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株で兆った男――現代語訳・鈴木久五郎の告白記三編 その3の前半
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株で兆った男――現代語訳・鈴木久五郎の告白記三編 その3の前半

2014-08-21 00:07
    鈴久の告白記、第三弾です。これも前後半に分割して掲載します。

     明治四十二年五月号p94-97「余が失敗時代の回顧と楽天主義」
          同六月号p6-12「嘗て余が一千万円を勝ち得たる経路」 ← 前回掲載
          同七月号p45-52「古今未曽有と称せられたる予が全盛当時の活劇」 ←今回は前半を掲載

     ここから、鈴久の成功にいよいよ弾みがつきます。相場で儲けるだけでなく、買い集めた株の力で経営改革や企業乗っ取り、企業合併など、縦横無尽に暴れ回ります。

    ===============================

    実業之世界  第六巻第七号  (鈴久の半生涯)

    『古今未曾有と言われた私の全盛当時の活劇』

       ――前号所載『かつて私が一千万円を勝ち取った経路』の続き――

                                鈴木久五郎



    ▼機関仲買店の開設

     私は〔明治〕三十七〔1904〕年の十一月四日、洋行へと出発したが、途中で上海に立ち寄り、日露戦争がいよいよ危機に迫ったのを見て心機一転し、ただちに帰国して兄と談合のうえ、百万円を賭して株式界に輸贏〔しゅえい=勝ち負け〕を争った。ところが、屈辱的講和に対する国民の余憤〔収まらない怒り〕が凝り固まって日比谷公園の焼き討ちとなり、天下は騒然となり、株式は暴落に暴落をかさね、それに加えて鈴木銀行の取り付け騒ぎが起こったが、馬場金助氏らの義俠によって、ようやく難関を切り抜ける。すると今度は私自身が腸チフスに罹り、順天堂医院に入院した。この経緯と、その間に処した惨憺たる苦心とは、すでに前号において述べた。

     さてここからは、私の得意時代である。

     私は病院から出て考えた。他人の店に株の注文をするのは不得策である。安く買えるものを高く買わされたり、高く売れるものを安く売らされたりする。これに加えて、自分が頼んだ株を正式に取引所へ取り次いでいるのか、あるいは『呑んで』いるのか、すこぶる疑わしい〔呑む=仲買店が、顧客の売買注文を受け付けておきながら、実際には売買しないこと〕。五百株や千株ならどうでもよいが、何万もの株にもし間違いが起ころうものなら、こちらの存廃存亡にかかわる。そこで、自分で店を拵〔こしら〕える必要を感じた。

     それなら誰に店をやらせればよろしいか。思い当たったのは、瀧沢吉三郎〔たきざわ きちざぶろう〕君である。高等商業の出身で、高橋義雄〔三越の経営などにあたった実業家、茶人〕の乾兒〔こぶん〕として、かつて三井銀行にあり、それから大阪住友銀行の副支配人となり、さらに抜擢されて東京支店支配人となって今日にいたる。交際してみると、ちょっと人格もあるし、とりわけ長く銀行業に従事している人だから金融界の事情に詳しい。

     瀧沢君はチョイチョイ遊びにくる。まず私が何気なく、「どうです面白い事はありませんか」と聞くと、「月給取りほど馬鹿らしいものはない」と前置きして、「自分の理想は、もともと株式業者になることであった。欧米の仲買業者と連絡して日本の公債や株式を欧米市場に売り出すことであった。半田庸太郎〔東京の相場師。隻眼で独眼龍将軍とも呼ばれた〕の妹を娶り、しばらく半田の店の手伝いをしていたのも、この理想を実施しようとしたためであった。ところが不幸にして、事実は理想と異なり、三井銀行に入って住友銀行に転じ、四十一歳の今日まで、いまだ月給取りの境遇を脱し得ないのは、我ながらあまりに意気地のないことだ」と、瀧沢君は述懐した。

     私は、この機に乗ずべしと思い、「それなら私が金を出すから仲買をおやりなさい。私も単純な考えで相場をしているのではない。後々にはこういう考えを持っているのだ」といろいろ自分の抱負を語り、住友銀行を辞職することを勧めた。すると瀧沢君は、「二、三日考えさせて貰う」と言って帰ったが、ふたたびやってきて、「いよいよ辞職を決心した」と言って、ただちに大阪へ辞職の談判に行った。そうして住友吉左衛門〔すみとも きちざえもん、住友財閥当主が代々襲名する名前。このときは十五代目の住友友純=すみとも ともいと、住友銀行の設立者さんに会ってそのことを話すと、吉左衛門さんは温厚篤実の人だから「それは何か不満のことでもあってのことか。ひょっとして月給が不足であるというのか。いずれにしてもあなたの満足するように取りはからうから、いま一度考え直してくれ」と、まことに情け深いことを言われるので、瀧沢君はせっかく懐にして行った辞表を差し出すわけにいかず、そのまま東京に帰ってきた。すると私は「なに構わぬ、辞表は郵便書留で送ってやれ」と瀧沢君を励まして、とうとうその通り実行し、いよいよ「丸吉」という屋号で仲買店を開業した。


    ▼十分間に東鉄一万三千株を買い占める

     かくの如くして、私は瀧沢君によって機関仲買を得たので、勇気一層を増し、ここから先は縦横無尽に戦った。相変わらず買いの一方である。しかも、私の計画は着々と功を奏して、鈴木久五郎はほとんど天下に敵なしという勢いである。このとき一番多く買ったのは東京鉄道で、それは三十八年の七月である。当時の運賃は三銭均一であった。それが一週間ばかり後に一銭値上げになるということを、兄がある先輩から聞き込んだので、「いくらでも買えるだけ買え」と瀧沢君に号令をかけた。すると、ひと場所――たった十分ばかりのあいだに一万三千株を買った。相場は六十九円から七十円くらいであった。これまでも買占めをした人はたくさんあるが、ひと場所でざっと一万三千株買ったというのは、取引所開設以来のことであるそうだ。三井が炭坑株の買占めをしたときでさえ、前場で千株、後場で千株というふうに買ったのであった。

     いくら「たくさん買え」と行っても、五千株か七千株であろうと思っていたら、さて買い出すと、あっちからも『ヤリ』、こっちからも『ヤリ』と、売り手は雲のごとく次々現れて、瞬く間に一万三千株を買ってしまったのである。〔相場用語で、ヤリ=売る、カイ=買う、という意思表示〕

     私はそのことを知らずに自宅で朝寝をしていると、瀧沢君から「鎧橋わきの吾妻亭〔西洋料理屋〕まで至急きてくれ」という電話がかかってきた。行ってみると瀧沢君は、「誠に申し訳ないから辞職します」と言う。突然のことで私は驚いた。「どういうわけだ」と聞くと、「委細は兄さんにお話してあるから、兄さんから聞いてくれ」と言う。それで兄に聞くと、兄の言うには「おれも悪かった。いくらでも買えと言ったら、買いも買ったり、一万三千株買ってしまって、証拠金だけでも四、五万円は要る。証拠金の四、五万は何でもないとしても、もし仲買人一同に睨まれようものなら、叩き殺されてしまう。連合して売り崩されて今日も十円安、明日も十円安と来ようものなら、到底立つ瀬がない。あまりに深入りして面目がないから辞職しますと瀧沢君が言うのだ」とのことである。

     そこで私が瀧沢君に言った。「買ってしまったものは後で何と言っても仕方が無い。しかし辞職するのは武士道ではない。昔の武士は死んでしまえば全ての罪が消えるように思っていたが、それは間違っている。失敗したらしたで、第二の計画を立てるのが本当の武士道である。君の失敗はとがめない。しかしその失敗を回復する道を講じるのが君の責任である。ナーニ、これくらいの後始末ができぬものか。ナポレオンは『出来ぬということは愚者の字引に見よ』と言った。我々が愚者でないとすれば、一致協力して適当なる善後策を講じようではないか」と激励して、私はさっそくその運動にとりかかった。

     すると、三井と十五(銀行)で、再来月(九月)になれば四千株まで引き取ってくれるという。つまり、つごう八千株の引受者ができた。あと五千株くらいはどうにでもなると思ったから、ここ一番私の腹にたたみ込んでおいて、兄と瀧沢君とには「一万三千株を全部引き受けてくれる者がいたから安心なさい」と言った。このようにして機敏に戦闘準備を整え、後場の景気いかがと見れば、幸運なるかな、五十銭高ときている。


    ▼一挙に二十七万円を儲ける

     ところが、このことが思いがけず諸新聞の注意を惹いて、翌日の記事に、「昨日、丸吉の店で東鉄の買占めをしたのは、村井〔村井吉兵衛、煙草王〕筋であるらしい」と書いているのもあれば「横浜の西洋人であるらしい」と書いているのもある。あるいはまた「金持ち筋の思惑である」とか諸説紛々としているが、いずれも的を外れている。

     しかし、ここにただ一つ、確実な報道をした新聞がある。それは外でもない『中外商業新報』〔現在の日経新聞〕である。「あれは村井でもなければ西洋人でもない、確かに鈴木久五郎一派である」と、はっきり書いている。こうまでくるとさすがに中外商業はえらい。誰が機密を漏らしたのかは未だに分からぬが、とにかく、世評紛々たるなかで独り報道を誤らなかったのはさすがに商業専門の機関新聞である。私は、何にもならないことだけれども、この一事に対して少なからず中外商業に敬意を表して、その記事を切り抜いて保存してある。

     それはともかく、我々はこの記事を見て少なからず狼狽した。「こうやって中外商業によって我々の行為が明白に伝えられた以上は、必ず仲買から逆襲を受けるに相違ない」と憂慮していたが、ものごとは案ずるよりは産むが易いもので、仲買らはだれ一人、反抗的態度をとらなかった。「これは運賃値上げのことをいち早く知ってやったことに違いない。運賃が一銭上がれば一ヶ月に八千円、一年に八、九万円の増収になる」ということで、買い方は方々から現れて、その二週間後に運賃値上げのことが発表されたときには八十七円という高値をつけた。それで我々は、実株を受け取る必要がなくなったので切って〔売り抜けて〕しまい、わずか二十四、五日のあいだに一挙に二十七、八万円を勝ち得た。


    ▼東株〔東京株式取引所。取引所自体も株式会社であり、その株が売買された〕の買占め

     東鉄の買占めにはみごと凱歌を奏したので、それからさらに東株の買占めにかかった。東鉄の買占めは一時的な利益を争ったにすぎないが、この東株の買占めについては大いに理由がある。

     一度でも足を取引所に運んだ者は、その家屋が狭隘で空気が腐敗しているのに眉を顰〔ひそ〕めざるをえないだろう。あの狭い『場』に人がいっぱいに入り組んで取引するのは、衛生上はなはだ宜しくない。とくに夏になると一層ひどい。そこでこれを改築して、空気の流通をよくし、夏などは打ち水をして香水の匂いくらいするようにしておかねばならぬ。聞く所によれば、進歩した外国の取引所では、その門前に自動表示器とかいうものがあって、ちょっとボタンを押すと、出来た相場〔売買が成立した値段〕がたちどころにその表示器に現れる。あるいはまた、この表示器を取り付けておく仲買店は、居ながらにして時々刻々の相場を知ることができるそうである。わが取引所も、このような構造にしたい。

     それから、資本金を増したい。当時、取引所の資本金は四百万円、払い込みは二百五十万円に過ぎなかった。このような小額の資本金をもつ取引所が、はたして大取引の責任を負えるのかどうか。現に我々は、四百万円、五百万円の大取引をするたびに、少なからず取引所を危ぶんでいる。我々ごときがすでにそうだとすれば、ましてや外国人ならなおさらだ。将来、外国の仲買人と連絡をつけ、日本の株券を外国に売り出すなどということは、思いも寄らぬことである。「これは増資をしなければならぬ」ということで、買占めにかかったのである。

     そうして我々一派でもすでに一万五千株、過半数以上を買い占めた。それからさらに取引所の株主有志を糾合して「丙午会(へいごかい)」というのを作った。ちょうど午(うま)の年に作ったから丙午会と名付けたのである。会員は二十七名であった。この丙午会で、取引所の株金〔株式に対する出資金〕を従来の三倍、すなわち一千二百万円に増資することに決議した。そのとき、岡本銀行の岡本善七氏と、通商銀行の籾山半三郎氏とが反対した。その反対の理由は「今は株式市場は非常に景気がよいけれども、今後かならず反動がくる。そのさい増資をしたせいで著しく配当が減じては困る。我々は日清戦争後のときに苦い経験を嘗めている。一時的な景気に浮かれて増資するのは早計の謗〔そし〕りを免れぬ」と言うのである。

     そこで私は言った。「それはあなた方の頭が古い。日露戦争は日本開闢以来の戦争である。この戦争によって日本の偉いことが初めて世界に紹介されたのである。なるほど日本は日清戦争に勝った。けれども相手は支那である。列強は、日本が勝つのが当然だと思っていた。これとは違って、このたびは世界の最強国と称されるロシアに勝ったのである。同じ勝つでも勝った値打ちが違う。この戦勝のおかげで、日英同盟はますます強固となる。それと同時に、日仏同盟もできるかもしれん。日米協約もできるかもしれん。その結果、必ずフランスの資本が入ってくるだろう。アメリカの資本が入ってくるだろう。しかも彼らは、資本金が四百万円で払込みが僅か二百五十万円のわが取引所を見て、いかなる感を懐〔いだ〕くか。日露戦争後の日本は世界の日本である。日本がすでに世界的となれば、取引所もやはり世界的に拡張せねばならぬ。つまり今日は事情が違う。失礼ながらあなたたちの頭は古い。そのような古い頭をもって反対されては困る。あくまで反対されるなら脱会してもらいたい。脱会せぬなら、我々はあなた方二人のために丙午会の大勢を動かすわけに行かぬから、我々の方から除名する」と私が息巻く。「マァ喧嘩づくでは困る」と言って仲裁する者がいたので、会員一人一人について賛否を糺〔ただ〕すことにした。すると一同は賛成だという。結局、岡本・籾山の両氏も無理往生に賛成する事になって、ここに満場一致をもって増資案を可決し、取引所の理事長、中野武営〔なかの たけなか〕氏のもとに談判に行った。

     我々はいきなり中野氏に「あなたは現在の取引所にご満足ですか」と問うと、「いや決して満足してはおらぬ」との答えである。「それなら一つ改革しましょう」と言って我々の抱負を語ると、「いかにもお説の通りである」と中野氏は同意する。そこで改革案は我々に一任することとなり、調査会というのを作って、私の兄がその会長となって調査に従事し、その結果、総会を開いて、ついに我々の希望どおり一千二百万円に増資することにした。

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    今回はここまでにします。後半は次回にて。



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