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勉強したことメモ⑧
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勉強したことメモ⑧

2021-03-25 15:09
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縄文・弥生

地面に穴を掘り、柱で枠をつくり屋根をかけた、半地下式の「たて穴住居」
暖炉や調理など、火が使われた跡もあり、時代が移るにつれて、太い4本の柱を利用した、居間と寝室が分かれた間取りなども登場

古墳
床面が地面から離れ、はしごや階段などを使って出入りした「高床住居」

平安
開放的な「寝殿造り」内部は基本的に広い板の間で、目的に合わせて仕切って使用。
庶民の家はたて穴住居から、掘立柱の平地住居に変わり、内部は家事や仕事をする土間と板の間に分かれていた

室町
障子や床の間、畳、板製の引き戸などでで仕切りる「書院造り」
禅宗の寺で書物を読むために縁側につくった小部屋を「書院」といい、その様式を武士の住まいに導入。

江戸
町人の約7割は、表通りに店、その裏側に住まいがある、板葺きの屋根と薄い板壁のみで遮られた棟割長屋と呼ばれる長屋で暮らす
農村地帯ではカヤ葺き屋根と土壁からできた家が多かった

近代
中流家庭の住まいの中心は、基本的に瓦の屋根と縁側のある和室を主とした木造住宅。
部屋と部屋の間はふすまで仕切られていることが多く、個室としても、大部屋としても利用が可能。これまでの住まいに必ずあった土間がなくなり、板の間の台所が増加。
震災をきっかけに生まれた、3?4階建てのコンクリート造の公共住宅

戦後
住宅不足を緩和するために巨大なニュータウンが各地に造成され、鉄筋コンクリートの団地や高層のマンションが登場。
住宅メーカーによる、工業化された安心品質の庭付き一戸建て



かつては、旅客輸送では鉄道、貨物輸送では海運が主流であったが、現在では、旅客、貨物ともに自動車が多く利用
道路の幅が5.5mあると、大型の車がすれちがうことができるが、日本の道路の72.9%がその幅になっておらず、都市部などでは拡張できないまま


「公道」は、法律で定義された言葉ではない
狭義には道路法上の道路のことをいい、広義には公衆の通行のために設けられている道路をいうことが多い

道路法上の道路とは、高速自動車国道、一般国道、都道府県道、市町村道のことで
道路法上の道路以外の公道には、農道(農林水産省)や林道(農林水産省)、河川管理用道路(国土交通省)、自動車道(国土交通省)、法定外公共物(赤線)
自動車道のほとんどは民間事業者が管理・運営していますが、その公共性から公道に含められる

公道の交通については、道路交通法が適用される。
建築基準法では、私道等を「道路」とするケースがあり、この道路を公道と呼ぶこともある

一般的に公道と私道の区別は、道路の所有主体ではなく、管理主体で判断。
道路の管理主体が国や地方公共団体の場合は公道、私人の場合は私道。たとえば、道路法上の道路でも、所有者は私人というケースもある

私道とは、個人や団体、企業などが所有・管理している土地にある私設の道路のこと。公道とは違い、私道は所有者自身が維持管理
私道を利用する場合は、所有者から承諾を得る必要。
たとえば、私道に面した土地に建物を建てる場合、私道の所有者から「車両通行承諾書」「道路掘削承諾書」で承諾を得ておくことが必要

私道の所有者は、1人の場合と複数人の場合がある。1人の場合は所有者1人の承諾で足りますが、複数人の場合は全員の承諾が必要

建築基準法第43条第1項に「建築物の敷地は、幅員4メートル以上の道路に2メートル以上接しなければならない」(接道義務)という規定

建築基準法上の道路には、
「1号道路」道路法による道路であるため公道
「2号道路(開発道路)」都市計画法や土地区画整理法などにより築造された道路。市町村などに管理を引き継ぐ場合は公道、開発業者(デベロッパー、不動産業者)や分譲地の購入者が共同で管理をする場合は私道
「3号道路(既存道路)」建築基準法の適用及び都市計画区域の指定以前から存在した幅員4メートル以上の道路。3号道路の多くは、私道
「4号道路(計画道路)」道路法、都市計画法その他の法令による事業計画があり、特定行政庁が指定した幅員4メートル以上の道路。4号道路は、将来、公道になる予定の土地
「5号道路(位置指定道路)」分譲業者や分譲地の購入者が所有権を有していることが多く、ほとんどが私道。一部、市町村に移管され公道
「2項道路(みなし道路)」「3項道路」「4項道路」「5項道路」「6項道路」公道の場合と私道の場合


農道とは、農業用に設けられた道路の総称。一般的には、土地改良法第2条で規定されている「農業用道路」のこと
一般的な道路と違い、農林水産省が所管

基幹農道は農業生産や農産物の流通をスムーズにし、農村地域の生活にも利用される基幹的な農道で、広域農道など
ほ場内農道は耕作道などのことで、ほ場への資材の搬入や農産物の搬出などに利用

林道は森林地帯に設けられている道路の総称で、森林法の規定に基づいて設置された道路。木材生産機能と国土の保全、水源かん養などの森林施業にとって必要な基盤


不動産に関する契約書・重要事項説明書上では、公道と私道がしっかりと区別。
しかし、あくまで不動産取引における定義であり、役所の解釈は異なる場合がある
公道と私道の区別を原則として登記簿上の所有者で判断



“路肩”と“路側帯”はいずれも車道外側線(車両の進行方向の左端にある白線)の左側の部分

道路構造令第2条第12号
路肩の設置目的は①道路の主要構造部の保護と②車道の効用の保持

“路肩”は道路の構造基準を定める“道路構造令”における概念であり、車両並びに歩行者の通行方法を規定する“道路交通法”に路肩の通行方法を直接規定する条文が存在しない
路肩の幅員は最大2.5m、最小0.5m

“車両制限令第9条”と“道路交通法第17条第1項”は、自動車が路肩を通行できないことを根拠付ける
車両制限令第9条により自動車が路肩にはみ出す行為が禁止


同じ車道外側線の左側の部分でも、そのさらに左側に歩道が設けられていればそこは路肩であり、歩道が設けられていない場合は路側帯

路側帯は歩道と同じく歩行者の交通に供する場所であり、道路外の施設等に出入りする場合を除いて車両の通行は許されない
これに違反した場合は“通行区分違反”に問われる
例え道路外の施設等に出入りするため路側帯を通過する場合にも、一時停止並びに歩行者の通行を妨害しないことが条件

駐停車をする場合は道路の端から0.75メートルを空ける必要

通常、車道外側線は1本の白線なのだが、白線の内側に破線が設けられている場合は路側帯の内側への駐停車禁止、二重実線の場合は自動車と自転車の通行並びに駐停車の禁止



土壌の母材には、岩石、泥炭(植物の死がい)などその場でできたもの、火山灰など遠くから風や水によって運ばれたまったものなど

土の分類は最初は土のでき方によって10種類、最終的には381種類、

日本で特に多いのが「黒ボク土」
世界中にある火山のうち10分の1近くが日本にあると言われていて、この黒ボク土はその火山灰によるもの

火山が多い九州や関東、東北、北海道南部にこの黒ボク土の土壌が多く、日本全体の約3割

黒ボク土の場所は基本的には水田に向いていない。
火山灰は傾斜のない台地の上に積もっていくことが多いので、そもそも水田で利用できる水が少ない上に、土の中に隙間が多く、水はけが良すぎる

水田によく使われているのは「低地土」と呼ばれる土壌
これは大きな河川に近い場所に多くて、氾濫した川の水などによって、川上から押し流されてきた土砂が堆積してできた



日本は,アジア大陸の東側に3,000kmにわたって,弧状に位置している島国。
本州・四国・九州・北海道の四つの主な島のほか,散在する4000余りの島から構成

日本の国土の面積は約37万8000平方km
マレーシアよりわずかに大きく,中華人民共和国やアメリカ合衆国の25分の1,ブラジルの23分の1,インドネシアの5分の1

日本の国土の3分の2が山地、海沿いに開けた平野や山に囲まれた盆地など限られたところにしか街を築くことができません。

大陸とは浅い大陸棚で接しています。太平洋側には,非常に深い日本海溝や伊豆小笠原海溝

日本列島は,環太平洋地震帯の上にあり,火山活動も活発
日本には富士山・浅間山・阿蘇山・桜島・雲仙岳・三原山など約60の活火山

本州の中央部には,飛騨・木曽・赤石の三つの山脈,3000m以上の山々がそびえて,それぞれ北・中央・南アルプスとも呼ばれ,総称して日本アルプスとか,日本の屋根



日本の山(高さベスト10)▲活・休火山
①▲富士山(3776m)  ②北岳(白根山)(3192m) ③穂高岳(奥穂高)(3190m)
④槍ヶ岳(3180m)  ⑤赤石岳(3120m)  ⑥▲御嶽山(3067m)  ⑦▲乗鞍岳(3026m)
⑧立山(大汝山)(3015m)  ⑨剱岳(2998m)  ⑩駒ヶ岳(甲斐駒)(2967m)

日本の島(広さベスト10)
①本州(227,926km2)   ②北海道(77,980km2)   ③九州(36,723km2) 
④四国(18,296km2)    ⑤択捉島(3,183km2)  ⑥国後島(1,499km2) 
⑦沖縄島(1,202km2)    ⑧佐渡島(854km2)   ⑨大島(奄美大島)(712km2)
⑩対馬(696km2)      以下 淡路島・屋久島・種子島

日本の河川(長さベスト10)
①信濃川(367km)    ②利根川(322km)  ③石狩川(268km)  ④北上川(249km)
⑤阿武隈川(239km) ⑥最上川(229km)  ⑦木曽川(227km)  ⑧天竜川(213km)
⑨阿賀野川(210km) ⑩四万十川(196km)

日本の湖(広さベスト5)
①琵琶湖(670km2)  ②霞ヶ浦(168km2)   ③サロマ湖(152km2)
④猪苗代湖(103km2) ⑤中海(86km2)  以下 屈斜路湖・宍道湖

最も深い湖は,田沢湖で,水深423m。砂丘・砂州などによって外海と分離してできた潟が,霞ケ浦

 
<北海道>
  石狩平野(石狩川)・十勝平野(十勝川)

 <東北>
  秋田平野(雄物川)・仙台平野(北上川)・庄内平野(最上川)・津軽平野

 <関東>
  関東平野(利根川)

 <中部>
  濃尾平野(木曽川)・越後平野(信濃川・阿賀野川)・富山平野・大井川・天竜川  

 <近畿>
  大阪平野(淀川)・伊勢平野・播磨平野・紀ノ川

 <中国>
  広島平野(太田川)・岡山平野・江の川

 <四国>
  讃岐平野・高知平野・吉野川・四万十川

 <九州>
  筑紫平野(筑後川)


人が住むことができる土地のことを「可住地」。もともと人が住んでいる街のほかに、畑、水田、草地など開発することで人が住めるようになる土地も「可住地」
日本の可住地の割合は国土のおよそ30%。日本は山地が多いので平野や盆地などに可住地

国土の森林の面積は66%。農業用地は14%,宅地は3%で,工業用地は0.4%

日本には,いくつかの火山脈が走っているので,地形は変化に富み,川は短く急流で,山あいでは深い峡谷を形成し,海岸線は複雑に入りくんで。風光明媚なところが多く,温泉地も点在

川がつくりだす地形として,
三角州(川が海に近づくつれ,だんだん広がっていき,三角形の平野をつくったところ),
扇状地(川が山間から平地に流れ出したところにできるおうぎ形の地形),
河岸段丘(川の侵食で,川岸の土地がけずられていき川岸が段々状態になっているところ)

イギリスの国土の面積は日本の3分の2で、本州よりも少し大きいくらいですが、可住地は日本の2倍。ドイツの国土の面積は日本よりも少し小さいくらいですが、可住地は日本の2倍以上
日本の人口は約1億2800万人、イギリス約6100万人、ドイツ約8200万人


標高0~100mの地域に住んでいる人口は、およそ1億人で、日本の人口の80%以上。この標高0~100mの地域は国土の面積の4分1ほど
標高が1m未満の低地は国土面積の0.5%ほど、こうした地域に298万人が住んでいます。
こうした低地は、台風や暴風雨が来たときに高潮や洪水の被害などにあう危険性が非常に高い地域

隅田川、荒川、江戸川の間にある街が標高0m、川の水面よりも低い。大阪も寝屋川の近くでは淀川の水面よりも低い
ロンドン、パリ、ニューヨークでは、川よりも高いところに都市

東京湾・伊勢湾・大阪湾のまわりには海面よりも低い地域。海抜ゼロメートルよりも低い地域
面積は合計は577平方km、住んでいる人口は合計で404万人


京浜東北線の線路をさかいに、東半分は川沿いの低地で、西半分は台地。台地には川がつくった谷が何本か
皇居は、ちょうど台地と低地のさかい

「武蔵野台地」と呼よばれるこの台地には、池袋や新宿などの大きな駅のある街
渋谷は、台地のなかを流れる川がつくった谷にできた街
浅草は隅田川のほとりのまわりに比べて高い土地の上にできた街

東京の東側をバイパスするように流れる荒川は、東京を洪水から守るために掘られた人工の川。荒川はもともと隅田川を流れていた。
1910年(明治43年)年に東京や埼玉さいたまで大水害が起こったのをきっかけに新しく人工の川を掘る。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)まで17年かかって完成した大工事


愛知県の西部と岐阜県の南部にかけて広がる濃尾平野は、木曽川、長良川、揖斐川という3本の大きな川が並んで流れる
濃尾平野の地形は東側が高く、西に向かって低い。平野の西に見える「養老山地」にぶつかるように川の流れが集まってしまう。
この3本の川は、昔から洪水を起こし、この地域に住む人々を苦しめてきた。「輪中」という堤防で囲んだ集落で有名

1959年の伊勢湾台風では、愛知県・三重県・岐阜県合計で死者・行方不明者5098人。被害を大きくした原因は高潮
海抜ゼロメートル地帯は埋め立て地が住宅地になったり、地下水のくみ上げで地盤沈下していた。
伊勢湾の地形と台風の風向きなどの条件が重なり、海水が陸地に吹き寄せられて海面が3.89m上昇。
堤防の高さが3.38mしかなかったので、堤防を乗りこえ、また、波が堤防をこわして海水が海抜ゼロメートル地帯に押し寄せた

名古屋城や熱田神宮は台地と低地の境目に位置。昔の人は、自然の地形のよいところに、神社や城をつくった


大阪は低地に栄えた街。江戸時代には水運で栄えた商業都市
大阪平野は淀川などの川が土砂を運んでできた平野。標高の低い地域が広がっている。
上町台地という半島のように突つき出た地形、大阪城は上町台地の先端

海抜ゼロメートル地帯が淀川の河口付近に広がっていて、台風が来たときには海水面が上昇する高潮の被害。淀川の両側には高い堤防
上町台地の東側は寝屋川などの小さな川が何本も流れていて、集中豪雨などがあったときに、こうした小さい川がはんらん
もともとこの地域は、川の流れが上町台地にさえぎられた低い湿地帯だったところで、江戸時代までは多くの池があった

大阪の南には大和川が台地のなかをまっすぐ西に流れている。昔の大和川は上町台地の東側の湿地帯を流れていた。
たびたび洪水を起こすので、江戸時代の1704年にいまの流れにつけかえる工事


福岡からは、東京よりもソウルの方が近い
福岡からは東京、上海まで直線距離で同じ約880km
那覇から東京、平壌、武漢、香港、マニラは同じ距離1500km

上海は世界一の貨物コンテナの量をあつかう巨大な港町。日本の全ての港であつかう貨物コンテナの量を足しても上海港に負ける。
2010年に上海港があつかったコンテナ量は2905万TEUですが、日本一のコンテナ量である東京港は382万TEU、上海港は東京港の7.6倍


日本の国土
「山地」61%、「丘陵地」11.8%、「台地」11%、「低地」11.8%、「内水域等」2.4%

標高0m~100mの地域が国土全体の4分の1、標高500m以上の地域も国土全体の4分の1


日本列島には、まるで背骨のような山脈が連なっていて、太平洋側と日本海側とに分けている
湿めった冷たい季節風が背骨のような山脈にぶつかって雲ができ、日本海側に雪を降らせる。
この季節風が山脈を乗りこえて太平洋側にたどりつくころには、空気中の水分を雪として出し切ってしまい、乾わいた風になってしまう


日本の東海道新幹線のうち東京―名古屋間は約340km、たくさんのトンネルや橋。
一方、フランスの新幹線であるTGV、首都パリと2番目に大きい都市リヨンを結ぶ南東線は、約390kmでありながらトンネルが1つもありません。

東北地方のように山脈や山地がとなりあう平野や盆地との間をへだてている地域では、都市と都市との距離が長くなります。
峠をこえて地域と地域を結ぶ道路や鉄道は、トンネルをほったり橋をかけて通りやすくするなどの苦労が外国よりも必要



森林の保有率を世界で比較した場合、日本は先進国の中でフィンランドに次いで2番目の高さ
一方で日本の木材自給率は約3割。使用する木材の約7割を輸入

世界を見渡すと、森林の減少は加速しており、毎年東京都の面積の約24倍もの森林が消滅
日本の森林面積は約40年間ほぼ変わらず。むしろ森林蓄積量は年々増えている

日本の森林資源の蓄積は、昭和41年の約2倍にあたる40億?と着実に増加を続けており、特に人工林の蓄積は約3倍以上


日本の森林面積は約25万平方km(=2500万ha)、国土のおよそ3分の2が森林。
森林のうち約5割が天然林、約4割が人工林、残りが無立木地、竹林など

原生林は、収穫のための人為的な伐採や、風水害や山火事などの自 然災害を被ることなく成長し、自然の力で形成された森林

二次林は、人為的あるいは自然災害などによって撹乱を受けた跡に、伐採木からの萌芽や土中に残った種子などから樹が芽生え、自然の力によって樹木が生長して形成された森林
いわゆる里山や雑木林と称される森林もこの二次林

日本の森林は、個人や企業などが所有する私有林が森林全体の58%、一方で国有林が31%、自治体等の所有する公有林が11%

日本の天然林の多くは広葉樹林で、日本人の暮らしと共にあった里山や鎮守の森、あまり人が入らない奥山まで、天然林は幅広く分布

日本は降水量が豊富で、温暖湿潤な気候であるため、どこでも木が育つ
南北に長い国土のため、沖縄の亜熱帯から北海道の亜寒帯まで、気候のちがいによってさまざまな森林。標高3000mをこえる山もあるため、高山植物など標高によってもさまざまな森林

人の手で植え育てられた人工林の約9割は、スギ、ヒノキ、カラマツ、アカマツ、クロマツに代表される針葉樹林。
生長が早く建築資材等に利用できるため、高度成長期である昭和20~30年代頃に、戦後の復興に必要な木材を確保するために政府が実施した「拡大造林政策」によって増加
当時の家庭燃料は木炭や薪が中心。木材は生活に欠かせない存在だったため大量に植林

建築業界が住宅の工業化に伴い、海外からの安い木材の輸入に業界が流されてしまった
これまで日本の人工林は、密植をして後に間伐をするという独特のやり方によって、良質な木を育て、手間暇をかけて大切に森を守ってきた

木を良く成長させるためには、いらない枝を切ったり(枝打ち)、成長させる木だけを残して、あとは切ってしまう間伐などの人の手入れが必要
こうすることで森林に日がさして明るくなり、地面には樹木以外の植物も育ちやすくなる

人の手入れがされていない森林では、日がさしにくいために暗く、地面に植物が育ちにくくなり。その結果、土がむき出しとなり、雨で流れ出やすくなる
外国産の安い木材に日本産の木材が負けているため、林業は決して十分にもうかる仕事ではなくなった


針葉樹”は、針のように細く尖った葉
針葉樹のほとんどは常緑樹であり、冬でも葉を落としません。
”スギ”のように針状の小葉が集まっているものや、”モミ”のように葉の先が鋭利に尖っているもの

例外として、葉が平らな”ナギ”や、落葉する”カラマツ”などの針葉樹も

針葉樹は、「裸子植物」に分類。
代表的なものとしては、”マツボックリ”
針葉樹は種子がむき出しになった樹木を指し、”イチョウ”が平らな葉をしているにも関わらず、針葉樹に分類されているのはこのため

針葉樹は、北欧やロシアなどの極寒の地域に分布

針葉樹は、”仮導管”と呼ばれる”水を吸い上げる菅”が組織の95%
水を吸い上げる効率が悪いが、これにより凍結に強いという優位性を生かして極寒の地に広がり生き延びてきた
仮導管は、細胞間に小さな穴が空いており、この穴を通して細胞から細胞へと順番に水が伝えられていく

針葉樹の細く尖った常緑の葉は、極寒の中でも葉からの水分の蒸発を防ぐ

針葉樹は、空に向かってまっすぐ成長する特徴。クリスマスツリーで用いられている”モミ”の木
木材にする場合には、まっすぐな針葉樹である”スギ”や”ヒノキ”が、主に木造建築の”柱”などの構造材に用いられる
まっすぐな長い板が取れ、木目が通ったスッキリした印象になることから”フローリング材”として重宝

スギ(杉)
日本建築の材木用木材としては最も有名で多用されてる。

ヒノキ(檜)
杉とならぶ、木材でこちらのほうが高級なイメージ
香りが良く、杉よりも薄い色で、表面が柔らかく滑らかな質感
杉と檜はとても似ていますが、樹皮もよく見ると、檜の方がでこぼこが浅い

マツ(松)
防砂林として海岸沿いによく植えられている

コニファー(常緑樹、針葉樹)
英国庭園には必ずといっていいほどよく登場。

ブルーアイス
シルバーブルーの美しい葉。クリスマスシーズンになると電飾やオーナメントで飾りつけをし、クリスマスガーデニングの主役

ゴールドクレスト
北アメリカ原産のヒノキ科の針葉樹。

ローズマリー
ハーブとして知られ、花期が長く、淡いブルーの小花を穂先に咲かせる低木

コニファーグランドカバー
ボリュームがあり、大きな庭木の足元を覆う



”広葉樹”は広くて平らな葉
広葉樹の葉は種類が多く、もっとも一般的な楕円形の葉から、”もみじ”のようにギザギザに切れ込みが入っているもの、”トチノキ”のように複数の葉が集まって一つの葉となっているもの

サクラ、カエデ、ウルシ、

広葉樹には、”常緑樹”と”落葉樹”の2種類

アマゾンの熱帯雨林には広葉樹が分布

広葉樹は、幹の中に”導管”と呼ばれるストローのような水を吸い上げるための空洞を持っており、根で吸い上げた水を大量に運搬
広葉樹の広い葉は、光合成においても光を効率的に吸収

広葉樹は枝分かれが大きく樹冠を広げ、横に成長していく
広葉樹は街路樹として数多く植えられていますが、この特徴により、枝が横に広がり電線に触れないよう、定期的に剪定

広葉樹は、左右へ太い枝を張りながら成長するため、まっすぐに育ちにくいですが、木目が面白く、家具や工芸品に重宝
大きく成長すれば”柱”に用いる 「清水の舞台」を支えている柱には”ケヤキ”

広葉樹は、「被子植物」に分類
種子を覆っているものは”子房”であり、果実となっているものが多い

子房は栄養価が高く、この進化により動物散布が可能となり、針葉樹との生息地の競争に勝ち、広葉樹が世界中に広く分布

クヌギ
カブトムシというイメージ。どんぐりでもおなじみ

クスノキ
クヌギに比べると、樹皮の切れ込みが浅く、目が細かい。遠くから見ると、表面が細かい網目のよう

ミズキ
落葉樹で水を大変多く吸い込むことからミズキ

欅(けやき)
ツキ(槻)ともいわれ、非常に大きくなった巨木がシンボルとして各地で大事にされてる
木目が綺麗に揃っていて高級な木材

シラカシ
とても固い樫の木。赤樫と白樫があり、白樫の方が軽い

ヤマモモ
桃のような香りがすることからこの名前

オリーブ(常緑樹)
マメ科の常緑中木。中木とは1.5~3mぐらいの高さ。年代ものになるとその幹は驚くほど太くねじれ、隆起や亀裂が入り独特の妖しい雰囲気。
薄いグレーの樹皮とさわやかなミントグリーンの葉が異国情緒を感じさせ、日本で人気の高い庭木

シマトネリコ(常緑樹)
驚くほど成長が早く、1m以下の木が数年で3m近くに成長。葉は濃い緑色で光沢があり、風にさらさらと揺れる様子が涼しげな印象の庭木

ジューンベリー(落葉樹)
バラ科の落葉低木で、北アメリカが原産地の庭木。春には白くかれんなリンゴの花に似た白い花が咲き、6月には結実

レッドロビン(常緑樹)
庭の目隠しとしてフェンス代わりに採用されることの多い、バラ科の常緑性中木。公園や街路樹としてもよく見かける。別名を「セイヨウベニカナメ」や「セイヨウカナメ」
類をみないほど赤く、つやのある美しい葉。特に新芽が濃い赤色。春になると繊細な白い小花を咲かせ、秋には実が紅くなり、四季を感じさせてくれる

ハナミズキ(落葉樹)
春に咲く明るい色の花は白花と淡紅色。秋にはモミジと同じぐらい美しい紅葉、かわいい実が赤く色づき。実はあまりおいしくはありませんが鳥たちの大好物
ハナミズキの花は、実は花ではない。花のように見える部分は「総苞」と呼ばれる花のつけ根の葉で、これが四枚の花弁のように見えてる。中心部の薄緑の粒が花

モミジ(落葉樹)
日本で庭木として代表的なのは「イロハモミジ」と「ヤマモミジ」
ヤマモミジは、4月中旬頃かれんな花が咲く。5月になるとうさぎのような耳がついた赤い種がつき、くるくると風に乗って散る
ヤマモミジは、黄色、赤、緑の葉の共演が眺められる

ヤマボウシ(常緑樹)
樹高が10~15mにもなる落葉高木。春の花が終わり、花の少ない梅雨時期に花咲く
花の色は白やピンク、クリーム色で、6月から10月頃にかけてゆっくりと咲く。ヤマボウシは花が終わった9月頃実をつけ、その実は生食も可能

ムラサキシキブ
初夏に開いた花が秋に結実し、つややかな紫の実を鈴なりにつける美しい低木

キンシバイ
初夏にまぶしい黄色の花を咲かせる低木


桜の仲間は、他の落葉樹に比べていち早く、落葉。そのため、秋から冬にかけては、桜の仲間だけが葉が一枚も無い状態



現在、”裸子植物”は地球に生息する植物の4%であり、そのほとんどが”被子植物”
針葉樹は約540種類であるのに対し、広葉樹は約20万種類以上

針葉樹が誕生したのは今から約3億年前であり、広葉樹は約1億5000万年前

光合成を行う”植物の先祖”である「藻植物」が生まれたのは約35億年前
地盤の隆起により、5億年前に上陸、これが”シダ植物”の祖先となる植物

陸地へ生息地を広げていく過程で、乾燥にも耐えることのできる”裸子植物”が初めに誕生


英語では、針葉樹は「Softwood」、広葉樹は「Hardwood」
針葉樹は、この柔らかい材質から加工しやすい
広葉樹は”重い=硬い”ことから、傷つきにくい


樹木には「形成層」と呼ばれる層があり、この層が成長し広がることにより幹が太くなる

”夏”は、太陽の光が十分にあり、光合成が活発に行われるため最も成長し、”冬”は成長速度が遅くなる
成長が早い層(夏目)は、明るい色となり、成長が遅い層(冬目)は暗い色
この色の濃淡の違いにより、年輪が形成

樹木が常に成長できる熱帯地域では、通常年輪が形成されない


落葉樹は葉の質が柔らかく、表面のツヤは少なめ。
常緑樹は、葉の質が厚めで堅く、表面にツヤのあることが多い

単葉とは、一つの葉の面からなる葉。たとえば、卵形やハート型などの切れ込みなしの葉、カエデ類などの切れ込みありの葉
複葉とは、小葉を含んだ葉。何枚かの小葉が集まって「一枚の葉」

単葉であれば、葉のわきに芽があります。しかし小葉の場合は、わきに芽がありません。

・不分裂葉(ふぶんれつよう)
 → 単葉・切れ込みなし。例:サクラ類
・分裂葉(ぶんれつよう)
 → 単葉・切れ込みあり。例:カエデ類
・掌状複葉(しょうじょうふくよう)
 → 複葉・小葉3枚、5枚など。例:トチノキ、コシアブラ
・羽状複葉(羽状複葉)
 → 複葉・小葉たくさん。例:ヤマウルシ

樹木用語で、葉のフチにあるギザギザのことを「鋸歯(きょし)」
まったく鋸歯がなく、フチがつるっとした葉は「全縁(ぜんえん)」
葉が一枚ずつ交互についていれば「互生」、2枚セットで左右についていれば「対生」



ワクチンの感染防止の有効性は接種した人としなかった人で感染者の割合を比較して示される。
例えば「90%の有効性」ならば「ワクチン接種をしてない状態で100人中10人が感染・発症するなか、ワクチン接種を受けると100人中1人が感染・発症する状態になり、感染するはずだった9人が予防できた」という意味

イスラエルで行われたワクチンの効果を検証する大規模な研究の結果
ファイザー・バイオンテックの「BNT162b2」 約160万人のデータ

イスラエルは日本と同様に国民皆保険制度だが、イスラエルには4つの非政府、非営利の健康保険組織があり、国民はその中からいずれかを選択して加入
これらの健康保険組織は健康保険を提供するだけでなく病院を運営し、共通のプラットフォームに基づいて医療を提供することで、施設間でデータの共有
個人の病歴の把握も容易で、研究に関しても、大規模なデータベースを速やかに構築し、解析を進める

1回目の接種後14〜20日では、感染(PCR検査で確認)においては46%、症状の発症においては57%、入院においては74%、重症化においては62%、死亡においては72%の有効性が示されている。
2回目の接種後、7日以上経過時点では感染(同じくPCR検査で確認)において92%、症状の発症において94%、入院において87%、重症化において92%の有効性
年齢によって有効性に大きな差が出なかった
差が出たのは、3種類以上の基礎疾患を併存する人で、そうした人では感染予防・発症予防の効果がやや落ちる


イギリスで、医療従事者を対象に、ワクチン接種前後に定期的にPCR検査を行った研究
ワクチンの感染に対する有効性は1回目の接種後21日目で72%、2回目投与7日後は86%


CDCは「接種完了したとみなされる人」を、「2回打ちのワクチンは2回目の接種、1回打ちのワクチンは接種を完了後、それぞれ2週間経過した場合」と定義
1回目の接種後12日間は接種以前の感染がみられる時期であり、予防接種の効果もまだない期間

CDC(アメリカ疾病対策予防管理センター)が予防接種を受けた一般の人向けの指針
・「ワクチン接種を完了したとみなされる人」同士で、屋内で、マスクやソーシャルディスタンスなしに集まってよい。
・COVID-19のリスクが低い、ワクチン未接種のひとつの世帯を訪問し、屋内でマスクやソーシャルディスタンスなしで過ごしてもよい。
・COVID-19感染者と接触後も、無症状であれば、検査や隔離を行う必要はない。




杉、檜は終戦後国策で植林されたもの。もともと日本は針葉樹林帯ではなく、常緑広葉樹林帯、簡単にいえば『どんぐり林』。無理に杉、檜を植林したつけを今払っています。






お花見は、奈良時代の貴族が始めた行事と言われており、当初は中国から伝来した梅の花を観賞するもの
梅花の宴のようにウメを観賞しながらの歌会

平安時代に入り、お花見の花が梅から桜へと移り変わった。
桜の花でのお花見の起源は、「日本後紀」によると、812年3月28日に嵯峨天皇が神泉苑にて催した「花宴の節」という宴
前年に嵯峨天皇は地主神社のサクラを非常に気に入り、以降神社から毎年サクラを献上させた

831年(天長8年)からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。
その様子は『源氏物語』「花宴(はなのえん)」にも描かれている


豊臣秀吉の「吉野の花見」や「醍醐の花見」
「吉野の花見」は、徳川家康や前田利家、伊達政宗などの名だたる武将や茶人・連歌師など、参加者総勢5千人にも及ぶお花見
滞在の期間も約5日間と長く、滞在中は「歌の会」「茶の会」「能の会」などが開かれた

吉野では、秀吉が山に入ってからなんと3日間も雨が降り続いていた
苛立った秀吉は同行していた僧侶に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と言い放った
これを聞いた僧は吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じ、翌日には見事に晴れ渡った

役行者が金峯山寺を開くにあたり、桜の木に蔵王権現を桜の木に刻んだ
以来、桜の木は御神木として保護され、御神木の献木という形で桜の木が植え続けられ現在までその景観が守られてきた


「醍醐の花見」は、お花見のために700本の桜が醍醐寺に植えられ、豪華絢爛に茶会や歌会などが催された。
豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物
お花見とセットで親しまれる「三色団子」も、この時振舞われたのが最初

花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代。
江戸で最も名高かった花見の名所が忍岡で、天海大僧正によって植えられた上野恩賜公園のサクラ
しかし格式の高い寛永寺で人々が浮かれ騒ぐことは許されていなかった

徳川吉宗が浅草(墨田川堤)や飛鳥山にサクラを植えさせ、庶民の行楽を奨励。
吉宗は生類憐れみの令以降途絶えていた鷹狩を復興させた際、鷹狩が農民の田畑を荒す事への対応策として、鷹狩の場にサクラの木を植えることで花見客が農民たちに収入をもたらす方策をとった

江戸近郊の花見の名所は他にも、御殿山 (品川区)、愛宕山、玉川上水など

明治に入ると、サクラが植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されてサクラも焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。
駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り、1886年には荒川堤のサクラ並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着


桜には、春に山から降りてくる「田」の神様が宿ると信じられており、桜の花の咲き方で農作物の収穫を占ったり、開花時期に合わせて稲の種まき準備を行った


ソメイヨシノは、江戸時代に「オオシマザクラ」と「エドヒガン」から品種改良された交雑種で、その寿命は約60年
「葉が出るより先に花が咲く」という点をエドヒガンから、「大輪で整った花」をオオシマザクラから受け継いでいます。

全国の桜の約8割を占めるソメイヨシノですが、実はそのすべてが1本、あるいはごく少数の桜から作られたクローン
もともとは同じ原木から接ぎ木や挿し木で増やされていったので、開花時期に一斉に咲いて一斉に散る

染井吉野(ソメイヨシノ)は若木でも花を咲かせるので、戦後焼け野原になった日本にたくさん植えられました。
風雨で花びらが散りやすく、桜の花を待ち焦がれてやっと咲いたと思ったら風や雨であっというまに散ってしまう儚さも人気の理由


日本には現在、600種類以上の桜がある
元をたどれば11種の「基本野生種」から生まれている
ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザクラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガン(江戸彼岸)、チョウジザクラ(丁字桜)、
マメザクラ(豆桜)、タカネザクラ(高嶺桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、クマノザクラ(熊野桜)、カンヒザクラ(寒緋桜)

・花が先に咲く/花と葉が同時に出る
・花びらの色が白/ピンク/濃いピンク
・花びらの数が5枚/6枚以上/100枚以上
など、それぞれに個性

ヤマザクラ(山桜)
古来より日本人になじみのある桜。ソメイヨシノ以前の花見といえばこの桜でした。基本野生種のひとつで、日本固有種

オオシマザクラ(大島桜)
伊豆半島の沖に浮かぶ伊豆大島が由来。島しょ部原産で、古くから三浦半島や房総半島に自生していた
花が白く、大輪で、桜の中では芳香が強め

カンヒザクラ(寒緋桜)
中国南部~台湾~沖縄にかけて分布する桜で、早咲きの性質
あざやかな濃いピンク色の花で、下向きに咲く

エドヒガン(江戸彼岸)
樹齢数百年~千年超えの桜は、多くがこのエドヒガン、とても長寿なこと。早咲きの傾向
山のようにこんもりとした樹形。樹齢1800年の神代桜、1500年の薄墨桜、1000年の樽見の大ザクラなど、各地に天然記念物に指定された「一本桜」

カワヅザクラ(河津桜)
カンヒザクラとオオシマザクラが自然交配して生まれた種
カンヒザクラの早咲きと濃いピンク色の花、オオシマザクラの大輪の花という特徴を受け継いでいます。

オオヤマザクラ(大山桜)
北海道、東北、中部を中心に分布する基本野生種のひとつで、寒冷地を好む桜。アイヌ語名はカリンパニ
直径3~4.5cmと比較的大ぶり。葉と花は同時に展開し、若葉が赤いのがヤマザクラと共通の特徴

ヤエザクラ(八重桜)
ヤエザクラはひとつの品種名ではなく、八重咲きになる桜の総称。花びらが6枚以上あるものを八重咲きと呼びます。
20枚から70枚ぐらいの花びらのものが多く、中には「菊咲き」と呼ばれる100枚以上の花びらを持つ品種も
よく見られる品種は、カンザン(関山)、フゲンゾウ(普賢象)など。花びらが緑色のギョイコウ(御衣黄)も

シダレザクラ(枝垂桜)
枝がやわらかく下に垂れる桜の「総称」の場合と、エドヒガンの枝が垂れたひとつの栽培品種を指す場合の、2つのケース
「枝垂れ性」は桜にときどき現れる突然変異で、枝の上部が硬くならず、広がった枝が重力で下に垂れます。
平安時代から「しだり桜」や「糸桜」とも呼ばれて、好まれてきました
代表的な品種としては、ヤエベニシダレ(八重紅枝垂)、シダレヤマザクラ(枝垂山桜)、キクシダレ(菊枝垂)など

セイヨウミザクラ(西洋実桜)
サクランボのなる桜。18世紀初めにはヨーロッパ各地で栽培されていたものが、1870年ごろ日本に持ち込まれました。

フユザクラ(冬桜)
「コバザクラ(小葉桜)」とも呼ばれる白く一重の花の桜。別名の通り葉は小さめで、秋は10月~12月、春は4月頃と、1年で二度に渡り咲く


1月の沖縄県のカンヒザクラ(寒緋桜)から始まって、5月の北海道のオオヤマザクラ(大山桜)まで、開花時期に大きな差があります。
標高2000m以上に咲くタカネザクラ(高嶺桜)だと、7月頃に咲くことも

ソメイヨシノなど多くの代表的品種は3月下旬~4月上旬が開花時期

ヤエザクラ(八重桜)と呼ばれるグループや、ヤマザクラは、ソメイヨシノが終わってからが開花時期








川中島の戦い

五回も戦ったのに決着がつかず。
「啄木鳥戦法」「車懸りの陣」「大将同士の一騎打ち」など有名なエピソードは第4回に集中

長野五輪の際に「川中島の合戦以来最大の人出」という表現が用いられた

海津城(後の松代城)跡と八幡原史跡公園、典厩寺など、関連史跡はあちらこちらに残るが、場所は結構広範囲に分かれている


姉川の戦い
姉川を挟んで、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った
この戦いを有名にしたのは小瀬甫庵の「信長記」だが、これは作者が当時の徳川幕府におもねって、徳川家康の活躍場面があるこの合戦を特に強調した


三方ヶ原の戦い
徳川家康が武田信玄に敗れ脱糞
この後信玄が病死していなければ徳川家は危なかった。
家康が諸葛亮ばりに空城の計を用いた
実は夜戦。家康の出陣が午後4時過ぎ。12月


石山戦争
期間は10年間。日本の戦争史で最も長い戦争
最初の3年間は下準備期間。調略やったりしつつ、顕如と信長が贈り物を遣り合ったりしてる。
講和後の停戦命令を各地に出したり、京都の信長邸を顕如が訪問
「百姓が持ちたる国」の維持(正確には加賀の一部を本願寺領として保証)というのが、和議の条項にあったが、顕如の子供が我儘言って、それをぶっ潰したため、織田領(柴田氏支配)となった。
それが原因で、本願寺は東西に割れる、加賀は後に前田家の支配するエリアとなる
毛利氏の配下で村上水軍が大阪湾から兵糧を運び入れ。包囲している織田の水軍が邪魔しようとするが、焙烙火矢で散々にやられる。
そして村上水軍にやられないように九鬼氏の軍船が造られる


長篠の戦い
世界初の鉄砲一斉射撃
鳥居強右衛門の磔が有名。
有力武将が多数討死した武田氏の凋落が始まる


高松城の水攻め
戦の主力事業でダムを拵えたというのは多分これが最初で最後
戦いの締めにもなった清水宗治の切腹は有名だが、数万人が見守る中での自決。
敵味方とも感動し、特に毛利家は宗治の子孫を厚く遇し続けた


山崎の戦い
慣用句を3つ(三日天下、天王山、洞ヶ峠を決め込む)も生んだ
三日天下と言いつつ11日くらい、実際は筒井順慶は洞ヶ峠に行ってない
娘婿の細川に嫌われ、仲が良かった筒井には無視され、半分部下同然だった摂津三人衆は羽柴につき…
光秀も先に良い陣地を押さえられなくもなかったのに、そこに陣取ると山崎の町の人が迷惑して後々 天下を治めるのに不都合、とのことでやめちゃった


小牧・長久手の戦い
池田家は恒興、元助の大黒柱2人を失い、存亡の危機となる。
秀吉が榊原康政に侮辱されまくる。
戦闘では徳川の圧倒的勝ち戦。しかし秀吉が織田信雄との和睦というウルトラCをやってのける。戦争では戦術より政戦略が優越する良い手本。


天正壬午の乱
武田滅亡→本能寺の変からの領主不在となった上州・信州・甲州での北条・上杉・徳川の領地ぶんどりあいと真田氏を初めとするこれらの国の小領主たちの立ち回り
真田氏が武田(滅亡)→(うらで北条とやりとり)→織田(本能寺の変)→(一瞬)上杉→北条→徳川→上杉(その後 豊臣)という主君変更
合戦としては神流川の戦い以外は大規模な合戦はない。ほとんど地元小領主の引き抜きあいみたいな。
上杉氏はさくっと川中島あたりまで押さえたものの、新発田さんが暴れていたので早々に引き上げ。
北条・徳川が甲州でにらみ合い。小田原本拠なのに上州→佐久と大迂回して来ていた北条氏、信州で徳川方に寝返った人たち(含む真田氏)によって兵站線を封じられてしまう。大軍だったのに徳川と和睦する羽目に。
甲州・信州は徳川、上州は北条と言うことで徳川-北条は和睦したのに、徳川配下の真田氏が上州沼田を手放さず、勝手に北条領にした徳川を嫌って上杉に寝返り。この沼田領問題が後、小田原合戦の引き金に


小田原合戦
征討に向かう兵隊の先頭が安倍川を渡る頃、最後尾は未だ濃尾平野を歩いていた
この合戦に参戦しなかった戦国大名の領地はことごとく潰された。
この合戦に遅延した大名はことごとく領地を削られたり移封された
「小田原評定」はこのときに行われた。毎日会議は続くけれど、結論でない。徹底抗戦なのか和睦なのか。
後北条氏では2代目氏綱さんの「勝って兜の緒を締めよ」と並ぶ慣用句。
小田原城落城後も忍城は落城しなかったが石田三成の援軍にかけつけた真田安房守昌幸,伊豆守信幸(後の信之)親子によって開城され小田原攻めは幕を閉じた


文禄・慶長の役
韓国では「壬辰・丁酉倭乱」と一般的に呼ばれる
朝鮮を征服できていたら次は中国中原や東南アジアも征服するはずだった

文禄の役では現在の北朝鮮に相当する領域まで攻め込んでいた。
加藤清正に至っては豆満江を超え現在の中国領まで侵攻している。
現地で富士山に似た山を目にしたらしい

朝鮮側では水軍を率いた李舜臣や各地の義兵が防衛に大活躍した。
李舜臣はソウルや釜山などあちこちに銅像が建てられ朝鮮史を代表する名将

日朝関係が良くないと収入に困る対馬の宗氏が板挟みになった。
秀吉が朝鮮に出した「明へ攻め込むから先鋒を務めろ」という書状を「明へ攻め込むから道を貸せ」に改竄。
後の日朝国交回復時にも朝鮮国王の墓を荒らした犯人として無関係の囚人を差し出している

鎖国時代の主な輸出品である、高級で芸術性の高い有田焼や伊万里焼などの陶磁器が生まれた。
その裏には多くの陶工の強制連行という恥ずべき行いがあったことは忘れてはならない。
強制連行された朝鮮人が南蛮人へ奴隷として売られたという記録もある。

日本の兵士として従軍したが降伏した人。沙也可という人物は火縄銃の技術を伝えたとされる。名称の由来は「雑賀(衆)」とも「○○左衛門」ともされる。
唐辛子の朝鮮への伝来もこの時という説

領土を広げ続けないといけないという豊臣政権の欠陥、息子を失った腹いせ、東アジア新秩序の実現…。
珍説の類では元寇の復讐や茶器の略奪といったものまで


関ヶ原の戦い
天下分け目の戦いはたった一日で終わった
陣形だけなら、西軍の勝利。
西軍の総大将は一応毛利輝元。本人は城内の増田長盛が東軍に内通している噂のせいで大坂城にとどまったまま出陣せず。
一族の吉川広家が裏で東軍と通じて動かなかったから、動けなかった毛利秀元。

黒田官兵衛の息子・黒田長政が寝返り工作に大活躍し、東軍の勝利に大いに貢献。長政は家康から大激賞された。
長政は親父・官兵衛に得意満面に「家康さんに手を取って感謝された」って自慢したら官兵衛「もう片方の手は何しとってん」と。
「空いてた手で家康刺し殺してこんかい、せっかくの天下取りの機会を一日で終わらしてしまいよってからに」

黒田家の兵士たちが、石田家の島左近が死ぬ気で突撃してくる雄叫びを思い出しておびえたり夢でうなされた

島津義弘の壮絶な退却戦「島津の退き口」が有名。退却なのに敵陣中央突破。1,500人いたのに薩摩に帰り着いたのは100人切っていた。
この中で「捨てがまり」が行われる。兵の一部が退却路に残り鉄砲を撃ちかけ、必死で(自らは全滅して)敵を食い止める。
義弘の甥っ子の豊久さんや家老の長寿院さんが総大将義弘の身代わりとなり討ち死に。東軍でも井伊直政がこのときの鉄砲傷が元で2年後に死亡。

各地で連動した合戦、東北の長谷堂城の合戦、信州の上田城の合戦。

うどんの出汁の濃さとか、エスカレーターの右立ち左立ちとか、バカとアホの使い分けとか、餅が丸餅か切り餅かとか、様々なものの分かれ目がこの地である



上田城の戦い
真田氏(昌幸・幸村父子)が上田城に籠城。数で勝っていた徳川軍を翻弄(2回目)。
このせいで徳川秀忠は関ヶ原の合戦本戦に間に合わず。
真田昌幸はじめは降伏すると伝えておきながら「準備するからちょっとまっててね」→「も~いいかい」「まーだだよ」→「はよせぇや(怒)」「あーごめんごめん、籠城の準備してたんだ♪もういいよー」→徳川軍激怒

長谷堂城の戦い
上杉氏が最上氏を攻める。
最上氏の山形を攻めたのは会津米沢の領地からは飛び地になっていた庄内の領地と地続きにするため。
関ヶ原で西軍が負けたので、山形城まであと一歩の長谷堂城を包囲してるほど優勢だったはずの上杉氏撤退。
直江兼続が責任とって切腹しようとしたくらいの壮絶な戦い。
この戦いがきっと戦国きっての傾き者・前田慶次の一番の見せ場


大坂の陣
堀の大切さがよく分かる戦い。
落城直後の大坂は無法地帯と化した。その様子を描いた大坂夏の陣図屏風は、日本のゲルニカと呼ばれる。追剥、強姦、押し込みなどやりたい放題が克明に描かれている
真田信繁(幸村)とその家臣団が大活躍。城内からの抜け穴を利用して神出鬼没だった。大阪市内には真田の抜け穴とされるものが残っている
元からの豊臣直臣と新たに雇われた浪人衆(真田幸村、後藤又兵衛、明石全登、長宗我部盛親など)が意見があわずがたがた。そこへ淀君が口を挟んで
家康がこの戦いで戦死したという説がある。家康のものとされる墓石が堺の某寺院にある
冬の陣では城外に築いた砦を巡る攻防戦(今福・鴫野の戦い等)、夏の陣では八尾・若江の戦いとか道明寺の戦いとか大坂城外でも戦ってた。
大坂方で一番奮戦したのは冬は真田信繁だが、夏は毛利勝永


島原の乱
島原藩と天草(唐津藩)の圧政が原因。南蛮貿易できたころのバブリーな感覚を引きずり、お城を豪華に建てたりしたもんで税金が重くなった
天草から搾取して本土・唐津の整備に使ってた。島原藩の拷問には雲仙の火山も使われた。
オランダ船による砲撃。一揆勢への心理的ダメージはあったが実際の被害はほとんどなし。
篭城戦をして結局はジリ貧となったが、立てこもった原城は海に面していたことから南蛮からの援軍を期待していた
一揆軍は内通者を除いて皆殺されたが、原因を作った島原藩主の松倉勝家は斬首、天草を領有していた寺沢堅高は領地没収(後に自殺する)となり事実上の相討ち
徳川幕府260年の歴史上、斬首(武士としての死である切腹ではなく、罪人としての処刑)になった大名は、後にも先にも松倉勝家ただ一人
荒野と化した一帯を復興させた代官の鈴木重成はもっと知られるべき。原因の土地の石高が2倍とされてたのを元どおりにするため最後は抗議の切腹して果てた


薩英戦争
発端は英国人が大名行列に下馬の礼を取らなかったため、切り捨て御免となった生麦事件。
薩摩藩の砲台はイギリスの軍艦で吹き飛ばされたが、染物に使う縦型の釜を大砲に見せかけたため、英艦隊は撤退。
英艦隊の旗艦が直撃弾食らって艦長が戦死
戦後、薩摩藩は英国側の「切り捨てた下手人を出せ」、「賠償しろ」等の要求をスルーして幕府に押し付けた。
鹿児島では「まえんはまいっさ(前の浜戦)呼ぶ。城下町周囲の海浜が「前の浜」と呼ばれたため。







アメリカが過去に五輪をボイコットしたのは、1980年のモスクワ夏季五輪の一度だけ

当時のジミー・カーター米大統領は、アフガニスタンに侵攻したソビエト連邦が期限までに撤兵しなかったことを受け、1980年モ
スクワ五輪のボイコット。カナダ、西ドイツ、日本もアメリカとともにボイコット

北京冬季五輪は、2022年2月4日に開幕する予定
共和党のマイケル・ウォルツ下院議員は、開催地が変更にならない場合には2022年北京五輪に参加しないことを米国オリンピック・パラリンピック委員会に対して求める決議案を提出
バイデン大統領に対して北京五輪のボイコットを強力に迫っているニッキー・ヘイリー元国連大使

バイデン政権、ジェン・サキ大統領報道官は2月25日、アメリカが参加しない可能性はあると示唆

バイデン政権のアントニー・ブリンケン国務長官も、指名承認に向けた上院の公聴会で、ジェノサイドの認定に同意



東日本大震災は、東日本が乗っている北米プレート上の地盤のひずみ状態を変えてしまった

太平洋プレートと北米プレートの境界で起きる余震とはまったく別個に、内陸の広範囲でM6~7クラスの地震が散発的に誘発
東北地方、関東地方、中部地方の東部では、これからも最大震度6弱程度に至る揺れが予想

こうした内陸性の直下型地震は、東日本の岩盤が東西方向に伸張したことによって起きた
地面が引っ張られたことで陥没する「正断層型」の地震が、「3.11」以降に突然発生し始めた

阪神・淡路大震災のように、大都市の近くで短周期地震動をメインとする地震が発生すると、建造物の倒壊など人命を奪う大災害


首都圏も東北地方と同じ北米プレート上にあるため、活発化した内陸型地震が起こる可能性

1855年に東京湾北部で安政江戸地震(M6.9)が発生し、4000人を超える死者
2005年7月にM6の直下型地震が発生し、首都東部が震度5強の強い揺れに見舞われ、電車が5時間以上もストップ

国の中央防災会議は、首都圏でM7.3の直下型地震が起こった場合。1万1000人の死者、全壊および焼失家屋61万棟、95兆円の経済被害が出ると想定


日本列島には「活断層」が全部で2000本以上。これらはいずれも何回も繰り返して動き、そのたびに地震が発生。その周期は千年から1万年に1回くらい
特に大きな地震災害を引き起こしてきた114本ほどの活断層
1回動く断層は何千回も動くものであり、これが地球の掟。つまり活断層が見つかったら、そこで過去に何千回も地震が起きていた


東日本大震災のあとに日本列島は5.3メートルも東側へ移動。太平洋岸に面する地域には地盤が1.6メートルも沈降したところがある
東北地方全体が東西方向に伸張し、一部が沈降。陸地が海側に引っ張られてしまった、これは海の巨大地震が起きたあとに必ず見られる現象

今まで巨大な力で押されていた東北地方や関東地方が乗っている北米プレートが、今度は思いきり水平方向に引き延ばされた

横から押されることによって、地面の弱い部分が耐えきれなくなってせり上がる断層が、内陸で直下型の地震を起こしてきた「逆断層」
ゴムを伸ばすように大地が引き延ばされ、地殻の弱いところが断層として動き出す「正断層」

活断層は現在調べられている他にもたくさん存在。山野に隠れていた未知の活断層が直下型地震を起こした例も。
たとえば、2000年の鳥取県西部地震や2008年の岩手・宮城内陸地震は、それまで未知であった活断層


直下型地震の周期は数千年という長いスパンで、その誤差は数十年から数百年。何月何日に地震が起きるという予知は無理

東海地方から首都圏までを襲うと考えられている東海地震
中部から近畿・四国にかけての広大な地域に被害が予想される東南海地震と南海地震
これらが30年以内に発生する確率は、M8.0の東海地震が88パーセント、M8.1の東南海地震が70パーセント、M8.4の南海地震が60パーセント


緊急地震速報は最大震度が5弱以上の揺れを観測したときに発表
はじめに気象庁から発表され、気象業務支援センターを通じて一般利用者に配信され、さらに企業や家庭の末端利用者へ2次配信が行われる仕組み。
エレベータの運行停止、ガスの元栓の遮断、工場の生産ラインの停止、避難路の照明を自動で点灯

地下で地震が起きると、P波と呼ばれる小さな揺れと、S波と呼ばれる大きな揺れが同時に発生
P波は毎秒7キロメートル、S波はこれよりも遅く毎秒4キロメートルの速さでやってくる
「最初に」の意味のPrimaryを用いてP波、また「次に」を意味するSecondaryを用いてS波

「早期地震検知システム」
JR東日本は、東北新幹線の沿線と太平洋沿岸に地震計を設置。地震によって地面の動く加速度が120ガルを超えると自動的に電気の供給が遮断、走行中のすべての新幹線では非常ブレーキ

東日本大震災の直後に運転中の東北新幹線では、すべての車輛にブレーキがかかって大きな事故を回避
最初の揺れが来る9秒前、また最大の揺れが来る1分10秒前に非常ブレーキがかかり、新幹線はただちに減速を始めた。
地震発生時に東北新幹線は27本の列車が走行中でしたが、幸いどの列車も脱線することなく停車

気象庁は、緊急地震速報を受け取ったすべての地域で、震度3以上を観測した場合は「適切」とし、
1つでも震度2以下を観測した場合は「不適切」と評価。これまでに出された6割ほどが「不適切」

2020年7月30日に関東甲信、東海、東北地方で緊急地震速報の「誤報」が発生し、気象庁が会見でおわび。
緊急地震速報の処理過程で本来の震源と異なる位置に震源を決定しマグニチュード7.3という過大な値が出た


トラフは日本語では「舟状海盆」舟の底のような海の盆地。舟状の凹地形をつくりながら、プレートが沈み込んでいく。
それに対して「海溝」は、プレートが急勾配で沈み込んでいく場所にできる、深く切り立った溝

日本列島の周辺には、
沖縄トラフ、相模トラフ、駿河トラフなど
日本海溝、伊豆・小笠原海溝、マリアナ海溝、千島海溝、琉球海溝など


南海トラフ沿いの震源域の近傍には、太平洋ベルト地帯。ここで巨大地震が発生すれば日本の産業を直撃
経済被害には220兆円を超えると試算されており、東日本大震災の被害総額(約20兆円)の10倍以上

南海トラフ沿いの巨大地震は、90~150年間おきに起きる
3回に1回は超弩級の地震。その例は、1707年の宝永地震と、1361年の正平地震
次回の巨大地震は、この3回に1回の番。すなわち、東海・東南海・南海の3つが同時発生する「連動型地震」

1707年宝永地震の規模はM8.6だったのですが、近い将来起きる連動型地震はM9.1と予測

前回は1944年の昭和東南海地震のあと昭和南海地震が2年の時間差で1946年に発生
前々回の1854年(安政元年)には、同じ場所が32時間の時間差で活動
3回前の1707年(宝永4年)では、3つの場所が数十秒のうちに活動

過去の例では冬に発生する確率が高いこと、また南海トラフ沿いの巨大地震が起きる40年ほど前から、日本列島の内陸部で地震が頻発


南海地震の前後で土地の上下変動の大きさを調べてみると、1回の地震で大きく隆起するほど、そこでの次の地震までの時間が長くなる、という規則性
1707年にプレートの跳ね返りによって数十秒で1.8メートルも隆起した地盤が、1854年まで147年間という長い時間をかけて元に戻った

巨大地震による地盤沈下からの「リバウンド隆起」高知県室戸岬の北西にある室津港のデータを解析。
地震前後の地盤の上下変位量を見ると、1707年のリバウンド隆起は1.8メートル、また1946年のリバウンド隆起は1.15メートル。

そこで現在にもっとも近い巨大地震の隆起量1.15メートルから、次の地震の発生時期を予測
今後も1946年から等速度で沈降すると仮定すると、ゼロに戻る時期は2035年


巨大地震の前に少しプレートが滑る現象「プレスリップ」




公家や武家では、現代わたしたちが名乗っているような名字とは別に、朝廷(天皇)から下賜された「氏」を持っていた。
皇族が臣籍、つまり天皇の家来・仕える者に下る「臣籍降下」にあたって下賜された姓
名字とは違って公式なため「本姓(ほんせい)」と呼ばれた


源姓を名乗った一族はたいへん多かったため、源家の総体として源氏と呼ばれていた

平家とは、政権を打ち立てた平清盛とその一族、仕えている者たちも含めた政権・軍事の一団のこと、平氏以外の外部の者も多くいた

源氏も平氏もどの天皇の子孫が臣籍降下したかによって、さまざまな流派。
平氏は4流派、源氏は21も流派

臣籍降下した皇族は、平氏において天皇の孫以降の代が多かったことから、源氏の方が格上とする見方も


「源氏」という姓の由来は「皇族に『源(みなもと)』を発する」
「清和」「宇多」「村上」「花山」が有名

清和天皇の皇子、貞純親王の子、源経基に始まる清和源氏の子孫は摂津・大和・河内・美濃・三河に栄えた
頼朝は、現在の大阪南部を支配していた河内源氏の出。足利・新田・武田・佐竹も河内の流れ
明智光秀は源氏の末裔。武田信玄は甲斐源氏の流れ、徳川家康は源氏嫡流を主張


「平氏」の由来は、平氏4流派の中でもっとも古い「桓武平氏」の祖である桓武天皇が建てた「平安京」に因んだ
700年代終盤から800年代初頭の頃、桓武天皇の皇子である葛原・万多・仲野・賀陽の4親王の子孫に平姓が与えられて臣籍降下したのに始まる
4つの流派は「桓武」「仁明」「文徳」「光孝」

葛原親王の子高見王の子孫である「桓武平氏」がもっとも栄えた
高見王の子高望王の子孫は東国で武士として勢力を張ったが、平将門による天慶の乱以降衰えた

高望王の子、良文・良茂の子孫は広く関東一円で「坂東八平氏」と称される武士団を組織して鎌倉幕府の創立に貢献

将門に討たれた国香の孫である維衡は伊勢に勢力を広げて「伊勢平氏」と称され平氏の中心となる
この流れから正盛・忠盛を経て清盛が出て、保元・平治の乱で源氏を追放すると平氏全盛の時代

国香の流れをくむ後北条氏は東国に土着し、鎌倉幕府の有力な御家人となって源家将軍が断絶した後には幕府の実権を握るまでに隆盛したが、豊臣秀吉の攻撃で滅ぼされる

いわゆる「平家」とは、この伊勢平氏の中でも清盛一門をさす言葉で、他の平氏は平家とは呼ばない。だから坂東平氏は平家ではない。

延喜19年(919年)、前武蔵権介源任が国府を襲撃・放火して、官物を略奪し、国司の殺害を企てたことをきっかけにさまざまな対立が勃発
これに対して、桓武天皇の曾孫にあたる高望王が俘囚の乱を鎮圧すべく、上総介として下向。
その子孫が各地に土着して、常陸大掾、下総介、鎮守府将軍、武蔵守などの要職につき、軍事力と国衙の権力を利用して勢力を拡大

【坂東八平氏】
武蔵の秩父氏
相模の中村氏・三浦氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏
下総の千葉氏
上総の上総氏

秩父氏は東京地域で中世を代表する武家の豊島・葛西・江戸氏へと分かれていった

高望王の子、良文の孫にあたる将常は、武蔵権守となり、秩父郡に本拠をおいて、秩父氏を称した。
将常の嫡子武基は、秩父牧の別当と呼ばれた。そして、その孫の重綱からは、武蔵国留守所惣検校職の任についた

平安時代の後期には、国司に任命された中央の貴族は、任地に赴任せず、実質的な国務をその国に居住して国衙をつとめる一団(100名以下)の在庁官人と呼ばれる役人に任せた。
彼等のよって運営された役所が留守所。惣検校職は、この留守所を統括する大きな権限をもつ。この職を秩父流平氏一族の惣領が世襲

この地位を利用して、秩父氏は、武蔵国の内外の河川や海、陸の交通路の要衝に以下のように一族を配置していった

【畠山氏】:荒川沿い
関東平野の出口に位置する畠山荘(埼玉県深谷市)、畠山重忠の弟、長野重清は、その下流の埼玉県行田市付近

【河越氏(惣領家)】:入間川の上流の二つの川の合流点
河越荘(川越市)

【豊島氏】:入間川の下流の豊島荘

【豊島氏の一族の葛西氏】:入間川、隅田川、古荒川、古利根川、太井川(太日川)の流れ込む下総葛西荘

【小沢氏】:多摩川中流域
小沢郷(稲城市、神奈川県川崎市)

【河崎氏・稲毛氏】:多摩川下流域と海への出口
稲毛荘(川崎市)、河崎荘(川崎市)

【高山氏】:鎌倉街道上道(かみつみち)沿いの北部
高山御厨(群馬県藤岡市)

【小山田氏・渋谷氏】:上道沿いの武蔵国の南
小山田荘(町田市)、渋谷荘(神奈川県大和市、藤沢市)

【江戸氏・榛谷氏】:鎌倉街道の下道(しもつみち)沿い
江戸郷<海への海上交通の要衝>、榛谷(はんがや)御厨(神奈川県横浜市)




「藤原氏」のルーツは天神地祇であるアメノコヤネノミコトの後裔
天智8(669)年に中臣連鎌足が大化改新に尽くした功績を讃えられ天智天皇から「藤原」の姓を賜わって藤原鎌足となった

鎌足の子不比等が律令体制を推進し、娘の宮子を文武天皇夫人に、光明子を人臣として初めて皇后に立てた
不比等の子である武智麻呂が南家、房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家を開いて「藤原四家」を成立

北家が有力となって平安時代以降、摂政・関白・太政大臣を多く輩出し、藤原道長・頼通の頃に全盛期

源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏も、忠臣蔵の赤穂藩家老・大石内蔵助も北家に発した藤太流藤原氏

平安末期になると家内の抗争や不和で摂関家が分裂し近衛家・九条家を興し、鎌倉時代には二条・一条が別れ、新たに鷹司家が興って「五摂家」となった。
以後摂政・関白を立てて江戸時代末期に至る。明治維新後は「五摂家」に次ぐ家格にあった上層公家の多くは華族に、五摂家は公爵に列せられ


「橘氏」の始祖は6世紀後半の敏達天皇
橘姓を最初に下賜されたのは、女帝・元明天皇の子、県犬養三千代。文武天皇の乳母を務めた功により、708年に橘宿禰の氏姓を賜り橘三千代を名乗る

三千代と敏達天皇の後裔である美努王の間に生まれた子、葛城王が臣籍降下した橘諸兄は、橘氏の中で最も有名な人物
橘氏の絶頂期は、藤原不比等の息子たち「藤原四卿」の死没後に諸兄が躍進して一気に正一位・左大臣まで昇進した735年頃

世継ぎした諸兄の子、奈良麻呂の孫娘、嘉智子が嵯峨天皇の(檀林)皇后となると、橘氏は再び地位を上げる
奈良麻呂の孫、常主が約70年ぶりに公卿となり、檀林皇后出生の皇子が仁明天皇に即位すると、嘉智子の兄、氏公が右大臣へと出世
この時期が橘氏にとって第二期黄金時代。9世紀半ばから10世紀後半に掛けては7人の公卿を輩出

983年に亡くなった恒平を最後に橘氏公卿は絶えてしまい、その後は地方に土着するか、衰退の一途を辿り下級官人として細々と家系を継いでいく


藤原氏とそれに次ぐ橘氏は起源から1300年以上、源平でも1200年


要職ではない庶民に近い藤原氏の者は、拠点とする土地の名前や職業の一文字と「藤」を組み合わせた名字を作った
例えば伊勢に領地があれば「伊藤」、近江では「近藤」、遠江の「遠藤」、加賀の「加藤」
肥後・備後・越後・丹後・豊後・筑後などの「後藤」、佐渡・佐野などの「佐藤」、武蔵の「武藤」など

また、「佐藤」は皇居を警備する武官「左衛門尉」の「左」から発祥していたり、
伊勢神宮にいる皇女斎王に奉仕する斎宮寮の長官を務めたものが「斎藤」となったり、
木工寮から「工藤」、修理少進の「進藤」など


「清和源氏」?新田・大島・山名・岩松・脇屋・足利・上野・吉良・今川・畠山・桃井・大崎・石橋・板倉・榊原・細川・佐竹・武田・板垣・小笠原・三好・平賀・加賀美・浅野・明智

「宇多源氏」?佐々木・京極・六角

「村上源氏」?久我・北畠・岩倉・千種

「桓武平氏」?関・長崎・緒方・北條・金澤・名越・熊谷・秩父・畠山・小山田・豊島・葛西・鎌倉・大庭・梶原・上総・千葉・東・三浦・岡崎・杉本・和田・北條・佐原・高井・中條

「橘氏」?楠木・山中・和田



【武蔵七党】
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称

横山党(八王子市)
一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏など。先祖は小野篁。
その多くは和田合戦で滅亡するが一部の武士は存続する。 本間氏などは佐渡の地頭として繁栄

猪俣党(児玉郡美里町)
猪俣氏、人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏など

児玉党(本庄市児玉郡)
有氏社を信仰
元々の氏(本姓)は有道氏(有道宿禰)。児玉氏、庄氏、榊氏、本庄氏、塩谷氏、小代氏、四方田氏など

村山党(多摩郡村山郷)
村山氏、金子氏、大井氏、仙波氏など。 先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する

野与党(加須市野与庄)
久伊豆社を信仰

丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)
丹生社を信仰
丹治氏(多治比真人)の子孫と称する。丹氏、加治氏、勅使河原氏、阿保氏、大関氏、中山氏、小串氏など

西党(西野党)(日野市)
平山氏、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏など
立川氏は立川市南部を地盤。

綴党(横浜市都筑区)
私市党(加須市騎西)




「武士之長者」
源頼義の長男として河内国で誕生した義家は、幼名を不動丸、または源太丸といい、7歳のときに山城国・石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と名乗る


前九年の役
陸奥国の有力豪族・安倍氏が国府に税を納めず半独立的な勢力を持ったことから、朝廷は父・頼義を陸奥守に任じ追討命令。
義家はこの戦いに父とともに参加し、多数の犠牲者を出して大敗。安倍氏討伐は苦戦したが、出羽国・清原氏の応援を得てついに勝利

康平6年(1063)前九年の役での功績により、義家は従五位下・出羽守に叙任。
しかし、出羽国は先の戦いで助力を求めた清原氏の本拠地だったため、治めることは難しかったようで、この翌年には朝廷に越中守への転任を希望
『扶桑略記』によれば、延久2年(1070)には下野守となっており、陸奥で盗みを働いた藤原基通を捕らえた

河内源氏が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった
河内源氏が武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となったこの戦役がある。
頼朝は源義経および奥州藤原氏の征討に際し、自身が「前九年の役」を意識し、平泉滅亡後もさらに北上して、父祖戦勝の地「厨川(厨川柵)」へ赴き、義家が同地で行なった鉄釘の故事を再現した



後三年の役
豪族・清原氏は、奥六郡・山北などを領有し最盛期。しかし、独裁体制をめぐって一族が対立し、清原真衡の代に家督争いが勃発
永保3 (1083) 陸奥守として入国した義家は真衡の要請でこの内紛に介入し、嫡子・真衡と対立していた異母弟・家衡と母の連れ子・清衡を打ち破る
その後、真衡が病死したため所領は家衡と清衡で折半となり、今度はこの二人が対立。義家は清衡を助け、家衡を討って平定

義家は平定の報告とともに追討官符を後付けで要請したが、朝廷はこれを却下し、私戦だからと報奨も出さなかった。その上、合戦中は定められた官物の貢納が滞ったことから、義家は陸奥守を罷免
義家は私財を投じて兵士たちを労った。この行動により、義家は武家の棟梁としての信望を高めた。
後に源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した際に東国武士たちが力を貸してくれたのも、こうした義家の行動があったから


義家には同腹の弟・義綱がいたが、二人は不仲。賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と呼ばれていた
義家とともに前九年の役に参戦し、その勲功から右衛門尉に任ぜられた。後三年の役には参戦せず

寛治5年(1091)には義家の郎党・藤原実清と義綱の郎党・藤原則清が領地をめぐって対立。義家と義綱は合戦寸前に至るが、関白・藤原師実の仲裁により事なきを得た
義綱は公卿の日記に登場したり格の高い美濃守に就任したりするなど、義家より目立つ


承徳2年(1098)義家はようやく受領功過定(成績審査)を通り、正四位下に昇進して院昇殿(院御所に昇ること)を許された。
これは後三年の役から10年後のことで、合戦時に滞っていた官物を完済したことも理由
白河法皇によるこの計らいに、摂関家や家格にこだわる公卿たちは反発。

その後は、長治元年(1104)義綱とともに延暦寺の悪僧を追捕。
義家の公的な活躍はこれが最後となり、息子・源義国が叔父・源義光らと対立した常陸合戦のさなかに68歳で死去

義家の死後に家督を継承した源義忠は、清和源氏の中の河内源氏4代目棟梁


納豆は、義家が戦場で食べていた「ワラに入った煮豆」が起源だという説。
煮豆は馬の背に載せて携行されたため、馬の体温により納豆菌が繁殖。
義家が進軍した地域にはその製法が伝わり、現在でも納豆文化が続いている

源氏に伝わる名刀「髭切」は義家のころに作られた、罪人を試し斬りする際に髭まで斬れたことからその名がつけられた。
別名「鬼切丸(鬼切安綱)」とも呼ばれるこの日本刀は、河内源氏嫡子に伝わる宝として、名や持ち主をかえながら受け継がれた。
現在は京都・北野天満宮に納められている

東京証券取引所のある東京都中央区兜町は、その地にあった「兜塚」が源義家をまつる「兜神社」に姿を変えたことに由来。
兜塚については、東北から凱旋後の義家が兜を埋めて塚としたとする説や、東北遠征の際に岩に兜をかけて必勝祈願をしたとする説




2004年頃、Wikipediaなどに代表されるウェブの新しい利用法を指す「Web2.0」という言葉が流行
Web2.0には「自動化」「双方向性」「相互運用性」「無料」などのさまざまな特徴

FacebookやInstagram、Twitterなどのコンテンツは、1つの大きなサービスが多数のユーザーを囲い込む、排他的で閉鎖的なスタイル。
他のシステムやサービスとの互換性がなく「相互運用性」とはほど遠く、ゆえにWeb2.0に当てはまらない

獲得した既存のユーザーを逃さないよう、新しいサービスが生み出される前に既存のサービスに新しい機能を追加



「LINE」の個人情報が、日本国外である韓国のサーバーに暗号化されていない無防備状態格納されており、しかも再委託先の中国企業などがアクセス可能な状態だった
LINEで書かれているトークの内容を含む個人情報が、韓国の情報部門「韓国国情院」を通じて、中国系ICTコングロマリット大手であるテンセント社(騰訊)に漏洩していた
韓国NAVERのサイトで保存されているユーザーの画像や映像、LINE Payの決済情報などのコンテンツについては暗号化されずに、権限のある人(韓国NAVER技術者など)が見ようと思えば見られる状態
一部exifを含む位置情報や撮影日時に関する情報が格納され、またLINE PayやLINE証券などの決済データには個人の信用情報や決済の場所(お店)・金額なども含まれています。

韓国は法体系として、裁判所の令状に拠らず政府機関などが捜査や調査の名目で民間企業の持つデータにアクセスする権限を有す
少なくとも2014年以降、日本人の個人に関する情報が韓国NAVER社のサーバーに無防備な形で収納されており、ユーザーに不利益になる形で、例えば情報機関などに漏れていた

一連の個人に関する情報からソーシャルグラフと言われる「誰が、誰とつながって、どのくらいの頻度で音声や動画のコンテンツをやり取りしていたか(どのくらい親密な関係か)」を割り出すことができます。
例えば自衛官や海上保安庁の職員、警察庁・警視庁の関係者のみならず、その家族のライフログを収拾することで、
特定の隊員・職員が誰と親しく、どこに駐屯していて、いま家族と一緒なのかどうかも含めて分析を行うことができる

LINEを運営していた旧LINE社とヤフージャパン社は今年3月1日に経営統合
LINE証券や、LINE Payとの統合が進められるとしていたPayPayほか、LINEとヤフージャパンの各サービスとの連携

PayPayはインド決済技術大手Paytm社のテクノロジーを使って運営されており、そのPaytm社はごく最近まで中国アリババ社の出資を受け同じテクノロジーを使って世界的決済大手アリペイ(Alipay)を運営

LINEの事業の主体は韓国よりも日本、タイなどの他国でのSNS事業がメイン

LINEは公称の利用者が世界で1億8600万人あまり、日本で8400万人あまりとされ、日本においては特に、もっとも国内で利用されているSNS

個人情報保護法や、資金決済法、通信事業法、金融商品取引法の面などからも懸念される
通信事業法違反の嫌疑では総務省が、LINE PayやLINE証券などでの情報漏洩の疑いについては金融庁



政府の「男女共同参画基本計画」が選択的夫婦別姓を認める方向

高市早苗氏などの国会議員でつくる50人の議員連盟「『絆』を紡ぐ会」

夫婦別姓を認めない民法は世界中で日本だけ
旧民法で初めてできた制度である。保守派の加地伸行氏も明言するように、日野富子や北条政子のような夫婦別姓が日本の伝統

東北アジアでは、夫婦別姓を堅く守ってきた。ところが日本では、明治維新後、幕末に外国と結んだ条約の不平等改正を進める際、相手は近代的諸法律の整備を要求した。
民法親族編の婚姻後の姓氏について、大議論の末、姓でなくて氏を名乗ることにした。それは欧米社会のファミリーネームの真似、すなわち夫婦同氏

古代日本の戸籍は中国と同じく(北条政子が源頼朝と結婚しても北条を名乗ったように)夫婦別姓だったが、それとは別に居住地の地名などを苗字として名乗るようになった。これが「氏」
明治時代にそれをヨーロッパの制度に合わせたが、これは通称だから結婚のときどうつけてもいいし、新しくつくってもよかった。
ところが民法で「夫又は妻の氏を称する」と決めたので、結婚前の苗字を使うと戸籍上の氏と一致せず、いろいろ不便なことが起こる。

戸籍制度は中国で生まれた「一君万民」の制度だが、もう中国本土にはなく、韓国も廃止した。残っているのは日本と台湾だけ

戸籍は「家族の絆」を守る制度ではなく、明治時代に立法された天皇を「家長」とする国家秩序をつくる制度




石原莞爾 1940(昭和15)年に発表された「最終戦争論」(42年に『世界最終戦論』として新正堂から刊行)のなかで、
「日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る。そのときに本化上行ほんげじょうぎょうが再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ」
という日蓮の予言をもとに、世界最終戦争が「数十年後に切迫している」


90年代にはオウム真理教のほかにも、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)のようなキリスト教系の新興宗教が、同様に近い将来におけるハルマゲドンの到来を唱えていた


丸石神、なぜ作られたのか、どのような意味があるのかなど不明な点が多い上に、文化財認定もされておらず、観光資源としても見られていない
700基以上。数十センチから1m近くあるものまでいろいろ。1基のみが石の台に置かれているもの、複数基が集合しているもの。道の端にぽつんと置かれていたり、神社・寺の境内にあったり。
地中から火山活動によってできたという説、川で球体化したという説、信仰の対象として作られたという説
ある説では道祖神だと言われています。
道祖神は男女一体型や男根型のものが多く、球体の道祖神は山梨以外ほとんど見られません。



富士山は、年間30万人以上の登山客が訪れる観光スポット

富士山の八合九勺(3360m)から上は「浅間神社」の「私有地」


静岡県富士宮市には、縄文時代中期の遙拝祭祀場跡と思われる遺跡が見つかっていて、「遙拝」とは、遠く離れた場所から拝むこと

「福慈神(ふじのかみ)」と名付けられた富士山の神霊は、平安期に「浅間大神(あさまのおおかみ)」と呼ばれる。
その頃の富士山は荒れに荒れており、鎮めるために山麓に浅間大神を祀ったのが、富士山本宮浅間大社

第11代崇神天皇3年(紀元前27年ごろ)前後には、富士山の山麓の数カ所に神様を祀るように
806年に第51代平城天皇の勅命を受けた坂上田村麻呂によって、最初の浅間神社である「富士山本宮浅間大社」が築かれた。

864年(貞観6年)に富士山は、大規模な噴火
朝廷はこの原因を大神祭祀の怠慢とし、駿河国富士山(現:静岡県)に「鎮謝(祈り謝る?)」せよ、甲斐(現:山梨県)の国司に「奉幣解謝(捧げものをして祀る?)」せよと下知。

噴火がおさまった平安時代末期には山頂に祠

そして、甲斐国八代郡に浅間大神の社殿を建てたのが、河口湖町河口の浅間神社
1083年(永保3年)を最後に富士山の噴火活動は収束

それまで浅間大神であった富士山を大日如来とし、富士山頂に仏の世界(または仏が神の形となって現れる場所)があると考えられ、多くの修験者が山頂をめざしました

数百度登山した記録が残る末代上人(まつだいしょうにん)。山頂に大日寺を構えたとされ、富士山上人と呼ばれた
末代上人が山麓の拠点にしたのが村山(富士宮市)で、ここを拠点に行われた富士山域の回峰行が「富士峰修行」。富士山腹から宝永山や愛鷹山、三島明神(三島大社)などを26日かけて巡った

室町時代には登山路が整備
7つある登山口に浅間神社が置かれ、登山者は各ルートにある浅間神社に立ち寄り、安全祈願

15~16世紀になると修験者に引率された衆庶の信仰登山へと拡大。参詣者のための宿坊ができるなど、「修験」から、さらに民衆に開かれた「富士講」

「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」という江戸時代から昭和初期にわたりつづいた庶民の信仰。
代表が富士山を参詣し、本宮冨士浅間神社に参拝してからも富士講八海巡りなどの修行

富士講の開祖は、長谷川角行(1541~1646)。富士の人穴(富士宮市)や北口本宮参道の立行石等で荒行を重ねて宗教的覚醒
祈祷の力により諸病平癒などで庶民を救済。富士山登山百数十回、断食300日などの苦行を成し遂げ、106歳のとき人穴で入寂

江戸中期になると、開祖角行から数えて六代目の食行身禄や村上光清らが法脈を受け継ぎ、筋道の立てられた教義をもとに独自の実践道徳をもって発展、組織化。
山の結界が開放される2ヶ月間に平均1~2万の人々が信仰を目的とした登拝
江戸末期には「江戸八百八講」といわれるほどの講集団の盛況

身禄は、享保18年(1733)、富士山7合目の鳥帽子岩で断食入定、即身仏となって自己の信仰を貫き

江戸町には”富士塚”と呼ばれる高さ数mのミニ富士山が多くつくられ富士塚登山が江戸の町人の間で大流行

「御師(おし)」は富士山及び角行の説く信仰の指導者であり、又宿泊所の提供者であり、富士講を広める普及者
経営する宿坊での信者から宿泊料や山役銭(通行料)、おはらい料、お礼、お布施などの収入

富士山も1872年(明治5年)の太政官布告により禁が解かれるまで、女人禁制
禁が解かれる前に登拝した富士講の信者、高山たつ。男女平等の思想を持った食行身禄の意志を受け継いだ小谷三志の尽力により、登頂


山岳仏教の行者たち「六根清浄 お山は晴天」
六根とは、目、鼻、耳、舌、身、意の6つで、人間の知覚のことを言い、六根清浄とは、この六根から生じるさまざまな欲望を捨て、清らかになって富士登拝しましょうという意味

「ロッコンショウジョウ」を繰り返しているうちに、息もとだえとだえになり、なまってしまったのが「ドッコイショ」になった


現存する最古の富士山の絵画は、秦致貞の『聖徳太子絵伝』

富士山を浴場に描くルーツは、大正元年(1912年)、東京・神田猿楽町にあった「キカイ湯」という銭湯。
創業者である東由松氏が、増築をする際、壁に絵が書いてあったら子どもが喜ぶに違いない、とペンキ絵を描く
広告デザインなどを手がけていた油絵画家の川越広四郎に依頼。彼が描いたのが、富士山


毎年4月から5月中旬にかけて巨大な鳥があらわれる。
農鳥(のうとり)。富士山7~8合目付近(標高2900メートルから3000メートル)の北西斜面にあらわれるなごり雪で、鳥の形をしている
春の訪れを告げる風物詩として、地元では古くから、農家が田植えなどの農作業を始める時期の目安とされ、その年の天候や吉凶も占った

宝永山の西側斜面に、雪が降り積もると、ちょうど髪の長い女性が佇んでいるようなシルエットになることから、地元の人々からは、「雪姫」と呼ばれて親しまれています。
富士山には安産の女神が宿っていると言い伝えられていますが、それは富士山信仰に関する伝記をまとめた「富士山縁起(ふじさんえんぎ)」によると、「かぐや姫」が富士山から授かった子


富士山、生誕から約10万年、現在の姿になってからは約1万年
富士山北西麓には大小さまざまな溶岩洞穴があるが青木ヶ腹樹海に集中、その規模は大きいもので総延長500m以上あるものもあります


頂上はぽっかりと火口が空いていて、それを取り囲むように8つの峰が並ぶ険しい尾根道。
火口の直径は約800メートル、尾根道はおよそ3キロ。
尾根道をまわっていくコースは、「お鉢めぐり」「お八めぐり」が転じたもの

「八葉蓮華」という仏陀が坐る八枚の弁をもつ蓮華にたとえられ、「八葉」と呼ばれて8つの峰にも仏教にちなんだ名
吉田口・須走口の頂上の久須志岳は「薬師ヶ岳」、伊豆ヶ岳は「阿弥陀岳」、成就ヶ岳は「勢至ヶ岳」、御殿場口の浅間ヶ岳は「駒ヶ岳」、富士宮口頂上の三島岳は「文殊ヶ岳」、白山岳は「釈迦ヶ岳」、朝日岳は「大日岳」


明治時代まで富士山登山は「有料」だった 室町時代の後半からすでに、登山は有料だったという記録
登山者・1人につき244文の山役銭=通行料を徴収していた

関所があったのは、富士山北口浅間神社を起点とする吉田口登山道
関所を置いて通行料を徴収していたのは、このあたり一帯に勢力を誇っていた今川氏

山の中腹と頂上にも関所を置いて、手形の無い人をチェックしていた
今川氏の後、武田氏の支配になった時代、122文と半額にディスカウントされた


富士五湖は、富士山の噴火によって堰き止められ、窪地に伏流水がしみ出して貯まった「堰止湖」。
伏流水とは、地上に降った雨や雪が地下にしみ込んで、地層の中の目の粗い岩や砂礫から流れ出てくるもの。

これら三つの湖面の標高は同じで、どんなに増減があっても水位がいつも同じです。
このことから、この三つは今もつながっていると考えられています。

古代は、本栖湖、精進湖、西湖の3湖はつながっていて「セの海」と呼ばれ、また富士河口湖の河口湖、山中湖や忍野八海を含む湖を「宇津湖」
新富士火山の溶岩流によって河口湖と本栖湖が誕生。続いて貞観の大噴火の溶岩流により、セの海がさらに分断され精進湖と西湖が誕生。
また、1500~1000年前に山腹から流れ出た溶岩流によって河口湖と山中湖が現在の形となり

精進湖の南東に実は6番目の湖がある。大雨が降って増水したときだけにしかあらわれない「幻の湖」といわれる「赤池」

かつて山小屋や富士山観測所の食料などは、「強力さん」と呼ばれる山のプロたちが背負って運んでいました。
1964年の富士スバルラインの開通や、ブルドーザー道の完成、2004年の山頂測候所の自動化などにより、強力さんに頼ることはなくなっていきました。


かぐや姫が帝に「不老不死の秘薬」を渡たし、月に帰ってしまって、悲しみに暮れ、生きる希望を失った帝は、日本で一番高い山の山頂で、この「不老不死の秘薬」を焼いたことから、「不死山」
富士山に「溶けることのない雪」(万年雪)が残っていたり、靄が立ちこめているのは、この「不老不死の秘薬」を焼いたため


1885年の公式記録では、富士山では3778メートルでした。
関東大震災、1926年再調査をしたところなんと、3776メートルになってしまっていた
1962年、国土地理院が山頂2等三角点で測定をしたところ、3775メートルだったものが、1993年に大成建設がGPSと水準法という方法で測定したところ、3774.9メートル。
わずかですが、どんどん富士山は低くなっている

太平洋戦争当時、CIA(アメリカ中央情報局)の前身であるOSS(戦略情報局)には「神経戦部」という部署
富士山を赤にするためにどれほどのペンキがいるのかを試算したところ、表面積から考えてペンキが約12万トン必要で、それを運ぶにはB29が約3万機いる
マリアナ諸島から富士山まではおよそ2500キロ。燃料は1機200万。つまり、燃料代だけでも600億かかる

富士山頂で、3ヵ月前に申し込みをして10万円の初穂料を支払えば、誰でもここで結婚式を挙げることができる
頂上で式を挙げるカップルは、年に3組ほどいる


富士山の頂上ではご飯を炊こうとしてもうまく炊けません。その理由は、気圧

富士山は自然のピラミッドだという説や、UFOの離着陸スポットだという説

本栖湖の「モッシー」
1970年代から何か巨大な生物が本栖湖にいるという目撃情報
富士山の撮影を行っていたカメラマン数名が湖面に約30mもの巨大な物体が浮上してくるのを目撃。
目撃者によると、それはワニの背中のような荒々しい皮膚が見えた
捕獲をしようと、マグロ漁用の網を仕掛けられましたが、引き揚げてみると何かが食いちぎったようにビリビリにされていた
1500万年以上昔、富士山のあたりは海の底で、クジラの先祖である巨大な生物などが暮らしていた

河口湖は15.2m、山中湖は15m、精進湖は15.2m。西湖は73.2mとやや深いですが、本栖湖は水深138メートル


不二阿祖山太神宮の渡邉政男大宮司は20歳のころから何者かに意味不明の言葉を言わされ
調べてみるとそれは古代の言語で実際に存在する言葉でした。

宮下文書によれば
現在の富士吉田市大明見村(おおあすみむら)に富士王朝が存在し不二阿祖山太神宮は王朝の中心でした。
王朝は不二阿祖山太神宮に始まり天神、地神に分かれ地神の第一代が天照大御神であり
富士聖域の守護神霊が不二阿祖山太神宮に鎮まりました。
代々の天皇の即位式はこの神社で行われたと書いてあります。

宮下文書(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見の北東本宮小室浅間神社、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。
神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。


浅間神社は全国に約1,300社あり、総本宮は、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)。
浅間神社の他に、富士神社という社名の神社もあります。

浅間神社では、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を主祭神に祀っています。
他に、花之咲耶姫命の姉神である磐長姫命(いわながひめのみこと)や、父神の大山祗神(おおやまづみのかみ)などを合わせて祀る神社も多い

木花開耶姫命には、燃え盛る産屋の中で出産したという伝承
木花開耶姫命の「木花」は桜のこと、浅間神社では桜を神紋にしていたり、境内にたくさんの桜

「浅間(あさま)」は火山を意味する言葉で、昔は富士山も浅間と呼ばれていた

浅間神社特有の建築様式に「浅間造」。2階建ての社殿で、上階は、入口側正面の屋根が前に長く伸びている流造。御神体が安置される神座は、上階

毎年、7月1日は450年以上続いている「お導開き(おみちびらき)」をして、富士山の山開きも行っています

境内には富士山の湧水である「湧玉池」があり、かつては道者がここで登山前の水垢離(みずごり)





・イエス
キリスト(救世主)ヘブライ語でメシヤ。キリストはギリシャ語→ラテン語。
クリスマスを「Xmas」と書くのは、キリストのギリシャ語綴りの頭文字がXになるため。エックスではなくカイである。「X'mas」と書くのは誤り

「キリスト教」の骨格を作ったのは、生前のイエスに会ったこともないパウロ。この男がユダヤ人ではなくローマ人であったことで、母体のユダヤ教とはガラッと変わった宗教になってしまった

マリアが処女懐胎というのは、誤訳から生まれた大誤解。ヘブライ語で単に「未婚の女」を意味していた言葉を、ラテン語に訳す時に「処女」としてしまった
同腹の兄弟が存在している時点でおかしいだろうというツッコミはかなり古い時代からあった。そもそもラテン語への翻訳間違いが原因で聖書がおかしな内容になった

イスラム教でも公式に「預言者・イーザー」として認められている。イスラム教徒であっても新約聖書を『イーザーの預言書』という名目で持っている人もいる。が、「神の子」とは認めていない

妻はマグダラのマリアで、子は新約聖書がなぜか絶対名前を書いていない「13人目の弟子」と見られる。
「もっとも愛された弟子」とか書かれており、この人物の存在は確実。奇妙なほどに名前を避けている
イエスの妻子の存在を認めてしまうと、数多くの修道士や神父に童貞を要求してきた根拠が根本から崩れてしまうので、これも「今さら」認められない

誕生日は7月頃。クリスマスではない。誕生年は紀元前5年頃。西暦1年ではない。


・仏陀
釈迦様。「シャカ」というのは彼の属していた部族の名前。
6年間苦行を重ねて悟りを開く 世界で最も像が作られた人物
ヒョウタンツギによる食中毒で命を落とした


・ムハンマド
イエスはすべてを捨てて神に祈ったが、ムハンマドは女房の愚痴を聞きながら神に近づこうとした
「回族」という中央アジア系の民族が信仰していたため漢字圏では『回教』。日本でもイスラムのことを「フイフイ教」と呼ぶ人が居た(「回」の現地語発音が「フェ」で、それがなまって「フイ」)

一夫多妻が流行していた当時のアラブで、妻を持つのは4人までにしておけと戒告。自分は同時に10人も妻を娶った。

嫁の一人は結婚時に9歳。その影響で、イスラームでは女子の結婚の最低年齢は9歳とみなされるようになった。
アラブでは性交しなければ結婚は成立しない。つまり結婚年齢=処女喪失の年齢
9歳で嫁に行ったアーイシャは、死んだ15歳年上の前妻(ハディージャ)の昔話を側室の前でするムハンマドの傍で、大変嫉妬深く攻撃的な女性に成長

ムハンマドは大の猫好きだった。弟子にアブー・フライラという人がいた。アラビア語で「子猫大好きオヤジ」という意味


・リンカーン
奴隷解放宣言は単に南部の奴隷を発起させて内乱を起こさせようとする軍事的戦略にすぎない。
また、南部から安価に綿花を輸入でき、自由貿易のほうが有利なイギリスやフランスを牽制し、人道を盾にとって南部への援助を踏みとどませる方策


・ジョージ・ワシントン
大統領が二期までしか務められないのもジョージ・ワシントンが三期目の出馬を辞退したから。
大統領就任式で聖書に手を置いて宣誓する儀式もフリーメイソンのメンバーだったワシントンがフリーメイソンの入会の儀式の一つの自分の信じる本に宣誓する儀式をまねしたから。

大統領就任時には1本を除き全て入れ歯。$1札の肖像は彼が入れ歯を噛んでる場面。
コンプレックスとなって演説を避けるようになり、大統領をやめたのも歯が原因


・レオナルド・ダ・ヴィンチ
1枚の絵を完成させるまで5~6年費やした。未完成のまま放置された絵や、山のようなスケッチだけを残して構想のみに終わった作品も多い。
もう完成して人手に渡った作品でも、思い出したようにちょこちょこ手直ししてグダグダにする癖があった。有名どころではモナ・リザの腕の部分が作業の途中で中断したまま
和訳すると「ヴィンチ村のレオナルド」になる


・ガリレオ・ガリレイ
裁判にかけられたのは、地動説のせいというより、著書の中で当時の有力者を誹謗中傷したせい
手作り望遠鏡を空に向け、数々の発見。月のクレーターを発見。木星の衛星を発見ガリレオ衛星。
金星の満ち欠けが金星の見かけの大きさ変化と連動していることも見つけ、天動説ではできないこの原理の説明は地動説ならば可能となることから地動説を支持するに至り、金星は地球の内惑星であると確信
振り子の等時性を発見。落体の法則を発見。


・アイザック・ニュートン
ズボンをはくのを忘れて街を歩いた。
猫を2匹飼っていたが、家に自由に出入りさせるため、大きい猫用と小さい猫用にわざわざふたつ作った。
馬車に乗って進まないなと思ったら馬が付いてなかった
就職先は税務署


・孔子
ちゃんとした諸侯に仕えて、自分の理想を実現してみたいと熱望していたが、結局誘いをかけてきたのは陽虎のようなヤバいヤツばっかり。
晩年、もう少しで斉の景公に仕えることができそうだったのだが、晏嬰に阻止される。
行動力は子路に及ばず智恵は子貢に及ばず仁の獲得は顔回に及ばずだったが孔子は彼ら高弟に慕われていた


・ナポレオン
いつでもどこでも数分~数十分の短時間睡眠がとれる体質だったので、夜は3時間寝れば充分だった
匂いフェチ。戦地から帰還するとき、嫁宛に「これから帰るから、それまで体を洗わないでいてね」という手紙。
嫁の体臭は乳製品系だったらしく、昼寝しているナポレオンの鼻先に召使がチーズを近づけたら、「ジョセフィーヌ許せ、今日は疲れているのだ」と寝言
ケルンで作られていた香水が気に入り、月に60本も消費していた。オーデコロンの始まり


・ギルガメシュ
ウルクの英雄王。初代ウルク王じゃなくて5代目くらい。
ギルガメシュは2/3が神1/3が人間というよく分からない血筋。曾祖父と母が神
可愛いライオンを腕で抱っこしたレリーフで有名(ドゥル・シャルキン出土)
ヘラクレス伝説のいくらかはギルガメシュが元ネタ


・アショーカ
インドをほぼ統一した王様。紀元前4世紀末~前3世紀後半に生きていた
全国一律の法によって天下を治めようとした
仏教の庇護をおこなった。仏教が普遍的宗教のひとつになったのはこの王様のおかげが大きい。
世界中に遺骨をばらまかれた。日本にはその欠片の内3つ来ており、1つは琵琶湖の湖底に沈んでいるが、残る2つのうち1つは箱根に、もう1つは八日市にある



・ヤマトタケル
パニくって叔母さんに泣きついたり、ダメだってわかっててメンス中の女と交わったり
伊吹山の神に「あとでボコったるでそこで待っとけ、たわけぇ」と暴言を吐いて逆にボコられて薨去
焼津市。静岡市草薙。千葉県木更津の由来

群馬の鳥居峠で「あづまはや…」と嘆いた。「東=あづま」の由来。
「あづま」の当初の当て字は「吾妻」、つまり「わが妻」。東征の旅の途上で命を落とした嫁さんを偲んでのこと。
オトタチバナヒメ。東京湾で嵐にあったため、海神を鎮めるために入水

本名はオウス。ヤマトタケルというのは、最初に討伐した熊襲の首長・クマソタケルから貰った名前。
ちなみに「ミコト」とつけられるのは死後。現在でも神道の信者が死んだ場合は名前に「~のミコト」

伊勢国で亡くなったあと、遺体が白い鳥となって西へ飛んで行った。これが大鳥(鷲)信仰の始まり

父親に嫁ぐ予定だった女を自分のものにした上引きこもるようになった兄・大碓命を惨殺


・聖徳太子
推古天皇の皇太子に立てられたが、オバハンが丈夫で長生き過ぎたため、皇位に就くことなく先に死んでしまう。

「東天皇敬白西皇帝」
中国でもその直前に五胡十六国時代やら南北朝時代やらがあって、あちこちに皇帝や天子を名乗る連中が居たので、後の時代よりはその辺がゆるかった。
高句麗と戦争中で敵を増やしたくない事情もあった

肖像は後世になってヒゲの加筆が行われた


・光格天皇(第119代)
約1000年間途絶えていた漢風諡号を復活させた。約900年間途絶えていた天皇号を復活させた。
現在の皇室の直接の祖にあたる。
実父は天皇になったことのない親王で摂関家より席次が下なので上皇を贈りたかったが時の老中松平定信に反対された。いわゆる尊号一件。
幕府に困民救済を要請したり国境のトラブル報告を受けたりと、朝廷の権威を取り戻す切っ掛けを作り、幕末に繋がっていく種を植えた人


仁孝天皇(第120代)
皇族や公家の子弟の教育機関の設立を命じた。これが現在の学習院


孝明天皇(第121代)
長生きしていたら慶喜の幕政改革が間に合って日本は大統領制になっていたかもしれない。徳川シンパ。
孝明天皇の意思に反して幕府を倒して出来上がった明治時代には孝明天皇について語ることはタブーであった
在位中に6回も改元


明治天皇(第122代)
伊藤博文は、英国的でフランクな皇室をイメージしていたが、アレクサンドル2世の戴冠式に感動した山県有朋が猛反対。時代錯誤な、ロシア・清国式の神聖装飾を推し進める
生涯に10万首ほどの和歌を詠む。贅沢嫌いの明治天皇はちびた鉛筆で裏紙に詠んだ和歌を書き留めていた。
天皇と認められていなかった大友皇子、淡路廃帝、九条廃帝に天皇号を追諡した。
織田信長のことを「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一を目指した信長のおかげ」と評価して、京都に建勲神社を作った。



古代においては春の田植えと秋の収穫の際に年齢を+1したので半分にすれば妥当な歳に落ち着くという説


記紀に記録が少ない欠史八代と言われる第2代~第9代天皇

綏靖天皇(第2代) 
神武天皇の三男 神武天皇の死後に実母を妻にした異母兄を討伐した


安寧(第3代)、懿徳(第4代)、孝昭(第5代)、孝安(第6代)、孝霊(第7代)、孝元(第8代)、開化(第9代)
4代は全部漢のパクリ。漢の帝号には正式には、高祖と光武帝以外は正式には全部「孝」がつく。
孝昭皇帝(昭帝)は前漢8代、孝安皇帝(安帝)は後漢6代、孝霊皇帝(霊帝)は後漢12代、孝元皇帝(元帝)は前漢10代。
日本書紀とか見るとここら辺の天皇の名前は元々もっと長ったらしい。この辺の天皇号は奈良時代の淡海三船が考えてつけたもの。

孝昭天皇は珥氏・春日氏・小野氏・粟田氏・柿本氏・大宅氏等のご先祖様
孝元天皇は葛城氏・蘇我氏・平群氏・紀氏・巨勢氏のご先祖様。武内宿禰は孝元天皇のひ孫。


垂仁天皇(第11代)
后が「ダンナ(垂仁天皇)よりもお兄ちゃんの方が好きっ」とのたまって天皇暗殺未遂を起こし、そのお兄ちゃんと籠城して心中
野見宿禰と当麻蹴速に日本初の相撲をとらせた。紀元前23年7月。野見宿禰の献策で、土偶を作ることになった。殉死をなくすために考えた


景行天皇(第12代)
ヤマトタケルをこき使った薄情な天皇、実は自分も相当忙しく各地を飛び回っていた。
「景行天皇行幸の地」というのは日本各地にやたらと沢山ある。


成務天皇(第13代)
ヤマトタケルの異母兄弟。
若き日のヤマトタケルに手足をへし折られた兄、オオウスの命だった説も


仲哀天皇(第14代)
ヤマトタケルの息子。神様が「新羅を帰服させよ」と言ったのにシカトしたため、神の怒りを受けて崩御。その後妻の神功皇后が大活躍。


応神天皇(第15代)
お墓は日本で2番目に大きい。八幡神社の祭神は応神天皇
神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫で367年に生まれた


仁徳天皇(第16代)
民のかまど。世界最大の墳墓
嫁の磐之媛のヤキモチに生涯苦しめられた。脚をバタつかせ、地団駄踏んで怒り狂った。
有力者・葛城氏の出だったので、離縁もできず、機嫌をとるのに四苦八苦
宋に朝貢した「倭の五王」の一番目「讃」はこの人
応神パパへの輿入れのため日向から大和へ向かていた日向髪長姫を摂津国桑津村において目撃した仁徳帝はその美貌に一目惚れ略奪婚


履中天皇(第17代)
酔っ払って眠っていた時に弟に御殿を放火された。
「倭の五王」の「珍」はこの人


反正天皇(第18代)
長兄と弟も天皇。次兄は父を焼殺しようとしたので父の命により殺した


允恭天皇(第19代)
古代を代表する美女衣通姫の父
「美しさが衣裳を透かして迫ってくるほどだ」というのが衣通姫の名前の由来
息子の木梨軽皇子は、日本史上初の「妹萌えが行き過ぎて人生を棒に振った」人。近親相姦


安康天皇(第20代)
暗殺された初めての天皇。誤解して殺した叔父の息子に復讐された


雄略天皇(第21代)
ワカタケル大王。「倭の五王」の「武」
旅先で美少女を見つけ「都に帰ったら妃に迎えるのでそのつもりでな」と言い置いたが、帰ったらすっかり忘れていた。美少女はお召しを待ち続け、ついに老婆になってしまった。
万葉集の一番最初に収録されている歌の作者とされる。「籠もよ」で始まるこの歌は、丘で春の菜摘みをしている乙女に求愛をするという内容

同母兄の八釣白彦皇子を生き埋めにして、腰まで埋まったところで両目が飛び出て死んでしまった
同じく同母兄の坂合黒彦皇子も焼き殺した
従兄弟の市辺押磐皇子を狩りに誘い出し、猪を撃つ振りをして皇子を射殺。嘆き悲しんだ皇子の従者も殺害
妃にしようと百済からやってきた池津媛は石河楯という人物と密通していたことが発覚。両手足を木に縛られたうえ、床に置いて焼き殺された


清寧天皇(第22代)
アルビノであった。妻子なく崩御。諱は「白髪」。


顕宗天皇(第23代)
父親をワカタケルに誤解されて殺された二王子の弟、ヲケ。
二王子の逃亡生活から発見に至るまでは涙涙の物語。


仁賢天皇(第24代)
父親をワカタケルに誤解されて殺された二王子の兄、オケ。
「俺たちが世に出たのはお前のおかげだ、弟よ」と言って、弟を先に皇位につかせた。
弟の顕宗天皇が憎っくき仇である雄略天皇の墓をぶっ壊せと言うので派遣される。
すぐ帰ってきたので天皇が訝しむと、ちょこっと端を掘っただけですよ、仇でも天皇陵を壊せば後世の謗りを受けますよと戒めた。


武烈天皇(第25代)
女を裸にして、馬と交接させる。その陰部を見て、潤っている者は殺し、濡れていない者は、奴隷にした
妊婦の腹を裂いて、その赤子を見る。人の生爪を剥いで、芋を掘らせた。
人の頭髪を抜いて、木に登らせ、その木を切倒して、落として殺した。
人を池の樋に伏せ入れ、外に流れ出てきた所を、三刃の矛で刺し殺す。
人を木に登らせ、弓で射落とす。
武烈天皇の側近は狩野掃部之祐で、のちに武烈天皇を祀る櫻田山神社を久我大連と共に建てた。狩野英孝のご先祖様



・アメノウズメノ命
岩戸の前でストリップ
天孫降臨の時もニニギノ命に付き従い、サルタヒコノ神を降伏させる。なぜかこの時も、サルタヒコノ神の前で脱いでいる。
サルタヒコノ神と結婚。選んだ決め手は「サルタヒコノ神の鼻が大きかったから」
猿女君、稗田氏の祖先神


・コノハナサクヤ姫
ニニギノ命の奥さん。神武天皇は彼女の曾孫。
磐長姫という姉と一緒にニニギノ命に嫁いだが、面食いのニニギノ命は美人だったコノハナサクヤ姫だけ手許に置き、不細工だった磐長姫は親元に帰してしまった。
磐長姫はニニギノ命の長寿を祈念して送られたらしいのだが、それを帰してしまったため、彼の子孫である歴代天皇の寿命が短くなってしまった

ニニギノ命と一回いたしただけで妊娠したので、浮気を疑われる。コノハナサクヤ姫は怒って産室に火を放つ。
「天孫の子なら無事に産まれるでしょうよ。そうでなきゃあたしも子供も一緒に死んでやる!」とタンカを切った。無事に誕生、三つ子ちゃん。
長男が海幸彦ことホデリノ命、三男が山幸彦ことホヲリノ命。「山幸・海幸」の物語で有名、次男はホスセリノ命
富士山の守護神。コノハナサクヤ姫=かぐや姫説。かぐや姫って富士市が舞台


征夷大将軍には「3代8代の法則」。鎌倉3代8代執権・室町3代8代将軍・江戸3代8代将軍。
将軍は字義的には軍事司令官に過ぎず対外的に使えないので江戸時代の外交文書では大君の称号を使った。


・大伴弟麻呂
初代征夷大将軍。60過ぎてから任命され、蝦夷を討伐して来いと言われて大迷惑。
ほとんど副官の坂上田村麻呂に任せっきり


・坂上田村麻呂
二代目征夷大将軍。平安時代初期の公卿・武官。蝦夷征討に功績を残し、平城太上天皇の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。
平安京の守護神として崇敬された武芸の神。悪鬼悪龍の討伐伝説が日本一多い英雄
坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主を祖先とし大和国高市郡に蟠踞した倭(東)漢氏の一族


・伊藤博文
もみじ饅頭の生みの親。芸者の手を見てもみじのようだ、饅頭にして食いたいとのたもうた事に由来
二人三人と同衾するのは当たり前、半玉(デビュー前の芸者)の最初の客になるのが楽しみだった
「地方で芸者遊びをするときは、土地のNo.1ではなくNo.2やNo.3を指名しろ」という秘訣を残している。


・清少納言
枕草子に「俺はたとえ眼がタテにつき鼻がヨコについていようとも、愛嬌があって首筋がきれいで、声が色っぽい女が好きなんだ」と口説かれた話
日本の随筆は「私はみんなとは違う美意識を持っているのよ」と、他の人が誉めないもののすばらしさを記すのが普通であった
蜘蛛の糸を、清少納言は「朝露に濡れているときれい」と、誉めたり


・役行者
自分を慕って、難波からやってくる信者のために河内の小山から吉野の山奥まで、架橋をしようとした
英彦山へ行ったついでに、森を作って治山事業
基本的に葛城山(大和葛城~和泉葛城)あたりから吉野が本拠


・久米仙人
修行して仙術でお空を飛べるようになるも、川で洗濯している女性の美白の足に萌えてしまい、墜落
高市に遷都の際、大量の材料を運んだと言うことで天皇に免田(年貢免除の田)をもらって久米寺を建てた


・徳一
法相宗の僧。最澄とのあいだでやりとりされた、いわゆる三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示した


・最澄
唐に短期留学し、厖大な書物を購入して帰ってきたが、それらを整理する時間がとれないほど忙しい
桓武天皇に寵愛されてちょくちょく呼ばれる、奈良の旧仏教からは論争を挑まれる
おかげで多くの仏典が未整理で残り、それがかえって後継者たちの創意工夫を育てた。法然も親鸞も道元も日蓮も、一度は叡山に僧籍を置いて勉強

「比叡山に奈良東大寺と同じ受戒(僧侶の資格認定)の権利をください。格式も東大寺と同じで」
「くれなきゃ怨霊になって祟ります」と言い残して死去。祟りを恐れて要求を認めることになる。
しかし国際的には認められず、後の円仁らは東大寺で受戒したと嘘ついている。


・空海
20年分の学費を持って唐留学、それをわずか2年で全部使い果たして、恵果に密教の奥義まで授けられて帰ってきた
いろは歌や讃岐うどんの由来に関与。日本での男色の開祖。石油・石炭の利用法を教えた人物
密教を極めたければ、自分の弟子になるのが筋だと最澄に通告


・良源
18代目の天台座主。慈恵大師とも呼ばれ、角大師、鬼大師、豆大師、降魔大師などの異名
箸で炒り大豆をキャッチできるか賭けをして、見事に勝って郡司に戒壇を築かせる
良源に恥をかかせてやろうと挑んだ天狗が、童子たち(陰陽師の式神みたいな護法の童子)に見つかり、腰を踏み折られる
平家物語では、平清盛の前世とされている。「太平記」では、崇徳院などと一緒に魔界の王の一人となっている。
おみくじを作った。厄除け大師と言ったら、だいたい弘法大師か元三大師


・法然
浄土宗の祖。
読んでない仏典ないほど経典を何度も読み漁り、民衆に近い位置にいる遁世聖らと交わり、悩み抜いた末に念仏を唱えるだけという、単純な答え
法然の著『選択本願念仏集』、貴族や金持ち、知識がある人だけが救われるのはおかしい! そんなモノは仏の慈悲の名に値しない!
百人一首の女流歌人・式子内親王と恋仲だったとする説。薄幸の姫巫女と、求道的僧侶の、身分と宗教との壁を隔てた禁断の恋


・親鸞
親鸞自身は、自分は僧侶ではなく、半僧半俗であると称していた。
寺は持たない主義だったが、8代目の孫・蓮如が本願寺を造る
「善人が往生できるなら悪人ならなおさら」は法然のほうが先


・栄西
日本の臨済宗の祖。
臨済宗は上級武士や公家に流行し、室町時代には五山文化などを生み出したが、難解すぎるせいか庶民への普及はイマイチ。
「そもさん?」「せっぱ!」で始まる「禅問答」は臨済宗の特徴


・道元
日本の曹洞宗の祖。
先発の臨済宗と違い、下級武士や庶民に受け入れられた。
「清規」という形で、基本的なエチケットや立ち居振る舞いの訓練が含まれていた
不立文字の考え方がより徹底していて、読み書きができない人々でも修行ができた


・日蓮
法華宗の祖。日蓮宗とも言う。日本の仏教諸派で、創始者の名前が冠されているのはこれだけ


・一遍
時宗の祖。「捨て聖」とも呼ばれる。
一生寺を持たず、説法の旅を続けて、その途上で死んだ。没する直前に著書も燃やしてしまった。
時宗の徒は、「同志」というほどの意味合いでお互い「阿弥陀」号をつけて呼ぶようになった。
そのうち最後の「陀」が抜けて「阿弥」だけになった。鎌倉時代末期から戦国時代までよく現れる「○阿弥」


・一休
とんちで有名な臨済宗の坊さん。僧名は「宗純」。「一休」は号
男女の情事を詠んだポルノ漢詩も残している。妻とヤっている最中の状況を事細かに、格調高く
みんながめでたがってる正月に「正月は死への一里塚」とかどくろを持ちながら言っていた
最期の言葉は「死にとうない。」
後小松天皇の皇子であった噂。母・伊予の局が南朝遺臣の娘だったので、警戒されて僧籍に入れられた


・蓮如
本願寺の開祖。親鸞の8世の孫。
村々の地主・庄屋クラスに的を絞って布教し、彼らの下の小作人や村人を根こそぎ帰依させた。
住職を説き、寺ごと改宗させてしまうという荒技も。
各地の信者に、講話を綴った手紙を定期的に出しまくった。
妻とは4回死別し、最後5人目はなんと50歳年下の妻で7人産ませた。一番上の子と下の子の年齢差は56歳


・天海
上野の寛永寺は天台宗の寺院だが、山号は東叡山、延暦寺と同名の建物(根本中堂、常行堂、文殊楼など。焼失した)を建立、
比叡山を挟んだ京都の清水寺や滋賀の竹生島(弁天様が祀られている)に見立てた清水観音堂や不忍池辯天堂も配置して、延暦寺を熱くリスペクト






宣言が発出された2021年1月7日、東京都の新型コロナウイルスの陽性者数は2520人を数え、過去最高
その翌日から陽性者数は減っていき、3月13日時点で330人とおよそ8分の1

新型コロナウイルスは感染から発症まで5日ほどかかり、さらに検査で陽性と出るまで数日必要
宣言の効果であれば1、2週間経ってから減少し始めるはずですが、宣言直後にピークアウト

緊急事態宣言の区域とそれ以外で第三波の陽性者数の推移を比べてみると、いずれも同時期にピークアウトし、同じような山を描きながら減少

1回目の宣言解除後、人出は急増して高い水準のまま推移しましたが、陽性者数は11月半ばまで500人を超えませんでした。
2回目の宣言期間の人出は減ったとはいえ、1回目の期間に比べると2倍も多いうえに、2月頃からはむしろ増えて。にもかかわらず、陽性者数の減少傾向に大きな変化はありません

北半球ではほとんどの国で、寒くなって陽性者数のピークを迎えた後、減少に転じている


昨年12月の主要旅行業者の総取扱額は、前年同月比35.4%。
とくに海外旅行の落ち込みがひどく、前年同月比でわずか3.3%。ひと月でおよそ1582億円あった海外旅行の売り上げが、わずか52億円に減っています。

昨年12月の売上高は、遊園地・テーマパークが前年同月比50.6%減。結婚式場業(44.0%減)、ボウリング場(38.7%減)、フィットネスクラブ(27.9%減)、外国語会話教室(22.6%減)


第1波のピーク
4/10

第2波のピーク
8/7

第3波のピーク
1/8

ピークからピークの時間は
第1波から第2波 4ヶ月
第2波から第3波 5ヶ月

ピークアウトから底に達して増加に転じるまでは
第1波後は約2ヶ月
第2波後は約2ヶ月


ピークの時にたくさんの感染者数を出した国ではピークToピークの間隔が長くなる傾向
どこの国でもだいたい3~6ヶ月のサイクルで波が来ています。夏の間はこの間隔が広く、寒い時は狭い

冬場は空気が乾燥していて粒子が細かくなるので肺に病原体が到達しやすく、重症化しやすい

次のピークは6~7月初旬あたり

ほとんどワクチンを打たないフランスは全く感染者数が減らず、イギリスが減っているのを見ると、ワクチン接種によって合計の感染者数は減るはず。
ただこれはワクチン自体に感染予防効果があるというより(治験では27%)、発症や重症が減ればその分ウイルスをドカドカ撒く人が減るので結果として感染者数が減るということ



陰陽頭兼安芸守大津連大浦を利用としようとした藤原仲麻呂を倒したのが「入唐。留学受業。研覧経史。該渉衆芸」という名誉を受けていた吉備真備
賀茂氏にはその始祖に吉備彦之孫、右大臣吉備麻呂という名をのせている

吉備真備、和気清麻呂を生み出した岡山県は、現在なお宗教活動の盛んなところである。
このような岡山県の刺激を受けたのが兵庫県でも県境にあたる佐用郡地方であろう。ここもオガミヤサンの働きが活発なところである。


但馬の国二方郡刀岐郷(兵庫県美方郡)の出身と考えられている陰陽権允兼陰陽博士正六位上刀岐直川人、姓をかえて滋丘朝臣川人と名告った陰陽師
飾磨郡には貞観六年を遡る頃から陰陽道に長じた人々がいたということになる。それは滋丘川人といい、日下部利貞といい、日本海側から出てきた人であった。
狭穂彦の後胤と伝える日下部氏は京都府の丹後半島にその根拠地を置く五世紀以来の豪族であった。


吉備氏は日下部氏と密接な関係。
陰陽道の人々が集まった所が牛頭天王を祭神とする播磨広峰神社。やがて賀茂家も十世紀から十一世紀のかけての頃にこの地へ進出してきた。
播磨の陰陽師たちは飾磨郡にある広峰社によっていたと思われるが、吉備真備の陰陽道の系譜を引く賀茂氏によって平安時代待つには完全に奪い去られていたらしい。
それでも播磨の陰陽師は上洛し、祇園社を拠点として貴族たちの陰陽師、賀茂、安倍氏と対抗した。
十世紀終わりから十一世紀初頭の頃には、まだ明石には陰陽師智徳法師や比叡山の僧を驚かした法師陰陽師などのすぐれた陰陽師がいたのである。


牛頭天王は吉備氏と共に印南郡から播磨の明石に来て、やがて印南郡、飾磨郡へとその中心を移動させていった

播磨の陰陽師はそれこそ播磨権介滋丘川人、日下部利貞、弓削是雄の中から生まれ出、疫病の神、広峰の牛頭天王を祭祀
平安末から鎌倉時代にかけて広峰社が完全に京都の陰陽師の支配に入るにともない、牛頭天王を失い、
このため印南郡の名刹である法華山一乗寺の法道仙人と直接結びついて生きのびようとした

法道仙人と陰陽道の結びつきは、広峰の神が明石から広峰に移ったという伝説と、ほぼ同じ時期に近江山近江寺の牛頭天王が法道仙人へ押部谷を譲ったという縁起があったために、法道仙人を支配する牛頭天王という形でむずびついたものと思われる。もちろん、法道仙人が飛鉢の法をよくするということと、陰陽師が式神を使うことが関係することと思われる。


安倍清明は安倍仲丸の伝えた天文道の巻物と「母の野干、竜宮の秘符(ひふ)、名玉までを、与えぬれば、なお頼もしさかぎりなし」といったところへ、
獅子に乗った白髪の老僧、伯道(本地文殊菩薩)があらわれ、仲丸の師であると名乗り、さらに清明が仲丸の再誕であると伝えた。
そして、『金烏玉兎』をわたし、安倍家に伝わる、伝来書とあわせ読むようにといい、母の野干は信太の明神、吉備大臣であることを教えた。
そして、ついには烏の言葉がわかるようになり、そのことによって天皇の病気の原因を知り、天皇は平癒を見ることになった。この結果、三、四歳にして陰陽頭になったというのである。

安倍清明の陰陽道の系譜は、伯道-仲丸-信太の明神(吉備大臣)-清明

陰陽道の秘伝書「ほき内伝」の「晴明朝臣入唐伝」に記される晴明の師匠の仙人。更にこの仙人の師匠は文殊菩薩と言われる。
「金烏玉兎集」は文殊菩薩から伯道上人に伝えられ、それが吉備真備の手に渡り吉備真備に助力した安倍仲丸の子孫の晴明へと受け継がれたという。
道満に敗れ殺された晴明の死を「泰山府君の術」で知り「生活続命(しょうかつぞくみょう)の法」を用いて晴明を生き返らせ、晴明は道満と裏切った妻の利花を討つ。


清明のあと、その子吉平も道長の下で活躍し、もう一人の子吉晶は陰陽頭となり、吉平の子時親、時親の子国隋、時親の孫泰長、泰長の子泰親と陰陽頭を任官


十一世紀初めの頃の播磨国には著名な陰陽師がいた。智徳である。智徳は藤原道長の陰陽師であった安倍清明と術比べをして式神奪われ、清明の弟子入りしたことで知られていた。
智徳は播磨の明石にあって陰陽師の術を使用して海賊を捕らえた恐るべき陰陽師であった。


蘆屋道満、印南群岸村の人と紹介されている陰陽師

播磨の陰陽師集団について、道満が播磨の法華山一乗寺の法道仙人の系譜を引く陰陽道を学んだ。
法道仙人は大化時代に渡来し、飛鉢の法をよくしたことでしられた仙人と「信太妻」(延宝二年・一六二四年刊、『説経節』所収)に紹介されている。

弟石川悪右衛門の尉つね平も兄のことによって河内守護となり石川郡に住み、栄華の栄え、なにごとも、心にまかせずということがいうことがなかった。
ところが、つね平の妻がかぜがもとで万死の床に伏したとき、兄の道満法師を呼びその治療を依頼した。そこで道満が
「先祖、芦屋の宿禰(すくね)きよふとが、唐土(もろこし)の、法道仙人に会いて、天文地理、易暦を学び、書物に著(しる)し、子孫に伝えし、所伝を取り出し」
そして、この病気は女狐の生肝を食べさせたら平癒すると占った。

唐土の法道仙人-清太(きよふと)-道満


安倍清明にやぶれた道満が播磨の国に帰り、そこの地で生涯を送った。そしてその弟子たちが英賀(あが)・三宅のあたりで陰陽の術をおこなっていた」
というのが、室町時代初期の播磨の地誌である『峰相記』の説くところである。
播磨の国姫路あたりには蘆屋道満の裔と称する陰陽師が多数住んでいた

三重県鳥羽市国崎町や度会郡度会町南中村など。
国崎では「しめの札の表に『蘇民将来子孫之家』と書き、裏に急々如律令。その左右に、セーマン符(清明判)、ドーマン符(道満判)を描いている」
度会の南中村でも「セーマン符(縦横の線)・ドーマン符(星形)を描いた木製剣型、獅子神楽のとき口取りが両手に採って舞う」という風に、
病気除け、魔除けなどのときに、清明と道満を使用している




マツコ・デラックス:稲毛区
市原悦子:中央区
劇団ひとり:花見川区
小島よしお(出生地は沖縄県):稲毛区
山里亮太:花見川区
木村拓哉:美浜区

日本で一番ゴルフ場が多い。飛行機から房総半島を見下ろすと、「山肌という山肌全てに緑色のウジ虫が群れたかっている」ように見える
千葉テレビで暇さえあればゴルフ番組ばっかやってる

千葉県を中心とした南関東一帯に分布する日本最大の水溶性天然ガス田。日本国内で確認済みの天然ガス埋蔵量の9割を占める
明治24年、大多喜町において醤油醸造業者・山崎屋太田卯八郎が水井戸を掘ったところ、真水は出ず「泡を含んだ茶褐色を呈する塩水」ばかり湧出、落胆して吸っていた煙草を泡へ投げ込んだところ、泡が青白い炎を上げて燃えあがり、居合わせた人たちが一堂に驚いた

「山崎パン」の発祥は千葉県市川市。県内にはヤマザキデイリーストアが多い

「チーバくん」野田は鼻、浦安は舌、印西は目、銚子は耳の先、勝浦は腕の先、館山は足の先、木更津がメタボぎみ。富津岬はチンポ

千葉港の範囲はやたらと広く、実に市川市?袖ヶ浦市にかけての範囲

オオガハス 市の花。約60年前に検見川で発掘。発掘された実は約2千年前のものとされる。大賀一郎博士が開花させた
千葉市章 千葉氏の月星紋に「千」の字を配した


千葉の親子三代

千葉常重
1118 年 父・常兼より家督を継承。この頃は、大椎氏を名乗っていた。
1126 年 亥鼻付近へ本拠を移転した(千葉開府)。初めて千葉氏を名乗った。

千葉常胤 常重の長男。
1135 年 父・常重より家督を継承。
1180 年~ 源頼朝が伊豆で挙兵、房総へ敗走。いち早く味方となり、頼朝の信頼を得る。鎌倉幕府成立に貢献。
⇒ 筆頭御家人となり全国に所領を得る。

千葉六党  源平合戦や奥州合戦に戦功
(常胤の6人の息子を称する。それぞれ受け継いだ所領の地名を名乗った。)
長男 千葉胤正 
千葉庄(千葉市)、千田庄(多古町)、小城(佐賀県小城市)
次男 相馬師常 
下総相馬郡(柏市・我孫子市)、陸奥国行方郡(福島県相馬地方)
三男 武石胤盛 
武石郷(花見川区)、陸奥国亘理郡(宮城県亘理町)
四男 大須賀胤信 
大須賀保(成田市)、陸奥国岩城郡(福島県いわき市)
五男 国分胤通 
国分郷(市川市)、香取郡(香取市)
六男 東胤頼 
東庄(東庄町)、郡上(岐阜県郡上市)




佐々木宏 クリエイティブディレクター、電通出身
「ブヒー ブヒー/(宇宙人家族がふりかえると、宇宙人家族が飼っている、ブタ=オリンピッグが、オリの中で興奮している。)」「空から降り立つ、オリンピッグ=渡辺直美さん」など、渡辺直美を豚とするオリンピック開会式案を送信。その後、メンバーから反対・批判の声が上がり、案を撤回
「白戸家シリーズ」「BOSS」「そうだ 京都、行こう。」「フジカラー樹木希林シリーズ」


109が東急をかけている
西武陣営(西武、パルコ、ロフト)攻め込んできたから、東急も本気出して109や東急本店、Bunkamuraを開店させ今の渋谷がある

ハチ公像は7月24日だけ屁をこく


新宿駅の1/3は渋谷区

ヨドバシカメラの本店、かつてこの地にあった地名「淀橋」に由来
神田川を渡る青梅街道の橋の名は淀橋である。東京35区の頃は淀橋区。その前は淀橋町。
淀橋町の中には角筈、柏木などの地名があった。角筈≒西新宿、柏木≒北新宿

新宿大ガード西側は金券ショップのメッカ

新宿駅があるのは区の南西部。新宿区自体は北は西武池袋線・東長崎駅近く、東は飯田橋駅前まである。

新宿三丁目は映画館激戦区であると同時にオタクの聖地でもある。
特に新宿ピカデリーはイベントが多く、向かいにはアニメイトも完備


新宿2丁目 
ホテルも安く近くのローソンも他店舗より品揃え豊
元は赤線青線の売春窟だった。その名残が「新千鳥街」として今も2丁目に現存する。

そもそも江戸の内藤新宿の中心はこの辺。駅があるほうがただの田畑や荒野

無縁仏を多く葬る太宗寺は内藤新宿の由来となった安房勝山藩主内藤正勝氏(内藤氏は後に信州高遠へ移封)の墓もある

TVに露出度の高いマッスルな「まぁがりん」さんのやっているゲイバー「あっぱれ!」
ジャニーズ事務所も黙認しているゲイの売春(ウリ専)「ジャニー少年隊」がある

サブカルやカルトな出版をしている辰巳出版がある。
かつてそこは売春窟の名残があった。地上げブームの時、多くが立ち退いたが、一部立ち退きに応じなかった為か、火災(一説によると地上げ屋の放火)が起きて更地に

「どんだけぇ~」と言ったのはここのゲイバーのママ。間違ってもIKKOが発祥ではない。



「死海文書」。旧約聖書の写本を含む約2000年前の古文書、「世紀の大発見」から約70年。
解読作業の遅れから、真偽そのものを疑う声も一部で上がった。ようやく現存する文書の公刊がほぼ終わり

1946年から47年にかけて、現在のヨルダン川西岸地区にある死海のほとりの洞くつ群から、ベドウィンの羊飼いの少年が偶然にも巻物を収めた壺を見つけた
ベドウィンから古物商、さらにはシリア正教会の大司教の手に渡る

文書は大部分が羊皮紙、一部はパピルスで、主にヘブライ語やアラム語

周辺の洞くつで見つかったのも含めて現時点で800点余り、そのうち約200点が旧約聖書の写本
その他の約600点には、聖書の語り直し、儀礼文書、教団を維持・運営していくための規則、祭儀の決まりと唱え言、詩篇、黙示文書、知恵文書、果ては天文・暦文書から魔術文書などが含まれる

公開があまりにも遅れたために、「バチカンに都合の悪いことが書かれていたのでは」という陰謀説

洞くつの近くのクムラン遺跡では、城壁を持った建造物や集会所、食堂などが発掘されており、ユダヤ教の一派の人々が宗教的な共同生活を送っていた
死海文書は、「クムラン教団」と呼ばれる彼らが書き写したと考えられ、紀元前140年頃から、ローマ帝国がエルサレムを陥落させる2年前の紀元後68年にかけてのものと推定

クムラン教団は男性だけの共同体という可能性があり、ユダヤ教のエッセネ派だったという説が有力。イエスがエッセネ派に属していたという説も
イエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネが、この派に属していた

初期キリスト教徒と同じく、自分たちを「光の子ら」と呼び、彼らに敵対する「闇の子ら」と区別。
前者は「真実の霊」によって歩む「義の子ら」、後者は「欺瞞の霊」に迷わされた「欺瞞の子ら」と言い換えられ、
両者の間の戦いは、最終的に、「光の子ら」に勝利と救いをもたらし、「闇の子ら」は、彼らの背後に控える悪の権化ベリアルとその使いたちとともに、永遠に滅ぼされる

『戦いの書』
「ひとつになった光の子と闇の子の最後の戦いが起き、世界は破滅へと向かう」
光の子らがひとつになった70年後に終末戦争が起こると予言

「2人の救世主が現れ世界は救われる」
「アロンのメシア」、「イスラエルのメシア」
アロンは預言者モーセのお兄さん、エジプトに捕らえられていたユダヤ人の脱出をやり遂げた。この時、神ヤーヴェの命により、最初の司祭長になった人物
アロンの末裔が現在のフリーメーソン

ヘブライ語聖書の完全な写本は、11世紀初めのレニングラード写本が最も古いとされていた

紀元前後のユダヤ教周辺の文書には、聖書の外典、偽典のほか、ラビ文献などがあるが、死海文書にはこれまでまったく知られていなかったテキストも数多く見つかっている


紀元68年、ローマ軍の攻撃の前にクムラン教団の施設が壊滅。
紀元20年代末に成立したキリスト教の指導的立場にあったエルサレム教会は、ローマ軍による攻撃の直前、エルサレムからヨルダン河東岸のペラに移動。
これら二つの教団が紀元後1世紀中葉のほぼ40年にわたるユダヤの歴史をともに体験していた事実を物語っている


ミサトと加持リョウジのセックスシーンが、1997年に公開された『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』では、
露出したアスカの胸を見ながらシンジが自慰行為をするシーンがありますが、『庵野は作品内で、三石や宮村への叶わぬ恋心を昇華させたのでは』




天の神様がアレをどこにつけるか悩んだとき、はじめは頭、次に脇にしたがお辞儀したり腕を組むだけで子供が出来てしまうため、今の場所になった。眉毛・腋毛はその名残
むかし、しがのひとたちがわるいひとばかりだったので、かみさまが、みんなをふみつけてころしてしまいました。そのあしあとが、びわこになりました

浜名湖は、富士山に座っていたでえたらぼっちがバランスを崩しコケたときに出来たらしい。湖が手の形してる


池袋駅、東から西武・JR・東武、それと垂直に北から丸ノ内(&副都心)・有楽町という構造

埼京線の終電が早いので終電に乗り遅れた埼玉県民は池袋で一夜を明かし、始発の電車で自宅へ帰る。東武東上線も同上
埼玉が本拠地の企業が東京に拠点を持つ or 移す場合には真っ先に池袋が候補に挙がる。マルエツ然り、ファミリーマート然り

「西口」「西武口」「東口」「東武口」がある。西武口が東側で東武口が西側。
「池袋駅北口」→「西口(北)」「南口」→「西口(南)」「西口」→「西口(中央)」と西口が大量増殖

4月、近辺の大学(東大、学習院、立教、東京音大、東洋・大東文化・東京国際など)の学生サークルが新歓コンパをやるために池袋に集結
茗荷谷や後楽園周辺の大学も丸ノ内線一本で行ける為、飲み会は池袋になる事が多い。

一時色珍(カラーギャングと呼ばれる)が埼玉県志木市の色珍と大抗争になりかけた

南口にジュンク堂、西口(東武デパート内)に旭屋書店、と大型書店がひしめきあっている。
特にジュンク堂は品揃えが素晴らしい

北口のコンビニには風俗関係のチラシが置いてある

池袋駅は、日本一のデパ地下

60階通りは丸の内線の真上を走っている。地下鉄が通ると強風が吹き上げる換気口が歩道上にあり、一部のマニアにはパンチラスポットとして有名

南口のラーメン屋は池袋の他のところに比べて美味しいところが集まっている。駿台、河合、代ゼミの3大予備校が集まっている

サンシャイン60
A級戦犯7名、BC級戦犯53名の計60名がここで処刑された。サンシャインが60階なのはこの影響なのだろうか。ゾルゲスパイ事件の死刑執行も
ビルの奥には、使い道が不明な大空間なども

夜にサンシャイン60の展望台から雑司ヶ谷墓地(霊園)を見下ろすと、巨大な光の十字架が見える。霊園内を十字の道路が通っていて、その街灯が十字架のようだ


歌舞伎町1丁目は歓楽街、2丁目はラブホ街。
2丁目にあるバッティングセンターは「龍が如く」シリーズでは恒例のミニゲームスポット
職安通りの手前はリトルコリア化が進行中

病院の周辺は風俗店の新規出店許可がおりないので、これらの店を規制するために作られた。「ナニワ金融道」で有名になった手法。
区役所の「区立図書館分室」も同じ理由で設立

新宿区役所の裏にあるルノアールは知る人ぞ知るマルチ・情報商材・宗教・仮想通貨の勧誘のメッカ。他にも明らかにヤのつく職業な方がいたり、風俗嬢やキャバ嬢の面接を行っていたり

早慶戦が行われた夜は、勝っても負けても早大生が新宿で騒ぐ。
ラグビー早明戦後は修羅場と化す。どちらも新宿で飲むため



古代の世界観として、地底には巨大な毒蛇が棲んでおり、このヘビが身動きをするのが地震である、という「世界蛇」伝説が、アジア一帯において共通して存在

江戸時代初期までは、竜蛇が日本列島を取り巻いており、その頭と尾が位置するのが鹿島神宮と香取神宮にあたり、両神宮が頭と尾をそれぞれ要石で押さえつけ、地震を鎮めている、とされた
江戸時代後期になると、民間信仰からこの竜蛇がナマズになり、やがてこれが主流に
安政地震の後には200種を超える鯰絵が出回った。黒船の来航中の出来事であったため、黒船自体がナマズに比類するものとみなされた

ナマズと地震の関係について触れた書物としては古く『日本書紀』にまで遡ることができる。
安土桃山時代の1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状には「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示


2021年2月13日、マグニチュード7.3の余震が発生し、1人の方がお亡くなりに
余震の数は時間の経過とともに減っていくものですが、東日本大震災があまりに巨大だったため、警戒すべき時期が長く、震災から10年たった現在でも、今後20年間は余震を警戒する必要

過去の研究では余震の最大規模は、本震のマグニチュードから1を引いたもの
東日本大震災では本震がマグニチュード9.0と巨大だっただけに、最大規模はマグニチュード8級になる可能性
しかも地震が発生するゾーン(震源域)が拡大

首都圏は200~300年の間隔でマグニチュード8級の大地震が発生し、その間にもマグニチュード7級の地震がいくつも発生
最も被害が大きいとされる都心南部直下地震(マグニチュード7.3)

東日本大震災の直後から、全国の活火山のマグマのある「マグマだまり」周辺の地震が増えている
9世紀に発生したのが貞観地震ですが、その46年後に日本列島2000年の歴史の中でも最大級の噴火が、青森県と秋田県の県境にある十和田火山でおきています
富士山は、火山としては「育ち盛り」なので、今後、必ず噴火

「トラフ」とは、海底に舟底のような平たい凹地形ができる場所
南海トラフは静岡県沖から宮崎県沖まで続く水深4000メートルの海底にある

南海トラフの北側には三つの「地震の巣」があり、震源域。それぞれ東海地震・東南海地震・南海地震を起こした場所で、一部は陸地にも差し掛かる
歴史をひもとくと、南海トラフ沿いで地震と津波が約100年おきに発生した

3回に1回は東海・東南海・南海の三つの震源域が同時に活動する「連動型地震」
過去のパターンを見れば、次はこの連動型地震が起きる

三つの震源域は地震の起きる順番が決まっており、最初に名古屋沖で東南海地震が発生し、次が静岡沖の東海地震、最後に四国沖で南海地震

前回は東南海地震(1944年)が起きた2年後に、南海地震(46年)が発生。
その前の回(1854年)は、同じ場所が32時間の時間差で活動。
また3回前(1707年)には、三つの震源域が数十秒のうちに活動

南海トラフで巨大地震が起きる40年ほど前から、日本列島の内陸部で地震が増加
20世紀の終わりごろから内陸部で地震が頻発。例えば、1995年の阪神・淡路大震災の発生は、内陸地震が活動期に入った時期

内陸地震活動の統計モデルから次の南海地震が起こる時期を予測すると、2038年ごろという値が得られている。
古地震やシミュレーション結果から予想した結果、南海トラフ巨大地震の次の発生時期は2030年代(2035年±5年)




第七話のゲストメカ、ジェットアローンが、東宝映画『ゴジラ対メガロ』(’73年)に登場した“正義の意志で巨大化する”ロボット = ジェットジャガーのオマージュで、ジェットジャガーのもともとの名前“レッド・アローン”から採られていた
第拾(10)話のサブタイトル「マグマダイバー」が『ウルトラセブン』(’67年)のウルトラ警備隊配備の地底メカ = マグマライザーを意識

『シン・ゴジラ』('16年)の演出が、庵野監督敬愛の岡本喜八監督(『シン・ゴジラ』には写真でご出演!)の名作『日本のいちばん長い日』(’67年)や『肉弾』(’68年)を意識
第1作目の『エヴァ』は、岡本監督の『ブルークリスマス』(’78年)や『殺人狂時代』(’67年)を強く意識。
『ブルークリスマス』の英語タイトル『BLOOD TYPE:BLUE』は、そのまま使徒のパターンに引用されている

タイトルやサブタイトル、その他文字クレジット・テロップの書体やデザイン、出し方には、映画『犬神家の一族』(’76年)の市川崑監督、
人物のUPや凝ったカメラアングルなどには『ウルトラマン』(’66年)や『帝都物語』(’88年)の実相寺昭雄監督へのオマージュ

『ウルトラQ』(’66年)、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』で怪獣及びメカニック・デザインを担当した成田亨
『ウルトラQ』の怪獣バルンガやカネゴンのフォルム、『ウルトラマン』の怪獣ガヴァドンAや、異次元怪獣を体現したブルトン、『ウルトラセブン』のビラ星人やアンノン、ポール星人など、怪獣というより前衛芸術か? と思わせる、トラウマ的に脳裏に焼き付くデザイン
第4使徒のシャムシエル、第5使徒のラミエル、第6使徒のガギエル、第12使徒のレリエル、第16使徒のアルミサエル等々にその面影
レリエルの体表に施された白黒のストライプ模様なども、『ウルトラマン』の三面怪人ダダや、『マイティジャック』(’68年)の敵組織・Qのメカなどによく見られる、成田亨が好んで用いる意匠

渚カヲル 『ウルトラセブン』第37話に登場した美少女宇宙人(この姿が本体か否かは語られず終い)のマゼラン星人マヤ
母星に裏切られ、恒星間弾道弾で地球もろとも抹殺されようとした彼女に、主人公のモロボシ・ダン(演・森次浩司)ことセブンは、宇宙人として共に地球で生きるよう彼女に手を差し伸べるが、宇宙人と地球人、どちらの世界にも自分の居場所を見出せないマヤは、自死を選ぶ



コロナ分科会の尾身茂会長「今年の12月ごろまでに全人口の6割から7割がワクチンを接種したとしても、時々はクラスター感染が起こりえるし、時には重症者も出る」

平年の季節性インフルはピーク時には毎週200万人以上が感染し、毎年3000~1万人が死亡。インフルのワクチン接種率は50%程度


今年2021年11月1日をもってV6が解散。森田剛は、ジャニーズ事務所を退所。坂本昌行、長野博、井ノ原快彦、三宅健、岡田准一はそのままジャニーズ事務所に所属して、個人での活動
坂本、長野、井ノ原のグループ内ユニット「20th Century(トニセン)」は存続するが、森田、三宅、岡田の「Coming Century(カミセン)」は活動を終了

ジャニーズJr.のグループによるオリジナル動画を見ることができるYouTube「ジャニーズJr.チャンネル」(2018年3月開設)は、チャンネル登録者数140万人超(2021年3月12日現在)



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うるさい
1ヶ月前
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