【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊
俺の棒銀と女王の穴熊【3】 Vol.28
――その後も小休止を挟みつつ、ひたすら八十一マスの世界に没頭する。
来是は将棋の体力というものが身についてきたのを感じていた。何時間、盤の前に座っていても苦にならない。同じ時間、学校の勉強ができるかと言われても無理だ。とっくに飽きて投げ出しているだろう。
好きなことなら、いくらでも続けられる。そういうものをこの高校生活で見つけることができて、来是は本当に感謝していた。
「どっちが勝ち越しそうなんだ?」
関根が聞いた。来是と依恋は感想戦を終えるや、すぐに駒を並べ直す。
「さて、どうなることやら」
ここに至っても来是と依恋の対戦成績は、完全な五分。
このまま引き分けで終われたら美しいかもしれないが、きっちり白黒つけてこその将棋だ。中途半端な結末は、依恋も望んではいないだろう。
「おふたりとも、次で最後にしてください。そろそろ終了ですので」
紗津姫が言った。すでに時計の針は午後五時を回っており、夏の空もうっすらと暗くなっている。
「最後はあたしの勝ちでフィナーレね。覚悟しなさいよ」
依恋はまるで疲労を感じさせない、不敵な笑顔を向けた。来是も背筋を伸ばして毅然と応じる。
「おお、やれるもんならやってみろ」
合宿最後の対局がはじまった。
もっとも大事な対局こそ、基本に立ち返る。来是はこだわりの棒銀戦法。依恋はオーソドックスな四間飛車。しばらくは定跡どおりに進行した。
どちらも致命的なミスは犯さない。危険とわかっているところには踏み込まず、常に自陣の安全を気にかける。
小さな穴の空いたダムのように、わずか一手の緩みが決壊をもたらす。その恐ろしさを、百にも届くこの合宿の対局で、嫌というほど味わってきた。おかげで慎重な駒さばきを覚えることができた。攻めっ気ばかりが先行していては、さらなる上達は望めない。
無論、攻めるべきときは攻める。優れたハンターとはそういうものだ。絶好のタイミングが訪れるまでひたすら自重し……行動に移すときは一気呵成に!
「さあ、どうだ」
「む……」
習得しているかぎりの手筋を尽くして、依恋の玉に攻めかける。しかし彼女は動じる様子など微塵も見せずに、その猛攻を受けきろうとする。
来是は持ち駒と盤面を何度も確認した。きっと勝てるはず。そう確信する。
依恋は静かに呼吸した。自玉の生きる道を懸命に読もうとしている――というよりは、予定している手をただ確認しているような、余裕のある眼差し。
数分の小考だった。彼女の指した手は、来是に鉛を飲ませたような衝撃を与えた。
自玉の詰めろを消し、同時に相手に詰めろをかける。「詰めろ逃れの詰めろ」と呼ばれる手だ。いわばカウンター、攻守を一挙に逆転させるテクニックである。
おそらく紗津姫や出水であれば、この局面に達する前に、カウンターが読めていたはず。そして軌道修正したはずだ。でも自分は気づけなかった――来是は歯噛みして自らの未熟を思い知った。
そこからの手順は、ほぼ一本道。数手進んだところで、来是は投了した。
「えへへ、あたしの勝ち越しね」
「ああくそ。煮るなり焼くなり、好きにしやがれ」
悔やんでも悔やみきれない敗北だったが、あれほどの好手を見せつけられては仕方がない。いさぎよく罰ゲームを受け入れるのが日本男児の心意気というものだ。
「罰ゲームは、また後日でいいわ。大会に響いてもまずいしね」
依恋はあっけらかんと言い放つ。覚悟を決めようとしていた来是は、肩すかしを食った気分だった。
「大会に響くって……おいおい、そんなにショックな内容なのか?」
「まあね」
と、関根が大きく手を打ち鳴らした。
「これにて合宿の練習はすべて終わりだ! お疲れさん!」
「お疲れっした!」
いくばくかの名残惜しさがこみ上げる。何も気にせずに、好きな仲間たちと好きなことに打ち込める時間。それがついに終わってしまうのだ。
しかし、しみったれた感傷は次第に達成感と高揚感に塗り替えられていく。
「絶対に勝てる! 全勝だって夢じゃないぞ!」
「そうね! やるからには全員が全勝を目指すわよ」
「んー、私はちょっと難しいかもですけど、頑張ります!」
「じゃあ春張くんが全勝できたら、私からご褒美をあげましょうか」
「え、マジですか?」
あえて聞き返してみるが、紗津姫はつまらない冗談を言う性格ではない。その笑顔に、嘘偽りはひとかけらもない。
「春張くんのやる気が出るなら、喜んで」
「……お、おおお!」
もう言葉にならなかった。アメとムチを使い分けるのが、一般的にはいい指導者なのだろう。しかしこの女王は、たった一粒の甘美なアメで、どこまでも自分の力を引き出してくれる――。
「おーい、そろそろ夕食に行こう」
斉藤先生がやってきた。最後はコンビニ弁当でも大衆食堂でもなく、回転寿司はどうかということになった。打ち上げにふさわしい夕食になりそうだ。
「出水さんもぜひ来てくれ。いいコーチになってくれたようだからね」
「私も?」
「行きましょうよ。摩子ちゃんには本当にお世話になりましたから」
「……そっすね。最初はめちゃくちゃ驚いたし、なんつーか怖かったけど、教わるものは多かった。ありがとう出水さん」
「あっそ」
ぶっきらぼうな返事だったが、ほんのわずかだけ――照れくさそうに視線を背けるのを来是は見逃さないのだった。
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