『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』を読んで
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『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』を読んで

2015-04-19 19:40

     著者の川上量生さんは私の恩人で、はやぶさ帰還取材の企画を採用してくれたり、『南極点のピアピア動画』の解説や二次創作小説を書いてくれたりしている。なれなれしく友達面はできないが、年に一度くらいは会食したりもするので、ここではさん付けで呼ぶことにする。
     角川と合併したりしてすっかり時代の寵児になってしまったが、私の中の川上さん像は、ニコニコ動画がまだ赤字で危なっかしかった頃から変わっていない。
     ひとくちで言うと「よくわからない人」である。

     川上さんはよく、私たちの夢を打ち砕くようなことを言う。「UGCはダメ」「bitcoinはダメ」と、身も蓋もなく断じる。それもみんながもてはやしている最中に言うので、むっとするのだが、時間が経つと「川上さんの言った通りかなあ…?」と思い始めることが多い。
     文系インテリは簡単なことを難しく言う人が多くて、それはそれで高級な遊びだと思うのだが、役に立たない。川上さんは理系の人で、難しいことをわかりやすく説明するのがうまい。にもかかわらず、初めて聞いたときは常識外れでわかりにくく、反発を抱くだけになったりする。あるいは、川上さんの言及する事柄そのものがわかりにくいのかもしれない。

     その川上さんは、ジブリ作品の成り立ちがわかりにくかったのだろうか。この本を読むと、それを一生懸命理解しようとしているのがわかる。というより、知りたくて仕方がないので飛び込んでいったのだろう。憎たらしい人だが、あれで川上さんはジブリアニメを愛するピュアな心根の持ち主である。
     宮崎アニメを心の糧にしてきた人なら誰でも、制作現場を訪ねてスタッフに創作の秘訣を聞くことを夢見るだろう。川上さんは、あろうことかジブリの中の人になってしまった。うらやましくて歯ぎしりするが、幸いなことに、それを本にしてシェアしてくれた。
     本書はその体験と考察をまとめた、おそらく川上さん渾身の一冊である。
     本書は以下の4章からなっている。

     第1章 コンテンツの情報量とはなにか?
     第2章 クリエイターはなにをアウトプットしているのか?
     第3章 コンテンツのパターンとはなにか?
     第4章 オリジナリティとはなにか?

     この章立てだけでもITエンジニアっぽさが如実に現れていて、苦笑してしまう。ニコニコ動画なら、この目次の下に

     \ジブリアニメの話をしています/

     というコメントがつきそうだ。
     各章にはさらに細かい見出しがあって、およそ目次を読んだだけで思考の流れがわかる。アウトライン・プロセッサを使ったような感じだ。
     私は元プログラマーなので、こういうアプローチは理解できるつもりだ。ソフトウェア技術者は問題を分析し、整理し、解決を実装するのが仕事だ。同じことが繰り返されているならデータを配列にして反復処理するし、データの長さがまちまちならインデックスを組む

     私はクリエイターの端くれでもあるので、ジブリの制作プロセスも、およそ見当がつくつもりだ。もちろん畑違いだから、具体的には知らないことだらけだが、頭の中にあるもやもやしたものを定着させるのに呻吟する点では身に覚えがある。
     これを分析する手法として、川上さんは認知科学の知見を使っている。作品は情報の塊で、その情報が脳でいかに処理されるかを念頭に置きながら、川上さんはクリエイターの話を咀嚼し、一般化していく。
     一般化は重要な作業で、これができれば既存のツールで処理できるようになる。ただし現時点ではツールや処理に具体性はない。
     KADOKAWA・DWANGO代表取締役会長である川上さんが何かを目論んでいるのか、あるいは性分として一般化せずにいられないのかは、本書には記述されていない。真相はたぶんイチゼロではなく、少し重なり合っていると思う。

     川上さんが指摘しているように、クリエイターはその字面ほどクリエイティブではなく、過去にあったものを組み合わせて新奇性のあるものを作る。Googleのページランク処理と、それほどかけ離れた処理ではなさそうだ。
     物語の結末までの道のりはシミュレーションそのものだ。小説家がよく言う「キャラを転がしているうちに話ができあがる」というのも「転がす」がシミュレーションを指している。
     人物の特徴を抽出してデフォルメすると、写真より本人らしく見えること。
     客観的情報量と主観的情報量は区別されること。
     わかりやすさが感動を呼ぶこと。
     この本で説かれている創作の秘訣はどれも正鵠を射ていると思う。
     ある種の蝶は、雄の羽根をかざすと、雌の蝶を誘引できる。ここでひと工夫して、その羽根の模様と同じ色のテープを紙に貼ったものをかざすと、本来の羽根とはかけ離れているにもかかわらず、さらに強い誘引効果が得られることがある。これを超正常刺激という。
     二次元美少女キャラクターの巨大な目や、紐一本で持ち上がる巨乳も超正常刺激の一種だろう。強い印象を与える表現には超正常刺激が多用されるが、脳の情報処理のしくみにフィットしているからにちがいない。
     このほか、錯視の研究も視覚情報処理に示唆を与える。宮崎アニメにおける本物以上に本物っぽい嘘の動きは、錯視研究からも分析できるのではないだろうか。
     かように作品がもたらす感動や快感はかなり機械的で、エンジニアリングの対象となりうるものだ。

     この本でいう「コンテンツ」とは、創作的な作品をさしている。私はWikipediaの各項目もコンテンツだと思うのだが、それより狭い意味で使われている。タイトルに示される通り、ジブリ作品を一般化したような語感だ。
     私はコンテンツという言葉があまり好きではない。作品は味わって心の糧にするものだが、コンテンツは量産され消費するもの、という語感がある。
     川上さんはこの本で、あるひとつの作品を作る方法ではなく、多数の作品が浮かんでは消える生態系の中における作品制作を模索しているように見える。少なくともそれを建前に、ジブリに通っていたはずだ。それは建前だけではないだろう。
     ニコニコ動画には日々、万単位の作品が集まり、消費され、飽きられてゆく。視聴者はコンテンツに飽食していて、それがひとつの問題になっている。動画が供給過剰になると、視聴者のコメントも荒っぽくなる。丹精込めて作った果実を、ひとくち囓って投げ捨てるような扱いだ。
     にもかかわらず、ユーザーも運営も、何か面白いものを作って視聴者の耳目を集めようとするのを止められない。
     ドワンゴの伊予柑さんはいつも貪欲に面白いものを探していて、「わぁ、これすごく面白ーい!」と言いふらしながら飛びついて、一週間とたたずに別のものに飛びついていく。
     ニコニコ学会βの発表会では、研究者が何年もかけて蓄えてきたことを数分で吐き出させて「わあ面白い、これも面白い、こっちもこっちも!」と貪っている感じがある。
     伊予柑さんの活動もニコニコ学会βの発表も大変面白いのだが、ときどきふと、面白いものを摂取し続けないと死ぬ病気にでも罹っているのか、と思うことがある。
     他者と自身の「飽き」におびえ、それを避けがたいものと諦観しながら、なお走り続ける悲しいマラソン――それがコンテンツ制作なのだろうか。
     私について言えば、これほど貪欲ではないかわり、何かに熱中すれば1~2年は持続するし、日々面白く暮らしている。7年経っても初音ミクは私の嫁だ。だからもっとゆっくりでいいのでは、と思うのだが。



     ジブリ作品は1000万人を動員するにもかかわらず、長持ちするコンテンツだ、と川上さんは繰り返し述べている。ここに問題を打開する糸口があるのだろうか。
     長持ちする、飽きられないコンテンツの秘訣を解明して、それを一般化する。
     一般化ができれば、ツールもできる。
     次の週には1万人のクリエイターがジブリ式のコンテンツを投稿する。
     …我々はどこに向かっているのだろう?

     まあ、誰もがジブリ作品と同等のものを作れるようになるのは、しばらく先のことだ。そうなったとしても、VOCALOIDやMMDがそうであるように、ロングテールのすみっこに、1%かそこらは、必ず類型から離れた素晴らしいものが生まれるだろう。
     ランキングさえ気にしなければ、ニコニコも小説家になろうも、快適な居場所がみつかる。背伸びせずに作品を投稿し、自分に合った作品をゆっくり噛みしめ、吸収していきたいものだ。

      
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