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「……日向、何時まで起きてるつもり?」
「お父さんが勝つまで!」
「夜中の三時とかになるかもしれないわよ。もっと遅くなるかもしれないわ」
「起きてるよ」
「明日も学校でしょ。寝なきゃダメよ」
「やだ」
予想はしていたが、聞く耳を持ってくれない。
しかしここで退いては、母親として失格だ。
「そんなに遅くまで起きてたら、体を壊すわ。だからダメよ」
「お母さんだけお父さんが勝つとこ見るの、ずるい!」
「ひなくん、ご近所に迷惑でしょ。うるさくしないの」
風呂から上がってきた義母が助けに入る。しかし日向は祖母に対しても、目をつり上げて大声を飛ばした。
「お母さんがずるいだもん!」
「でも、しょうがないでしょ?」
「やだやだ!」
日向は誰にも自慢できるほど、手のかからない子だった。それがほとんど生まれて初めて、親に反抗心をあらわにしている。
これが、成長するということなのだろうか。将棋が、それをもたらした――。
高遠はしゃがんで、息子と同じ目線になった。そっと両肩に手を置く。
「わかったわ。お母さんも一緒に寝るから。それならずるくないでしょ?」
「本当に? 僕が寝たあとで起きたりしない?」
「大丈夫よ。お母さんも疲れてるから、朝まで起きないわ」
「絶対?」
「うん、絶対」
「……それならいい。お母さんの部屋で寝る。お母さんが寝るまで見張ってる」
「うん、見張ってていいわ」
「じゃあもう、パソコン見ないで。一緒にお風呂入って、一緒に寝るの」
まだ心から納得したような顔ではなかったが、日向は浴室に向かった。胸の奥がキリキリと痛んだ。その一方で、形容しがたい解放感も舞い込んできた。
「あんなこと言ってたのに、よく決断したわね? ま、ああ言わなきゃ、ずっとわめいていたでしょうけど」
「……ええ。それに私だけ見ていて、行成さんが負けたら、私の口から言わなきゃいけないでしょう? そんなの辛すぎますから」
決断できた一番の理由が、これだった。日向が癇癪を起こしそうになったのは、実は渡りに船だったのだ。
父親は負けたと告げる。そんな機会はこれからたくさん訪れるだろう。しかし今はその責務から離れていたかった。
「行成が負けると思うの?」
「少し、悪い気がします」
夫を信じる妻ではなく、直感に長けたプロの目で高遠は言った。
これから深夜にかけて、壮絶な相入玉模様になるだろう。だが、山寺はしのぎきれないのではないか。嫌な予感がしたときは、たいてい的中してしまう……。
「ねえ、こんなこと言うのは悪いんだけど」
「はい」
「私だって最後まで信じていたいけど、行成は……名人なんて器じゃないと思うのよね」
誰よりも長く山寺を見てきた人の言葉。どんなに観察眼に優れたプロよりも、急所を突いているように思われた。
高遠はぼんやりした頭で日向と一緒に入浴し、床につくやすぐさま眠りに落ちた。そして夢を見た。山寺からプロポーズされたときの、ひどく明晰な光景だった。
「僕と一緒に、将棋界を盛り上げませんか」
……その目標は、もう達成できた。彼はトッププロとして、ファンを楽しませてきた。自分も陰になり日向になり支えてきた。
たとえ名人の座を掴めなくとも、私たちは充分に頑張ってきたではないか――。
「お母さん、お父さんが帰ってきた!」
体の揺れと、まぶしすぎる蛍光灯の光と、息子の元気のいい声で目を覚ました。
枕元の時計を見ると、まだ六時前。カーテンの外は、暗幕を広げたように暗い。
目尻は、うっすらと濡れていた。
「ほら、早く!」
乱れた髪の毛もそのままに、力強く玄関へと引っ張られる。
「起きてたのか」
息子とは正反対に、後ろめたそうな山寺の表情。
それだけで、理解できてしまった。彼はきっと、朝まで飲み歩く気にはならなかった。どんなに辛い現実でも、一刻も早く、自分の声で伝えなければと考えて――。
「お父さ――」
「ごめんな。負けた」
そう告げられた瞬間、小さな体は大きく震えた。波が押し寄せるように泣いた。山寺は無言で息子を抱き寄せた。日向はくたびれたスーツを引きちぎらんばかりに握りしめた。騒ぎを聞きつけ起床してきた義母は、沈痛な表情で無言を貫き通していた。
日向は真っ赤な目で、歯を食いしばって、敗北した父親を見上げた。
ああ、まるで、復讐に燃えるように。
「僕が……お父さんの代わりに、名人になる!」
高遠は両目を覆って、その場に膝を突いた。