※執筆中 星新一評論 文学フリマorコミケに出展?(未定)
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※執筆中 星新一評論 文学フリマorコミケに出展?(未定)

2017-04-09 00:28
    星新一について

    1001篇のショートショート(超短編、掌編小説)を残した日本の作家である。


    (星 新一 ほし しんいち、本名:星 親一、1926年(大正15年)9月6日 - 1997年(平成9年)12月30日)日本の小説家、SF作家)


    世にも奇妙な物語という番組は、星新一なかりせばである。
    奇妙という言葉の語尾に奇天烈を付けて、ついでに摩訶不思議も和えれば星新一の世界に一歩近づく。
    おーい、でてこーいは英語の教科書にも記載された。
    イキガミというマンガのスジは、星新一作品ですでに描かれている。

    実際に、作品を読めばわかるが、三則によって作られている。
    その1 社会時事は扱わない
    その2 露骨な性描写は行わない
    その3 残虐的描写をしない

    特に、社会時事を扱わないということによって、ストーリーや題材を陳腐化させないという機能が付与される。
    一読していただければわかるが、貨幣についても、100万円といった表現は使わず、「大金」や「生活するには困らないほどの金」などの表現を用いている。固有名詞もほとんど登場しない。人物についても、「ある男・エヌ氏・エフ博士、、、」など、そのほとんどが個別具体性を捨象して描かれている。
    また、露骨な性描写や残虐描写を省くことによって、より作品がフラットに研磨されていく。
    そういった三則によって作品が作られることで、普遍性をもった作品として、現在そして未来に渡って語り継がれる物語になるという寸法である(この点、昨今の大衆小説やジャンル小説といった部類とは一線を画するだろう)。
    したがって、奇妙なストーリー、オチが強烈な物語などを扱うテレビ番組や映画、小説やマンガ、そういったものに接するつど、受け取り手はまんまとデジャヴに陥ることになるだろう。なにしろ、既にそういった作品は、星新一が「N」として一般化してしまっているのだから。

    また、そのストイシズムについては感嘆すべきものがある。この点、筒井康隆先生も述べている。本人のエッセイを参照すると、8時間も書斎に閉じこもりメモや文献を引っ掻き回し、部屋中をああでもないこうでもないと歩き回り、1つのアイデアを乾いた雑巾から一滴を捻りだすかのごとく苦心していたことが述壊されている。
    同じようなオチは扱わない(二番煎じは許さない)という作家としての矜持が

    作品を数編一読するだけではその魅力はわからない。
    例え話だが、人間の眼には一見すれば一次な直線である電線が、より近くで見るとそれは立体的であることがわかる。もっといえば、そこには蟻が這っているかもしれない。その蟻の内臓を分解すれば実に緻密に作られており、生理的作用がごくごく自然に行われていることがわかる。
    これは、量子物理学では、超ひも理論というらしい。物質をミクロ的に見ていくと原子、原子核、陽子と中性子から構成されており、もっとよく見ると中性子などは振動しているただのひもによって構成されていることがわかる。そしてそれらには、前述の電線の例のように、次元が重層的に存在しているのだという。
    一次直線が曲線になり、それを積分すると平面化し、回転させると立体化する。複素平面であれば、複素積分という別領域にも拡張する。逆順を辿って微分していくことで、一次直線(接線の傾き)に巻き戻る。
    つまり、単純そうに見えて、実はかなり複雑に入り組んでいる。そいういった伸縮性をも持ち合わせている作品群だといえよう。

    星新一の作品というのはそういった理系的な思考を文学的に置き換えたものなのだろう。

    ここで、上述の証左を一部解説していきたいと思う。
    決して作品をカテゴライズできない(パターン化できない)ことは承知の上で、おおよそその概要が伝われば幸いである。

    ①人権的問題(ヒューマニズム)
    小人(支配される)、幽霊(殺人が成立しない)、ロボット(ロボット同士戦わせる→代理戦争という社会風刺をも踏まえている(②ー1に重なる部分があるだろう))、他の宇宙人の侵略の是非、、、

    ②-1社会批評
    マイ国家、宇宙での勤務(税務署批判)
    筒井康隆が農協批判なら、星新一は税務署批判である(これは、本人の経営者時代の苦悩もあるのだろう)

    ブラックユーモアというものがある。
    これは落語家の立川談志が得意としていたものであるが、
    もちろん、実際落語的な小噺も作品に存在する。

    ハナ研究所という作品は、→この点は④の人間性についての言及にも当てはまる

    ②ー2企業批判
    部屋全体に広告ラッピング、電話広告

    ③近未来への示唆
    もともと、星新一はSF作家である。
    三島由紀夫も所属していた空飛ぶ円盤研究会のメンバーである。
    セキストラは上記の社会批判や他の分野にも関連するが、これが星新一の初出の作品(江戸川乱歩編集の雑誌『宝石』に初めて掲載されたもの)。
    また、宇宙やロボットの話がでてくることが

    タイムスリップもの

    ④逆説的人間性
    精神患者が多く出現し、それが奇妙な物語の主人公であることが多い。
    その種類は、被害妄想、誇大妄想、強迫神経症に人格障害、、、まるでジキル博士とハイド氏が何者かに盗聴されているかもしれないという妄想を抱きながらショックを受け喋る言葉がエスペラント語になってしまったといった具合だ。



    (誇大妄想)


    (『DEATH NOTE』(デスノート)夜神月)


    程度の問題、多額の金額の誇大妄想、作品をあげれば枚挙にいとまがないが、

    古い作家を引用して無理やり文脈をつなげていくとすれば、
    芥川龍之介の『河童』という作品、

    帰郷という作品は、
    人間の想像でいえば、夏目漱石の『変な音』にどこか似ている。

    ⑤聖書の引用
    これは、聖書の逆順引用であり、テクニックとしてはかなり高度だ。おそらく誰もマネできないし、マネしようという発想すら湧かないだろう。
    聖書の創世記やノアやアダムとイヴなど、


    (ミケランジェロ作『アダムの創造』(1511年頃)余談だが、右側の神の描写が脳の断面(脳幹などの器官構成と同じ配置)になっていることが最近科学的に証明された。)


    ⑥ウィット、エスプリ、ユーモア、サゲ
    実際多くの作品は、最後のオチで決まることがほとんどだ。
    それは、本人が述べているように、フレドリック・ブラウンの
    宇宙人の性質(言語や文化、習俗)の違いを活かした作品、例えば口とケツが逆さまになっていることや、


    (ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット (René François Ghislain Magritte, 1898年11月21日 -1967年8月15日) ベルギーの画家)


    この辺で限界である。。。
    というよりも、やはり筆が進む前に、星新一の小説がどんどんと頭の中に湧き上がり、それを類型化しようと脳をスパコン並みに情報処理しても追い付かないどころかショートしてしまう。ホシ・ウィルスがポップアップ表示のように、脳内に連続的に出現しているかのようだ。もちろん、そのポップアップは、色も形もシステムも全て違うのだから手におえない。
    やはり、この辺で止めるのが賢明であろう。
    とどのつまり、解説なんて絶対に書けっこないのだ。実際に、読んでもらった方がいい。


    到底1001篇の作品群を語りつくすことは不可能である。「絶対という言葉は絶対に使ってはいかんのだ」というのは、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英先生の当時の指導教員の言葉だそうだが、否、殊星新一作品については、「絶対に」快刀乱麻を断つことができない。

    文庫の巻末には、ほとんどといっていいほど解説が記載されているが、名立たる文芸評論家たちが「敢えて」解説を加えていない。解説しようとしたら、仏教学者の権威、中村元先生の博士論文(リヤカーに載せて運ばなければならない)程に紙面が必要になるだろう。
    ただ、奥野健男先生の解説は別である。有名な定式「E=mc^2」というように、簡便的に作品群を評論している。紙面の制限があるなかで、これほど綺麗にまとまった文章は、美しい数式同様である。例えるなら、ピタゴラス的、アルキメデス的、いやガロア的、いやいやパスカル、ニュートン、ライプニッツ、ベルヌーイ、、、さすがに言い過ぎた感があるが、奇しくも同先生は多摩美術大学の名誉教授を冠しておられた。ははーん、納得。といった具合で腑に落ちたわけである。

    単なる作品として読むだけでは単層的であるが、いくつもの作品群からその重層性・立体性・伸縮性を持っていることは疑いようがない。
    ただ、それを定式化する術はこの世の誰も持ち合わせていない。もちろん、それが読者にとって幸か不幸かはわからないが、すくなくとも、小は家庭なり大は宇宙なり、メロンライスにガムライス、人生は儚いが芸術は長いというわけである。

    最後に、この解説で、小説というモノクロ映像がすこしでもカラー映像として頭の中で再現できるようになっていただけたら幸いである。結局、高画質の大画面スクリーンで大勢で見るテレビや映画は、書斎にこもった孤独な読者の想像力には勝てないのだ。


    (黒田清輝画 『読書』(1890年頃))

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