility of the permanence of conflicting theories cannot be excluded for ourselves either.

    知識と発想力の水準は、連続的な変数である。そうであるからには、比較的小さな変更を加えたからといって、そこから得られる世界の描像が、〈整合する〉から〈整合しない〉へ変わってしまうことは、ないと考えてよいと思う。 The level of knowledge and ingenuity is a continuous variable and it is unlikely that a relatively small variation of this continuous variable changes the attainable picture of the world from inconsistent to consistent.
    (このくだりは、大いに躊躇ったのちに記した。筆者は、認識論について論じる際には、〈人間の知的水準は、絶対的な尺度上のただ一点に位置している〉という理想化を捨て去ることが有用だと信じているのである。 [10 This passage was written after a great deal of hesitation. The writer is convinced that it is useful, in epistemological discussions, to abandon the idealization that the level of human intelligence has a singular position on an absolute scale. 場合によっては、人間以外の種族がもつ知性の水準では何を獲得できるかを考察することすら有用であろう。 In some cases it may even be useful to consider the attainment which is possible at the level of the intelligence of some other species. とはいえ筆者は、本文で記した考え方は簡潔すぎるものであり、その信頼性について批判的な鑑定へと十分に供し得るものではないことは承知している。) However, the writer also realizes that his thinking along the lines indicated in the text was too brief and not subject to sufficient critical appraisal to be reliable.]

    この視点から考えてみると、〈私たちが偽であると知っている理論のなかには、驚くほど正確な結果を与えるものもある〉という事実は、都合の悪い要素である。 Considered from this point of view, the fact that some of the theories which we know to be false give such amazingly accurate results is an adverse factor.

    私たちが、いくぶん少ない知識しか持っていなかったとしたら、そういう「偽」な理論が説明できる現象の数は、そうした理論を十分に「証明する」に足るほど大きなグループをなすものとして、私たちの目に映っていたはずだ。 Had we somewhat less knowledge, the group of phenomena which these "false" theories explain would appear to us to be large enough to "prove" these theories. ところが、そういう理論は、〔現実の〕私たちにとっては、「偽」であると考えられている。その理由は、〈そうした理論は、突き詰まるところまで分析すれば、より包括的な描像とは両立しない〉ということと、〈そうした偽の理論が十分に多数発見されたら、やがては互いに対立しあうものであると証明されることになる〉ということだけなのである。However, these theories are considered to be "false" by us just for the reason that they are, in ultimate analysis, incompatible with more encompassing pictures and, if sufficiently many such false theories are discovered, they are bound to prove also to be in conflict with each other.

    それと同様に、こういうことがあり得る――〈十分と思われるほどたくさんの数値の一致によって、私たちが「証明されている」と考えている理論も、じつは、私たちの発見手段の届かないところに、より包括的な理論があり得て、それと対立するから「偽」である〉。 Similarly, it is possible that the theories, which we consider to be "proved" by a number of numerical agreements which appears to be large enough for us, are false because they are in conflict with a possible more encompassing theory which is beyond our means of discovery. 仮にこの通りだったとすると、私たちが有している理論の数が、ある一定数を越えて、十分に多数の現象のグループをカバーするようになるや否や、理論どうしの対立が始まってしまうと予想しなくてはならないだろう。 If this were true, we would have to expect conflicts between our theories as soon as their number grows beyond a certain point and as soon as they cover a sufficiently large number of groups of phenomena.

    先ほど述べた〈理論物理学者の信仰箇条〉とは対照的に、これは〈理論家の悪夢〉だ。 In contrast to the article of faith of the theoretical physicist mentioned before, this is the nightmare of the theorist.


    ――――――――〔段落29〕

    「偽」であると分かっているのに、恐ろしく正確に一群の現象を記述できてしまう理論の例をいくつか考察してみよう。Let us consider a few examples of "false" theories which give, in view of their falseness, alarmingly accurate descriptions of groups of phenomena. いくぶんかの善意によって、そうした例が与える証拠のいくつかは却下することができるだろう。〔この一文、意味がわからない…〕 With some goodwill, one can dismiss some of the evidence which these examples provide.

    ボーアが原子構造について抱いたアイデアは、いち早く先駆的ではあったけれども、適用範囲はつねにかなり狭いものであった。それと同じことは〈プトレマイオスの周天円〉についても言える。 The success of Bohr's early and pioneering ideas on the atom was always a rather narrow one and the same applies to Ptolemy's epicycles. 私たちの現在の〈優位な立ち位置〉から見れば、そうした幼稚な理論でも記述できた全ての現象について、正確な記述をすることができる。 Our present vantage point gives an accurate description of all phenomena which these more primitive theories can describe.

    だが、いわゆる〈自由電子の理論〉には、上の例と同じことは、もはや当てはまらない。自由電子の理論は、金属、半導体、そして絶縁体の特徴――ほとんどとは言わないまでも、多くの特徴――について、見事なまでに正確な描像を与えてくれるのだ。 The same is not true any longer of the so-called free-electron theory, which gives a marvelously accurate picture of many, if not most, properties of metals, semiconductors, and insulators.

    具体的に言うと、自由電子の理論は、〈絶縁体が電気に対して示す比抵抗は、金属の1026倍にもなりうる〉という事実を説明してくれる。ところがこの事実は、「本当の理論」をもとにした場合は、適切に理解することが決してできないのである。 In particular, it explains the fact, never properly understood on the basis of the "real theory," that insulators show a specific resistance to electricity which may be 1026 times greater than that of metals. それどころか、自由電子の理論からすれば抵抗が無限大になると予測されるような条件下で、抵抗が無限ではないと示すような、実験による証拠はないのだ。 In fact, there is no experimental evidence to show that the resistance is not infinite under the conditions under which the free-electron theory would lead us to expect an infinite resistance. にもかかわらず、私たちは、〈自由電子の理論は、粗い近似にすぎないのであって、固体についての現象の全てを記述するにさいしては、もっと正確な描像によって取って代わられるべきである〉と確信している。 Nevertheless, we are convinced that the free-electron theory is a crude approximation which should be replaced, in the description of all phenomena concerning solids, by a more accurate picture.

    私たちの実際の〈優位な立ち位置〉から見ると、自由電子の理論が呈しているこの状況は、苛立たしいものではある。だが、乗り越えがたい非整合性の悪しき予兆、というほどのものではなさそうに思われる。 If viewed from our real vantage point, the situation presented by the free-electron theory is irritating but is not likely to forebode any inconsistencies which are unsurmountable for us. とはいえ、理論と実験のあいだの数値の一致は、理論の正しさの証明として、どれだけ信用に値するものなのかという点について、自由電子の理論は疑いを喚起している。 The free-electron theory raises doubts as to how much we should trust between theory and experiment as evidence for the correctness of the theory. つまり、私たち物理学者は、こうした疑いを抱くことには慣れているのである。We are used to such doubts.


    ――――――――〔段落30〕

    いつの日か、もし私たちが、〈意識〉という現象や、生物学についての理論を確立して、しかもそれが、非生物の世界についての現在の理論と同じくらい一貫性があり説得力があったとしたら、いま述べた例よりも、ずっと難しくてこんがらがった事態に陥るはずだ。A much more difficult and confusing situation would arise if we could, some day, establish a theory of the phenomena of consciousness, or of biology, which would be as coherent and convincing as our present theories of the inanimate world.

    生物学にかんする限り、〈メンデルの遺伝の法則〉と、それに続く〈遺伝子の研究〉は、そうした理論の始まりを充分に形作っているのかもしれない。Mendel's laws of inheritance and the subsequent work on genes may well form the beginning of such a theory as far as biology is concerned. さらに言えば、そうした理論と、すでに受け入れられている物理学の原理が対立すると示すような、なんらかの抽象的な議論が見出されることも、かなりあり得ることだ。 Furthermore, it is quite possible that an abstract argument can be found which shows that there is a conflict between such a theory and the accepted principles of physics.〔これは、生物学の何と、物理学が対立すると言っているのだろう?〕

    こういう話は、きわめて抽象的な性質の話になりうるから、何らかの実験によって、一方を有利にしたり、他方を有利にしたりする形で、その対立を解消することは不可能かもしれない。The argument could be of such abstract nature that it might not be possible to resolve the conflict, in favor of one or of the other theory, by an experiment. もし、そうした対立の続く状況になったら、私たちの信仰――私たちの理論と、私たちが形作る諸概念の現実性への信仰――は、重大な緊張に晒される。 Such a situation would put a heavy strain on our faith in our theories and on our belief in the reality of the concepts which we form. 「究極の真理」と私が呼んだものを探求する営みに、根深い不満足感がつきまとうことになるであろう。 It would give us a deep sense of frustration in our search for what I called "the ultimate truth."

    そうした事態がありうるのは何故かといえば、〈私たちは、自分の理論がなぜこれほどうまくいくのかを知らない〉ということが根本にある。 The reason that such a situation is conceivable is that, fundamentally, we do not know why our theories work so well. してみると、〈正確である〉というのは、理論が〈真である〉ことや、〈整合性がある〉ことの証明にはならない。 Hence, their accuracy may not prove their truth and consistency. 実を言えば、筆者としても、もし、遺伝についての理論と、物理についての理論が正面から対峙したならば、上に記したような事態にかなり近いことになると考えているのである。Indeed, it is this writer's belief that something rather akin to the situation which was described above exists if the present laws of heredity and of physics are confronted.


    ――――――――〔段落31〕

    最後に、もっと明るい調子で話を締めくくることにしよう。Let me end on a more cheerful note.

    物理学の法則を定式化するさいに、数学という言語が適切であること。この奇跡は、私たちの理解を超え、私たちには分不相応な、素晴らしい贈り物である。私たちはこの贈り物に感謝すべきであり、こう希望する。将来の研究においても、この素晴らしい贈り物がそのままであることを。そして良きにつけ、悪しきにつけ、喜ばされるのであれ、あるいは恐らくは惑わされるのでさえあれ、学問の広く様々な分野へと広がってゆくことを。

    The miracle of the appropriateness of the language of mathematics for the formulation of the laws of physics is a wonderful gift which we neither understand nor deserve. We should be grateful for it and hope that it will remain valid in future research and that it will extend, for better or for worse, to our pleasure, even though perhaps also to our bafflement, to wide branches of learning.

    〔おわり〕


    〔以下はメモです〕


    ・当論文を所収の本

    Eugene Paul Wigner著 Philosophical Reflections and Syntheses
    Ronald E Mickens 編 Mathematics and Science
    Jan Faye、Uwe Scheffler、Max Urchs 編 Perspectives on Time




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