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デリバリーピザの到着を合図に、壮行会は始まった。ところが乾杯して間もなく、話題の中心は山寺でもなく出水でもないところに移っていった。
「あ、あの、神薙さん! よ、よろしければサインを!」
「お、俺にもください!」
早坂成太(はやさか・せいた)と藤代透(ふじしろ・とおる)。ともに十四歳の同級生で、今はD1クラスに所属しているが、ゆくゆくは奨励会への編入を目指している。どちらが先に上がれるかと、研修会の外でも日々競争しているらしい。
「いいですよ。なんて書きましょうか?」
「相手しなくていいわよ、紗津姫ちゃん。あんたたち、まさかこれを目当てで参加したんじゃないでしょうね」
「摩子姉さん、そんなの当たり前じゃないっすか~」
「一度でいいから、会ってみたかったし! あ、写真もいいですか? ほら姉さんも写りましょー」
「ふん、あんたたちと一緒なんて御免よ。撮るんならふたりっきりで撮るわ」
出水はこのコンビからは姉さんと呼ばれている。そう呼びたくなるオーラをまとっているのは、高遠も認めるところだ。
「久留実はいいの? サインもらえるチャンスよ」
「い、いえ、そんな。申し訳ないですし」
先日、E1クラスで研修会入りしたばかりの尾上久留実(おのうえ・くるみ)。出水とは正反対で、小動物のようにおとなしい十三歳だ。山寺のコップが空けば、すかさず缶ビールを取って注ぐ。棋力はまだ物足りないが、よく気の利く性格が好ましかった。
「女の子に注いでもらうビールは、美味いねえ」
「行成、ほどほどにしないと、明日に差し支えるんじゃないの」
義母はホクホク顔でピザをつまんでいる。最初誘ったときは、若者の集まりに年寄りは邪魔だろうと遠慮していたのだが、それなりに楽しんでいるようだった。
「それじゃあ、あと一杯だけ」
「お父さん、僕が注いであげる」
「おお、ありがとう」
「明日は、寝ないで応援するからね」
「そうかあ、嬉しいな」
そう言いつつ、山寺は少し困ったような面持ちになる。将棋界の一番長い日、その延長戦。真夜中まで続く対局に、まだ十歳にもならない子供が耐えられるとは思えなかったが、おとなしく寝なさいとも言えない。
「日向くんはえらいなー。俺はとても決着まで起きてられる自信ないぜ。透もそうだろ」
「うむ、俺は早寝早起きが信条だからな!」
「え、えっと……私も明日は最後まで見てられないかも、です」
「いいよいいよ。夜更かしは体に悪いぞ」
「私はちゃんと最後まで見ますけど。紗津姫ちゃんも、もちろん起きているでしょ?」
「ええ、きっと大熱戦になるでしょうね! それにニッコリ動画の生放送もありますし、盛り上がるはずですよ」
プレーオフはニッコ動で中継される。山寺はタイトル戦の解説などでは何度も登場しているが、自分自身の対局では、確か初めてのはずだ。かつてタイトルを獲得したときは、まだニッコ動自体がなかった。
「それじゃあ、将棋してるお父さんが見られるの?」
「ああ。テレビみたいに、日本中の人が見てくれるんだよ」
「わあ……!」
ほんの数日前まで、日向は父親の職業を何とも思っていなかった。それがどうだ、完全に尊敬の眼差しで見ている。
もちろん喜ばしいことだが……苦悩の顔を作る父親の姿をどんな風に思うのだろうかと、不安になってしまう。
今さらこんなことで悩むほうがおかしいのかもしれない。将棋指しの子供を持った以上、避けて通れない道なのかもしれない。でも、せめてもう少し時期がずれていればと思わずにいられなかった。
「じゃーん。ここで俺たちから、先生にプレゼントです!」
早坂がリボンつきの包装紙に包まれた箱を取り出した。来たときから紙袋を持っていたが、中身はこれだったようだ。賞状を渡すように、両手で山寺に差し出す。
「ん、これは……」
「お菓子の詰め合わせっす! そこのデパートで買いました。ぜひ明日、食べてください! カメラの前で!」
「し、しっかり糖分補給して、戦ってください」
藤代と尾上が説明する。山寺は破顔一笑した。
「対局室でおやつってのは、タイトル戦だけだよ。普通の対局のときは、控え室で食べるもんだ」
「だからそう言ったでしょうが」
「でも摩子ちゃん、別のにしようとは言わなかったじゃないですか」
「だ、だって紗津姫ちゃんが大賛成してたし……」
「お弟子さんからのプレゼントを持ち込めば、きっと棋譜コメントでも取り上げてくれますよ。山寺先生がどれほど慕われているか、ファンに伝わると思います」
「そうそう! 俺らの応援パワーで、今度こそ豊田八段をぶっ飛ばしてくださいよ」
「序盤、中盤、終盤、隙のない将棋を見せてやってください!」
「ファ、ファイトです」
わいわいとはしゃぐ子供たちを眺めながら、義母はホッと息をついた。
「行成が、あんな風に慕われるようになるとはねえ……」
「ええ、ここまで来るのに、とても頑張ったんです」
その頑張りが、さらに報われるか否か。
泣いても笑っても、答えは明日に出る。見届けるのが、今年はひとりではなくなった。それがいいことなのか、高遠はわからなくなってきた。