自転車に乗ったおじいさんが目の前で転んだ
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自転車に乗ったおじいさんが目の前で転んだ

2017-03-05 21:05
  • 2
神が我らに与えし欠け替えのない日曜日が半分も過ぎた頃、食べ物がなくなったが為に私はオフトゥンの呪縛からの脱出を余儀なくされた。
ローバーの赤いクロスバイクを漕ぎながらスーパーへ向かう途中、高架下の交差点の所でママチャリに乗るおじいさんがこちらに向かってきた。私が横を通り過ぎる直前、おじいさんは車輪を歩道の段差に引っ掛けたのかふらふらと転けた。
「大丈夫ですか?」
私は自転車を止めて声をかけたがおじいさんは膝を抱えて痛がっている。
一瞬どうすべきなのか解らなくなった。
私は無意識に自分の自転車のスタンドをたてておじいさんの自転車を車道から歩道に移した。今にして思えばこれはミスだったと思う。物よりも人を優先すべきだったのだ、すぐさまおじいさんに駆け寄って心配そうに「大丈夫ですか?!」と言うべきだったのだ、まるで自分が痛いのかのように眉を歪ませるべきだったのだ。失敗、失敗。
おじいさんの自転車のカゴに入っていた缶ジュースの袋を拾ったところでおじいさんが起き上がってきた。
「歩けますか?」
「すんませんな。ありがとうございます。」
私の質問に答えていない。袋をカゴに入れてもう一度「大丈夫ですか?」と聞くとおじいさんは「いやすんません。」と言って自転車を押して歩き始めた。私の質問に答えていない。
私は私の自転車に跨り、何事もなかったかのように自転車を漕ぎ始めたのだが、その時私は「今、自分はどう行動すれば周りから見て親切な人間に見えるだろう?病院までついて行くべきだろうか?そもそも病院へ行ってはどうかと提案するのが先か?」と考えていた。
私はそもそも親切な人間ではないのだろう。今に解ったことではない。誰かの為に何かをすべき時が来ても私は事の程度を考えて軽ければ面倒だからいいやと行動しない人間なのだから。だが「親切な人間として見られたい」という思考は私には少し不思議に思えた。
私は他人から良く見られたいと考えるのは誰しもが持っているごく普通で当たり前の思考で、私自身も人並み程度にあると自負していたのだが、もしかしたら人並み以上なのかもしれない。これまでそれを認めていなかったのは若さ故の強がりだろうか。自分の評価を改めないといけないのかもしれない。
思い出せばおじいさんがどうして欲しいかということは一切考えていなかった。本来、して欲しいことをしてあげることが一番相手を喜ばせるのだろう。しかし人というのはとても多様な考えがあるので求めるものを提供することはとてつもなく困難なことである。私はそれを知っている。そして諦めてしまっている。そもそも人助けをしたい等と思わない。思わないのにだ、親切な人間として見られたいと思うのだ。なんて都合のいい話だ。結局の所おじいさんなんてどうでもいいのだ。

人は易きに流れる。
今回の件と微妙にズレているかもしれないが、以前上司と雑談している時に心に刺さった言葉である。上司は私に「君は周りの人間をよく分析している。」と言った。私はそうなのかな?と少し疑問に思った。
「僕は人って基本的に根源的な所で利益的と言うか、全てに下心があると思っています。何か発言をする時には自分の知識を見せて認められたいだったり、何か行動をする時にはその行動によって周りから見て自分の評価が上がるように動きます。性悪説ですかね。人ってそういうものだと思って周りを見ています。」
「それは性悪説ではないよ。人は易きに流れやすいだけ。」
なるほどと思った。人は易きに流れやすい、確かに。私の思う人間像にその言葉はピッタリだった。心の中ではまだ納得は出来ていないのだが(易きに流れるというよりはもっと黒いものだと思う)。人の不幸は蜜の味、いじめる側は楽しいのだ。

私にとって人間ってそういうものだけど、この世界は優しいと思う。最近アニメの世界を優しい世界と揶揄する事があるが、人が集まって出来た社会は人を護る為にある、とても優しい話じゃないか。特に日本なんて平和で隣人監視社会の愛に包まれたとても優しい世界じゃないか。誰かが間違わないように監視して教育して禁止して規制して寄生して抑圧して、なんて過保護で過干渉で過粘着な優しい世界。吐き気がする。独りになりたくて色々なものを脱ぎさって翼を生やして自由になりたくなる。でも現実の優しい世界ってそんなものじゃないかな。
伊藤計劃の「ハーモニー」を読んだ事はありますか?ハーモニーでは健康幸福社会になった世界を凄くリアルにSFとして現している。社会的な物語が好きな方は是非ご一読を。
「ハーモニー」も極端な話ではあるが、私自身一般的な社会から隔離された特別な組織を経験していて、そこは正に「優しい世界」であると感じます。上記したように誰かが間違わないように規制し過保護になった組織、身内贔屓で責任を霧散させ進化をしようとしない組織。しかし暴力も虐めも当たり前にある。セクハラ、パワハラ、アルハラ、モラハラ、当たり前にある。誰も問題だと捉えない。コンプライアンスという姿勢の為だけの問題提起、本質は内々に消えていく。禁止されたことが起こった場合はなかったことになる。これは極端な世界ではありますが、でもきっと一般社会でも似たようなものであり、同様に規制という優しさに包まれた世界なのじゃないかなと私は思います。「〇〇が得意なフレンズなんだね!すごーい!」と言われるような世界は本当に優しい世界なのでしょうか。

話がそれて愚痴になってしまいました。すみません。文章を書き始めると言いたいことを吐き出したくなってしまいます。そして消すのも勿体ないと思ってしまうんですよね、想いがあるから。

以前のブロマガの車椅子のおじいさんの件に似たような話であり、考える所があって書き始めたのですが途中から愚痴になってしまいました。ここまで愚痴を読んで頂きありがとうございました。読んだ方が何か感じるものがあったのならば人の心を動かせたということで嬉しく思います。



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 人のすることは深く考えるとたいてい暗部が見えてくるので、あまり考えずに「なさぬ善よりなす偽善」と思ってちゃっちゃと手伝うのがお互い楽かなあ。
 あと、「他人の失敗には無関心を貫く」の匙加減。おじいさんは転んで恥ずかしいので、なるべく目立たないようにサポートする。状況が軽微なら無視するのも親切のうちですね。
43ヶ月前
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>>1
コメントありがとうございます。

おじいさんが転んで恥ずかしいと言うのは全く想像出来ませんでした。おじいさん、年寄りというのは「おれが転んでいるのだから助けろよ。敬えよ」と考える傲慢な生き物というイメージがあります。現実的には人それぞれというのも解ってはいるのですが、あまり会話をした事のない方にはその偏見で見てしまっています。
また、無視するのも親切という考えは試してみたら世の中の見え方が変わって面白そうなので意識してみたいと思います。
43ヶ月前
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