バンクシーとアートと技術と学問と自分のP名と その4
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バンクシーとアートと技術と学問と自分のP名と その4

2020-10-19 22:14
    アートについては今回で一区切りかな。まだバンクシーについてが残ってるけど。
    とりあえず前回までまとめ。
    アートとはコンテクストのことである
    コンテクストとは積み重ねられた知見である
    ざっくりとこう。

    真理を求める積み重ねであるという点でアートは学問や科学と似たものです。
    ところで、ところが、これは現実として誰もが理解できるものではない。
    少なくとも誰もが理解しているものではない。

    アートは誰にでもわかる、伝わるものというのは間違いです。ついでに音楽もね。
    ただし、アートは誰にでも楽しめるものではあるかもしれない。
    誰にとっても楽しめるアート作品というものはありうるかもしれないが、でもそれはアートをわかるということとは別のことです。

    PCと同じです。
    ほとんどの人はPCの原理なんて理解していないでしょう。私もです。
    ですが、PCを使うことはできるし楽しむこともできます。
    かといっていくらPCを楽しんでいたってそれはPCを理解したこととは違います。

    アートは現実として誰もがわかるものではない、限られた人だけが理解してるものでしょう。現実として。
    これは学問も同じです。
    そして私はアートも学問も理解している側ではない。
    そういう点から、私の基本的立ち位置は大げさにいうと反アート。非アート志向です。




    ロコは好きよ。
    ロコといえばアートですがワタシ的にはロコといえばロボコンでもある。

    さて。
    そもそもそれ以前に、一般的なアートのイメージ、アートは感性で楽しむものという点からして私はアートを楽しめないんですけどね。
    多くの人がアート作品から感動したり感性を刺激されたりなにかを感じている。
    ように思えますが、私はそのようなことがほとんどないのですね。
    名作と呼ばれる作品を見ても特になにも感じない。

    感じませんが、その価値は認めています。そこにあるはず積み重ねに。
    人類が積み重ねてきた結晶であるそれに価値があると認める、あるいはそう信じます。
    残念ながら私はそれを理解できることが少ないですが。

    これは学問についても同じです。
    学者の言うことの多くは私には理解できない、難しいものです。が、彼らの発言は人類が積み重ねてきたものの上にある。そこに価値があるし、またなにかしら真理に近づくものはあるだろうと信じます。
    まあ全てではないんですけど基本的に。

    またやや脱線ですが、歴史を軽視する学者・知識人?がたまにいますね。
    歴史とは積み重ねです。歴史を見下す人というのは積み重ねを軽視する人とおおむね見做せるでしょう。そういう学者・知識人は、たとえ部分的には正しいことを言っていたとしてもトータルで間違えるでしょう。
    そんな人が昨年もいましたね。

    そういうわけでアートや学問に私はその価値を認めますし、あるいは信じると言ってもいいのですが、しかし私自身はアートや学問なんて理解していない。
    アートの素養のない人間であって、また積極的に求めてもいない。
    求めるのは、アートや学問のような訓練(勉強)を重ねた人にだけわかるものではないんですね。じゃあ何を求めるかというと、これはちょっと保留。
    誰にでもわかるもの、というのもまたちょっと違うしねー。

    そういうわけで自分は非アートな人間だしまたそれを好みます。やや強調して私は反アートと言ったりします。

    かつてニコマスでは動画製作者はP名を自ら名乗るのが一般的でした。
    私も特になんの疑問もなくその風潮にそのまま従いました。さてどんなP名にしようか。

    絵画や映像はアートの1ジャンルです。が、絵画や映像のすべてがアートであるわけではありません。
    私は動画を作りましたがそれはアートではないしアートを志向してもいない。どちらかというとアートになることには反対ですらある。
    それは現実としてアートが限られた人間にしかわからないものであるから。
    極端な言い方となるけども、アートはわかる人にだけわかるもので多くの人間=大衆のためのものではない。

    ※大衆のためのアートという考え方や試みあるいはコンテクスト化されたものもあると思います。そしてそれも否定しないけども、でもそれはやっぱり現実ではないとも思う。

    自分の作るだろう動画は自分を含めたアートをわからない(だろう)多くの人側に立つ動画だ。というわけで、アートに対峙する言葉としてpopularを選びました。
    popularの語源はpopulusであって民衆の意味で、peopleなど多くの言葉と共通します。

    というのは今考えた調べたことで嘘です。
    反アート、非アートを意識したものであるのは嘘じゃないけど。自分がやりたいものまたやれるものはアートじゃないし、アートの反対になるのはなんだろう音楽ならポップス(ポピュラーミュージック)かな、じゃあポップスのPOPでぽPで。
    って5分くらいで決めて、語源とか大衆とかは今思いつきました。
    ポップスの歌手や演奏者などもアーティストと呼ばれることはまったく頭になかったよ。

    まああれっすよ。
    私のアートに対するなんだかんだには昔のニコマスPならみなそれがモチベーションの元になっていたと言われるルサンチマンが見られますね。
    そういうことです。

    で。
    最近エリート知識人と一般人大衆との対立が目立つような空気を感じます。
    日本だけではなく世界的に。世界は大げさか。先進国全般に。
    これはアートと大衆との関係にも通じるものはあると思うんですね。

    知識人や芸術家と大衆はある意味対立して当たり前、自然なんです。と思います。
    なのでそれはいいんですけど、そしてその上で自分は基本的に大衆側に立ちたいと思ってるんですけど。
    反アートなのもそういうことでもあるんですけど。

    でもねー。
    なんかしばしば逆に知識人やアート側に立つというか、そっちを擁護するようなことをしばしば言う羽目になってるのよね。どこで?どこでだ。

    いや言う必要も別にないんだけど、そうなってるのよね。
    なんかモヤる。

    最近急速にエリート知識人がある意味で非常に弱くなり、大衆が強くなってるように感じます。そして、それは結果としてかなりの間違い、大きな失敗に至るように思う。
    いやだからといってたとえば参政権に資格を設けろみたいなエリート主義にも大反対というか、反対以前の論外って認識なんですけどね。
    私は紛れもなく大衆の中の一粒でしかないし、大衆側に立ってエリートやゲージツ家に向かってバーカバーカと糞味噌に言いたい。なにかを叩くなら彼らを叩いてすっとしたい。のだけど。
    なんか最近そうはなりにくいのよね。大衆側を否定したくなることがしばしばある。
    モヤる。

    ってあたりをアートの話から引っ張ってしたかったのだけど、今もどうも全然まとまってないのでやめます。ここでアートの話はたぶん終わり。
    連投もひとまずここで一段落して、次回はやっとバンクシーについて。


    しかっしこんなことに労力使ってる場合じゃないのだけど。
    こいついつもそんなこと言ってるな橘ありすSOSのときとか。

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