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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.13
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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.13

2015-07-14 18:00
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    「……日向、何時まで起きてるつもり?」
    「お父さんが勝つまで!」
    「夜中の三時とかになるかもしれないわよ。もっと遅くなるかもしれないわ」
    「起きてるよ」
    「明日も学校でしょ。寝なきゃダメよ」
    「やだ」
     予想はしていたが、聞く耳を持ってくれない。
     しかしここで退いては、母親として失格だ。
    「そんなに遅くまで起きてたら、体を壊すわ。だからダメよ」
    「お母さんだけお父さんが勝つとこ見るの、ずるい!」
    「ひなくん、ご近所に迷惑でしょ。うるさくしないの」
     風呂から上がってきた義母が助けに入る。しかし日向は祖母に対しても、目をつり上げて大声を飛ばした。
    「お母さんがずるいだもん!」
    「でも、しょうがないでしょ?」
    「やだやだ!」
     日向は誰にも自慢できるほど、手のかからない子だった。それがほとんど生まれて初めて、親に反抗心をあらわにしている。
     これが、成長するということなのだろうか。将棋が、それをもたらした――。
     高遠はしゃがんで、息子と同じ目線になった。そっと両肩に手を置く。
    「わかったわ。お母さんも一緒に寝るから。それならずるくないでしょ?」
    「本当に? 僕が寝たあとで起きたりしない?」
    「大丈夫よ。お母さんも疲れてるから、朝まで起きないわ」
    「絶対?」
    「うん、絶対」
    「……それならいい。お母さんの部屋で寝る。お母さんが寝るまで見張ってる」
    「うん、見張ってていいわ」
    「じゃあもう、パソコン見ないで。一緒にお風呂入って、一緒に寝るの」
     まだ心から納得したような顔ではなかったが、日向は浴室に向かった。胸の奥がキリキリと痛んだ。その一方で、形容しがたい解放感も舞い込んできた。
    「あんなこと言ってたのに、よく決断したわね? ま、ああ言わなきゃ、ずっとわめいていたでしょうけど」
    「……ええ。それに私だけ見ていて、行成さんが負けたら、私の口から言わなきゃいけないでしょう? そんなの辛すぎますから」
     決断できた一番の理由が、これだった。日向が癇癪を起こしそうになったのは、実は渡りに船だったのだ。
     父親は負けたと告げる。そんな機会はこれからたくさん訪れるだろう。しかし今はその責務から離れていたかった。
    「行成が負けると思うの?」
    「少し、悪い気がします」
     夫を信じる妻ではなく、直感に長けたプロの目で高遠は言った。
     これから深夜にかけて、壮絶な相入玉模様になるだろう。だが、山寺はしのぎきれないのではないか。嫌な予感がしたときは、たいてい的中してしまう……。
    「ねえ、こんなこと言うのは悪いんだけど」
    「はい」
    「私だって最後まで信じていたいけど、行成は……名人なんて器じゃないと思うのよね」
     誰よりも長く山寺を見てきた人の言葉。どんなに観察眼に優れたプロよりも、急所を突いているように思われた。
     高遠はぼんやりした頭で日向と一緒に入浴し、床につくやすぐさま眠りに落ちた。そして夢を見た。山寺からプロポーズされたときの、ひどく明晰な光景だった。
    「僕と一緒に、将棋界を盛り上げませんか」
     ……その目標は、もう達成できた。彼はトッププロとして、ファンを楽しませてきた。自分も陰になり日向になり支えてきた。
     たとえ名人の座を掴めなくとも、私たちは充分に頑張ってきたではないか――。
    「お母さん、お父さんが帰ってきた!」
     体の揺れと、まぶしすぎる蛍光灯の光と、息子の元気のいい声で目を覚ました。
     枕元の時計を見ると、まだ六時前。カーテンの外は、暗幕を広げたように暗い。
     目尻は、うっすらと濡れていた。
    「ほら、早く!」
     乱れた髪の毛もそのままに、力強く玄関へと引っ張られる。
    「起きてたのか」
     息子とは正反対に、後ろめたそうな山寺の表情。
     それだけで、理解できてしまった。彼はきっと、朝まで飲み歩く気にはならなかった。どんなに辛い現実でも、一刻も早く、自分の声で伝えなければと考えて――。
    「お父さ――」
    「ごめんな。負けた」
     そう告げられた瞬間、小さな体は大きく震えた。波が押し寄せるように泣いた。山寺は無言で息子を抱き寄せた。日向はくたびれたスーツを引きちぎらんばかりに握りしめた。騒ぎを聞きつけ起床してきた義母は、沈痛な表情で無言を貫き通していた。
     日向は真っ赤な目で、歯を食いしばって、敗北した父親を見上げた。
     ああ、まるで、復讐に燃えるように。
    「僕が……お父さんの代わりに、名人になる!」
     高遠は両目を覆って、その場に膝を突いた。
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