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マタイ 25:1-30
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マタイ 25:1-30

2014-08-30 19:49
    「十人のおとめの」のたとえ
    用意ができているとはどういうことか、そのときまでどの様に生きるべきかを明らかにするたとえである。人はそれぞれ自分の霊的状態に責任があると教えている。

    婚礼の日、花婿は儀式として花嫁の家にいき、花嫁と花婿は大行列をと一緒に花婿の家に戻る。そこで祝宴がおこなわれ、多くの場合1週間続いた。

    10人の娘は花婿の付き添いとして行列に加わるため待っており、婚礼の祝宴に参加したいと思っていた。しかし花婿が予定された時間までに来なかったので、彼女たちのうち5人は、ともしびの油を切らしてしまった。彼女たちが追加の油を買ってきたときには既に遅く、祝宴に加わることができなかった。

    イエスが再臨するとき、私たちは用意ができていなければならない。霊的な備えはそのときになって買ったり借りたりすることはできない。私たちと神との関係は、自分自身のものでなければならないのである。

    「タラント」のたとえ
    神が預けてくださったものを適切に用いる必要を明らかにしている。主人(神)はしもべたちに、その能力に応じて財産を分けた。しもべたちは自分の能力を超えているという弁明はできない。責任を果たせないとしたらそれは、怠惰か、主人への憎しみよることになる。神は私たちに、能力に応じて、時間や賜物を与えてくださっており、神が再び来られるまでに、それらを懸命に投資することを求めておられるのだ。私たちには、神が与えてくださったものを充分に用いる責任があるのである。問題はどのくらい受けているかではなく、受けているものをどの様に充分に用いるかである。

    25:21 イエスは再臨される。これは、神に仕えるために自分の仕事をやめなければならないということではない。私たちがおこなうどんなことことにおいてもしっかりと神に仕えるために、時間、才能、財産を精一杯用いるべきであるということである。ある人にとっては職を替えることになるかもしれないが、多くの人にとっては、神への愛をもって日々の仕事をおこなうことを意味する。

    25:24-30 この最後の者は、自分のことしか頭になかった。彼は無理のない行動をとり、厳しい主人(神)から自分を守りたいと思ったが、自己中心的であると判断された。神が本当に私たちの主であるならば、私たちは喜んで従わなければならない。時間、能力、財産はそもそも私たちのものではないのだ。与えられているものを無視したり、浪費したり、濫用するなら、罰せられて当然なのである。




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