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池上彰さんの記事はいつも大変参考にしています。ありがとうございます。
文系と理系の発想の違いとは
でも、この記事の中に出てくる例は、タイトルとは違う話なので指摘しておきます。
文系と理系の違いとして、「STAP細胞」問題についての責任を経営者がとるべきかという問題について例示されています。
■研究者が責任を取るか、経営者が取るか
シンポジウムが始まってから私が問題提起したひとつは、「STAP細胞ができた」と発表し、その後、論文を撤回した理化学研究所の組織としての責任でした。
新聞社の社長は、重大な誤報があれば責任を取って辞任する。研究所の責任者も、組織として重大な過失が明らかになれば、責任を取って辞任するのが当然だと思うがどうか、と尋ねました。
すると、パネリストの研究者の先生たちは、「理研のトップも、研究者である。研究者は、それぞれ自分の研究について瑕疵(かし)があれば責任を取ればいいのであって、経営者として責任を取る必要性を感じない」と発言するではありませんか。これには驚きました。
これ自身は議論すべき重要な問題ですが、これを「文系と理系の発想の違い」というのは違います。
なぜなら理系がいないところでも、同じ問題を作れます。
たとえば、政府の経済政策を決めるために重要な諮問会議に東京大学の経済学者が入ったりします。この学者は増税賛成派で、増税されたとします。その時たまたま東京大学の総長が増税反対派の経済学者だったとします。
さて、後に増税は大失敗、経済は大混乱したとしましょう。政府もこの経済学者も大非難を浴びます。この混乱に比べたら、「STAP細胞」なんてカスみたいなもんです。
さて、では時の東大総長は責任を取るべきでしょうか。
この中には文系しか出てきません。でも同じ問題に突き当たります。
なぜか。
大学や研究所というところは、まったく正反対の立ち場を持つ学者が同居できる場所です。どちらが正しいかはその時点では分かりません。政府・メディア・一般企業がある立ち場を表明した時、組織の中には反対する人もいるでしょうが、組織の一員としてその立ち場を受け入れるのが普通です。
でも研究機関では違います。組織の長が「この世に光より速いものはない」と言っても、「いや存在するはずだ」という学説を堂々と主張する研究者がいて構わないのです。
仮に長の学説と正反対の学説を持つ学者が自説を封印されるようなことがあったら、研究の創造性は成り立ちません。
それは理系とか文系とか全く関係ありません。これは「経営」と「研究」の視点の戦いです。
もし将来問題が起きないように「経営」的発想で経営者の視点で取捨選択して若手の研究の芽を積んでたら、間違いなく大した成果は出なくなります。
しかし、「STAP細胞」の場合、まだまだ足元はしっかりしていませんでしたから、他の無数の研究成果と同じように普通にプレスリリースしておけばいいものを、ド派手に全国民に向けてぶちあげたのはやりすぎです。その責任は問うべきです。でも、これは、「研究」の範疇のミスではないのです。理研の「経営」上の判断だったのです。すごそうな成果を組織をあげて派手に発表して、今後の理研の運営を有利に運ぼうという。
ですから、経営者の責任を問う、池上彰さんの問題提起は的を射ています。しかし、そこで出た食い違いを「理系と文系」と解釈するのは違います。「研究と経営」なのです。
一昔であれば研究所は「経営的な考え」は不要でした。研究やってればよかったし、あんなド派手な発表をすることもありませんでした。
しかし今は「経営的」考えを強いられています。ですから、素晴らしい成果はド派手に発表して、社会に還元しなければなりません。「経営者として責任を取る必要性を感じない」という本音が漏れていましたが、本当はそうありたいのです。研究者は。理系・文系関係なく。
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