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☗3
「むう、負けました」
「ありがとうございました」
「はは、さすがにいきなりは勝てないかー」
合宿二日目の朝。まずは紗津姫との初の飛香落ち対局から始まった。
今までと違い、大駒の角が最初からある。これにより上手は守りに専念するのではなく、果敢に攻撃を仕掛けることも可能となる。
常に角の脅威にさらされながら、来是は慎重に駒組みを進めた。そして終盤まで優勢を保っていた。ところがわずかな隙を突かれて形勢逆転に陥り、最後は即詰みに討ち取られてしまった。
「結構危なかったですよ。この分なら、すぐ飛車落ちに上がりそうですね」
「本当ですか?」
「ええ、今日の春張くんは気力充分で教えがいがあります」
「ふふふ、それじゃあ続けて二回戦を!」
もうすぐ先輩の水着姿を拝める。
来是の頭の中は将棋指しらしからぬ煩悩に支配されていたが、それがかつてないほどの集中力に昇華していた。
ここでいい将棋を見せれば、先輩が自分を見る目もさらによくなるはずだ! そして水着姿であれやこれのサービスをしてくれるかもしれない! そんな勝手な妄想を燃料にして、来是の指し手は勢いを増すのだった。
「……負けました」
「よし! こっちも二枚落ちは卒業でいいわよね」
「ふん、それくらいでいい気にならないでもらいたいわ」
依恋も出水との二枚落ちを制したようだ。とてもご機嫌な笑顔を振りまいている。関根と金子も穏やかに笑っている。
「互角だって思ってたけど、ひょっとしてもう俺より強いんじゃないか? いや、頼もしいかぎりだ」
「大きな目標があると、上達が早いんですねえ。私も上手くなってるつもりですけど、差は縮まりそうにないです」
「……ん? 依恋にも何か大きな目標ってあるのか?」
来是は首をかしげた。紗津姫を超えるという壮大な目標を掲げている自分と比べれば、依恋はせいぜい初段になりたい程度の考えだと思っていたが……。
「そりゃ、来是に遅れは取りたくないわ」
「なるほどな。じゃあ次は俺とやるか」
「うん、勝ち越すのはあたしよ!」
将棋部に入るまでは、常に依恋が来是を引っ張り回していた。それが今や、すっかりライバルのような関係だ。どちらかが一方的に先に行くのではない、抜きつ抜かれつの横並び。
来是はこの距離感を、とても好ましく思っていた。そして、こうした関係がずっと続けばと。
メンバーを交代しながら、ひたすら練習将棋に明け暮れる。依恋との対戦成績は五分五分のままだったが、来是は満足していた。致命的な悪手を指してしまう割合が減ってきたと自分でもわかる。
将棋は極論すれば、悪い手を指さなければ負けないのだ。俗手、凡手こそが最善ということもある。
これは普段の生活にも通じる考えだ。何物も恐れずに突き進むのはカッコいいかもしれないが、それで成功し続けるなら苦労はしない。慎重に先を読む。その上で平凡に行くのがよしとわかれば、喜んでその道を進むべきだ。
本当に将棋は、いろんなことを学ぶことができる。来是はいっそう感謝の心で全身を充実させていた……。
が、その感謝はほどなく俗な方向に向いた。
「そろそろ海水浴場に行きましょうか。お昼もあっちで食べましょう」
「はいッッッ!」
この瞬間、来是はすっぱりと将棋を頭から追いやった。
先輩はどんな水着を着るのだろう、その期待だけですべての脳細胞が活性化する。来是は生きててよかったと本気で思った。
「なあに、そんなにあたしの水着姿が楽しみ?」
いや、お前じゃなくて。と言いかけたが飲み込んだ。
依恋の水着姿も楽しみ。そう思っていることを否定できない自分が複雑だった。
盤駒を片付けると自分の部屋に戻り、てきぱきと準備を整える。
「先生、やることないんでしたら荷物番してくださいよ」
読書をしていた斉藤先生に頼む。カメラ撮影のための携帯や財布も持っていかなければならないので荷物番が不可欠だが、優しい紗津姫が「私が見ています」とか言ってしまうかもしれない。それは断じて避けなければならない!
「海か……また去年みたいなことになるんじゃないか?」
「え? 何かあったんですか」
「神薙がナンパされまくったんだよ。そりゃ、されないほうがおかしいかもしれないけど」
関根の答えに来是は眉をひそめた。
海水浴場とナンパ。ごくありきたりの組み合わせだが、他ならぬ紗津姫がターゲットになるのであれば、看過できるわけがない。
「ちょっと目を離すと、チャラそうな男どもに言い寄られてな。もう、出てくるわ出てくるわ。さすがの神薙も海水浴を楽しむような心境になれなかった。万が一があったら大変だと、俺も先輩たちものんきに遊んでられなかったな」
「マジっすか……」
「ちなみに去年の神薙は水着にはならなかったんだぜ。女子はあいつひとりだけだったから恥ずかしかったんだろうが、それであれだからな。今回は水着を着るみたいな話だけど、どうなるやら。碧山さんだって、だいぶ注目されそうだよなあ」
「……ふむ」
楽しいことだけを考えていればいいと思っていたが、認識を改めなければならないようだ。
来是の心はひとつだった。
万が一のときは、俺がふたりを守る。