音MAD小文集
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音MAD小文集

2014-12-27 18:30
     当初は各節を複数の記事に分け水増ししようと思ったが、独立の記事を立てる程内容があるとも思えないので一つの記事にまとめることにした。興味のない節は適当に読み飛ばしていただければありがたい。

    音程合わせにおける動画

     所謂ワンショット系の音素材のピッチを弄ってメロディに合わせる系の動画について。
     こういった動画の演出の方向性は、扱う素材のジャンル数の多寡、素材における音声と映像との結びつきの強さ、この2つに大きく左右されるように思われる。
     例えば、扱う素材のジャンルが1つないし少数であれば演出のために方向を統一するのは容易であるが、扱う素材が多岐に渡るとなるとそれらがある軸に基いて選択されたものでなければ特定の色に染めるというのは難しくどうしても中立的にならざるをえない。
     次に素材の結びつきについてだが、ワンショットの音声と映像との結びつきが弱いと、その音声が鳴ったと同時に映像を提示しなければその音に意味がある(つまり音声がある素材から拝借したものである)ということが視聴者側には認識できない。従って必ず素材の映像を提示する必要性がある(敢えて提示せずにしておいて、実はこの素材の音声でしたという演出はあるかもしれない)。一方、音と映像の結びつきが強い、つまり音声を聞くだけで何の素材のどのシーンかが容易に分かる、頭に映像が浮かぶ、場合においては、わざわざ映像として提示する必要性がなくなるので、裏の音として使う、その素材の映像が後に来ることを仄めかす、といったことや、同じ素材の別のところの映像を持ってきたりと表現に幅が出る。
     所謂私的オールスター(最近の方の用法)においては、扱う素材群が多岐にわたり、その多さゆえ個々の音声と映像の結びつきというのが弱くなってしまう。また素材間の凸凹をなくして聞き心地を良くするためによく加工されているが、このことは更に関連付けの弱さに拍車をかける。こういった枷の中で映像を作らないといけないので独自性を出すのは非常に難しいと思われる。最初は元の素材の雰囲気を残したままにして音と映像との結びつきをきちんと明示しておいてから、徐々に加工していって云々みたいなことをするとか、いっそのこと加工はやめ素材の鮮度を保って個性の押し売りみたいなことをやれば表現に幅が出るかもしれない。

    台詞合わせにおける動画

     音程合わせ主体の動画の場合、ただメロディに合わせて素材を反転させたりするだけでは単調となってしまうため、エフェクトを掛けたりカメラ等で動きを加えることによって視覚的変化を与えたりと飽きさせないような工夫が必要となる。そういった工夫の中から、音ゲーMADによくあるようなカッコイイ演出や、所謂謎3D(音MADにおける映像面での独自進化として面白いものだと思う)といったものも出てきたりしてなかなか面白い。
     一方台詞合わせ主体の場合、台詞に合わせて素材を並べるだけでも十分画になるし、下手にエフェクトなどを加えたりカメラを動かしたりするとかえって邪魔になったり動画のテンポ感が台詞のテンポ感とずれてしまったりしてちぐはぐになってしまう。従って没個性的になりやすい。そこで手軽に個性を出すために 「病弱戦法」といったものが提案されていたり、単に少し色調を変えるだけでも十分雰囲気が違って見えたりする。またアニメの素材の場合は口パクが単純なため、容易に別のシーンから映像を持ってくることが出来る。既視聴者にはそれ自体による違和感というのも与えることができるのでそのことを利用して何かするということも可能だ。実写素材の場合はどうしても口パクに違和感が出てしまうのでアニメに比べると幅というのは狭くなるがその違和感がが許容できるような動画であるならば特段問題は生じないし、逆にその違和感を面白さに繋げるということも可能かもしれない。

    合作の形態

     今現在公募系の合作においては、wikiに使用する楽曲(大抵メドレー)のパートを羅列しその各パートごとに参加者を募るといった形をとることが多い。各パートごとに完全に独立しているため並行的に作業を進めることができ効率も良い。ただそれによる弊害も当然あり、必然的に個々のパートで分離している感じが出たり、使用素材、ネタが被ってしまって飽きが来やすくなるといった可能性も生じる。時折「ただ長い曲を手分けして埋めているだけで合作の意味があるのか」といった批判が出るのも、全面的には認めないにしろある程度は首肯せざるをえないところはあるだろう。そこで工夫として分離感の低減のために繋ぎの部分を意識した動画作りにする、前後の人と繋ぎの部分を話し合うといったことがなされることがある。ただあくまで繋ぎの部分に留まるわけで部分的な分離感の緩和にしかならない。一方素材被りに関しては実際に作り始める前に事前調整がなされるといったことが多い。ただこの方法でもどうしても前半のネタを受けて後半で色々展開するといった相互作用的なものは期待しにくい。

     結局のところ上記のやり方が手間、効率の面からも楽なので採用されているわけで、手間をそこまで掛けずなおかつ面白くなりうるものを考える必要がある(手間が多大だとアイディアのみで終わって結局実行、完成には至らないため)。例えば、前から順に交代していって作っていくようなリレー合作方式だと、前の人のを見てから作るので当然それに反応したり考慮しながら作ることが出来るし、必然的に繋ぎの部分も意識しないといけない。並行的に作業できないため全体の稼働時間は長くなるが個々の作業時間はそこまで掛からないため、思ったより手間ではないだろうと踏んでいる(個人的な経験で頓挫した記憶があるのは置いておいて)。

     後、完全に上の話からはずれるが割とやってみたい合作があって、使用曲、使用素材は予め決めておき、動画担当と音声担当とに別れ制作する。各々は互いに連絡をとらず相手がこうやるだろうなと予測しながら好き勝手に作る。それで両者が完成した後に音声と動画を合わせて完成。それで「おっやはりここはこう来たな」とか感想を言い合いながらも結局「やっぱ失敗だったな」で終える。こんな感じのを期待してます。

    シリーズについて

     基本的に○○シリーズというものは、(語弊があるかもしれないが)音声、映像の演出の丸投げであって、ここはどういう方向性で行くかといったことを考える手間を省くことが出来、かつ、これで本当にいいのかといった疑問を「テンプレートだから」という文言によって黒く塗りつぶすことにより183となる可能性を減らすことが出来(いい意味で)思考停止で完成にまで到達することが出来る素晴らしい装置であると思う。この装置のおかげで、沢山の完成品が世に出回り活況となりブームとなるものを生み出し、また、テンプレートというものが存在することによって敢えてテンプレートからずらすといった手法も可能となる。

    テンプレートについて

     テンプレートというものは、ある事柄を制約し縛ることにほかならない。それらの制約というのは主に以下の3つに分類される。

    • タイトル的制約
      "on and on"の三音節ひらがなカタカナ漢字混じりタイトル、や対武器ボス戦の「危険な○○」等。
    • 音声的制約
      "on and on"のポリリズムや、"RED ZONE"のサビ部分。"グルメレース"だと「わずかな時間をみつけて~する○○さん」とそこからピッチ弄りになる構成等。
    • 動画的制約
      "on and on"だと切り抜きに枠をつけて動かす、"RED ZONE"だとサビで左右に映像を置いて各々メロディ、ハーモニー部に合わせて左右反転させる等々。

    ではどのようなものがテンプレートになりやすいか。

    • 特徴的な表現がある
      当然だが、特徴がないといけない。そもそも特徴がないとそこにテンプレート的なものを見出し得ない。

    • その表現の再現が容易である
      ある程度動画ソフトor音声ソフトを囓ってる人が再現方法をすぐ思いつくくらいじゃないとテンプレート化するまでには至らず、その動画固有の表現に留まってしまう。

    • その表現が素材と疎結合である
      つまり、その表現、演出が素材と密接に関連しているのではなく、その表現がその素材に対してのものである必然性が薄いということである。 例えば"on and on"の場合、「切り抜きに枠をつけて動かす」「3文字の言葉をメロディのポリリズムに合わせて言わせる」といったことは当然小衣である必要性はなく、他の素材でも容易に代替可能であり、だからこそ、テンプレートとして機能しうるわけである。

    言語の違いが音MADの作り方に与える影響

     「言語と音声リズム」にある通り、言語の持つリズムというものは"強勢拍リズム"と"音節拍リズム"との2つに大別され、英語は前者の"強勢拍リズム"に、日本語は後者の"音節拍リズム"(日本語の場合は厳密にはモーラ拍リズム)に分類される。文字通り"強勢拍リズム"の方は"強勢"がビートを作り出すため文章構造によって音節の長さ、ひいては単語の長さというものが伸び縮みする。一方"音節拍リズム"の方は音節がビートを刻むため、(勿論人、状況によって変化はするが)音節、単語の長さはほぼ一定となる。

     とりあえず音節的視点から考えてみる。日本語の場合は「わ/た/し/は」のようにモーラで刻んで勘定しながら拍に合わせていくといったことが容易である。一方英語で同様の作り方をしようとすれば当然音節の長さはころころ変わるので例えるならBPMが変わりまくる曲で台詞合わせをするようなものである。つまり英語の場合、日本語と同じように音節というものを基本単位とするのは扱いづらいということである。従って、英語を素材に(日本人英語の場合はどうなんだろう)台詞合わせのようなことを行う場合は、日本語と同じ感覚でやるのではなく強勢を意識して配置したほうが良いと思われる。

     文構造によって単語長さが変わることによって、例えば単語を色々なところから持ってきて組み合わせることによって新たな文を作って喋らせたいといった際に、単純に並べるだけではテンポ感が変動してどうしてもぎこちなさが生じてしまう。従って英語で人力ボカロのようなことをするのは難度が高いと思われる。

     以上のように言語によって作りやすい手法、作りにくい手法というのは異なると思われるのだが実際問題どうなっているのかというは私自身あまりYTPMVに詳しいわけではないのでYTPMVに造詣の深い方に考察していただくほうがよいだろう。

     こういった話はラップというものが日本においてどう受容されまた日本語の特性に合わせてどう進化していったのかということとも合わせて論じられうるものだとは思うが、何分その辺の知識が欠けおり、また自分自身が色々勉強するよりかは詳しい人が論じてくれる方が実りあるだろうということでそういった人達に任せたいと思う。

    音MAD、ひいては何かを作るということ

     何かを作るということは沢山の取捨選択をしていくという行為でもある。例えば音MADについて考えるならば、何の曲で作るか、何の素材で作るか等々のっけから選択の連続である。選択肢が数多ある状況だと何から手を付け始めいいかが分からず選択をするということ自体が困難となる。そこで、何か縛りをかけることによってフィルタリングをし選択肢を減らすといった操作が必要となる。つまり、探索範囲を減らすことによって逡巡を減らしてその範囲内での極大化を目指すというわけである。当然このフィルタリング操作は他の可能性を捨てることも意味するので、いい縛りというのを設定することが肝要となる。例えば単純に「好きな素材、曲で作る」も縛りであるが、「嫌いな素材、曲で作る」よりかはいい結果を期待出来るので比較的いい縛りといえるだろう(偏ってしまってワンパターンになってしまうという可能性もあるが)。そういう意味では上で書いたテンプレートの話も構成の部分をテンプレートによって縛ってしまってその部分の構成に関しては色々と模索するのを放棄して、そのテンプレートという枠組み内で上手く素材を弄り面白くさせるといった部分的な極大化を求めているとも言える。同様にシーン縛りの場合、当然他のシーンで作った方が面白くなる可能性はあるにしろそういったものは一旦放棄してシーン内の音声、動画を如何に弄って合わせれば面白くなるかといったことにのみ集中すれば良い。
     まとめると、広大な平野を無闇矢鱈に調べようとするよりかは、探索範囲を小さくしてその部分の中で探索するほうが、特に途方に暮れずに済むといった点で完成にまで至りやすいだろうということである。


    以上、拙文失礼。

    なおこの記事は、音MAD Advent Calendarの23日目に参加している。


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