• 2015年 七夕に添えて

    2015-07-07 23:26

     七夕という時期はとっても悲劇的だなあと毎年思う。一年に一度織姫と彦星が出会うというストーリーがあるのは有名だけれど、一体どういう理由で一年に一度しか会えないのか、それに加えて二人がどういういきさつで恋仲であるというのか、知らないでいる。付け加えると日本では大概梅雨の季節で、晴れ空が期待できないではないか。曇ったり、雨が降れば彼らが逢えないように感じるのは人間の勝手であることは承知なのだけれど、一年に一度も逢えないでいる恋人を想像してしまう人間の想像力ってものは残酷だ。
    大好きな人の訃報を聞いて五ヶ月が経過して、彼女の迎えるべきであった誕生日から三ヶ月が経過する。私が恋して、愛した人にはもう二度と逢えない事実がある。それがどうにも納得できずにいて、今生でこれほどに苦しい出来事が存在するのかと思うほどに七転八倒したというのに、今は何の痛みも苦しみも無い。
    本当は何かの痛みを感じていて、その痛みを感じる受容体のような物が壊れてしまっているだけだと好意的に理解されるのは困る。彼女の事を引きずる様子もなければ、明らかに過去の出来事として処理しているのだ。それも、死人に口無しといった風で自分の都合の良いように解釈して処理してしまっている。七夕への夢想の中で、残酷な物語を想像している市井の人々をどれほど批判できる事だろう。自分の身の上に起こった事を、苦しみや痛みが無いものとして袋に包んで、ゴミ箱のようなところに閉じ込めてしまえるのだ。
    こうやって考えると、私が善人であるとは思えない。けれど、あまり良く知られていない人には善い人だと思われたり、そう評されたりする。評価と実際の自身が大きく乖離していく事は、とても悲しい。それは、七夕というストーリーに登場する織姫と彦星のように引き裂かれてしまった二人への悲しさと残酷さを併せ持っているような気がする。



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  • 半人前

    2015-06-18 02:01


     少し茶ばんだ柔らかな紙を、ゆっくり味わう様に見つめる親友F君のまあるい眼は、小動物の目を思い出させられる。だからこそ僕は、ゆったり浸っているその姿に何かしらのイラ立ちと、イタズラ心を呼び起こして、アバラのあたりに蹴りの一つも入れたくなる。
     実際に今まで何度か試してみたけれど、あっとか、うぅっとかの返事しか返って来ないし、小動物の風情を湛えた同い年のオッサンを気持ち悪いからという理由でイジメてしまう事は、我ながら悪趣味だと思うのでガマンしておいてやる。
    とは言っても、容易に僕というサディストは止まらないのが実情だ。
    「オィ、おまえ、今まで恋をした事はあるか」
    「あるよ」
    優しく開かれていたはずの小説は、ぱたんと閉じられた。F君の視線をはぐらかすかように、僕は煙草に火を点けた。眉間にしわがくっと寄って、吸い込む煙の苦さが目のまわりに滲み出して来た頃、パァッと煙を吐き出しながら、言葉も放つ。
    「イヤ、違うよォ、おまえさんの児戯みたいなヤツでなくってよォ。ホンモンの情愛だよ焼かれる様なヤツだ」
     こんな風にストレートな急所攻撃は、F君のプライドを粉々にすると見える。踏まれたうどんの生地みたいな顔をするから、蹴りよりよっぽど心地が良い。
    「そういうのは無いかもしれない」
     期待通りの答えに、僕はいよいよ腹の中で笑い出す。彼はいつだって曖昧なんだ。知り合ってからずっとそうなのだし、知り合うずうっと前からそうなんだろう。何時も自分自身の在り方を問わず、何者に成るか希望を持たず、ハードグミみたいな中途半端さが彼の生き方なんだろう。だから、僕はそれを見逃す事はしないんだ。
    「エ、かもしれないってコトはねぇだろうよォ。エ、テメェのコトだろ?それなら、あったなら有った、なかったなら無かった、てな具合にハッキリするはずじゃあねェかァ」
     突きつけられた分の悪さと、F君自身が悟られまいとする愚かさは、慌ててとりつくろう姿に現れている。そうなる彼を見て、腹にためたはずのこらえるべき笑いは、口のあたり目のあたりから溢れて、もうこぼれて来るようだ。
    「そ、そうだね。ごめん。無かったよ……俺にはそんなの無かった。」
    突然に見せた素直さと、F君自身が抱える誰にもモテた試しが無い悲しみに、やっぱりこいつは蹴っておくべきだったと心底思う。
     汚いオッサンなのは仕方が無い。同い年の僕だって大して変わらんのだから。けれども、そんな汚いオッサンだって、一人前分の人生が用意されているんだ。しっかりたいらげろと思う。見た目がどうの、味付が合わないの、嫌いな具材が入っているの、アレルギーかもしれないの、なんだか食べられる気がしないの、じゃあ女々しくって仕方がない。
    「まァ、いいよ。だけどなF君。本当の恋をした時はさ、天国じゃあないんだよ。そりゃ、地獄だ」
    「地獄?なんだ」
    「そう、地獄。体が焼ける。内から焦げて、外から焼かれていく」
    「うわぁ……」
    例え話をイチイチ想像しちまって、虫でも入ったゲテモノ料理でも前にしたような顔をするなよ、話の途中だ。
    「だからよォ、好きな人の前に行ったら、目の前に好きな人が居るっていうその重圧で身が外からジリジリ焼かれちまう。それでいながらだよォ、うちにある恋心のせいで、内側からの重圧で身がジリジリ焦がされちまうんだよォ。心臓だってバクバクして、もうどうしていいかわからなくなっちゃう。姿だって直接みることすらかなわず、顔なんかとんでもないし、目だってあわせられないから、ひたすらに下を向くんだ。そりゃ、こう自然と猫背になって丸まっちゃう。そうするとどうだ、お天道様なんか見上げらりゃしねェ。もう地面ばっかりしか見られない。垂れる汗も涙も鼻水も、全部足下ばっかりに垂れていく。声だって前にゃ届きはしねェんだ。何を言ったって、思ってたって聞こえるはずがないんだよォ。本気の恋っていうのは、そういう中でやっていくんだよ。本当に好きになるっていうのは、そういう地獄みたいなことじゃあねェか」
    身振り手振りを交えて話すと、F君の苦々しかった顔つきは段々と解れていって、パッと紅でもさしたような明るい顔つきになる。そうして、F君が得心した時の妙に響く低い声で
    「そうかあ」
     しかも、今回はなるほどなぁとかぼそぼそ呟きながら、手をポンと叩いた。まるで、名探偵金田一耕介のドラマで警部がやる、よしわかった!みたいに。
     僕は、とうとう若い頃の無邪気さが甦って来て、すばやく立ち上がり橋本真也ばりの蹴りをおみまいする。その勢いで薙ぎ倒されたF君は床に転がり、あっとも、うぅっともつかない返事をしている。F君の両腕は腹を抱える様にして、その小さな文庫本を守っていた。彼が一向に現実を直視出来ないのは、それのせいである気がして――そうでないと解っていても許せなくて――僕はもう一つ、F君の返事を聞く。あっともうぅっともつかない返事が、いびつな部屋の空気に響いた。
    僕は何時になったら、この悪趣味を辞めることが出来るのだろう。自分を厭になる衝動が怒りに任せて真っ赤に燃える。永く僕を知るF君に何も伝えられないまま、伝わらない悔しさをボウリョクってものに変換している。それは、キーボードのキーでやるくらいに容易く、無意識に。僕の手や足に伝わる痛みの何倍かあるはずの、君の感じる痛みはリアルだろう、リアルなはずだ。
    彼も僕もまるで違って見えて、その実一緒なんだ。互いに変わりたいと思っても変われないでいる。それを解ってしまう敏い僕だから、余計に君の中に僕をみつけてしまうんだ。そんな惨めな自分も許せないから、ボウリョクの変換がとまらない。どんなに惨めでも、どんなに出来なくても、現実を生きなくっちゃあいけないんだ。このままじゃあ、二人合わせても一人前になりゃしない。



  • 20150616鈴木清純ツィゴイネルワイゼンを視聴して

    2015-06-16 19:24


     四月からニコニコ生放送でネットストリーミング配信をしている。そんなことは私自身わかりきっていることなのだが、これもまた記録として残しておかないと、今日残すこの内容がどういう背景があったのかわからなくなってしまうのだ。
    そのニコニコ生放送で、私の放送を視聴していた人から鈴木清純のツィゴイネルワイゼンを観てほしいというリクエストがあった。即時的に対応するというのは無理な道理なのだが、私はそういうリクエストに対してなるべく真摯に対応したいと思っていたから、後日時間を見つけて鑑賞すると申し上げた。しかし、私という人間は忘れっぽいのだからこのコメントだけを抽出してメモ帳に書いて残しておいた。
    後日、精神的にも時間的にも余裕が出来たタイミングでメモ帳に書いてある事を認めて、ネットで視聴できないものかしらと探してみた。そうしたら、あったのだ。二時間以上かかる映画をじっとパソコンの前で視聴するのは、案外難儀なものだ。途中で気がそぞろになってしまったり、集中を妨げる喉の渇きや、明るい娯楽の誘惑に負けてしまうこともある。だから、私は相当に覚悟して観る事にした。
    内容は、芸術作品らしい彩りがあって、音楽も映像も強烈だった。勿論、一度は見るべき内容かもしれないとも思ったけれど、二度目を観る必要性を感じなかったのだ。

    ◇◇◇

     この所、何かを書くという衝動が削がれていたせいもあって、ツィゴイネルワイゼンを視聴したその日のストリーミング配信は、顔を出してただこの映画の感想とやらを述べたり、アニメを見て一日を過ごしただの、私の好きなヨーグルトの調味の仕方を解説しながらそれを食べるだのといった感じの放送をしていた。
    この時は、何も感づいていなかったのだ。あの映画がもっている毒性というものを。
    私はあの映画を観てからというもの、寝ている間も、トイレに行っている間も、食べていても、本を読んでいても、映像や音楽がフラッシュバックするのだ。脳に悪いウィルスでも侵入してきて、熱病にでも侵されたような状態になってしまっている。
    例えるなら、あの映画は蛇だったのかもしれない。それも毒蛇だったのかもしれない。咬まれた。だから、その毒がまわってしまって私を苦しめているのかもしれなかった。
    この苦しみは奇妙なもので、あの映画の音楽や映像が脳裏にフラッシュバックする度に、心象風景をとどめたカセットテープを巻き戻されたり、逆再生されるような不快感があった。
    ずっと苦しみの中にあるのなら、慣れようがある。このフラッシュバックする間隔というものが、しゃっくりに良く似ている。イヤ時にイヤな間でやってくるのだ。特に集中したり、緊張している間には訪れることがなく、その張り詰めた精神をほんの少しでも緩めた瞬間を、見抜いたように現れてくるのだった。
    私は、あの時放送でツィゴイネルワイゼンを視聴してほしいとリクエストした、視聴者に対してわずかな憎悪がわいた。こんな風になってしまうことを予見してリクエストしてきたのだとしたら、それは間接的に毒蛇を放ったのではないか。
    でも、視聴者には何かの善意があったとしたらどうであろうか?好意的に受け止めるべきだ。視聴者には、この映画に対する興味深さや芸術性の高さ――それは私にとって毒蛇となっただけであって――を伝えたかったのかもしれない。
    こういう反問の繰り返しは、自身の中にある不信心さを気づかせてくれる。その信心はどこにむかっているのだろうか?神だろうか。それもあるかもしれない。でも、本当の意味での私の信心は自分自身に向けられている正しく生きているのか?ということなのだろうと思う。