半人前
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

半人前

2015-06-18 02:01


     少し茶ばんだ柔らかな紙を、ゆっくり味わう様に見つめる親友F君のまあるい眼は、小動物の目を思い出させられる。だからこそ僕は、ゆったり浸っているその姿に何かしらのイラ立ちと、イタズラ心を呼び起こして、アバラのあたりに蹴りの一つも入れたくなる。
     実際に今まで何度か試してみたけれど、あっとか、うぅっとかの返事しか返って来ないし、小動物の風情を湛えた同い年のオッサンを気持ち悪いからという理由でイジメてしまう事は、我ながら悪趣味だと思うのでガマンしておいてやる。
    とは言っても、容易に僕というサディストは止まらないのが実情だ。
    「オィ、おまえ、今まで恋をした事はあるか」
    「あるよ」
    優しく開かれていたはずの小説は、ぱたんと閉じられた。F君の視線をはぐらかすかように、僕は煙草に火を点けた。眉間にしわがくっと寄って、吸い込む煙の苦さが目のまわりに滲み出して来た頃、パァッと煙を吐き出しながら、言葉も放つ。
    「イヤ、違うよォ、おまえさんの児戯みたいなヤツでなくってよォ。ホンモンの情愛だよ焼かれる様なヤツだ」
     こんな風にストレートな急所攻撃は、F君のプライドを粉々にすると見える。踏まれたうどんの生地みたいな顔をするから、蹴りよりよっぽど心地が良い。
    「そういうのは無いかもしれない」
     期待通りの答えに、僕はいよいよ腹の中で笑い出す。彼はいつだって曖昧なんだ。知り合ってからずっとそうなのだし、知り合うずうっと前からそうなんだろう。何時も自分自身の在り方を問わず、何者に成るか希望を持たず、ハードグミみたいな中途半端さが彼の生き方なんだろう。だから、僕はそれを見逃す事はしないんだ。
    「エ、かもしれないってコトはねぇだろうよォ。エ、テメェのコトだろ?それなら、あったなら有った、なかったなら無かった、てな具合にハッキリするはずじゃあねェかァ」
     突きつけられた分の悪さと、F君自身が悟られまいとする愚かさは、慌ててとりつくろう姿に現れている。そうなる彼を見て、腹にためたはずのこらえるべき笑いは、口のあたり目のあたりから溢れて、もうこぼれて来るようだ。
    「そ、そうだね。ごめん。無かったよ……俺にはそんなの無かった。」
    突然に見せた素直さと、F君自身が抱える誰にもモテた試しが無い悲しみに、やっぱりこいつは蹴っておくべきだったと心底思う。
     汚いオッサンなのは仕方が無い。同い年の僕だって大して変わらんのだから。けれども、そんな汚いオッサンだって、一人前分の人生が用意されているんだ。しっかりたいらげろと思う。見た目がどうの、味付が合わないの、嫌いな具材が入っているの、アレルギーかもしれないの、なんだか食べられる気がしないの、じゃあ女々しくって仕方がない。
    「まァ、いいよ。だけどなF君。本当の恋をした時はさ、天国じゃあないんだよ。そりゃ、地獄だ」
    「地獄?なんだ」
    「そう、地獄。体が焼ける。内から焦げて、外から焼かれていく」
    「うわぁ……」
    例え話をイチイチ想像しちまって、虫でも入ったゲテモノ料理でも前にしたような顔をするなよ、話の途中だ。
    「だからよォ、好きな人の前に行ったら、目の前に好きな人が居るっていうその重圧で身が外からジリジリ焼かれちまう。それでいながらだよォ、うちにある恋心のせいで、内側からの重圧で身がジリジリ焦がされちまうんだよォ。心臓だってバクバクして、もうどうしていいかわからなくなっちゃう。姿だって直接みることすらかなわず、顔なんかとんでもないし、目だってあわせられないから、ひたすらに下を向くんだ。そりゃ、こう自然と猫背になって丸まっちゃう。そうするとどうだ、お天道様なんか見上げらりゃしねェ。もう地面ばっかりしか見られない。垂れる汗も涙も鼻水も、全部足下ばっかりに垂れていく。声だって前にゃ届きはしねェんだ。何を言ったって、思ってたって聞こえるはずがないんだよォ。本気の恋っていうのは、そういう中でやっていくんだよ。本当に好きになるっていうのは、そういう地獄みたいなことじゃあねェか」
    身振り手振りを交えて話すと、F君の苦々しかった顔つきは段々と解れていって、パッと紅でもさしたような明るい顔つきになる。そうして、F君が得心した時の妙に響く低い声で
    「そうかあ」
     しかも、今回はなるほどなぁとかぼそぼそ呟きながら、手をポンと叩いた。まるで、名探偵金田一耕介のドラマで警部がやる、よしわかった!みたいに。
     僕は、とうとう若い頃の無邪気さが甦って来て、すばやく立ち上がり橋本真也ばりの蹴りをおみまいする。その勢いで薙ぎ倒されたF君は床に転がり、あっとも、うぅっともつかない返事をしている。F君の両腕は腹を抱える様にして、その小さな文庫本を守っていた。彼が一向に現実を直視出来ないのは、それのせいである気がして――そうでないと解っていても許せなくて――僕はもう一つ、F君の返事を聞く。あっともうぅっともつかない返事が、いびつな部屋の空気に響いた。
    僕は何時になったら、この悪趣味を辞めることが出来るのだろう。自分を厭になる衝動が怒りに任せて真っ赤に燃える。永く僕を知るF君に何も伝えられないまま、伝わらない悔しさをボウリョクってものに変換している。それは、キーボードのキーでやるくらいに容易く、無意識に。僕の手や足に伝わる痛みの何倍かあるはずの、君の感じる痛みはリアルだろう、リアルなはずだ。
    彼も僕もまるで違って見えて、その実一緒なんだ。互いに変わりたいと思っても変われないでいる。それを解ってしまう敏い僕だから、余計に君の中に僕をみつけてしまうんだ。そんな惨めな自分も許せないから、ボウリョクの変換がとまらない。どんなに惨めでも、どんなに出来なくても、現実を生きなくっちゃあいけないんだ。このままじゃあ、二人合わせても一人前になりゃしない。



    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。