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A・N・ホワイトヘッド「時間」(1926年)
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A・N・ホワイトヘッド「時間」(1926年)

2017-05-09 05:19

    ホワイトヘッドの1926年の論文「時間 Time」を翻訳してみました。
     V・ロウは『ホワイトヘッド伝』において、「極度に圧縮されており異常に難しい。注目に値する論文であるが、そのように遇してきたのはごく少数のホワイトヘッド学者のみである」と評しています。
     その他の情報は【訳者より】として最後に置きました。
    〔未邦訳だと思いこんで翻訳したのですが、『宗教とその形成』(松籟社ホワイトヘッド著作集第七巻、齋藤繁雄訳)に併録されていました…。〕

    ==========================================

    「時間」 "TIME"

      アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(ハーバード大学)

      A. N. Whitehead (Harvard)



    一、後継 二、抱握 三、未完結性 四、客体的不滅性 五、同時性 六、時間はエポック的である


    一、後継 Supersession

    アレクサンダーは彼の著書『空間、時間、神』で、時間というものについて真剣に考えるべきであるという指針を強く主張しています。
      〔訳注 サミュエル・アレクサンダー 哲学者 1859-1938 〕

    〈全ての存在の完全な全体性 a complete totality of all existence 〉という考えを抱いている哲学者や、〈もろもろの現実的存在からなる多数性 a multiplicity of actual entities 〉という考えを抱いている哲学者は、いずれも、時間というものを真剣に考えてはいません。ここで〈現実的存在〉とは、そのそれぞれが完結した事実であり、「自分以外には何ものをも必要としない――例外として神のみを必要とするけれども――存在」のことです。
      〔訳注 「神を除き自分自身以外には何ものをも必要としない」というのは、デカルトによる「実体」の定義の引用。また、V・ロウによると、〈全ての存在の完全な全体性〉はブラッドリーの観念論的一元論、〈もろもろの現実的存在からなる多数性〉はラッセルの原子論的多元論を指しているとのこと。ロウ『ホワイトヘッド伝』下p204〕

    時間というものを真剣に考えるならば、いかなる具体的な存在も、変化するということはあり得ません。

    具体的な存在は、〈後継 supersede 〉され得るのみです。
      〔訳注 supersede は「交替する、新しいものが古いものに取って代わる」の意。電機製品でいう「後継機」のイメージで後継と訳してみた。齋藤訳は(「止むをえず」と断りつつ)「替越」と訳している。〕

    また、後継されなくてはならないのです。なぜなら、〈後継〉は、具体的な存在の実在的本質 real essence の一部をなしているからです。ここで「実在的本質」というのは、ロックがこの言葉を用いた意味で言っています。


    したがって、デカルトは、〈実体 substance は、その主要な属性の一つとして「存続 endurance」を伴う〉としましたけれども、われわれはこれを、〈「生起 occasion」は、「後継」を、その実在的本質の一部としている〉という概念へと置き換えなければなりません。

    ここで「後継」と言っているのと同じ意味で、ロックは「絶え間なく消え去る perpetually perishing」という語句を用いていました。


    また、〈実体には二種類あり、それはすなわち物体と精神である〉というデカルトの学説に代えて、われわれはこう主張しなくてはなりません。〈生起〉のそれぞれは〈二極的 dipolar〉であり、一方の極が〈物的生起 physical occasion〉、他方の極が〈心的生起 mental occasion〉なのである、と。

    〈心的生起〉を捨象して捉えられた〈物的生起〉や、〈物的生起〉を捨象して捉えられた〈心的生起〉は、いずれもが、二極的な生起に備わる完全な具体性を失っています。

    誤解を避けるために一言差し挟んでおきますが――誤解を避けるため以外には本稿とは無関係な点ですけれども――、この二つの極のあいだには重要性の対比があり、この対比においては、どちらかの相対的な重要性は無視し得るかもしれないのです。


    後継とは、三つの仕方からなる過程 a three-way process です。

    生起というものはそれぞれ、他の諸生起を後継し、他の諸生起によって後継され、そして内的にも一部は潜在的 potential で一部は現実的 actual な、後継の過程です。

    一つの生起における現実的で内的な後継ということの一例は、心的生起が物的生起を後継することです。

    したがって、心的極よりもさきに物的極を説明しなければなりません。なぜなら、心的極というものは後継の一つの特殊例であり、後継ということが明らかになるのは、完全に具体的な生起を分析することにおいてなのですから。


    時間とは、第一義的には、諸生起の物的極にかかわるものであり、心的極とは派生的にしかかかわっていません。

    とはいえ、一つの生起のなかでの物的極と心的極のあいだの繋がり linkage は、〈後継という範疇 category は、時間を超越している〉という真理の具体例です。なぜなら、この繋がりは、〈時間外的 extra-temporal 〉でありながら、しかもなお後継の一例だからです。



    二 抱握 Prehension

    時間という概念は複合的であり、〈後継 supersession 〉、〈抱握 prehension 〉、〈未完結性 incompleteness 〉という三つの根本的な範疇の交錯 interplay から生じてきます。
      〔訳注 ホワイトヘッドは時間を最も根本的なものと捉えてはいない。「まず時間というものがあり、その中でいろいろなことが起こる」という考え方ではなく、「いろいろなことが新たに次々に起こるということが根本にあり、それが時間という形をとる」という考え方である〕

    〈抱握〉という範疇は、〈世界が諸々の有機体からなる一つの体系 a system of organisms であるのはどのようにしてであるのか〉を表現しています。

    一つの生起というのは、多様な要素の〈合生 concretion 〉――つまり、〈〔一つのものへと〕一緒に成長すること a growing together 〉――です。生起それぞれが一つの有機体なのは、それゆえになのです。

    そのようにして有機化される諸要素は、二つのクラスに分かれます。(1)他のもろもろの生起。(2)もろもろの普遍者 universals ――私はこれを〈永遠的客体 eternal object 〉と呼びたく思います。永遠的客体とは、〈現実性の媒体 media of actuality 〉です。現実的生起のそれぞれが〈どのようであるか the how 〉を規定するのが永遠的客体です。

    いかなる一つの生起――これをAとします――の有機化 organization にさいしても、他の諸生起が、それぞれ何らかの限定された仕方で必要とされるのですから、その世界〔生起Aにとっての世界〕は、一つの体系 a system と呼ばれます。

    合生においてAが他のもろもろの生起を包含するさいの、その限定された包含の仕方のことを、ここでは「抱握 prehension 」と呼んでいるのです。

    この「抱握」という語によって、〈盲目の物的知覚力 blind physical perceptivity 〉が意味されています。

    われわれは、「概念なき直感は盲目である」というカントの学説を思い出しています。

    物的世界 the physical world は、もろもろの〈盲目の直感〉の合生から生じる諸有機体からなる一つの体系として、それ自身を提示するのです。


    物的世界は、〈限定する要素 defining elements 〉として、もろもろの永遠的客体を包含しています。しかしそれは、概念的 conceptually にではなく、直感的 intuitively にのみ包含しています。

    永遠的諸客体が概念的に導入されるのは、心的抱握によってです。心的抱握は、それと結びついた物的生起 associate physical occasions を概念的に分析することによって、〈知識 knowledge 〉を獲得するのです。

    しかし、〈純粋な知覚 pure perception 〉というのが、物的世界における物的諸生起の根本的な関係です。

    〈純粋な知覚〉は、〔従来の哲学では、心性 mentality へと誤って割り当てられてきたのですが、心性というのは、たんに分析的なもの analytic であるにすぎません。

    もっとも、この分析というのは、部分的なものであり、また、包含だけでなく排除にもかかわっていているため、「注意 attention 」および「想像力 imagination 」という形で、偶発的な独創性 a contingent originality を示すことがあり得るのですけれども。


    現実性には、相対的なさまざまな深さがあります。生起のそれぞれが深さを獲得するのは、限定性 limitations という理由によってのみ、つまり、排除 exclusions という理由によってのみです。

    生起Aは、生起Bを、無条件的 simpliciter に抱握するのではありません。ある制限のもとでBを抱握します。この制限というのが、Bの客体化 objectification なのです。

    この客体化というのは、永遠的諸客体によって提供されます。そうしてBは、Aのなかへと、それらの永遠的諸客体の一例として抱握されるのです。

    このようにしてBはAへと客体化されるのであり、そして、それらの永遠的客体は、その客体化をもたらすところの〈関係させる要素 relatinal elements 〉です。


    永遠的客体は、現実的生起へと〈進入 ingression 〉するにあたって、さまざまな様態 modes を有していると言われます。

    それらの様態は、いかなる一つの物的生起においても、抱握される諸生起の客体性 objectivity を規定しています。また、それらの諸様態は諸概念を規定し、それらの諸概念と結びついた心的生起が物的生起を分析することで、新たな総合をもたらします。この新たな総合が、〈意識という統一性 the unity of consciousness 〉です。

    このようにして永遠的客体は――物的極と心的極の両方について――合生の作用過程を規定しています。またそのようにして、永遠的客体の働き operation は、つねに関係的 relational なのです。



    三 未完結性 Incompleteness

    時間というのは、未完結性 incompleteness を必要とします。

    ただたんに〈互いに抱握可能な諸生起からなる一つの体系〉にすぎないものは、〈静的で無時間的な世界〉という概念と両立できてしまいます。

    生起それぞれが時間的 temporal であるのは、それが未完結だからなのです。

    そしてまた、〈諸生起が一つの完結した体系をなす〉ということもありません。〈一個のはっきり定義された存在 one well-defined entity があって、それが現実世界である〉ということはないのです。

    「現実世界 actual world」というこの言葉は、〈現在の何らかの生起という立脚点から定義された過去、現在、未来の諸生起〉を意味しています。

    「現実世界」というのは、「彼」「彼女」「それ」「明日」「昨日」などに似た、指示代名詞なのです。

    それが何を意味するのかは、文脈によって定義されます。


    〈一つの現実的生起Aが未完結である〉ということは、次のことを意味します。すなわち、Aはその合生のなかで、Aを後継しなければならない生起X、生起Y、生起Z…の客体化を抱握するのですが、X、Y、Z…もまたAと同様に、確定済みの合生 determinate concretions に備わっているような現実性は有していないのです。

    したがって、自分自身の後継を客体化することは、Aの〈実在的本質〉に属しています。

    来年の暦や、鉄道時刻表は、この真理を――われわれの心的諸生起のなかに知的に明示された物的生起についてのこの真理を――表しています。


    したがって、未完結性という範疇は、〈あらゆる生起は、自分の中に、自分の未来を保持している〉ということを意味しています。したがって、予期 anticipation は、第一義的には、盲目の物的事実です。そして、予期が心的事実となるのは、概念的心性 conceptual mentality によって部分的な分析が生じたという理由による場合のみなのです。


    物的予期 physical anticipation は、〈創造性 creativity は、後継される被造物 creature と分離することはできない〉という真理の具体例です。そして、後継ということがあるのは創造性によってです。

    創造性というものの性格は、被造物を分析するなかで見出されます。

    被造物にとっての創造性 the creativity for the creature は、その被造物とともにある創造性 the creativity with the creature になってしまっています。そして被造物は、それによって後継されるのです。

    〈客体化された未来 objectified future が現実的生起それぞれのなかへと抱握されている〉というこの学説は、〈生成の過程は、存在 being と非在 not-being の統一である〉という古い学説の一変奏にすぎません。


    四 客体的不滅性 Objective Immortality

    物的記憶は、〈未完結性〉という範疇のもう一つの例示です。

    生起Bのなかには、例えばAといった、先行する生起それぞれの物的記憶があります。

    Aは先行しているのですから、Bは自分自身のなかへとAを、一定程度において確定した完結性に寄与するものとして抱握します。

    この〈BのなかへのAの抱握〉というのは、関係的な作用 relatinal functioning であり、永遠的諸客体によって表現され得る個体的な性格を伴っています。

    これらの永遠的諸客体はそのように機能しつつ、Bの合生においてAの客体化を規定し、それによってBの合生における一つの構成要素になります。

    このやり取り transaction はAを、相対的に決定済みのもの relatively determinate として提示します。ただしそれは、〈AへのBの客体化〉という、逆の予期的客体化におけるBの未決定性 indetermination から生じてくる未決定性を除いてです。

    このようにして、AとBのあいだの一対の客体化からなる〈やり取りの全体 full transaction 〉が、一つの繋がり linkage における二極としてのAとBを構成しています。

    Aは、この〈AとB〉という繋がりの一構成員としての作用においては、この繋がりから抽象されたAよりも完結的 complete です。

    なぜなら、AにおけるBの未決定 indetermination ――抽象におけるAにはそれが付着しています――は、繋がりの全体におけるBの現実的合生 actual concretion によって除去されるからです。

    したがって、AとBの共同体 community においては、Bという理由によるAの未決定性は、Aとのやり取りにかんする限り、Bの完成によって制限されます。Aは、それによって、ある付加的な意味を有します。

    それゆえに、それぞれの生起Aは、その未来を通じて不滅 immortal です。

    なぜならBは、自分自身の合生のなかにAの記憶を大切に保存 enshrine するのであり、Bの本質はその記憶へと順応しなければならないからです。

    したがって、物的記憶こそがまさに因果作用 causation なのであり、因果作用こそがまさに客体的不滅性なのです。

    また、意識的な記憶 conscious memory というのは、因果作用の部分的分析であり、その因果作用と結びつきのある心的生起から生じてくるものなのです。


    したがってヒュームは、〈因果作用についての直接的な意識はあるのか〉と問い求めたとき、記憶へと向かうべきだったのです。
      〔訳注 ヒュームは、因果は存在しない(因果というもの自体を直接に意識することはできない)と主張した。しかしホワイトヘッドによれば、さきの存在をあとの存在が取り入れて(抱握して)ゆくことが因果関係であり、それは部分的に意識化されうる〕


    記憶というものについて通常なされている機械論的な説明は、明らかに不十分です。

    なぜなら、この〔機械論的な〕理論にあるように、現在における大脳作用 cerebration が、過去における何らかの大脳作用に似ていても、それは過去における何らかのイメージに類似したイメージを現在において産み出すことになります。

    しかし、現在におけるそのイメージは、過去におけるそのイメージの記憶ではありません。それはたんに、現在における一つのイメージであるにすぎません。

    この批判は、記憶についてのロックの学説にも当て嵌まります。


    本稿でいま展開されつつある学説に従うならば、現在におけるそのイメージというのは、真の記憶を現在の創造性へとまとめ上げることの結果なのです。

    ヒュームの言う「弱々しい複写 faint copy 」というのは、現在におけるイメージであるのに、複写であるという性格もまたそれと等しく現在にあります。複写であるというその性格は、過去の客体化――すなわち真の記憶――との比較から生じているのです。


    時間の不可逆性は、客体的不滅性 objective immortality という、この学説から出てきます。

    なぜなら、あとにくる生起は、さきにある生起を完成させる completion のであり、したがって、さきにある生起とは違うからです。



    五 同時性 Simultaneity

    〈過去〉と〈未来〉は、ある一つの生起Aが含まれるもろもろの因果的な関係を指し表すものであるということを、ここまで説明してきました。

    しかし、いかなる因果的な意味においても――その宇宙の一般的な体系的性格へと順応する以外には――Aへと抱握されない諸生起もあります。

    そうした諸生起は、Aと同時的 simultaneous with な諸生起なのです。

    したがって、もし、宇宙に偶発性 contingency というものが少しでもあるのならば、Aの合生に固有の偶発性は、Aと同時的な諸生起に固有な偶発性とは独立しています。


    しかしAは、〈提示的直接性 presentational immediacy 〉という様態においては、そうした同時的な諸生起をまさに抱握しています。

    抱握のこの様態において作用している永遠的諸客体は、〈感覚所与 sense-data 〉と称されます。


    Aと同時的な世界についての、この〈提示的直接性〉というのは、Aの独創的な性格 originative character を体現しています。

    これは、Aが一つの合生であるという性格における、自己創造的な自己享受 self-creative self-enjoyment なのです。

    これを説明するには、同時的世界を分析するのではなくて、Aを分析しなくてはなりません。なぜなら、同時的世界はAの特有の独創性を構成するものだからです。

    したがって、提示的直接性は、物的想像力 physical imagination という性格を有しています。想像力という語を一般化した意味においてです。

    この物的想像力というのは、普通は、直接的過去のもろもろの物的記憶へと順応しなければなりません。そのとき物的想像力は、〈感覚知覚 sense-perception 〉と呼ばれることが多く、かつそれは、〈非妄想的 non-delusive 〉です。

    物的想像力が、より遠い過去の物的記憶へと順応することもあるかもしれません。そのときは、〈記憶と結びついたイメージ〉と呼ばれます。

    なんらかの〈特別に割り込んでくる要素 special intrusive element 〉へと順応することもあるかもしれません。たとえば、人間の場合は、〈薬品〉、〈感情〉、〈先行する心的諸契機のなかの概念的諸関係〉といったものへです。そのときは、〈錯覚 delusion 〉とか、〈忘我的幻視 ecstatic vision 〉とか、〈想像 imagination 〉など、さまざまに呼ばれます。

    この物的想像力というものを部分的に意識することは、心的極の概念的作用によってもたらされます。


    ある曖昧さが、ここで生じてきます。この曖昧さは、現代物理学の相対性理論によって明らかにされました。

    「同時性」という語は、二つの意味で使うことができるのです。

    生起Aと因果的に関係していない――Aへと因果作用せず、Aからの因果作用を受けもしない――諸生起を意味することができます。

    しかし、提示的直接性でもってAへと抱握される諸生起を意味することもできます。

    もしわれわれが、この二つの意味を同一視してしまうと、〈時間とは厳密に連続的なものである〉という古典的見解へと還元されてしまいます。

    もしわれわれが、〈提示的に直接的な諸生起は、因果的に関係してはいない諸生起のうちのごく一部でしかない〉という考えを保持するならば、現代の相対性理論を、時間についてのこの教義のなかに含めることができるのです。

    しかし、〈非連続性の逆説 the paradox of non-seriality 〉を別とすれば、本論文の全ては、〈個体の知覚力 individual perceptivity こそが究極の物理的事実である〉という相対論的な結論を説明することへと向けられています。



    六 時間はエポック的である Time as Epochal

      〔訳注 エポック的 epochal とは、時間は無限に分割できる等質的で連続的なものではなく、それ以上分割できない一定量があること(無限に分割できるという側面もあるが、そうではないという性格の方が根本にあるということ)を言い表している。適切な訳語が思い浮かばないので「エポック的」としておく。齋藤訳は「創期的」としている〕


    後継というのは、生成の連続的過程なのではありません。

    もし、〈後継〉という概念と、〈連続性 continuity 〉という概念を結合させようと試みるなら、われわれは直ちに、悪しき無限後退 vicious infinite regress に陥ってしまいます。


    なぜなら、もしBがAを後継するならば、Bが連続的であるとすれば、Bの早い方の一部が、それより後の方のBの一部よりも、先行してAを後継しているということが必要になってしまいます。この論法は、Bのその早い方の一部についても――その一部をどのように選んだとしても――繰り返すことができます。したがって、無限後退に巻き込まれてしまうのです。

    また、Aの後継は、この後退の無限の終端となるものから開始するのでなくてはなりません。しかし、無限の終端というものはありません。

    このゆえに、後継というのは、連続体が連続的に展開してゆくことと見なすことはできないのです。

    私はこの結論を、〈時間は「エポック的」である time is epochal 〉という言明で表現します。

    Aを後継するものとして合生を獲得する生起Bは、ある特定の量の時間 a difinite quantum of time を体現します。これを私は、合生の「エポック的性格 epochal character 」と呼ぶのです。

    時間はエポック的であるという理論 the epochal theory of time は、原子的有機体の理論と、現代物理学の量子理論の基礎です。


    後継ということに必要とされる全ての〈時間量 time-quanta 〉は等しい、と私は言っているのではありません。

    しかし、何らかの時間量は、つねに必要とされるのです。

    とはいえ、その〈量 quanta 〉がまた分割できて、そうして引き出された色々な部分について比較ができるのでなければ、われわれは〈時間量〉の相対的なサイズを論じることさえできません。

    なぜなら、もしTという〈時間量〉が、Tという〈時間量〉よりも大きいならば、それは、TはTの一部と、等しさについて比較できることを意味するからです。

    したがって、時間というものには何らかの連続性があります。その連続性は、無際限に分割できるということから生じてきます。

    この連続性は、現実世界における本質的な一要素である〈可能態 potentiality 〉の一例なのです。

    過去におけるもろもろの〈エポック epochs 〉は、エポック的なものとして存在してきました。

    しかし、もしわれわれが、実現された自己享受――エポック的生起それぞれの〈個体的な残余 individual residuum 〉であるところの――から抽象するならば、物理学の抽象概念でもって考察されたその生起は、一緒になってその一つの生起を完成させている諸々のエポック的生起へと下位分割 subdivide されているかもしれないのです。

    これが、現実的生起それぞれについて内的な〈潜在的後継 potential supersession 〉です。

    したがって、生成の連続性はありませんが、連続性の生成はあります Thus there is no continuity of becoming, but there is a becoming of continuity 。
      〔『過程と実在』第一部第三章第三節にもほぼ同じ一文がある――「連続性の生成はあるが、生成の連続性はない There is a becoming of continuity, but no continuity of becoming」〕


    延長的関係という問題――すなわち、時間が「持続」と呼ばれる延長的な性質を獲得するところの関係という問題。また、時間的関係と空間的関係はどのようにつながっているのかという問題。そして、時空 space-time の測定という問題。これらの問題は、この発表に割り当てていただいた制限を超えて広げてゆくことなしには考察することはできません。



    〔おわり〕


    ========================================

    【訳者より】

     1926年9月13-17日の「第六回哲学者国際会議」(この回の開催場所は米国マサチューセッツ州ハーバード大学)のために書かれた論文です。底本は Proceedings of the Sixth International Congress of Philosophy, pp. 59-64. New York: Longmans, Green & co., 1927 所収のものです。(コピーを欲しい方はご連絡ください)。
     "The Interpretation of Science." pp. 240-247, Edited by A.H. Johnson. Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1961 にも再録されています。
     Lewis. S. Ford "Emargence of Whitehead's Metaphysics,1925-1929"(1985)という本にも付録として再録されているようです。

     まあなんというか、素晴らしい翻訳ができたとは言いがたいので、もっと理解が進んだらやり直したいです。

    「過去におけるもろもろの〈エポック〉は、エポック的なものとして存在してきました。」と訳したところの原文は、「 The epochs in the past are what they have been. 」なのですが、誤訳くさいですよね…。「過去におけるもろもろのエポックは、それらがそれであってきたところのものである」ではわけがわからないし、前後の文の中に「what それ」に該当するものが見つからなかったのでこう訳してみたのですが…。うーむ。

     原文の段落分けは一行空けで表しました。
     原文の斜体による強調は訳文に反映しませんでした。傍点で表したかったのですが、本サイトは傍点・ルビ非対応のようです(下線で表現することはできますが見た目がよくない…)。

     冒頭にも記しましたが、『ホワイトヘッド伝』を著したV・ロウは、「極度に圧縮されており異常に難しい。この論文が値するだけの注目をしてきたのは、ごく少数のホワイトヘッド学者のみである」と評しています。
     以下は、同『ホワイトヘッド伝』にロウが記している情報です。
    ・時期的にも内容的にも、『科学と近代世界』から『過程と実在』への過渡期にある。
    ・『科学と近代世界』における「出来事 event」が、「(現実的)生起 (actual) occasions」に取って代わられた。
    ・生起が「二極的 dipolar」であるという説明が初めてなされた。
    ・「合生 concrescence」、「客体的不死性 objective immortality」、「提示的直接性 presentational immediacy」という術語が初めて用いられた。
    ・「後継 supersession」という術語は、この後に書かれた『過程と実在』には出てこない。

    〔おわり〕


    The epochs in the past are what they have been.



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