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オリジナル版チューリングテストは性のゲームだった
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オリジナル版チューリングテストは性のゲームだった

2018-08-03 18:30








    チューリングの論文「計算機械と知能」(1950年)を読んだ。ホフスタッター&デネット編『マインズ・アイ』(TBSブリタニカ、新装版、1992年)に収録されている。

    有名な「チューリングテスト」の初出となる論文だ。チューリング自身は「イミテーション・ゲーム」と呼んでいる。

    チューリングテストにはいくつかのバージョンがあるらしい。現在はチューリングテストと言えば、「ある人(質問者)が、タイピングなどを介して、相手が人間なのかコンピュータなのかわからない状態で会話をする。コンピュータが人間のふりをすることに成功したら(質問者が、コンピュータのことを人間だと思い込んでしまったら)、そのコンピュータには知性があるという、一つの基準となるかもしれない」というものだろう。

    しかし、この原論文で初めて登場する「イミテーション・ゲーム」は、もっと複雑だ。

    「ある人(質問者)が、タイピングなどを介して、一人の女性および一台のコンピュータと会話する。コンピュータは人間の女性であるふりをして回答する。女性は、自分こそが女であるとわかってもらえるように(質問者がコンピュータに騙されないように)回答する。コンピュータが女のふりをすることに成功したら(質問者が、コンピュータの方が人間の女性であり、人間の女性の方は自分を騙そうとしているコンピュータだと思いこんでしまったら)、そのコンピュータには知性があるという、一つの基準となるかもしれない」。これが、チューリングの原論文の冒頭に描かれている「イミテーション・ゲーム」だ。

    …なぜ女性? 性別関係ある? コンピュータに女性のふりをさせる、しかも本物の女性と競争させつつ。妙に難易度高くない? 高い知性をもつ人間の男性にだってできないかもしれない。女性のふりをするってのは、たしかに高度な知性が必要だろうけど、知性の問題とずれちゃってない?

    チューリングいわく、この「イミテーション・ゲーム」は、もともと、一人の男と一人の女が、自分こそが女であると質問者に思わせるように会話するゲームなのだという。実際に当時、そういう遊びが流行っていたのだろうか? この男の役を単純にコンピュータと置き換えたのがチューリングが最初に描いた「機械は思考するか」のテストだ。妙に複雑な問題設定になっているのは、この人間三人で行うゲームをもとにしているせいだ。

    この論文の中でさえ、このテストがどんどん変奏されてゆくので、チューリングテストが「コンピュータに女と競争させつつ女のふりをさせる試み」なのは、この論文の冒頭部のみ。

    なので、「チューリングテスト」の初出が不気味な性的充填を伴っていたというのは、人工知能研究の立場からはなんら注目点とはならない。私が文学的(?)に面白いなと思っただけです。(機械という言葉に人間を含めないためには、その研究室は男だけか女だけにするという条件も必要カナ?というくだりもある。なんなんすかねこの、下品な性的ジョークをちょいちょい挟んでくるかんじ…)

    チューリングがこの論文でいちばんの論点としているのは、「機械は考えるか?」という問題の建て方は曖昧なので(「機械とは?」「考えるとは?」といった問題へ発散してしまうので)、「機械は人間のふりをできるか?」という問題に置き換えた方がよい、という点だ。これは「機械は考えるか?」という問題と同一ではないかもしれないが、かなりの部分をカバーしつつ、明確な答えの出せる問題になる、と。

    そして、このように問題を置き換えたことを武器に、「機械は考えない」という主張の様々な根拠をバッサバッサと斬ってゆくのである。

    注意すべきなのは、チューリングは、「機械は考えるか?(機械は、本当に人間のような意味でものを考えるのか?)」という問いと、このテスト(チューリングテスト)が、完全に同一だなどとは言っていないということだ。チューリングテストをクリアする機械が現れたとしても、〈それは本当に考えているのか?〉と問う人は残るだろうし、そういう人を完全に説得する手段はないだろう。

    しかし、〈機械が考えるように見えるようになったら、私は機械が考えたとみなすだろうし、多くの人も機械が考えるということを当たり前のこととして受け入れるだろうと思う。それでもお前が「機械は考えない」と思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな〉と突き放しているのが、チューリングのこの論文なのである。

    チューリングのこの論文から70年近くが経過したけれども、私たちが触れるAIがどれほど知的に振る舞ったとしても、それが本当に人間のような意味で「考え」ていると思う人は少数派だろう。その意味ではチューリングの予想は外れたし、今後も当分は外れ続けるだろう。しかし、あえて問題の深み(本当に考えているのかどうかと問うこと)を目指さずに、表層的な明晰さ(機械が人間のように振る舞ったら人間のように思考したと自分はみなすのであり、そうみなさない人は仕方がない)を選んだチューリングはかっこいい。


    さて、本筋と関係のない論点としては、チューリングがテレパシーの実在を信じてることが伺える点もおもしろい(「テレパシーに対しては、統計的証拠は圧倒的である」p92)。この時代は、大知識人でもテレパシーを信じてた人が多いですね。チューリングだけではない。


    まあ、私のほうからは以上です。人工知能の勉強をしようと思って、まずはこの論文を読んでみたんだけど、結局こういう変なところを面白がってしまう。

    次回は、サール「心・脳・プログラム」(1980年)を読みます。








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