※執筆中 宮崎駿評論 文学フリマorコミケに出展?(未定) 枚数がたりない?星論その他も合わせるべきか
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※執筆中 宮崎駿評論 文学フリマorコミケに出展?(未定) 枚数がたりない?星論その他も合わせるべきか

2017-04-16 17:40
    編年体的ではなく紀伝体的に論じていきたいと思う。
    注意・昨今の評論家批判も含む

    ・『もののけ姫』の論じ方

    ①民俗学からの評論
    神話的DNA型と合理的DNA型
    ヘビ

    ②家族法からの評論
    サマーウォーズとのアナロジー
    すべては明治31年にはじまった
    富井、梅、穂積
    論文『民法出デテ忠孝亡ブ』

    ・戦争のアンビバレンス(自己肯定と自己批判)
    特に顕著に表れている作品は『ハウルの動く城』である。
    ハウルに木村拓也を起用したのにも頷ける。
    『紅の豚』では、戦争プロパガンダを批判しあくまで「戦争ごっこ」として描いて見せ、
    『風立ちぬ』では、飛行機のプロペラ音を人間の声で再現するなど、まるで子どもが戦闘機のプラモデルを手に持って「ぶーん!ぶーん!」と言いながら野原を駆けまわる童心的情景を音響的に表現して見せた。
    つまり、彼は航空機という思想のない(①丁寧に書く、②あとにリンクさせる、③あるいは、ここで全て二律背反性におけるアウフヘーベンを論じるべきか)
    戦争は嫌いだが、戦闘機は好きであるという二律背反性を作品として見事に昇華している。
    そこが実に小児的であるのだ。
    だから見ていて面白いのである。

    社会学者の宮台真司氏は、風立ちぬを空が描かれていないだとか社会学的時代考証が間違っているだとか見当違いな評論をしている。社会を評論するのは上手いが、作品を評論するのは下手なようだ。
    おおよそ学者が論評すると、自身の研究分野という土俵に作品を無理やり乗せて横綱相撲をとり自己満足してしまうきらいがある。あまりにも評論の体をなしていないレビューが昨今数多く散見されるのは非常に嘆かわしいことである。
    もっといえば、文芸編集者自身もよくわからずに賞を受賞させてしまうことがある。
    筆力に圧倒された、センスが光った、などといった逃げの文章を書くようになってしまってはおしまいである。
    ドキュメンタリー映画を見て、感動した!最高だった!と言っているようなもので、それは小学生の読書感想文と変わりない。
    このミス大賞という賞の審査委員のレビューを読んだ時には、心底驚愕した。
    大森望氏ほどの人物であればよく理解しているのかと思いきや、その場の審査委員のほとんどが作品のメタファーや社会風刺を意図したものであることなどを汲み・論じていなかったのである。(①大森氏の名前はさすがに出さずに、具体的な受賞作のみ提示、②太宰治やら他のエピソードを引用して逃げるか、③としても辛辣すぎるか、謙虚に書くべきか、)
    文芸評論の質が低下したのはここ最近のことであろうか、、、
    東浩紀氏がゼロアカ道場という文芸評論家を育てるプロジェクトを行った際にも、根底にはそのような危惧感があったからに他ならないであろう。


    ・『となりのトトロ』
    都会と田舎の対比では完結しない
    他方、それに影響を受けた『おおかみこどもの雨と雪』の舞台装置は単に都会と田舎の対比に終始してしまっている。無論、これは思春期におけるアイデンティティー形成という主題が繊細かつ大胆に描かれているため、かなり評価できることは間違いない。
    アイデンティティー形成における逆転現象→
    また、中間人という論点もそこにメルトされている。

    『おおかみこどもの雨と雪』は明らかに本作の影響を受けているため、同時に観ることをお勧めする。


    ・岡本太郎は名前不要論者だ。←切る
    『千と千尋の神隠し』は、ある種の認知行動療法によって忘れ去っていた名前を取り戻すというストーリーになっている。


    『風の谷のナウシカ』が初出だが、

    彼が大学時代に左翼活動に傾倒していたことが根本的な原因とまでは言わないが、当時の高畑勲と共闘していた頃のノスタルシズムを心の奥底で眠らせているのは間違いない。
    描く作品は、常にファンタジーであって、思想信条も高畑とは異なるのだが、ある種の人間性批判という点においてはやはりそういった左翼的ノスタルシズムを感じざるを得ない。
    したがって、現代の左翼活動家たちと同列に論じられることがあるが、無論主張もうわべだけみれば同様に見えるが、芯の部分でいえば、全くもって政治的な主張ではないことがわかる。
    この点、大江健三郎とて同じことである。
    ゲーテ、
    ハイネ、
    シラー、

    この点、故伊藤正巳先生の『』でも言及がある。

    つまり、作用反作用の法則的に、社会学が進化するほど、人文学がそれに抵抗するという自然法則が働いてしまっているのである。
    人間的な政治活動としての左翼とは異なり、彼は自然的な社会批判として言論を展開しているだけなのである。
    それは、上述したとおり、家族制度に対する疑義、戦争批判、自然というものに対する人間の合理主義・画一主義への批判につながるわけである。

    したがって、既存のメディア的宮崎駿像をスクラップアンドビルドすべきである。
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