• 若者に熱意がない理由。【第六章】(思想のすべてをここに盛り込みました)

    2019-09-09 00:13

    第五章の後半で僕は自分の過去の体験談を綴った。

    だがもちろん自分の今のひねくれた性格が全てその体験によって作られたという確証はない。別の章でも書いたように、人間の性格を主に構成する5つの要素、Big5(ビッグファイブ)というものは、遺伝的な要因でほぼほぼ決まってくるからだ。その次に影響しやすい要因というのは実は友人関係であることが判っており、親の教育による影響は一般的に想像されているよりもはるかに低いらしい。
    だが例外もある。虐待を受けた場合や、精神面を傷つけられて育った場合だ。こういう場合においては、第五章の後半で挙げたアダルトチルドレンなどのような状態にもなり得る。言葉の暴力は体にアザとなって現れるものではない分見過ごされやすく、本人もまたその自覚がなかったりするだろう。

    『人間とは、服を着て嘘をつくサルである。』の中でアドラー心理学の本を皮肉った部分があるが、僕はアドラー心理学に傾倒しているわけではない。アドラー心理学ではトラウマの存在を否定しており、起きた出来事に対して人がどう解釈するかによって、それがトラウマになるかならないかが決まるだけであると主張している。だがそれが常に正しいのならば、パブロフの犬の実験でおなじみの「条件付き反射」はどう説明するのだろうか。生後間もない子供に対して、特定の動物を見せた際に大きな音を鳴らして驚かすことを繰り返すという実験の結果、子供はその動物を見ただけで泣くようになるという結果もある。

    精神心理学によってこれだけ患者に共通した特徴を見出すことができるということは、やはり起きた出来事をどう受け止めるかには人間としてある程度のパターンが存在しているということの証明ではないだろうか。また、アドラーの生きていた時代には今ほど遺伝子学も進んではいなかったと思われるので、個人的にアドラー心理学とは、まだ自己啓発の域を抜け出していないように思われる。確かにアドラー心理学通りに生きられたら世界は平和になると思われるが、それは他の宗教同様に、人間に到底達成できるとは思えないような精神論、理想論であり、その裏をかいて利益を得ようとする悪人は必ず誕生する。それこそ「人間とは嘘をつくサル」だからだ。その思想が多くの人々から賞賛され、どれだけ売れていようとも、それが必ずしも真理であるとは限らないという意味で「宗教が繁栄して儲けてしまう理由がはっきりとわかりますよ」と皮肉を込めて言ったわけだ。




    【著名人による、微塵も参考にならない不登校体験談】


    アドラー心理学同様、昨今の風潮でも叫ばれていることの一つとして、「人と比べずに生きる」ことが果たしてこの時代に、それもこの日本で可能だろうか。
    結論から言えばそれは可能だ。だが僕としてはそれができるための条件が一つ存在すると考えている。

    僕はよく仕事の休憩中にLINEニュースを覗くことがあるが、その中でも不登校問題を取り上げた記事には興味をそそられる。そこに必ずと言っていいほど出てくるのが、著名人による不登校体験談である。誰もが知るあのミュージシャンであったり、何らかのコミュニティ施設を立ち上げた立派な経営者であったり様々だが、そういう人らの語る自身の不登校体験談を読んでいると、それがいかに不登校当事者にとって役に立たない情報であるかが分かってしまう。
    もちろん彼らも不登校になるにはそれなりのワケがあったらしく、例えばいじめにあっていたり、家庭環境が複雑であったり、中には明確な理由こそないが、どうも周囲に溶け込めずに学校に行かなくなったという例まで、様々だ。

    今となっては有名ミュージシャン、経営者、起業家、漫画家などといった肩書きを持つ人が、実は不登校者であったなどという事例を聞くと「人と比べずに生きる」ことがいかにも正しいことのように思えてくるが、その内容をよくよく読んでみると、必ず共通点が存在することが伺えてしまう。

    予備校に通っていたり、通信教育を受けたりして学校に行かない分を挽回していた例があるし、もしくはミュージシャンの場合、音楽に打ち込んでいても文句を言われない環境であったり、大学に入る代わりに専門学校に通っていたという話もよくある。つまり彼らは学校一つにとらわれることなく、必ず別の道が用意されたという点があるのだ。

    それができるためには何が必要だろうか。

    まず、学校に行きたがらない子供の気持ちを理解してくれる親の存在が必要であり、それ以上に不可欠なのは、その別の道を用意できるだけのお金であることは間違いない。だが多くの著名人は、ある意味身もふたもないと言えるようなお金の存在を蔑ろにし、「親には迷惑をかけたが、自分も努力をした。だからあなたも負けないでほしい」という美談のみを取り上げてメッセージを述べるのだ。

    お金に余裕さえあれば、それは親にとっての気持ちの余裕となり、子供をある程度理解してやれる余裕も生まれる。最終的にお金で挽回できるからだ。これこそが子供の安心感につながると考えている。だからお金にある程度の余裕がある家庭であれば、「人と違ってもいいんだ」と考えていてもさほど問題はない。究極的にはお金さえあればどんな道でも開かれるからだ。

    つまるところ不登校の要因とは、いじめがあろうとなかろうと、周囲に溶け込めない違和感だろうと、はたまた完全に本人の怠惰だろうと関係ない。良くも悪くも不登校になれる環境があるかどうかで決まる場合がほとんどだろう。中には家にも学校にも安心できる居場所がなく、しかも貧乏で八方塞がりに陥ってしまっている子も存在する。そういう子がいじめを受けても無理して毎日学校へ行かなくてはならないハメになり、その悩みを打ち明けられるような存在もいなければいじめが見過ごされていく。だから教育委員会や学校側は、自殺が起きても「いじめとは認められない」などと簡単に言ってのけるようなことが起こるのだろう。

    著名人からのメッセージ一つで気持ちが救われるくらいであれば、その子はすでに環境の面である程度救われているということだ。一定の層にしか届かないメッセージでしかないのだがそんなこと、語る側には一切関係がないことなのだ。


    お金があれば、人と比べる必要もなく学校以外での勉強の手段を獲得できるし、勉強していい大学に入らなくても専門学校という道もある。

    だが金が無いのなら、どう考えたって人と同じ土俵で、人と比べて人よりも成果を出す以外に道は開かれない。

    最近の世間は「好きなことをして生きていけ」などと言って散々若者に夢を見させ、さも好奇心を持ち続け、好きなことを追求することこそ人として生きている価値があるかのような幻想を抱かせているが、大きな夢と窮屈な現実の狭間に置かれた若者はどちらを見極めるべきか分からず、生きづらさを感じざるを得ないだろう。




    【陳腐化する揶揄言葉】


    遺伝的要因の次に性格形成に関わってくる要因とは、友人関係であるということは最初に紹介した。いじめを長期的に受けていればその影響は顕著だろうが、そうでなくとも明確な理由がないのに周囲と馴染めないような感覚を持つ人はいるし、それで不登校になるケースも存在する。

    例えばコミュニケーションに対して苦手意識を持っている人は、日本人であれば大人でも多いような気がするが、それも周囲から浮いているような感覚の要因の一つだろうと思う。


    昨今ではコミュニケーション能力に乏しい人を揶揄する「コミュ障(コミュニケーション障害)」という言葉まであり、それを自覚した人が自ら「私はコミュ障です」と名乗るに至るまである。もちろんこのコミュ障という揶揄言葉は本来のコミュニケーション障害としての意味ではなく、少々話下手であったり、人見知りであったりする人をなじる言葉として使われる。

    これこそ僕は日本における悪しき風潮だと思っている。

    おかしなことだと思わないだろうか。コミュニケーションとは意思を伝える側と受け取る側の両者間によって成り立つものであり、どちらか一方のみの力で円滑に行われるものではない。どれだけ話し上手の人が饒舌に喋ろうと、聞き手が聞いていなかったり、話を理解する力がなかったりすればコミュニケーションにはならない。逆に、話が下手でも聞き手がその意思をしっかり汲み取ろうとすれば、それは立派なコミュニケーションになる。

    すなわちコミュニケーション能力とは、意思を伝えるすべ(話す能力)を持ち合わせているのみならず、相手の意思を汲み取る力(聞く能力)も含めてであると言えるはずだ。むしろ僕はどちらかというと「聞く能力」の方がはるかに大切になってくると思っている。片方が話し下手だったとしても、聞く側がしっかりと相手の伝える意思を尊重し、汲み取ろうとする気持ちがあれば、「それはつまりこういうこと?」とフォローを入れたりなどして会話を成立させることができる。だが両方ともが話し上手だったとしても、両方とも「話を聞かない人」であれば、それはコミュニケーションにはならない。

    話が下手な人に対して「あいつはコミュ障だ」というレッテルを貼ってしまうということは、聞き手としての役割を放棄しているに過ぎず、それこそコミュニケーション能力が無いことを表していると言える。


    コミュ障という言葉だけではなく、最近ではこういう類の揶揄言葉が多く生まれている。

    例えば僕が小学生の高学年頃には「KY(空気読めない)」が流行ったし、中学生頃にはたしか「陰キャと陽キャ」という差別化が流行り、ほぼ同時に「厨二病」も流行った。そしておそらく「コミュ障」が流行りだしたのは高校生頃だった気がする。

    こういうレッテル貼りは一重に相手を理解することを放棄した行為と言える。『クズがコンテンツを支配する世の中』にも書いたように、大して面白くないものを面白いと言って群がる人が圧倒的多数の場合、そういう人が過半数を占めてコンテンツを支配する場合がある。


    学校とはその代表例だ。人の気持ちを配慮できない頭の悪い人間が、頭の悪い者同士で数を成し、流行りの揶揄言葉を使って一部の人間を大声ではやし立てたりする。優しい人ほどそれに強気で言い返したりはできない。仮に言い返しても、頭の悪い連中による「数の論理」で圧倒されてしまうからだ。なぜ頭の悪い人ほど群がるかと言えば、1人では空っぽなので、群がってこその力でしか生きられないのだ。なおかつ自分の言葉を持たないので、流行りの揶揄言葉を使って相手を批判することにすがるのだ。

    逆に頭のいい人や優しい人ほど人を傷つけるようなことをしない。だからこそ「陰キャ」と罵られた内向的な人たちは「陽キャは頭が悪い」などと言って批判することはないので、自称陽キャが今までずっとのさばることができたのだ。

    また、Big5の中の一つである「神経症的傾向」の高い人ほど、おそらくこういう揶揄言葉に過度に反応してしまうのではないだろうか。それで恐怖を感じてしまい、のびのびとした友人関係を育むことが難しくなり、それが人格形成に悪影響を及ぼしやすくなると言えるだろう。


    人にレッテルを貼るのは楽な行為だ。陰キャか陽キャ、コミュ障かそうでないかなどの両極端で判断することは、その間を見極める過程を省いてしまうことができる。自分の頭で考えて判断せず、正しいコミュニケーションを取る間も無くその人をどこかにカテゴライズして距離をとってしまえる。つまりこういう揶揄言葉(概念)は、一つ知っただけでそれに則った考え方をするように機能するので、人々の思考をコントロールしてしまうのだ。レッテルを貼って一部の人間をはやし立てる人を「頭の悪い人」と言った理由としては、これらの言葉を疑うことなく簡単に受け入れるからだ。すなわち思考をコントロールされやすいと言える。

    逆に人からバカにされることを恐れる側の人間は自ら「陰キャ」や「コミュ障」などと名乗っておき、自分の評価を落とした上で人と接している場面も見られる。(ネット上でそれが顕著に見られる)そうすれば相手の期待値をあらかじめ下げておくことができるので、改めてバカにされることはないだろうという保障をかけているものと思われる。どうやらこれらの揶揄言葉は、人をおとしめた次は、自分を守ることにも働くようになった。核抑止論にも似ている。


    こういう回りくどいことをして生きなければならなかった若者は、それが生きづらさにも繋がっているような気がする。だから一時期「嫌われる勇気」という本が売れたり、「ありのままで」というフレーズが流行ったりしたことは言うまでもないだろう。そしてADHDという名前が知れ渡ったのも、おそらく偶然ではない。第5章の前半でも言ったように、自分を何者かにカテゴライズしようとする心理はこれらの経緯によって働いていると思われるからだ。




    【はたして個人の尊重とは】


    若い人の間ではこういうレッテル貼りが盛んに行われているが、同時に世間は「個人を尊重しよう」とか「人それぞれ違うということを受け入れよう」などと真逆の態度を見せている。

    レッテル貼りの揶揄言葉は、本来ならばいい方向に繋がるはずのものだ。「陰キャ、陽キャ」とは言い換えれば、内向的な人と外交的な人である。コミュ障かそうで無いかは、話すことが苦手な人と上手な人である。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではなく、それぞれいろんな人がいるという認識をした上で、人を尊重するように機能されるべきものである。

    だが人間の性なのか、異質な者を排除したがる日本人ならではの気質なのか知らないが、未だにどちらか一方が「劣っている」という使われ方をされてしまっている。これでは本当の意味で個人を尊重することなどできるはずもない。


    過激なまでに男女平等をとなえるフェミニストのような人にありがちなのが、「男も家事育児をすべき」という主張だ。僕はこれが正しいとは全く思わない。その考え方では「女は家庭、男は仕事」と言われていた時代と全く進化していないし、男女平等を履き違えている。

    いつ誰がどのタイミングで家事育児をし、どっちが働きに外に出るかなんてことは、それぞれの家庭で話し合って決めることであり、赤の他人が男女の差で役割を押し付けるようなものではない。そういう話し合いができるということが本当の意味で個人を尊重し合っていると言えるのではないだろうか。


    「個人の尊重」とは、決して「個人のカテゴライズ」をして安心し、コミュニケーションを放棄するようなものではない。それは個人を尊重するどころか、人に対する見方をますます希薄なものにしていく。そういう希薄な評価に恐れながら育った若者は、大人になってもどこか地に足がつかないような浮いた感覚で生きてしまうのではないだろうか。陳腐なネットスラングに翻弄されて人生を無駄にするほど残念なことはない。




    【エナジードリンクと無限欲求】


    何も知らない若者に「好きなことをして生きていく」という夢を見せつければ、そういう欲を抱いてしまうのは当然だ。なのに夢をいたずらに見せびらかして放置するなんて無責任にも程がある。

    「あなたには無限の可能性がある」などと言っておきながら具体的な施策を提示しないのは、道のない広大な山の中に置き去りにするようなものである。山頂から眺める絶景を見ることを散々勧めておきながらその道を教えないなんて残酷だ。人は道があるからそれに沿って歩いて行くことができるものだし、分かれ道があればそのどちらかを選択することができる。また、遠くの山頂ばかり見つめていれば足元をすくわれるが、足元だけに気を取られていても自分がどこに向かっているか分からず、誤った道に進んでしまう。その道をいくつか提示してある程度まで導いてやるのが大人のすべきことであり、親の役割なのだ。その上で最終的にどの山頂に行くかを子に選ばせるべきなのだと考えている。


    やたら夢だけ膨らませるような掲げ文句はエナジードリンクと似ている。口にすれば元気になったような気がするが、実際それはカフェインによる興奮作用でしかなく、ドリンクそのものは栄養などないどころか身体に毒である。たまに飲むくらいには刺激的で楽しいかもしれないが、飲み続ければ体が徐々におかしくなっていく。だが飲まないと体調が元に戻らなかったりして、結局それにすがってしまうようになる。

    人間は唯一「無限欲求」を持つ生き物であり、一つの欲求を満たすことができれば必ず次の段階の欲求を求める生き物だ。それを抑えるには理性を保つしかないのだが、抑えなかった結果が今の環境汚染された地球だろう。地球だけでなくさまざまな添加物や無意味なワクチン、毒でしかない薬などによって我々の体も散々蝕まれている。これらはひとえに人間の欲が招いた結果である。

    刺激的な言葉を聞かされた結果、必要のなかった欲求を掻き立てられ、一度は奮起するものの徐々に意気消沈し、最後には燃えカスのみが残るのだ。




    【あとがき】


    僕は不登校こそなったことはないが、高校3年生の頃はよく家族に内緒で勝手に学校に休みの連絡を入れて、サボっていた。学校を休むのに救いだったのは、母も兄も仕事に行っていて誰も家にいなかったことだ。だが学校は休んだ日でも、バイトだけは必ず行っていた。前章にも書いたように、他の誰も学費を払えなかったからだ。大学に行く金はそもそもなかったし、奨学金を借りたところで返していく自信は無かったので、進学するつもりも毛頭なかった。なら高校なんて留年しない程度にこなしていれば迷惑などかけないし、学費を自分で払っているのだから自分の好きなようにすれば良いと考えたからだ。その方がよほど有意義だった。

    僕がもしも将来成功すれば、このエピソードすらも美談となる。だがこのまま何も成し遂げず、クソみたいな人生を歩み続ければ、いつか同級生から「アイツはよく学校をサボっていたクズだった」と言われるだけだろう。

    成功できた人は不登校の当事者としての悩みをよそに、自身の不登校体験談を美談として語っているだけであり、そこにはなんの解決法も記されてはいない。それは成功した、あるいは解決した今だからこその解釈でしかないからだ。彼らだってもし今後転落すれば、「あの時語った美談はなんだったんだ」と感じるだろう。


    僕は昔から、母親からは「あんたは兄と似て優秀なはずだ」と期待されながら「うちには金がないから大学には行かせられない」といつも言われたし、兄からは「全部自分で考えてやれ」と言われながら、いざやろうとすれば「そのやり方じゃダメだ」と全て否定された。「お兄ちゃんはあんたを思っているから言うんだよ」という割には、外では「他人のフリをしていてくれ」と言われるほどに兄からは避けられていた。おまけに顔や言動もよく冗談半分でバカにされていたので、自分の顔や姿も嫌いであった。

    小学校中学年ごろに、やり場の無い苛立ちをノートに書き綴っていた時期があった。「全員死ね」とか「クズ」とか、そういう類のことを好き放題書いた。そうしたら精神的に落ち着くことを何となく分かっていたからだ。だがそれすら兄に見つかり、「こんなの母さんが見たらどう思う?今すぐやめろ」と言われ、やめさせられた。やり場の無い苛立ちがいつしか自責の念に変わっていき、自分は1人で何もできない人間で、好かれる価値がないと考えてきた。

    道を用意できないなら期待などされたくなかったし、僕を避けたいのであれば、都合のいい時だけ干渉して欲しくもなかった。いつも綺麗事だけ言われて済まされてきたのだ。


    だからこそ、


    「好きなことをしろ」「無限の可能性」「子供の未来を」


    という言葉をやたら使う人は皆口だけだと分かってしまう。本当は若者のことなど微塵も考えていない。

    今年の7月の参院選でもそうだったが、「若い人の投票率が上がれば、政治家は若い人に関心を寄せる。そうすれば国が変わる。若者よ、選挙に行こう!」などと多くの中高年がネットで叫んでいたが、実際のところ中高年がサボってきたツケが全て今の若者に回ってきただけなのに、それすらも若者に押し付けようとしているだけだ。自分らがデモを起こす気など微塵もないのだなと感じる。


    エナジードリンクのような空っぽの言葉に翻弄され続ければ、そりゃ若い人は熱意を消失してしまうはずだ。


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  • 若者に熱意がない理由。【第五章】(後半)

    2019-09-02 21:01



    第一章 第二章 第三章 第四章

    第五章(前半)




    僕がこの章を改めて書くに至ったのは、ニコニコブログで数少ない読者様から「続きを書いてくれると嬉しい」という声を頂いたからです。第五章の後半を考えている間に悟った内容に関しては「人間とは、服を着て嘘をつくサルである。」の方に全て書いてしまい、これ以上の思索を辞めていましたが、
    1人でも読んでいただけるならと思い、もう一度テーマに沿った思索をすることを決めました。このテーマを展開するにあたって色々と調べているうちに、新たに気づかされたことがいくつかあります。予めお断りするとこの後半では自分の体験談中心の話になっています。このテーマを掘り下げる為には必要な段取りであると判断した上で、過去の事実をなるべく赤裸々に語ったものになりましたが、淡々と読んで頂けたら幸いです。




    [不満]


    今年の83日、23歳の誕生日に、次男の兄が誕生日プレゼントと言って漫画を送ってきた。「後半の巻で俺の伝えたいことの代弁が出てくる」と、LINEで言われた。



    この出来事の2週間くらい前、僕は母に対して自分が幼少時代から大人になるまで、家族から受けた仕打ちに対する怒りを全てぶちまけていた。ずっと自責の念と無力感を抱えながら育ち、大人になってようやく気づいた自分の気持ちが爆発し、それを述べた僕の主張に、母は少しは理解を示したようだった。「関係がより一層悪くなるだろうから、このことは兄(9つ年が離れた兄が2人いる)には言うな」と釘を打っておいたのだが、それを約束したはずが、母は僕に言われたことを兄に話してしまった。

    だがこんなこといつものことだ。幼い頃から一度母に叱られて、謝って許してもらって済んだ出来事を、食卓の場でもう一度そのことを兄に話され、今度は兄2人と母親の3人で、合計2度怒られるというのが当たり前だった。高1の頃に自殺を図って警察に保護され、母が泣きながら警察署まで迎えに来たことがあったが、「兄には言わないから」と母が自分から約束したことを、ほとぼり冷めた1年後、普通にバラされた。それを聞いた長男の兄は「なんでそんなくだらんことするんだ。死ぬ勇気もないくせに。」と言い放った。スクスク育ってきた人間には、希死念慮を抱く人間の気持ちが到底理解できないのだろうと思う。

    基本的に自分の秘密や知られたくなかったことを、母親は無理やりほじくり返そうとし、それを他の家族に相談してしまう。秘密を簡単にバラしてしまう母親や、それを頭ごなしに叱りつける家族を僕は最初から信用などしていなかった。一緒にいてもどこかぎこちない感じが常にしていた。

    9年も年が離れていれば、僕なんて相当なガキに見えたことだろうと思う。兄弟喧嘩などしたことはなく、いつも僕が一方的に叱られた。自分の気持ちを汲んでもらった記憶というのはない。




    [過去]


    僕が生まれる前、金と女にだらしない父親は家庭をほったらかしにし、家に帰ってくることも少なかったそうだ。母は女手ひとつで、2人の子供(僕の兄)を厳しく教育して育てていた。(兄が9歳の時に、三男として僕が生まれた)

    母と父は喧嘩ばかりしていて、おまけに父親は借金までつくって母親の貯金を勝手に使い果たしたりしていた。僕が3歳の頃は、闇金みたいな借金取りが、深夜に家のドアをずっと叩いていたこともあったのを覚えている。

    そんな厳しい環境で、兄は2人とも学生時代を乗り越えてきた。学業面で優秀な成績を修め、進学や就職で母親を困らせるようなことは全くなかった。


    だからこそ僕は、過度な期待を抱かれて育ってきた。

    「お兄ちゃんが優秀な〇〇高校を卒業したのだから、あんたもそこに入るんだよ。うちにはお金がないからね。あんたも同じ血が流れているから、絶対に優秀だから。」

    幼少期からずっとそう言われ続けていた。

    僕が小学一年生の頃に両親は離婚し、母親と僕、そして兄2人の4人で暮らすようになった。



    僕は自分なりにある程度は勉強もしたりしていたが、僕の努力の仕方はことごとく長男の兄から否定された。

    算数の勉強をしていれば「なんで今算数を勉強しているの」と聞かれる。想定外の質問に答えられないでいると、「理由もなく勉強をするな。目的を持って勉強しないと意味ないだろ。」と言われる。だが、自分なりに理由を探して「算数が苦手だから、今はこれをやろうと思った」と答えると、「そんな理由で勉強するな。計画を立ててその通りにやれ。」と言われる。計画を立てて、それを紙に書いて見せろと言うので言われた通りに書いて見せると、「本当にこれを達成できるの?」と聞かれる。できると答えて達成できないと、「できるって言ったのに、なんで嘘つくの?」と言われる。

    他にも、単語帳を開いて英単語を覚えていたりしても「単語だけ覚えるなんて効率悪いからするな。」と言われた。


    「自分で考えてやっているなら俺は何も言わないよ。」と常々言っていたが、その「考え」というものを僕から毎回聞き出し、僕がそれに答えられない、あるいは曖昧なことしか答えられないでいると、全て否定するのだ。要するに「それじゃ何も考えていないのと一緒だ」と見なして。無理やり大人の土俵に立たされ、大人の正論で打ちのめされてきた。悔し紛れに反論しようものなら決まって「じゃあお前はどうしたいの?」という身もふたもない質問をされる。どうしたいなんてあったもんじゃなかった。


    勉強しなさいとうるさく言われる経験は誰しもがあるだろうが、勉強する努力自体そうやって否定された僕は勉強にほとんど手がつけられなくなった。こんなやり方をしていてはまた怒られるのでは、もっといいやり方をしないとダメなのでは、と常に考えてしまうようになり、努力が嫌いになり、ほとんど机に向かわなくなった。


    勉強だけではなく、遊びもそうだった。

    よく1人で遊んでいる僕を見て「もっと友達と遊べよ」と言う。だが友達とカードゲームをしていても、「お前はカードの価値を分かってないから勝手に友達と交換とかするな。」と言う。ネット掲示板の書き込みにハマっても「そんなの辞めろ」と言った。遊び方さえも批判を浴びせられていた。


    勉強していようが遊んでいようが全て否定されるので、中学生のある時期から僕は寝てばかりいるようになった。だがもちろん「寝てるくらいならゲームでもしてた方がマシだろ。何かしろよ。」と言われた。何かをすれば否定されるが、何もしなくてもやはり否定された。


    そういう僕を、兄と母が一丸となって叱りつける。僕に対する大きな期待は、僕を「否定」という形でコントロールする方向に働いていたのだ。母親に自分の気持ちを相談してみたことも何度かあったが、最初こそ僕の意見に耳を傾けてくれるものの、そこに兄がやってきて、結局兄の意見に傾き、最終的には僕を責める。味方になってくれたと思った母親が敵に寝返るのが当たり前だった。



    勉強をしなかったので成績が悪く、高校は私立に行ったが、学費や教科書代、模試の受験料や昼ごはん代は全て自分でバイトして払った。携帯代も自分で払うという条件で、高2で初めて持つようになった。入学金の20万は(国だったか市だったか忘れたけど)奨学金みたいな形で借金した。それをようやく今年になって返済し終えたところだ。唯一制服代だけは祖母が払ってくれたので、僕は高校生から、生活費以外で家族に金の世話になることはほとんどなかった。にも関わらず、僕の勉強や将来のことには相変わらずのように干渉してきた。自分で金を払って通っている学校なのに、なんで金も払わない人間が偉そうに指図するのか、今となっては疑問である。なぜ微塵も尊敬できない人間の言うことを聞かなくちゃいけないのか、理解に苦しむ。

    よく、「誰が金を払ってると思ってるんだ」などと言う親は「毒親」であると言われていたりもするが、金を払わないのに怒る親はどう認定すれば良いのだろうか。


    高校卒業後は大学に行かなかった。その頃兄たちはそれぞれの家庭を持ち、離れて暮らすようになったので、母親と2人暮らしになった。卒業後すぐに派遣やバイトを掛け持ちするフリーターになり、毎月45万を家に入れる。そんな生活をしてかれこれ5年である。



    僕はずっと誰かの写し鏡で見られてきた。


    「お兄ちゃんたちはこうだったよ。」


    「あんたのその性格は父親と一緒。」


    「〇〇くんはしっかりしてるのに。」


    親だけでなく、僕は第一印象だけで人から「真面目そう」「頭良さそう」「できそうな人」と言われることが昔からしょっちゅうだったし、今でも多々ある。どういうわけか期待されやすい体質らしい。


    だが、ある時出会った職場の上司だけは違った。

    彼は僕の仕事を見ていつも評価をしてくれたし、ダメな部分はしっかり注意してくれた。

    「キミのこういう部分は良いところだけど、ここは直したほうがいいよ」とよく言ってくれた。そんな上司を僕は大好きになってしまった。彼から見捨てられたらおしまいだと、そう思っていた。依存するレベルだった。自分でも何故そうなってしまっていたのか当時はよく分からなかったが、今となって理解した。彼は僕をありのまま見てくれていた人だったからだ。

    過度に期待するわけでもなく、誰かとの比較で評価するわけでもない。等身大の僕を見出して、それを認めてくれる彼の目線が、きっと僕にとって生まれて初めての経験だったのだろうと思う。

    その上司はもう別の仕事に変わってしまったので、非常に残念だった。




    [アダルトチルドレン]


    とりあえず、ここまでが僕の経験である。

    本当はまだ書き足りないが、非常に大まかに言ってこれだ。

    もちろんこれとて大人になって初めて気づいた感情であり、当時は自分がなにに悩んでいるのか、なぜこんなに心が空虚なのかをずっと分からないでいたし、ずっと自分が悪いと思って責めてきた。こんな自分の何がいけないのかを探ろうと、中学の頃から本を読んだりネットで調べ続けた結果、大人になってようやく行き届いた答えが「アダルトチルドレン」なのだ。


    https://www.office-stella.com/tokucho.html


    このサイトに書かれていることは、まんま自分の性格に当てはめることができるし、書かれていることも過去を振り返れば思い当たる節がいくつもある。

    僕は未だに家族も含めて他の誰も信用していないし、自己開示もできない。少しでも仲良くなりそうになってしまった人間とはなるべく距離を取るようにしてきた。そうしないとあらゆる強迫観念に押しつぶされてしまうからだ。唯一できることは人に共感しているふりをしてその場をやりすごすことだ。そうやって生きることが当たり前だったので、単に自分がひねくれているのだろうと考えていた。

    自分は人よりも特別な成果を出さなければ人から好かれる価値のない人間だと考えている。だけど何をしても満足できないので、おそらくその価値には永遠に届くことがないのだろう。

    幼い頃から自分の人生に希望など持った覚えはなく、それどころかなんの想像もできなかった。無理に想像しても不安が押し寄せるだけなのだ。何をして生きていきたいのかわからず、こんな何もできない自分は下手に苦労するくらいなら早いうちに死んだほうがいいとずっと思ってきたし、それは今でも変わらない。


    いやはや、学問というものは本当に恐れ入る。たかだか23年しか生きてないような僕のチンケな人生観なんて大きく覆すほどに、精神心理学とは実によく統計がとられ、体系化されているものだと感じた。長年自分で自分を分析し、考え、見出してきた自己像とは一体なんだったのかと、あっけにとられてしまう。

    例えるならまるで地図のようだ。国の形を知りたくて地図を完成させようと意気込み、道を練り歩きながら一歩一歩距離を計測し、何年もかけて少しずつ形を描いていき、あと少しで完成だと思った矢先に人工衛星の撮影により完成された世界地図を見せつけられたような気分だ。そこでやっと自分の描いた地図があまりにも歪な形であることを思い知らされる(そう考えるとほぼ正確な日本地図を完成させた伊能忠敬って相当スゲェなと思う)。

    自分の悩みを自己分析しつつ思考を整理するために「若者に熱意がない理由」というテーマで記事を書いてきた。言うなればあれは「僕に熱意がない理由」なのだ。だがたった1ページのこのサイトに全ては要約されていた。分析するまでもなく僕をひょいと「アダルトチルドレン」というところにカテゴライズさえしてしまえば済む話だったらしい。だがこの「アダルトチルドレン」という言葉の響きはどうも好かない。




    [ニヒル]


    ここで話は一番最初に戻るが、こういう不満を母親にぶちまけ、なおかつそのことを母が兄に漏らした後日、次男の兄から漫画を送ったよと言われたのだ(ちなみに勉強のことで干渉してきたのは主に長男の方で、漫画を送ったのは次男だ。次男はわりかし僕には無関心だった)。

    母に言われたから漫画を送ろうとしたのか、最初から計画していたのかは知らない。だが少し腹が立ってしまったのは、「俺の伝えたいこと、考えの代弁が書いてあるから」とわざわざ言って送ってきたことだ。そんな理想的な「考え方」とやらを一つ知ったところで前向きに生きられるもんじゃない。長年培われた心のクセはそう簡単に捨てることが出来ず、ずっとしがらみになる。そのしがらみを抱えている人間からすれば、しがらみのない人から無頓着に言われる理想論には腹が立つものだ。むしろそのクセというのは不安を回避する為の防衛策でもあり、これを考え方一つで変えろなんて言われれば今まで培ったもの全てが崩れてしまう。この後に及んでまた俺を否定するのか、とつい言いたくなってしまった。もちろん本人はそんなつもりじゃないのだろうけど、送ってくれるなら純粋に誕生日プレゼントとだけ言ってくれればよかったのにと思ってしまった(でも漫画は超絶面白かった)。


    一方で、母親に不満をぶちまけたはいいものの、何でも忘れっぽい母親はいくつかの事実を覚えていなかったりした。挙句「あんたはきっとそういう思想を書くためにこの家庭に生まれてきたんだよ」というスピリチュアリストならではの理論を展開した。スピリチュアルを信じきる母は昔からそうで、「あんた達がここを選んで生まれてきたんだよ」という身勝手な主張で価値観を押し付けてきた。やはりどこまでも正当化するらしい。
    まぁ、もうどうでもいいのだが。

    唯一そんな家族に感謝していることがあるとすれば、僕を「ニヒリズム(虚無主義)」に陥れたことだろう。気持ちを汲んでもらうこともなく、努力を否定され、遊び方を批判され、稼いだお金は家に貢いで消えていく。何をしたって報われないなら、ニヒルを受け入れるしかなかった。誰からも愛されなくとも、誰も愛することができなくとも、あらゆることを有意義に感じられなくとも、ニヒルを肯定していれば今後一切傷つくこともなく、自分を惨めに思うこともなく、そのままで十分なのだ。僕は初めてニヒリズムという思想を知った際は実に感銘を受けた。


    愛を信じる人間ほど脆い。いろんなことを経験して強くなった、成長したと錯覚したところで、信頼していた相手に裏切られたりすれば簡単に傷つく。そうなれば過去に後戻りであり、他の愛を探す羽目になる。つまり永遠に愛に依存しなくてはならなくなる。ニヒルとは単にドライなのではない。ニヒルを受け入れさえすればあらゆることを合理的な観点で片付けることができる。単なる合理主義と違う点とは、その徹底さである。合理主義と言えども結局のところ、合理的に解決すればきっとうまくいくなどという希望があるから「合理」を絶対的に感じているのであって、その勘違いこそが己の希望的観測によって現実を歪んだ形で判断してしまい、むしろ非合理的な見方に陥るものである。対してニヒルとは、その先に求める希望などそもそも存在しない。そんなものはどうでもいいのだ。どうでもいいからこそより合理的な判断ができるものであり、それが結果的に身の破滅をもたらそうが一向に構わず、その破滅的な結果をも合理的に処理していくのみなのだ。

    そう考えると、ニヒリズムが一番精神的に自立した考えであるとも言える。


    人に共感し、上手に自己開示することができれば、人間関係が広がり、人生を豊かにするものかもしれない。だがその豊かさとは、どんなに綺麗に取り繕ったって人間中心主義であり、エゴである。もちろんニヒリストはエゴを悪だとは言わないが、人間中心主義をとことん極めた挙句、自分らの行いがそもそも傲慢なものであることすら知らないでそれが正しいと思い込んでいる人ほど、エゴイズムなのは間違いない。





    [あとがき]


    そもそも僕がここ3ヶ月以上にわたって不定期的に記事を書くようになったのは、かなり精神的に参っていたことがきっかけだ。やる気が出ないとかイライラするとか、そんなことも通り越して全てどうでもよくなり、今までにない無気力に襲われていたときがあった。そこで一旦落ち着こうと思い、外に出てタバコを吸っていて、ふと頭に浮かんだテーマこそ「さとり世代の弊害」だった。「ゴールデンウィークも終わって、すっかり5月病ですね。」の文章で始まった、518日投稿の【若者に熱意がない理由(第一章)】は、ちょうどその時に書かれたものだ。自分が何に悩んでいるのかを分析して、頭の中を整理するために、本やネットで調べながら5章の前半まで書き続けていた。


    今回改めてこのテーマを書くにあたって、実は他にもいろんな思想は浮かんでいたのだが、どこから書き始めたらいいのか非常に悩んでいた。そこで調べている最中にアダルトチルドレンという名前を知り、まんま自分のことであると思ったので、ここはひとつ自分のことを題材にし、それを導入部分にしようと考えた。そうすれば次に書く内容へスムーズに移行できると思ったからだ。

    内容に悩んだ際の体験談作戦は今後も使うかもしれないが、さすがにこれの続きは出来るだけ控えようと思う。

    また気が向いたらつぎの内容をまとめます。




  • 京アニ放火事件の報道、メンタリストDaigoさんの見解。

    2019-08-28 00:252
    https://www.youtube.com/watch?v=MAnTu1u0C08&t=29s

    ついさきほど、メンタリストDaigoさんがご自身のユーチューブアカウントにて、涙を流しながら放送を行なっていました。京アニ放火事件の被害者の実名を、遺族の意向を無視して実名で公表したマスコミはいかに非人道的であるかを語っていました。もちろんメンタリストとしての彼のチャンネルらしく、心理学的、科学的根拠を示しながらです。

    わざと遺族が泣きそうになるような質問を投げかけて、泣いたところをカメラに収めて記事に載せる記者や、今後の遺族の生活を脅かす可能性があるにも関わらず実名を公表するマスコミなどなど、彼らの行動は人の死すらも金としか思っていないようなものであると語っていました。
    Daigoさんは、自分がテレビに出れなくなろうが構わない、という覚悟を述べた上で、「もしご遺族の方がいらっしゃれば、こういうことをしてきた記者の名刺の写真を送ってくだされば、僕が責任を持ってその人を追い込みます。」とまで言っていました(この発言に関しては後にコメント欄で、遺族の方へのリスクという点で失言であったと述べています)。僕はDaigoさんの動画や放送はよく観ていますが、涙を流しながらここまで感情的に語っていた放送はこれが初めてです。


    ここからは僕の意見になります。

    マスコミの問題行動は今までも散々ネットで叩かれてきましたが、それでもこれらの行為が無くならない理由は分かりきっていますよね。


    結局、僕らがそういう記事や番組を観ているからです。


    「マスコミは金のことしか考えていない」というのはDaigoさんだけでなく、多くの一般人が言っていることではありますが、金になるということは、そういう記事を書いた週刊誌や雑誌、新聞を買ったり、それらの番組を観る僕らがいるということです。なんの意義もなく、ただ遺族の方や被害者の方を痛めつけるだけの記者会見の放送に関心を向けて観てしまっている僕らも、マスコミと同じではないでしょうか。

    覚悟あるDaigoさんの行動は真に敬服いたします。
    ですが一部の人の覚悟がどれだけ強かろうが、数の論理には100%勝てません。ここで言う数の論理とは、マスコミの権威のみならず、そういう記事に関心を寄せてしまう僕ら一般人も含まれていると考えます。つまりマスコミが金儲けの為に形成する世論に僕らが耳を傾けている以上、陰湿で非人道的な報道は無くならないということです。
    一部の人が立ち上がり、マスコミと戦っている姿をただ面白がって画面越しに観ている人間が圧倒的多数であれば、その有志ある姿すら、一部の権威の金儲けに変わるだけでしょう。
    なので僕ら一般人は、数の力でマスコミを制圧すればいいのです。

    くだらない記者会見の番組を観ない、くだらない記事の書かれた週刊誌を買わない、くだらないマスコミの話に反応しないということだけです。