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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.2
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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.2

2015-05-26 18:00
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         ☆

     順位戦A級。名人挑戦者を決めるための最高峰リーグ。わずか十名しか在籍できない、天才の中の天才たちの領域。将来を嘱望されながら、ここまで辿り着けず現役を終える者のほうが多い。
     そんな地位に山寺は辿り着き――毎度生き残るので精いっぱいだった。これまで挑戦争いに絡んだことはない。よくてギリギリ勝ち越し、だいたいの場合、最終戦で降級争いを演じて、どうにか土俵際で踏ん張るというパターンになっていた。
    「やっぱA級は、格が違う」
     負けた翌日、ボーッとした顔でそんなことを言うのを、もう何度も目撃している。他とは異なり、順位戦は文字どおり棋士の順位、格付けがされる棋戦だ。負ければ、その相手との格の違いを見せつけられる。A級という最高峰では、特にその傾向が増すのだ。
     ところが今期は、序盤から調子がよかった。山寺本人が一番不思議に思っているようだった。特に棋風を変えたわけではないのに、と。
     あえて好調の理由を挙げるとすれば、研究会の類を一切やめたことかもしれない。以前は他の棋士との研究会に出かけて、日中はずっと家を空けることもしょっちゅうだった。しかし今期が始まるあたりから、家族との時間を増やしたいと言い出した。甘えたい盛りの息子のことを考えると、その申し出はとてもありがたかった。
     当然、研究量は減った。しかし高遠の不安をよそに、ここ数年で一番と言えるほどの勝率を維持している――。
    「研究を減らすことで、逆に調子がよくなるなんて、あるのかしら」
    「バランスが大事、ということではないでしょうか? 山寺先生は、これからは自然体が一番だと考えたのでは」
    「ああ、この歳になったら研究ばかりしていられないって言ってたわ。若手の子たちは、一日十時間も研究するっていうけど……どう考えても自然な人間の生活じゃないものね。そっか、バランスか」
    「研究量を、言わば人間力が上回る……そういうことも、きっとあると思います」
    「神薙さん、あなた本当に高校生? まるで熟練の棋士みたいな意見よ」
     本日のタカトーは、夜からの特別営業体勢となっている。開店前、高遠は神薙紗津姫を招き入れ、紅茶と軽食を振る舞いながら打ち合わせをしていた。
     今日は順位戦A級の第八戦目、いわゆるラス前だ。
     名人挑戦者の候補がいよいよ絞り込まれるということもあるが、全員が一斉対局することで、これまでよりも飛躍的に注目度が高まる。ゆえに東西の将棋会館で大盤解説会が行われるのが通例だ。
     タカトーでも今年から、大盤解説会を企画することになった。当初は誰か男性のプロを呼ぼうと考えていたが、山寺が「神薙さんがいいんじゃない?」と提案したのだ。
     昨秋に発表された、伊達名人プロデュースによる将棋アイドルプロジェクト。それからわずか数ヶ月のうちに、紗津姫は伊達や大和女流名人に追いつかんとするほどの、将棋界の人気者になった。男性はもちろん、清楚な人柄が女性受けもしていることは、お客の会話からリサーチ済みだ。是が非でも、彼女に依頼したくなった。
     とりあえず伊達に事情を伝えてみたところ、「事務所を通してください」と業界人みたいなことを言われた。今は学業優先であるものの、正式にプロダクションに所属し、マネジメントを受けているという。
     芸能事務所にオファーするなど、もちろん初めてのことだったが、こうして無事に迎え入れることができた。以前、アルバイトに来ないかと誘ってみたことがあったが、ずいぶん大きくなってしまったものだ。チラッと店の外に視線を移してみると――。
    「お客さん、もう並んでるわ。ブログでちょこっと告知しただけなのに」
    「ありがたいことです。大盤解説というのは、さすがに初めてなんですが……」
    「大丈夫大丈夫。リラックスしてやってちょうだい」
     午後六時を回ったところで、店をオープンさせた。同時にたくさんの客が流れ込んで、座席はたちどころに満杯になってしまった。
    「うおお、神薙さんだ! 本物!」
    「あ、あとでサインとかもらっていいですか?」
     中には将棋をほとんど知らない、神薙紗津姫のファンというだけの人もいるかもしれない。だが、彼女をきっかけにして将棋を知ってくれるなら、これに勝る喜びはない。
    「これはちょっと予想以上ね。私だけで注文さばけるかしら」
    「……あ、それでしたら、あの子たちにお願いしてみましょうか?」
     紗津姫は一組の少年少女を手招きした。
    「あら、あなたたち……」
    「お、お久しぶりです」
    「話には聞いてましたけど、素敵なカフェですね。気に入りましたわ」
     紗津姫の後輩、春張来是と碧山依恋だった。見たところ、客の中ではこのふたりが一番若かった。先輩がアイドルの仕事をするから覗きに来たというのはあるだろうが、それ以上に将棋を好きでいてくれているのだろう。
    「来是くん、依恋ちゃん、申し訳ないんですけど、高遠先生を手伝ってくれませんか?」
    「接客の経験ゼロですけど、先輩からの頼みとあらば、喜んで!」
    「調子いいんだから。ま、かまわないわよ。来是はあたしが見てないと、いろいろやらかしそうだし」
     ははあ、春張くんは神薙さんが好きで、碧山さんは春張くんが好きなのね。そう直感するには充分なほど、微笑ましく瑞々しかった。
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