【考察・解説】安部公房の『箱男』と『砂の女』、半径2.5mと直径1/8mmについて。
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【考察・解説】安部公房の『箱男』と『砂の女』、半径2.5mと直径1/8mmについて。

2017-08-15 20:35


    安部 公房(あべ こうぼう、1924年 (大正13年) 3月7日 - 1993年 (平成5年) 1月22日) は、日本小説家劇作家演出家。本名は公房 (きみふさ)




    (内容紹介:ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものは? 贋箱男との錯綜した関係、看護婦との絶望的な愛。輝かしいイメージの連鎖と目まぐるしく転換する場面(シーン)。読者を幻惑する幾つものトリックを仕掛けながら記述されてゆく、実験的精神溢れる書下ろし長編。)

    【箱男とは何であって、何だったのか】

    箱男という作品は不思議な作品だ。

    少なくともこれを小説と呼ぶ批評家は少ないのではないだろうか。
    小説というより「作品」といったほうが適しているからだ。
    小説にしては、前衛的で、技巧的で、遺伝子配列を弄ってどんな生理現象が起きるのかを実験したようなものに近い。
    ミステリーでいえば叙述トリックや倒叙ミステリーなど様々な試みがなされたが、それを遥かに凌駕した作家や読者をも巻き込んだ壮大な実験だ。
    箱男は、そういった意味で、小説の掟みたいなものを打ち破った。道場破りが現れて、既存文壇の看板を奪い去って行ったのだ。
    小説というのは、作家から切り離され独立した「主人公」というものが存在する。そして、フィクションの中でストーリーが展開され、その主人公は冒険活劇に恋愛ドラマと東西南北に奔走する。読者はこの額縁の肖像に自己を重ねる。そして、読者は、虚構から本質をつかみ取ることに成功する。ところが、その物語の「主人公」は、作家でも読者でもない、ポンとこの世に生み出されるが実存しない存在である(あるのは只の紙とインクである)。ここに安部の実存主義的立場から疑問が生まれることになった。
    そして、安部は、小説という額縁の中でしか生きられない「主人公」を、作家と読者との間の蝶番として利用することにした。そこでは、
    読者は作家と直接対話することとなる。

    認識と被認識、ぼくときみ、本物と贋物、そういった表裏一体性の連続が断片的に切り取られて、部品的にそれを組み立てていくことを読者は強制されていく(ジグソーパズルではなくレゴブロックのようなものに近い)。
    安部と読者が共同作業で作品を作り上げていくのだ。
    できあがった作品は、小説という額縁から飛び出し、読者の書斎を侵食する。そして、自分の書斎空間をもが箱であることに気づく。
    箱男という存在は、安部公房自身であり読者である。
    この作品を読み終えたとき、これは究極の私小説であると感じるであろう。安部公房のオナニーを強制的に見せつけられるから苦痛だという読者もいるかもしれないが本質はそうではない。
    安部自身が箱をかぶり箱男となる。そして、読者たちが批評という形でその箱男に向かって空気銃を打ち、けれども読者はそんな箱男に感化され、自身でも小説を書いてみたくなる(作品をつくってみたくなる)。そして読者も箱をかぶり、箱男となる。
    つまり、箱男とは、箱男(作家)以外の者であって、いつでも箱をかぶったり脱いだりすることのできる読者そのものをさすのだ。そういった意味で、じつは読者のオナニーを読者自身が(作家になることで)認識し、被認識の対象であることを同時に知ることになる。

    ここで起きているのは認識の転換である。
    (引用)「すっかりなじんで、無害なものになり切っていたはずの、壁のしみ、……乱雑に積み上げた古雑誌……アンテナの先が曲がった小型テレビ……その上の吸い殻があふれかけているコンビーフの空罐……そうしてすべてが、おもいもかけず棘だらけで、自分に無意識の緊張を強いていたことにあらためて気付かせられたのだ。」や作中にちりばめられた浮浪者の新聞記事や風景を切り取ったの写真。箱男は、そういったものに自然と視線が行くようになる(例えば、女子高生のパンツだ。下着屋で陳列されているパンツがスカートの中に隠された時点で一般的な認識の対象から外れ特殊性を帯びる。ただ、女子高生のパンツは性的興奮の対象であるということは一般的な認識となってしまっている。メタ的にはどこまで行っても陳列されたパンツの直線上にしかない。エックス軸とワイ軸の転換のことをさすとするのであれば、認識しているぼくが贋物であるとしてしまうか、ぼくがきみにみられているという被認識にしてしまうかのどちらかであろう。)。

    これらは、法学の分野でいう不特定物の特定という議論にもいささか共通点があろう。
    不特定物は、特定されるまでは不特定物であり、契約の対象にはなりうるけれども所有権は移転しない。不特定物は、特定されることで特定物となり、所有権の移転や債務免除がおこる。
    「ここにビール瓶がある。」
    「ここに1本のビール瓶がある。」
    「ここに1本のビール瓶があり、ここに1本のビール瓶があることをお知らせします。」
    この三つの文のうち一番下のみが特定物となる。上二つは不特定物である。
    外形上は全く同じ<ビール瓶>なのだが、法的意味合いは全く異なるのである。
    つまり、ビール瓶は、<ビール瓶>であり、<ビール瓶>でないという存在でしかなく、結局は作家と読者との対話(ここでは、1本のビール瓶があることをお知らせしますという通知)によってようやく意味が転換するのである。
    読者は、認識と被認識とのはざまを行き来することで、ああ、そうか、じつはぼくも箱男だったのかと気づくことになる。箱とは、ダンボールではなく、自分以外のすべてである。


    まとめると、実存主義の立場から書かれたアナグラムであり、読者がそのアナグラムを完成させることが必要となる作品である(……この文の意味自体、箱の外側の認識にすぎないということを付け加えておく。箱をかぶらなければならないということである)。



    (内容紹介:砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める村の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のうちに、人間存在の極限の姿を追求した長編。20数ヶ国語に翻訳されている。読売文学賞受賞作。


    【時間とoccupation

    『砂の女』は、芥川賞を10回あげてもあげたりないほどの作品であり、文学の最高傑作であることは間違いない。
    箱男とは異なり、小説の体はなしている。そして、非常に読みやすい。
    そのため、ほとんど評論する余地はないといっても過言ではない。読めばわかるからである。
    ただ、付け加えるとするならば下記の点についてであろうか。

    砂の穴という「絶望」たる舞台装置において、「希望」という名の鴉捕獲装置を用いることで、この小説の本質がある種運命論的に導かれる。
    自由は不自由によってもたらされる。などという単純な話ではない。
    自由は希望と絶望の往復切符によってもたらされるのだ。アリストテレスのいう習慣化の本質がそこにはある。

    そして、本作の主人公が昆虫採集をするという設定が実は重要である。
    というのも、昆虫は時間の比喩である。
    主人公は、砂漠のように広がる茫漠たる果てしない時間の中で、ニワハンミョウという新種のハエを捕まえそこに自分の名前を付けようとした(結果、捕まえられなかったが)。つまり、昆虫を捕まえた結果としての自由を認識しようとした。そして、最後は虫に名前をつける意義を自問自答し、習慣化された時間のただなかで、実際に結果ではなく行為自体の自由を認識するのである。
    大人になるにつれて虫が嫌いになる傾向があるが、それは、時間を追いかける側ではなく逆に追いかけられる側に回ってしまい恐怖観念が芽生えるからであろう。

    間違いなく、彼はノーベル文学賞に限りなく近い日本人であったと評価したい。

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