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ようやく「君の名は。」観ました。
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ようやく「君の名は。」観ました。

2017-03-12 00:50

    いやー、これ、めちゃめちゃおもしろいですね!

    ていうか事前に聞いてた話と全然違うんですけどwwww

    普通の青春系恋愛映画だと思ったらなにこれガチじゃないですか!wwww


    ということでちょっと「君の名は。」について書いてみますね。


    まず、この映画は大きく分けて2つの側面から見ることが出来ると思います。

    普遍的要素とSF/ファンタジー的要素です。

    大きく2つにわけてはみましたが、これらを構成しているファクターは多岐に及び、内包するテーマの多さに対して「結び」というお題目を使って物語の整合性、物量を感じさせないスピード感は見事の一言でした。

    では、それらのファクターをもう少し具体的に見ていきます。


    まず、この映画を特異足らしめているSF/ファンタジーサイドから。

    冒頭から出てくる「ティアマト彗星」には思わず笑ってしまいました。

    ファンタジー系のゲームや小説にはおなじみの、竜の姿で出て来ることが多いあのティアマトですよw

    色んな説があるようですが、ゲームや小説に出てくる時は十中八九悪役です。

    なんでこんな名前にしたのか、とまず思うわけですよ。

    そしたら、彗星が2つに割れるわけでしょう?

    ティアマトは、退治されたあと2つに割れて天と地になるんですが、そのまんまじゃないですかw

    にやにやが止まりませんでしたね。

    それから、主人公の片割れ三葉は神社の巫女です。

    そう、こちらは日本の神話の世界のお話ですね。

    お神酒をご神体に奉納する神事なんかは有名ですが、そこに加わる「結び」の概念。

    これには舌を巻きました。

    結び、という言葉で色んなものが内包されている今作ですが、その考え方の拠り所は日本の古来からの観念が下敷きになっているようなんです。

    まずは、時間の概念。

    現代では時間が定量的に進むという観念が感覚的に普通のことではありますが、古来の人はもちろんそうではなく、ひとまとまりであったり、前後の感覚が曖昧であったりしたわけです。

    その感覚については、現代人の我々にも実はそう遠いものではなく、例えばハイデカーの「存在と時間」で言及されているような、時間的なまとまりを包括的に感じることは普通にあります。

    例を挙げると、「楽しかった思い出」。

    それは時間的断片でなく、一つの塊として感じられる何かがあると思います。

    そいういった感覚の積み重なりが、時間なんですね。

    瀧くんと三葉の二つの時間が結びあって繋がったわけですが、そこには3年のズレがあり、その接点のズレが未曾有の大災害から人々を救ったのですね。

    時間と空間が曖昧になる黄昏時に、二人は出会います。

    二人が出会う事が出来たのは、「結び」があったからです。

    この結びを象徴するモノが、組紐。

    糸の寄り集まりを時間や人の縁に見立てているわけですが、時間を糸に見立てるのはどちらかというとSF的。

    なぜなら、糸を編むと捩れたり、向きや方向が変わるからなんですが、ここで日本古来の感覚的時間の概念とリンクするわけですよ。

    三葉の生活環境では、執拗に伝統や古くささが描写されており、それは自然の風景や神社での神事、組紐を編む時の言い伝え(口伝)、果ては住居や神社に設置された機械類までもが全て古さや観測点からの時間的距離を表していました。

    対して、瀧くんの生活環境はこれでもかと言う程に最先端。

    タブレットでテレビを観る父なんかはその象徴ですが、都会的なビル群や商業施設、登場するデバイス全てが最先端で、これでもかと現代科学の恩恵が描かれている。

    最先端と伝統の体現であったからこそ、リンクした、それがしっかりと描かれているわけです。

    おそらく瀧くんが中途半端な地方都市に住んでいたらリンクしないんですよ。

    感心するのはこの必要な描写の中に同時進行で違う要素も入れ込んでくる所です。

    すげーな、とついつい漏らしてしまいました。

    それが、結びが表す要素の2つ目、人やモノの縁。

    RADWINPSの主題歌、「前前前世」は大ヒットしましたが、この曲を意識するとこの三葉と瀧くんの縁は何代も前からずっと繋がっていた、ということになります。

    劇中でもおばあちゃんと三葉に入った瀧くんの会話でそれが表されています。

    恐らく、日本古来の感覚からいくと前世というよりは代々続く縁、という方が正しいと思います。

    この縁は色んな形で表現されており、組紐はもちろん、それを切る鋏も象徴的に使われていますね。三葉の髪を切った鋏、瀧くんが見た三葉の出生時の臍の緒を断ち切る鋏。

    その他に開閉するドアのモチーフも縁の繋がりを表しているようで(まぁ閉まるのは一度だけで、つまりは縁が途切れたのは一度だけなんですが)、この辺のセンスも良いなと思いました。

    途切れた縁を繋ぐ口噛み酒なんかも選びのセンスが独特ですよね。

    ご神体は恐らくあの湖を作った隕石の破片なんだろうと思いますし、それを祀る神事があって、っていうSFとファンタジーが自然に同居しているこの部分も素晴らしい。

    とにかくSF/ファンタジー的要素テンコ盛りで、アニメ大好き〜レベルのファッションオタクでは手に負えないですよ、ほんとに。

    敬遠されているガチオタの方はぜひ一度観てみることをオススメします。



    では、普通の映画としての良さ、普遍的要素について書いていきたいと思います。

    僕は青春映画に絶対外せない要素として、人間的成長があると思うんですね。

    子供から大人への移り変わりの中で、不安定だった自分という要素が確固たる存在へと成る、それが青春という時期だと思うからです。

    それをどう表現するかに監督や演出の手腕が問われるわけです。

    この物語の中で面白いのは、瀧くんは男になり、三葉は失った母と父を乗り越えて大人になる、という部分。

    瀧くんサイドは、バイト先の大人のお姉さんと、普通に高校生している友人が対比として描かれ、三葉サイドでは母を亡くしたことから大事なものを見失った父と、それを否定しようとする三葉が描かれています。

    瀧くんは恋というファクターを経て、自我、アイデンティティーを確立していきます。

    序盤から何度も描写されてきた「奥手な」瀧くんは、途切れてしまった三葉との縁を求めて、ついには自分の足で三葉の元へと踏み出す主体的なスタンスへと変化していきます。

    自分という自分の持つ財産を投じて何かを成すことが大人になるということであり、つまりは子を成し、縁を成すということでもあるわけです。

    瀧くんサイドでは、子供時代、というよりも思春期を「夢」というモチーフを使い巧みに描き、思春期の終わりが「夢」からの目覚めとして描かれます。

    夢というモチーフは曖昧な状態、境界線の曖昧な状態のモチーフであり、他者との合一は非常に哲学的なテーマです。

    三葉の出生時に切られる臍の緒は、おそらくフロイト心理学における母と子の自我の境界線が曖昧な状態からの脱却を意味していると思いますし、瀧くんサイドで描かれることは一環して精神的自律、男になる、ということだと思います。

    三葉は古来より続く伝統と、母の死の責任を感じ神社の神官という職を捨て、町長となった父という即物的存在との狭間で居心地の悪さを感じています。

    つまり、どちらも三葉にとってリアリティーがない状態なのですね。

    おそらく、自分という存在もどこかリアリティーがない。

    同年代からの揶揄や、同級生の人生観との対比でそれがより浮き彫りになっていくわけです。

    しかし三葉も恋というファクターを通じて自分と、伝統の象徴である祖母、失った母、即物的な父との繋がりを飲み込めるようになります。

    そうしたことで、三葉は自分を認識し、大人に成る。

    三葉の物語は、乗り越えるべき存在と自分という存在で描かれています。

    物語のクライマックスで、すきだ、と書かれた手を見た三葉は、自分が生きる理由を見つけます。

    名前、わかんないよ、と。

    その勢いのまま町役場に乗り込んだ三葉の、父への台詞は描かれていません。

    一体どういう言葉がそこにあるのでしょうか。

    描かれていない部分には、きっと観ている人それぞれの人生の言葉が入るのでしょうね。

    ほぼ同じシチュエーションで起こった瀧くん入りの三葉との会話で、父は娘ではない、と見抜くわけですが、親と子の繋がりの強さが描かれた良いシーンでした。

    帰路、瀧くんはおれじゃダメなのか、とこぼしますが、それがこのシーンへと繋がって来る。

    結果としてその言葉は間違いなく父へ届き、町の人々は救われます。

    この物語の構造は、一つの描写に複数の意味付けをすることで複合的な構造へと変貌していきます。

    三葉の行動には、災害から人を救うという側面と、父の罪の意識を救うという側面、そして自身を救うという側面が同時に描かれています。

    これをどこまで同時進行的に拾えるのか、でこの映画の評価はガラっと変わると思います。



    恋、家族、そして人の生き死という普遍的テーマに加えて、この映画が評価されるポイントがもう一つあると思います。

    それは、東日本大震災への負の感情です。

    物語のクライマックス、未曾有の大災害から三葉や街の人を救うべく、瀧くんは奔走します。
    三葉の友人の助けを借り、三葉自身が父との確執を乗り越え、遂には大災害から人々を救うことに成功します。

    我々はきっと2人に感情移入していて、隕石が落ちた時の描写、音や映像は、間違いなくあの災害を想起させたはずです。

    そして、救われた人々に、我々は無意識下にあった後悔のような感情を洗われたのではないでしょうか。

    時にフィクションや芸術は現実の厳しさから人を救います。

    監督やスタッフの面々にどれだけの意識があったかわかりませんが、我々は負の意識を刺激されたのは間違いないと思います。


    駆け足でここまで書いてきましたが、どうでしょうか。

    僕はこの映画、評価します。

    少なくとも、映像が綺麗なだけの語るべき内容の無いご都合主義の恋愛映画でないことは確かです。

    そういう評価しか目にしてなかったのですが、そういう論調の評論家は今後相手にしませんねw

    やっぱりアニメだから真面目に本腰入れて観てもらえないのかなぁ。

    凄い映画だと思いますよ。


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