20150616鈴木清純ツィゴイネルワイゼンを視聴して
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20150616鈴木清純ツィゴイネルワイゼンを視聴して

2015-06-16 19:24


     四月からニコニコ生放送でネットストリーミング配信をしている。そんなことは私自身わかりきっていることなのだが、これもまた記録として残しておかないと、今日残すこの内容がどういう背景があったのかわからなくなってしまうのだ。
    そのニコニコ生放送で、私の放送を視聴していた人から鈴木清純のツィゴイネルワイゼンを観てほしいというリクエストがあった。即時的に対応するというのは無理な道理なのだが、私はそういうリクエストに対してなるべく真摯に対応したいと思っていたから、後日時間を見つけて鑑賞すると申し上げた。しかし、私という人間は忘れっぽいのだからこのコメントだけを抽出してメモ帳に書いて残しておいた。
    後日、精神的にも時間的にも余裕が出来たタイミングでメモ帳に書いてある事を認めて、ネットで視聴できないものかしらと探してみた。そうしたら、あったのだ。二時間以上かかる映画をじっとパソコンの前で視聴するのは、案外難儀なものだ。途中で気がそぞろになってしまったり、集中を妨げる喉の渇きや、明るい娯楽の誘惑に負けてしまうこともある。だから、私は相当に覚悟して観る事にした。
    内容は、芸術作品らしい彩りがあって、音楽も映像も強烈だった。勿論、一度は見るべき内容かもしれないとも思ったけれど、二度目を観る必要性を感じなかったのだ。

    ◇◇◇

     この所、何かを書くという衝動が削がれていたせいもあって、ツィゴイネルワイゼンを視聴したその日のストリーミング配信は、顔を出してただこの映画の感想とやらを述べたり、アニメを見て一日を過ごしただの、私の好きなヨーグルトの調味の仕方を解説しながらそれを食べるだのといった感じの放送をしていた。
    この時は、何も感づいていなかったのだ。あの映画がもっている毒性というものを。
    私はあの映画を観てからというもの、寝ている間も、トイレに行っている間も、食べていても、本を読んでいても、映像や音楽がフラッシュバックするのだ。脳に悪いウィルスでも侵入してきて、熱病にでも侵されたような状態になってしまっている。
    例えるなら、あの映画は蛇だったのかもしれない。それも毒蛇だったのかもしれない。咬まれた。だから、その毒がまわってしまって私を苦しめているのかもしれなかった。
    この苦しみは奇妙なもので、あの映画の音楽や映像が脳裏にフラッシュバックする度に、心象風景をとどめたカセットテープを巻き戻されたり、逆再生されるような不快感があった。
    ずっと苦しみの中にあるのなら、慣れようがある。このフラッシュバックする間隔というものが、しゃっくりに良く似ている。イヤ時にイヤな間でやってくるのだ。特に集中したり、緊張している間には訪れることがなく、その張り詰めた精神をほんの少しでも緩めた瞬間を、見抜いたように現れてくるのだった。
    私は、あの時放送でツィゴイネルワイゼンを視聴してほしいとリクエストした、視聴者に対してわずかな憎悪がわいた。こんな風になってしまうことを予見してリクエストしてきたのだとしたら、それは間接的に毒蛇を放ったのではないか。
    でも、視聴者には何かの善意があったとしたらどうであろうか?好意的に受け止めるべきだ。視聴者には、この映画に対する興味深さや芸術性の高さ――それは私にとって毒蛇となっただけであって――を伝えたかったのかもしれない。
    こういう反問の繰り返しは、自身の中にある不信心さを気づかせてくれる。その信心はどこにむかっているのだろうか?神だろうか。それもあるかもしれない。でも、本当の意味での私の信心は自分自身に向けられている正しく生きているのか?ということなのだろうと思う。





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