• 【結月祭】月の兎と望月 -モチヅキ-【月兎の物語】

    2013-10-04 10:59


                     これは月兎の物語

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     月と人との縁の物語。

     これにて一つ結びとしましょう。



    *   *   *



     少女が朝起きるといつもより少しだけ賑やかな空気に包まれていた。
     まだぼぅっとする頭がゆっくりと起動していく中で耳が次第に音を拾い始める。遠くに聞きなれた少年の声を捉えてぼやけた視界が焦点を結んだ。
     慣れた手つきで布団をたたみ、今日ばかりは部屋の隅にまとめて片付ける。
     貸し与えられた寝巻きからいつもの薄紫色のワンピースと同系色のパーカーに着替え、昨夜少年から貰った髪飾りを頭に着ける。
     今夜は満月。残された時間はあと少しだけだ。
     そう改めて反芻すると立ち上がり、部屋を出る。
     一ヶ月過ごした部屋を後にする。
     胸には僅かばかりの寂しさが芽生えていた。



    *   *   *



     家の庭で用事をしていた沖成が中に戻ると台所にゆかりが一人立っていた。
     慣れた手つきで調理をこなし、朝食の準備をしていく後ろ姿をじっと見つめる。

    「あ、沖成さん。おはようございます。外はもういいんですか?」
    「うん。確認だけだったしね」
    「そうですか」

     こちらに気がついたゆかりが振り返り尋ねる。問いかけに何気なく答えると、彼女は再び朝食の調理へと戻った。
     沖成も洗面所に手を洗いに向かう。鏡に向かうと自分の顔が少しだけにやけている事に気がついた。
     さきほど彼女がこちらを振り返った際に、彼女が髪飾りをつけているのが見えたのだ。
     まさかここまで嬉しいことだとは思わなかった。しかし、あまりニヤニヤと薄気味悪い笑顔を浮かべて彼女に気味悪がられでもしたら少しばかり塞ぎがちになる自信がある。
     手に溜まった水を一度顔に被ってそれから一度落ち着きを取り戻す。
     顔を拭いて食卓に戻ると父親と母親も既に家の中に戻ってきていた。
     やがて用意が整い、手を合わせて挨拶を唱和する。

    「いただきます」

     この挨拶もあと二度。それを終えれば彼女とは別れることになる。
     そんなことを考えながら箸を手に取り朝食を味わった。



    *   *   *



     朝のうちはそれぞれに仕事をこなす。沖成とゆかりは母親に着いて畑に向かい農作業へと取り掛かった。
     畑には多数の野菜が並んで育っており、夏に旬を迎える野菜もまだいくつか残って実をつけていた。
     その畑の一角。盛られた土の畝のある場所に、三人は円匙(えんし)を持って立っていた。足元には鎌がひとつ転がっている。
     円匙とはいわゆるショベルのことで特に足をかける部分があるものをショベル、ないものをスコップという。どうでもいい余談ではあるが。
     緩やかになってきた日差しの下、沖成の母親が座り込んで円匙を畝へ突き立てる。

    「まずは藁をどけて、その次に少し外側を片方だけ掘る。できたら逆側から下に差し込んで、穴の方に倒す。転がすように倒したら綺麗に収穫できるから」

     説明にゆかりが頷き沖成も茎の切られたそれに近づいてしゃがみこんだ。

    「とりあえずさっき茎の切ったものは全部掘り出していいから」
    「わかった」

     そうして始まる、里芋の収穫。
     芋名月でもある月見にはこの畑で獲れた里芋も一緒に供えるのだ。野菜は総じて鮮度が命。神様に捧げるものなら新鮮な方がいいだろう。
     三人で黙々と行うと一時間もしないうちに作業は終了した。
     芋を持って帰りそのまま新聞紙に包んで常温で放置する。里芋は土の中という一年を通してほとんど温度の変わらない暖かい場所で採れるため冷えた場所に置くと痛んでしまうからだ。また土を落とすのも品質の劣化に繋がるため注意だ。
     作業を終えて手を洗っていると父親が薄などの秋の七草を担いで家へと戻ってきた。屈強な男が草花を肩に担ぐ絵というのは何ともちぐはぐで沖成は思わず笑いそうになった。
     そうして朝の内は準備をし、午後からは音姫の家も合流して団子作りに入る。
     うるち米ともち米を混ぜて作る米粉に水を加え耳たぶほどの固さになるまで捏ねたあと十五個に分けて成形する。
     月見団子は十五夜にちなんで一盛十五個だ。簡略化したものは五つ。一年の月の数に合わせる時は十二個、閏年は十三個。また、十三夜のお月見は十三個の月見団子を飾る。団子の大きさは一寸五分が縁起がいいとされている。
     団子が出来上がると沸騰したお湯で二、三分茹でて浮かんだところを冷水にさらす。最後に氷水から上げて団扇等であおげば表面がテカテカと反射するほど綺麗に仕上がる。あとはお好みで葛餡や餡子を塗って召し上がれというわけだ。
     団子を作り終わると一旦休憩だ。陽の傾いて段々と気温が低くなっていく中、沖成、ゆかり、音姫は縁側に座って惚けていた。
     視界に映る太陽が赤さを増し、山が茜色に染まる。蜻蛉が隣に置かれた薄に止まっても誰も反応はしなかった。
     静かな時間。三人で過ごせる時間は残り少ないのに、それでもこうしている時間は何か尊い……何物にも代え難い時間に感じた。
     やがて隣からぽつりと声が響く。そちらを見ればゆかりがいつもと変わらない紫色の瞳でこちらを見つめていた。

    「そういえば、どうして団子なんですか?」
    「……どういうこと?」
    「えっと……お月見は満月を見ることですよね。月にはお餅を搗くうさぎの模様があって、山の神様でもあるうさぎに豊穣のお願いをすると……」

     最初の頃と比べると難しい言葉も随分と慣れた様子で口にするゆかり。その調べはどこか歌にも似ている気がしてずっと聴いていたい衝動に駆られる。

    「ウサギが搗くのはお餅なのにどうして団子をお供えするんですか?」

     彼女が口にした疑問は確かに言葉にしてみれば妙な話だ。なぜ餅ではなく団子なのだろうか。
     気になった沖成は首を反対へ回す。そこに座る音姫に視線で問いかけると彼女は薄く笑った。

    「……わたしが何でも知ってると思ったら大間違いだよ。…………まぁ今回は私も知ってたけど」

     最初の言葉にどきりとしたがどうやら少しふざけただけらしかった。
     小さく笑いを漏らしたあと音姫が人差し指を立ててくるくると回しながら説明をはじめる。

    「色々あるんだよねぇ、芋名月だから団子と餡子で里芋に見立てたとか、月と同じように丸いもので想像したものが団子だったとか、元となった行事で月餅(げっぺい)って呼ばれるお菓子が奉られていてそれを模したとか。……けどわたしが一番信じてるのは……餅で作れなかったらただと思う」
    「作れなかった?」

     沖成がオウム返しをすると音姫は頷いて続ける。

    「えっとね、この話を沖成が知らないのはどうかと思うんだけど、今の時期にお米って収穫できると思う?」
    「どうなんだろ、早いところはもうそろそろ収穫が始まると思うけど……」
    「そういう農家目線じゃなくて、一般的に」
    「……まぁ普通はもう少しあとだよね」

     通常稲の収穫はもう一つ先の月で、今この月に米の甘みが増すからだ。

    「ゆかりには昨日話をしたんだけど、お月見って元々この国の行事じゃなかったり、今と時期がずれてたりしたんだよね。実際はもう一つ前の月の行事だったの。月にうさぎがいて地上の人たちが食に困らないように餅を搗いてる。そしてその感謝に餅を捧げて、同時に豊作を祈願しようとした人達はそこでふと困ったの。その頃の暦だと稲穂はまだ青いし、前の年に取った米も殆ど残ってない。だったらどうしよっかって」

     音姫の話に吸い込まれ、頭の中に鮮明な景色が浮かび上がる。

    「そこで昔の人は同じ白色をしていて、似通った団子をお供えしようと決めたの。それが後に継がれていって、暦が変わり時期がずれて里芋の獲れる季節と重なったから芋名月なんていう別名が後からついた……。それからどこかで団子に餡子を掛けて里芋に見立てたりするようになったんじゃないかなってわたしは思うの。そうして尾ひれがつく形で里芋の料理や月見に見立てたうどんや蕎麦が作られたんじゃないかな」

     気づけば居間にいた大人たちも音姫の言葉に聞き入っていた。
     過去の人たちの積み重ねたものが今にもこうして伝わっていることに少しだけ感銘を覚える。
     秋の夜長に昇る満月を眺める観月。毎年美味しいものを食べて風流に月を眺めるだけだった行事が、沖成の中で色を変える。
     今年のお月見はゆかりも一緒で、初めてなことばかりだ。
     けれど沖成はそのことが嬉しくもあり新鮮で、そしてまっすぐにお月見をできる気がした。


                    *   *   *


     太陽が山の向こうに落ちると月が東の山の向こう側からゆっくりと昇ってくる。
     それに合わせて夕食を用意し七人で談笑しながら食べた。献立は例年通り月見うどんと月見団子、衣(きぬ)かつぎで旬と月を同時に味わった。因みに衣かつぎとは里芋の端に一周切れ目を入れて蒸し、出来上がったものの中央を押して皮を剥いた、小さな松茸のような外観の食べ物だ。名前の由来は昔女性が着ていた衣装を準えたものだ。もちろんこれも観月の供え物として奉る。
     夕食を食べ終えると用意しておいた三方と呼ばれる神饌を載せる台に奉書紙を敷いて、その上に下から九つ、四つ、二つと三段にして団子を盛り、秋の七草を飾る。
     秋の七草は女郎花(おみなえし)、尾花(おばな)、桔梗(ききょう)、撫子(なでしこ)、藤袴(ふじばかま)、葛(くず)、萩(はぎ)の七種類で、尾花は薄のことを指す。
     団子の神饌の隣には衣かつぎも同様に奉る。
     と、そこで音姫の父親が持参した日本酒を飾るというので急遽徳利を用意して注ぎ、衣かつぎの反対側に飾った。
     日本酒の登場に興味をもったゆかりとの間に少しだけ騒動があったが、どうにか言い抑えてお月見を始めた。
     とは言っても特にこれといってすることはない。ただ風流に月を眺め、夜長を過ごすだけだ。
     大人たちはしばらくして用意したお酒で酌を始める。
     未成年である沖成と音姫は酒の匂いにあてられながら静かに月を眺めていた。

    「お願い……」

     ぽつりとゆかりが零す。その言葉に三人は同じ景色を思い浮かべ、その時願った希望を各々の胸に抱く。

    「叶うと、いいですね」
    「……ゆかりは、叶いそう?」
    「…………どうでしょうか」

     笑ってそう紡ぐゆかり。過ぎった寂しさを塗りつぶすように暖かい何かが胸を満たして笑顔を浮かべた。

    「叶うよ、きっと…………」

     音姫の言葉に静かに頷いて沖成は一人目を閉じる。鈴虫の鳴き声、薄の揺れる音。隣に座る二人の呼吸の音さえもその耳に刻み込む。
     いつまでもこうしていられたなら、それはどんなに幸せなことだろうか。それとも変わらないからこそ、不幸せなのだろうか。
     時間は平等で、無情で。だからこそ意味がある。意味のない時間などない。
     だとすれば、その時を精一杯に生きることこそが何より意味のあることに思えた。
     とじていた視界を開いて空を見上げる。


     漆黒の夜空にまあるい白銀の望月がよく映えていた。


                    *   *   *


     やがて大人たちが酒に酔いうつらうつらと船を漕ぎ出す。月が天頂に近づく頃には部屋の向こうから小さないびきが聞こえてきていた。
     時間が経てばその時もまた訪れる。
     前触れもなしに縁側から立ち上がったゆかりが、靴を履いて庭の中央に一人立ち尽くす。その背中を、二人は静かに見つめていた。

    「…………お別れです」

     まるで朝の挨拶をするように。まるで翌日の約束を交わして別れるように。どこまでも澄み渡った口調でゆかりは零す。

    「今まで、本当に沢山……沢山、たくさん…………。ありがとうございました」

     振り返り笑顔でそう言葉を紡ぐゆかりのその姿は月光に冴える花のようで儚くもとても美しかった。

    「村の皆さんには迷惑をいっぱいかけましたけど…………それも楽しかったです。沖成さんのご両親には特別のおもてなしも頂きました。私からもお礼は言いましたけど、よかったら沖成さんからも伝えておいてください」
    「うん」
    「音姫さんに色々なことを教えてもらえて嬉しかったです。おまつりに月のこと。それにまつわる沢山の習わし……。全部しっかりと覚えてます」
    「……忘れたら、許さないから」
    「はい」

     ゆかりの返事に音姫が口を固く引き結ぶ。そうするべきだと。湿っぽいのは似合わないと、頑なに堪える。

    「沖成さん」
    「ん……?」

     小さく首を傾げて先を促すと彼女は優しい笑顔を浮かべて口にする。

    「ありがとうございました」

     たった、それだけ。たった一言の感謝の言葉。けれどそれ以外の気持ちを重ねて心に響く。言葉の、気持ちの重み。

    「こっちこそ。ありがとう、ゆかり」

     笑顔で答えると、彼女は小さく頷いて一歩引いた。そうして儚く悲しい笑みを浮かべて綺麗にお辞儀する。


    「お世話になりました」


     そうして少し変わった風貌の不思議な少女は二人の前から姿を消した。


















































    「…………何してんの」

     声に顔を向けると音姫が燃えるような鋭い瞳でこちらを睨みつけていた。

    「……何、達観したようにここで座り込んでんの」
    「…………音姫……?」

    「ゆかりちゃんに言う事があるんでしょっ!」

    「っ────!!」

     肩がびくりと震える。
     豪雨のように、業火のように、轟雷のように、剛風のように。いつもは理知的な青色の瞳が沖成を糾弾し、責め立てている。

    「何で言ってあげないのっ、何で追いかけないのっ!」
    「……………………」
    「まさかこのまま返すわけじゃないんでしょうねっ。沖成は、あんたはそれで本当にいいのっ!?」

     捲し立てるように獅子のような剣幕で叫ぶ音姫。

    「────この唐変木!」

     ようやくそこで沖成は我に返り縁側に置いてあった草履に足をかける。

    「──ごめん、音姫っ」

     そうして、走り出す。
     言いたいことがたくさんある。言葉にしたい気持ちがたくさんある。それを押し殺して、別れて…………それで救わえるなんてこと、ありはしない!
     胸に湧き上がる衝動が足を前に向かわせる。息が切れようと、足が縺れようと、足元が見えず転ぼうと。幾度でも立ち上がり前へと進む。
     どの道を通ったのだろうか。もしかしたらもう村の外へ出たかもしれない。
     推論が頭を巡るが全て頭を振って切り捨てた。
     代わりに一つの感情が沖成を前へと突き動かす。



     ────最後だから、あの場所に



    *   *   *



     沖成がゆかりを追いかけて出て行ったあと。ひとり取り残された音姫はずっと彼の走っていった方を見つめていた。
     そんな音姫の頬に一筋の雫が伝う。

    「…………この、唐変木」

     呟きは、月へと吸い込まれ闇夜へと掻き消えた。



    *   *   *



     沖成が辿り着いたのは山の麓だった。それは沖成と彼女が初めて出会った場所。
     視界の先にはひとつの人影がこちらに背を向けて立っていた。
     紫色の長袖に同色の頭巾。頭の上からはうさぎのように長い耳が垂れ、妖艶で神秘的な雰囲気を纏う少女。

    「ゆかり…………」

     名を呼ばれた人影はゆっくりと振り返る。
     彼女は面を着けていた。それは祭りの屋台で買ったあの白うさぎのお面。

    「…………君に言わなきゃいけないことがある」
    「……………………」

     反応という反応を返さずに、彼女はただそこに佇み続ける。
     彼女のそんな姿に沖成は言葉を待たず勝手に先を紡いだ。


    「僕、君が好きなんだ」


     表情を変えないお面が静かに視線を注ぐ。

    「いつからかなんてわからない。何がなんてわからない。それでも君が好きなんだ」

     静寂を切り裂いて、沖成の告白が辺りに響き渡る。

    「行かないでなんて言わない。けど……その答えだけ、聞きたいんだ。聞かせて……くれないかな?」

     自然とこぼれた笑みにのせて問う。
     降りたのは沈黙だった。静寂だった。閑静だった。
     無機質な仮面の奥、微かに揺れる紫色の瞳が声にならない声を発する。

    「……君の声が聞きたい。君の、気持ちが聞きたい」

     心からの懇願に彼女は俯く。そうしてゆっくりとうさぎのお面に手を掛けた。
     かさりという布擦れの音が響き、次いで彼女が顔を上げる。

    「…………ダメだよ」

     その顔は、涙に濡れていた。
     珠のような雫が頬を伝い、おとがいを撫でて地面に落ちる。

    「お別れだって、言ったじゃないですか」

     浮かべる笑みはどこまでも綺麗で、心を焼き焦がしてしまいそうなほどに優しかった。

    「それなのに、約束を破って、追いかけてきて……。何でですかっ」

     それは初めて聞く彼女の叫び声。
     いつもは歌のように綺麗な旋律に雑音が混じり、涙に濡れた声が胸を締め付けられるほど苦しく響く。

    「何で、そんなことを聞くんですか…………どうして好きになったんですかっ」

     まるでそれは己を責め立てるように。自身の体を火中に投じるように。

    「私はニンゲンではないんですよっ。貴方は普通に暮らして普通に果てるはずの人間なんですよっ。なのにどうして、恋を知って、温もりを知って、それに縋ろうとするんですかっ!」

     止めどなく溢れる涙は彼女の顔を崩していく。必死に引き絞った瞳が剣で、槍で、弾で、沖成の心をぼろぼろになるまで引き裂く。

    「必死に押し殺したのにっ。気づかないふりをしていたのにっ。どうして私に──私に、どうしろって言うんですかっ!!」
    「教えてよ」

     彼女の肩が震える。激情と共に吐き出された言葉が沖成の体を貫く。
     いつの間にか彼女の周りには幾つもの火の玉が灯っていた。数は、みそぢ。


    秋の夜の 中秋もえる 月の下


     燃え盛って、燃え尽きる。音もなく現れた火の玉は彼女を照らし、焦がし、消えてゆく。

    「何をですかっ!」
    「ゆかりの気持ちを」
    「知りませんっ!」
    「どうして?」
    「わかりませんっ」

     激しい拒絶の言葉。感情。その波が言葉の波濤となって沖成を押し潰す。

    「貴方は、勝手です。勝手すぎます。私を幾つもの事柄に巻き込んで、振り回して。勝手に気持ちを伝えて、その答えを私に問うてっ。私は、貴方が、嫌いですっ!」

     言葉にした気持ちは彼女の心からの本心だ。被り続けてきた仮面をかなぐり捨て、心の奥そこの感情を子供のように辺り構わずぶつける。

    「──なのに……胸が苦しいんです。暖かいんです……。思い出が、記憶が……たったひと月のそばにいるだけの生活が、こんなにも愛おしいんですっ」

     心臓を掴むように服を掴み耐え忍ぶように俯く。

    「だって貴方は私の最初の友達で、家族で────好きになった人だからっ!」

     長く続いた独白は彼女のその言葉を最後にぷつりと途切れる。
     子供のように涙を拭うこともせずただ泣きじゃくる。

    「…………ゆかり。君に贈り物がしたい。これでさよならなんて嫌だから、絶対また会える約束の証を──誓いを立てたい」

     嗚咽のやまない彼女は答えない。それでもいいと沖成は納得してここに来る間ずっと考えていた言葉を──名前を口にする。



    「結月ゆかり」



     その名前に、彼女は不思議と顔を上げ、涙を拭って抑える。

    「君の人との縁は月の音によって結ばれる────その名前さえあれば、いつかどこかでまた出会えるから」

    「────────はいっ」

     泣き笑いのような表情を浮かべて答えるゆかり。彼女の笑みに、沖成も自分のそれを重ねる。

    「ゆかり、君を好きになれてよかったっ。君と一緒の時間が過ごせてよかった」
    「はいっ……!」
    「でもこれで終わりじゃないよ。いつか────いつかまた出会うんだ。その時は────」
    「はい……。私も、沖成さんを、好きになれて……嬉しかったですっ」

     彼女を取り巻いていた火の玉の最後の一つが、音も立てずふわりと消える。
     照らされていた辺りが一瞬にして闇に包まれ、光に慣れた目が闇の中に彼女の姿を見失う。



     そして次に闇夜に慣れた視界の中には、彼女の姿はそこにはなかった。



     *   *   *




    「…………な。ぉきな……。起きて、沖成」

     耳元で呼ぶ声に目を開けるとこちらを覗き込む音姫の姿が視界に映った。

    「……おはよう、音姫」
    「また昨日も遅くまで起きてたんでしょ」
    「……うん、まぁ」

     苦笑いで答えると彼女は呆れたように笑った。
     布団から起き上がり、身支度を整えて食卓へと向かう。
     あの日──結月ゆかりのいた年から八年が過ぎた。沖成は今村長の家に住んでいる。
     あの次の日、沖成は思い切って村長へと弟子入りを申し出たのだ。未来の村長としての器として自分を買ってくれないかと。村長は二つ返事で了承をするとうちに住み込みで働きなさいと条件を出したのだ。
     それ以降居候という形で村長の仕事を手伝いながら衣食住を共にした。途中からは音姫が身の回りの世話を引き受けると言って彼女も時々顔を覗かせている。
     そんな変わったといえば変わった……変わらないといえば変わらない八年を沖成は過ごしていた。
     その八年を跨ぎ、今は旧暦で孟秋……夏真っ只中。今宵はこの夏最後の満月だ。
     特に習わしはない上に、今は間近に控えた『月奏祭』の準備もある。明日の話し合いの段取りも組まなければいけない。やることは山積みだ。

    「沖成、ぼうっとしてるとあんたの分も私が食べるわよ?」
    「やめてよ」

     軽口に答えて肩を竦めてから手を合わせる。食べ物への感謝を忘れずに────

    「いただきます」

     変わらない文言を唱和して、沖成は箸を手に取った。


                    *   *   *


     時間はあっという間に過ぎる。東たら昇った太陽がいつの間にか西の山の奥へ隠れ辺りは暗くなり始めていた。
     村長の家へ帰る途中の沖成はふと空を仰ぐ。
     東の山際には丸く綺麗な満月が昇り始めていた。
     あの日以降、満月を見ると彼女のことを思い出す。
     今彼女がどこにいるのかはわからない。ただ確信のように心の奥底が疼いて噛み締める。


     いつかきっと、と────────



    *   *   *



     朝露の滴る畦道を一人静かに歩く。昨日は遅くまで寝ていたためできなかった日課にしている散歩だ。
     こうして歩いていると不思議と心が落ち着く。
     村長の家を出発点に、生まれ育った家へと一度立ち寄りそこからあの山の麓へ。
     そこで幾分か山を見上げて村長の家へと戻る。変わらない道のりと足取り。
     山の麓まで辿りついた沖成は雄大に聳え立つ山を見上げる。
     また今年も『月奏祭』が始まるよ。……流石にあの年のあのひと月を超えるようなことは起こらないけど、それでも楽しく笑顔で過ごしてる。今のこの村を君にも見せてあげたいな。
     心の底から湧いて上がる気持ちを空へと向ける。いつか出会うその時のために、それまでの歴史を頭に刻み付ける。
     少し冷たい風が吹いて頬をさらりと撫でる。そろそろ帰らないとまた音姫に怒られるだろう。
     腰に手を当てて可愛らしく怒る乙姫の姿を想像して苦笑すると、踵を返して歩き出した。







     ────────────かさり








    ──────────────────────────────────────────



    ここまで長々とお付き合い頂きありがとうございました。
    本篇は月兎の物語、第五回目です。
    この物語もどうにか最後まで書き終わり『結』の一文字で締めることが叶いました。
    不定期な更新で拙い文章でのお目汚し、すみませんでした。
    それでも最後までお付き合いいただけたのでしたらこれに勝る幸いはありません。
    五回に及ぶ長編の月兎の物語はこれにて完結です。本当にありがとうございました。
    よろしければ感想等残していただけると幸いです。


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  • 【結月祭】月の兎と盈月 -エイゲツ-【月兎の物語】

    2013-10-01 20:28


                     これは月兎の物語

    ──────────────────────────────────────────



     ゆかり。

     言葉の意味として縁や紫を表す言葉。

     人の縁は奇妙なものだ。長年連れ添ったかと思えば時にその関係をぷつりと断ち切る。
     偶然や必然と言った言葉もある。運命を大事にする者や否定する者もいる。

     そんな人の縁に色をつけるとしたら、それは一体どんな色なのだろうか。

     それはきっとその人たちにとって、ゆかりのある色。


    *   *   *


    「ゆかり、ご飯だよ」
    「はい、今行きます」

     声に答えてぼやけた思考を再起動する。自然と足が動き、食の場へと体が向かう。
     この家に居候を始めて既に半月以上。目を瞑っていても自分の部屋と玄関くらいは往復出来るようになった程慣れ親しんだ家の朝に、少女は自分の居場所へと向かう。食卓には既に全員が揃っており、あとは少女が席に着くだけだった。
     慌てたように早足で少女の席へ向かい、座ると手を合わせる。
     今日は一体どんなことがあるのだろうか。そんなことを考えながら全員で声を合わせて食事の開始を告げる挨拶を唱和したのだった。



    *   *   *



     食事を取り終えて部屋へと戻る。必要最低限のものが置かれた少し寂しい部屋。けれどここは借り物の部屋だ。何時──もしかすると明日にでもここを去る身の自分にとっては十分すぎるほどの、温かい空間。
     それだけでも身に余るというもの。今の自分には同じ屋根の下で暮らす友達と、気の合う少女がひとりいた。
     沖成という心優しい少年に、博識で淑やかな音姫という少女。
     そんな暖かい人に恵まれ、村の人々も優しく接してくれている。もしこれ以上望むものがあるとすれば、それは──

    「ゆかりー。外行くけど一緒にどう?」
    「あ、行きます」

     襖の向こう、唐突に響いた声に振り返って答える。準備を整えると家主に挨拶をして二人で家を出た。

    「……それで、どこへ向かうんですか?」

     秋に入り、山の木々が色付くこの頃。空高い白い雲が風に揺られて影を落とす。次第に高い陽が傾き始め、緩やかな日差しを差し伸ばす畦道を肩を並べて二人歩く。
     問いかけて隣を見ると、少年──沖成は背中に竹細工の大きな籠を背負っていた。

    「山だよ」
    「山……?」

     沖成の向ける視線の先にゆかりも首を回す。
     そこにあったのは厳然と佇む巨大な山。ふとその山がとなりの少年と最初に出会った場所に気がついて視線を向けた。

    「この村を囲む山にはね、沢山の果実が実るんだ。栗、茸、柿、蒲萄……。ゆかりは食べたことある?」

     沖成の言葉に首を振る。そんな様子のゆかりに沖成はひとつ笑って背中の籠を背負いなおす。

    「それじゃあ食べて驚くといいよ。採れたてはとても美味しいから」
    「はい」

     脳裏に音姫の言葉が蘇る。彼女の言っていたのはこのことだったのだろう。……しかしなぜ満面の笑みではなく噛み殺したような笑顔を浮かべていたのだろうか。美味しいものは素直に嬉しいことなのに。
     そんなことを考えながら、気づけば山の麓までたどり着いていた。
     天へ向けて聳え立つ畏怖さえ抱く存在感。隣に立つ沖成はその姿をじっと見つめ立ち尽くしていた。

    「……いかないんですか?」
    「──あぁ、うん。それじゃあ行こうか。山は景色がどこも似てるから迷わないようにね」
    「はい」

     沖成の言葉に頷いて山の中へと足を踏み入れる。早くも枯れて落ちた茶色い葉が靴の裏でかさりと音を立てた。
     ざくざくと音を鳴らして前へと進む。数分登ると突然沖成が足を止めてその場にしゃがみこんだ。
     追いついて手元を覗き込むと波打った傘のきのこが倒れた木の上に点々と生えていた。

    「ほら、しめじだよ」
    「食べられるんですか?」
    「食べられるよ。同じものを見つけたらゆかりも籠に入れてね」
    「分かりました」

     それからいくつもの種類のきのこや、毬に包まれた栗、木になった柿など道すがら沖成が口にした秋の食べ物を籠へと入れていった。
     やがて山へ入ったときは東の山の上にあった太陽が天頂から強い日差しを降り注ぐ刻へと移り変わる。
     いくら山の中とは言え長く動いていれば熱くもなればお腹も空いてくる。
     その場に響き渡った低く唸るような音に顔を向けると、斜面に腰を下ろしていた沖成が頭を掻いて笑っていた。

    「お昼にしよっか」
    「はい」

     頷いて近くに腰を下ろすと持参した水と手拭で汚れを落とし、お茶で喉を潤す。隣に座る沖成は腰の巾着から四つのおむすびを取り出し半分をゆかりへと差し出した。
     受け取って包みを開くとまだ少しだけ熱が残っていたのか白い湯気が立ち昇った。

    「それじゃ、いただきます」
    「いただきます」

     二人で小さく唱和して白いお米を頬張る。口の中に広がったのは甘酸っぱい梅の香りだった。思わず背筋を伸ばす。

    「あ、鮭だ」

     沖成の方はどうやら鮭が入っていたらしい……が、ゆかりは今それどころではなかった。口の中が梅漬けの塩の味で満たされ、無意識に腕をバタバタとさせる。

    「ゆかり、どうしたの……? もしかして梅?」

     問いかけに涙目になった顔を縦に振って意志を示す。そんな様子を笑った沖成に、ゆかりは潤んだ瞳で恨めしく睨みつけた。

    「健康にいいから」

     そう言いながら差し出されたお茶を奪うようにして取ると中身を煽って口内の酸っぱさを流しにかかる。

    「ふわぁ……」

     口から漏れた吐息には安堵と脱力が聴いて取れた。
     隣で笑う沖成を一瞥して、仕返しに彼の手元の内の一つを掠め取る。

    「……食いしん坊」

     呆気にとられた沖成だったが何が起こったのか気がついた彼は行動には移さず口だけでゆかりを追い詰める。
     彼の言葉に自分の何かを貶された気のしたゆかりは仕方なしに手にしたおむすびを沖成の方へと放り投げた。
     咄嗟のことに慌てた沖成が手を伸ばす。まるでお手玉をするように幾度かおむすびが宙を舞うと、やがて彼の膝の上に落ち着いた。

    「ゆかりー……」
    「おむすび美味しいですね」

     白々しく話題を逸らすと沖成は肩を落として呆れたように笑ったのだった。



    *   *   *



     それから再び山の幸を探し回って。気がつけば陽も随分と傾き、葉の隙間から差し込む夕日に長く伸びた影が落ちていた。
     背筋を伸ばして空を見上げる。夕焼けの山際は鮮やかな橙色に染まり、まるで燃えているように綺麗だった。
     沖成と合流して帰路へとつく。山を降りている最中に白い野うさぎが可愛らしく跳んでいる姿を見かけて二人して頬を緩ませた。
     家に帰り籠の中身を見せると沖成のお母さんは笑顔で成果を褒めてくれた。準備されていたお風呂で体の汚れを流して部屋へと戻る。
     夕日の差し込む室内は朝より少しだけ寂しさを増して見えて、急に胸が締めつけられた。
     見わたす室内にゆかりの私物はない。全ては借り物で、ここはきっと自分の居場所ではないから。
     部屋に背を向け廊下へ出る。目の前の扉に一瞬目を奪われたが、足は台所へと向かった。
     流しの前には沖成の母親がいて、忙しそうに夕食の準備をしていた。

    「お手伝いします」
    「あら、そう? それじゃあ椎茸の石突取ってもらえるかしら? この部分ね」

     指し示された部分を記憶して台所の収納から包丁を取り出しその柄をしっかりと握る。この家に来て最初の頃、沖成に呼ばれてこのまま振り返ったら青い顔をして数歩引く様を見てからは包丁の扱いには注意している。
     包丁と手を洗い水気を取ると椎茸の突起の根元──石突を切り落とす。全て切り終えて視界を回すと焜炉には汁物、炒め物があり火元の方からは焼き魚のいい匂いが漂っていた。

    「できた?」
    「はい」

     そうしていると隣から声がかかったので簡潔に答えてまな板の上を簡単に片付ける。
     沖成のお母さんは顔に笑みを浮かべて頷くと「次は……」と指示を出す。
     そうして何かをしている間は胸の内の不安が影を潜めていた。



    *   *   *



     夕食が出来上がると部屋にいる沖成を呼びに行く。視界の端に自分の部屋がちらついたが意識的に視線を逸らした。

    「沖成さん。夕食できましたよ」
    「……あぁ、うん。分かった」

     中で何かをしていたのか少しの間を空けて返答があった。何をしていたのか確認したい衝動に駆られたが襖に手をかける寸前で手を引っ込めて首を振った。

    「早く来てくださいね」

     それだけを残して台所へと戻る。皿に盛り付けをして、お椀に米をよそって。そうして食事の準備が整うとのと、沖成が自分の席に着くのはほぼ同時だった。
     エプロンを外して片付けるとゆかりも沖成の隣に腰を下ろす。

    「いただきます」

     手のひらを胸の前で合わせ少しだけ俯いて食前の挨拶を口にする。朝から沢山動いたからか、お腹は腹の音を響かせる寸前だったらしく、美味しそうな匂いを前にきゅっと締まる。
     箸とお椀を手にして目の前の膳を摘んで口に運ぶと、少しだけ胸の内が暖かくなった。
     今日の献立はお味噌汁に秋刀魚の塩焼き、きのこと野菜の炒め物に山菜ご飯だった。食事の風味を飾るのは主に沖成とゆかりが山に入って採ってきた食材だ。
     そのことに少し誇らしい気持ちになったゆかりは珍しくご飯をおかわりしていつもより沢山の料理を口へと運んだのだった。



    *   *   *



     夕食を食べ、片付けをしてお風呂に入り終えるとゆかりにとってはとても静かで心細い時間が訪れる。
     窓の外からは鈴虫の鳴く音が。室内には明かりに照らされて中空に踊る埃のような何かが。
     何も──何もない空間に外からの音と、匂いと、空気以外は踏み入ることを許されない神聖なほど静かな空間に。
     ゆかりはただひとり取り残された感覚に陥る。
     無機質で、冷徹で、静謐で、閉塞的な空気。
     息の詰まるほどに重い空間で、少女はひとり座り込んでいた。
     見上げた視界の中ではどこからか入り込んだ小さな虫が蛍光灯に向けて幾度も体当たりを繰り返している。手を伸ばすと小さな虫は指の間をするりと抜けて網戸の隙間から外の世界へと飛んでいった。
     立ち上がり静かな歩調で窓際まで行くと、微かに開いた網戸を閉めてそこから空を見上げる。
     空には半分ほど顔を覗かせた月が昇り、白銀の月光で遍く地表を照らしていた。
     じっと、じっと、見つめる。
     そうしていると胸は満たされ、空虚だった感情は少しだけ色と温度を持った気がした。
     新月を経て、月は次第に光を──力を蓄えている。…………そんな気がする。
     まるでそれは天啓のようにゆかりの感情を突き動かす。

     満月に、なれば────

     月が欠ければ心はどこまでもざわめきおちつかなくなり、月が満ちれば心のどこかが音も立てず崩れ体を離れていく。



     私は、満月の夜に────────



    *   *   *



     月は満ちて待宵の日。いつもと変わらない朝を迎えて、いつもと同じように朝食をとる。
     食事を終えて台所で洗い物をしながら隣に立つ沖成の母親に静かに声をかける。

    「……あの」
    「ん? なんだい?」

     屈託のない太陽のような笑みに後ろ髪を引かれる。思わず止まった手に気づいたのか、彼女も水を止めて真っ直ぐにこちらを向いて視線を重ねる。

    「……………………」
    「……言ってみなさい」

     沈黙にも焦燥さえ滲ませない。ただ静かにこちらの瞳を見つめて真摯に答えを待ち続ける。
     それでも口を開かないゆかりに、沖成の母親は小さく笑ってそう紡ぐ。

    「貴女はうちの家族の大切な────お客様なんだから」

     まるで心の底を覗かれたように、彼女の言葉が胸を打つ。
     それは躊躇いで。それは後ろめたさで。それは傲慢で。
     言葉では表しきれないその感情を、彼女の一言が全てを肯定し、認める。
     知っているからと。貴女は────家族ではないからと。すべての我が儘を許してくれる。

    「────今まで、ありがとうございました」

     素直な気持ち。その心の一部を吐露すると次々と言葉が溢れてきた。

    「美味しいご飯をいただいて。こんな私に優しくしてくれて。名前も……」

     脳裏にその時の景色が鮮やかに浮かぶ。
     彼は今、この場にはいない。それはとても卑怯で、自分勝手なことなのかもしれないけれど。

    「綺麗な名前も貰って……本当に、ありがとうございます」

     これはきっとけじめで、大切なことだと思うから。

    「とても楽しい時間でした。貴重な経験も沢山できて嬉しかったです」

     偽りのない本心を。

    「暖かい時間をこのままに────私は、」
    「明日だ」

     そうして、湛えた笑みで継ごうとした言葉を途中で割って入った太い声が遮った。
     声のした方に振り向くと居間に座り込んだ沖成の父親が仏頂面で縁側の方を見つめていた。

    「…………?」

     明日は満月だ。もしかするとそういう類の縁起や験担ぎにいい日なのかもしれない。
     そう思って次の言葉を飲み込んで待ってみるが、言葉は続かなかった。
     ゆかりが首を傾げると後ろから小さく含み笑いが零れた。

    「それじゃあゆかりさんが分からないでしょ」
    「…………ぅむ」
    「あの…………」
    「明日は中秋の名月でね、観月をするの。薄を飾って月見団子や里芋なんかを盛って、御酒を供えるのよ。意味合いは昔の『月奏祭』に似てるかしらね」

     少し楽しそうに話をする沖成の母親に、ゆかりは頭を巡らせる。
     つまりは小さなお祭りのようなものなのだろう。作物を添え月の神様に供え、稲穂の豊作を願う秋の祭り。

    「……強要はしないわ。貴女が決めることだもの。でも少しでも興味を持って貰えたなら一日だけ、時間を頂けないかしら?」
    「……………………」

     彼女の言葉に黙り込む。
     別に今日急いで離れなければいけないわけではない。ただ今日ならまだ──線を引ける。
     時折虚ろになる感情が、胸の内を攫っていく感覚。不意に訪れる感情的な衝動が、今ならまだ人でいられると告げている。
     きっと明日になってしまえば────明日その時になってしまえば、理性もなにも投げ出して彼にしがみついてしまう。
     きっと、笑顔で別れられないだろう。
     だからこその決断だった。悲しさを堪える為の、最善の選択だ。不幸など訪れない、誰もが平等に悲しむ別れだ。
     その境界は、今この瞬間が決める。
     悲しいのは、嫌だ。苦しいのは、嫌だ。楽しくありたい。笑顔でいたい。
     願いと想いは──相容れない。

    「わた、しは…………」

     答えないのが誰にとってもきっと一番辛い。
     息が詰まる。胸が苦しくなる。頭の中で文字になる言葉が喉から切実に溢れる。

    「明日────」

    「ただいまー」

     その時、響き渡った──聞き慣れた声に体が固まり、喉が支える。
     言わないといけない言葉が、音をなくす。

    「三方出してきたけど…………ゆかり?」

     真っ直ぐな瞳と目が合って、彼が浮かべる不安気な顔に胸が跳ねた。
     ようやく気づく。胸に抱いた感情に、湧き上がる際限のない欲求に。

     あぁ、そうか。嫌なのも、苦しいのも、楽しくありたいのも、笑顔でいたいのも。


     ────私の自己満足だ


     当たり前だ。いつも近くにいたのは、彼だ。誰よりも親身にしてくれたのは、彼だ。だから、当然だ。
     感情の天秤が片方に傾ぐ。

    「……お月見、楽しみですね」
    「そうだね」

     笑顔に彩られる少年の顔。それだけで、選択を決意できる。
     それだけで、十分だ。



     全ては彼の笑顔が見たいだけだなんて。



    *   *   *



     あれから沖成の母親との話を終えると、行き先を告げて外へと出る。
     土に汚れた靴に足を入れて、音を立てて玄関を開く。差し込んだ陽の光に少しだけ目を細めて、それからゆっくりと足を出した。
     見慣れた畦道。脳裏に重なって聞こえる足音。振り向けばそこにいる気がして、少しだけ足を止めた。
     白く見える太陽を仰いで、青い空をじっと見つめる。この青空にも星はあるそうだ。ただ太陽の光が強すぎて目に見えないらしい。
     星があるということは流れ星もあるということで……。見えない星空にイタズラに願う。

     どうかこの胸の願いを叶えてください。

     脳裏に新月の夜が蘇り、あの日に月へと望んだ夢を鮮明に思い出す。
     思えば、あの時から気持ちは決まっていたのかもしれない。
     いつ叶うかわからない先の長い希望を、先のわからない自分が願うなど何と滑稽だろうか。
     心の内でそう自嘲すると、目の前に目的地を見つけて口を開いた。

    「……音姫さん」

     偶然庭に出ていた彼女を見つける。
     呼びかけにこちらに気づいた少女は少しだけ儚い笑みを浮かべて手招きした。
     彼女は家へと上がり、中からお茶とコップを二人分持って縁側へと腰を下ろした。お茶を注ぐ音姫と盆を挟んで座ると一つ息を吐いた。

    「はいどうぞ」
    「ありとうございます」

     注がれたお茶の水面が揺れて、映る太陽を波の奥へと隠す。

    「それで……今日はどうしたの?」
    「……明日、お月見をするそうです」
    「そうだね。今年はいい月が出るから、綺麗なお月様が眺められるよ。因みにお月見は別名、芋名月って言われるね」
    「薄や団子を飾って、お酒をお供えするらしいです」
    「あとは月見を象った料理を食べたりね」

     音姫の言葉に視線を向ける。
     彼女は小さく笑って可愛らしく人差し指を立てた。
     約一ヶ月一緒に過ごして、彼女の癖もいくつかわかるようになった。例えばこうして指を立てるとき、彼女は一つ知識を披露してくれること。

    「お月見の日にはね、それに似せた料理を食べるんだよ。芋名月の名の通り里芋を衣(きぬ)かつぎにして食べたり、うどんや蕎麦に海苔……なかったらとろろ昆布とかワカメとかを入れて、生卵を落として食べるの。卵の黄身を月、白身を雲。海苔やとろろ昆布は月の光に浮かぶ山を見立てたものなんだよ」

     そうして知識を披露する音姫の姿はいつも流麗で淑やかで秀麗だった。

    「あとは『ちゅうしゅうのめいげつ』って聞きました」
    「あぁ、それね」

     音姫はゆかりの言葉に頷きながら目を閉じて探し物を探すように思案する。

    「観月……お月見はね、元々別の国の行事だったの。それを昔の人が真似してこの国にも広がったの。昔の人はそのお月見をする日を『中秋の名月』って言ったんだよ。字は、こう……」

     そう言って近くにあった紙と鉛筆で字を書いてみせる。その隣に端正に整った字で似たような文字列をもう一つ書く。

    「それに倣って今でもお月見の日は『中秋の名月』っていわれてるよね。で、ここが少し難しいところなんだけど、今の暦と昔の暦って少し違うの。昔の暦は朔望月……月の満ち欠けによる太陰暦を少しだけ変えた太陰太陽暦って言う種類の中の暦を使ってたの」
    「月…………」

     そう零すと幾つかの行事を音姫も思い浮かべたのか小さく笑顔を見せた。

    「それで、その旧暦の中で『ちゅうしゅう』って呼ばれる秋の時期があるの。それが今の月、一つ前、一つ後の月の頃のことなんだよ。その三つを前から順に『孟秋』、『仲秋』、『季秋』って呼んだの。その内真ん中の月である『仲秋』が今のこの時期のことで、こっちの字だね」

     そう言って紙に書いた字のうち、少しだけ難しい方を指す。
     少し頭が混乱して下を俯く。
     理解をする時間をくれるためか音姫は頷いて一度口を閉ざした。彼女の好意に甘えて理解のし難い魔法の呪文のような言葉を簡単にして頭の中で整理する。
     つまりはこういうことだろう。昔の秋に三つの月があって、その真ん中の月を『仲秋』といい、『仲秋』の中のお月見をする日のことを『中秋』という。
     難解な問題を解くように時間を掛けて整理し終えると音姫のほうへと向き直る。これ以上難しいことを一度に重ねられたら覚えきれる自身はなかったが、想像に反して彼女の口から漏れたのは溜息のような言葉だった。

    「よく字を間違えてる人がいるんだけど『仲秋の名月』だとその月の間ずっとお月見をすることになっちゃうんだよね。そんなに美味しいものを毎日食べてたら太っちゃうよ……。お月見の日は『中秋の名月』だけでいいよねぇ……」

     そう言って苦笑いを浮かべる音姫。それと同じ笑みをいつか見た気がして、思い出す。そういえば秋は美味しいものが沢山あると言っていた時も同じ顔をしていたのだ。

    「音姫さんは、太るのは嫌ですか?」
    「そうだねー。ゆかりちゃんも嫌でしょ? お腹が太くなって動きにくくなっちゃうし、綺麗には見えないし」
    「……それは、嫌です」

     真顔で答えると音姫は吹き出して笑う。
     彼女の笑みにゆかりも相好を崩すと少しの間二人して一緒に笑い続けた。



    *   *   *



     「…………それで、今日はどうしたの?」

     あれから少しばかり雑談に花を咲かせて。気づけば太陽は真上に昇る頃、少しの沈黙を挟んだあと音姫は初めて会った時と変わらない調子でそう尋ねた。
     その言葉は、ここへ来た時にされたものと全く同じ。忌避と興味を綯交ぜにしたような聞く側の姿勢。
     音姫の理知的な青い瞳がゆかりのそれを射抜き、言外に語りかける。

    「…………ここを、発つことにしました」
    「ん」
    「音姫さんにも、沢山迷惑をお掛けしてすみませんでした」

     俯いたまま紡がれる言葉に隣の音姫は小さく相槌だけを打つ。

    「でも……ここは私の居るべき場所ではありませんから」

     その言葉に二人して黙り込む。ここまで来て未練があるのは仕方がない。そうなるまで思い出を積み重ね、過ごすのを良しとしたのは誰でもない、ゆかりなのだ。それは彼女の小さな罪でもある。

    「……沖成にはもう言ったの?」
    「…………っ」

     音姫の言葉に心臓を冷たい手で鷲掴みにされたように体を強ばらせる。
     言葉にしなくともその返答が音姫には伝わったのか彼女は小さく笑った。

    「違うの。別に、ゆかりちゃんを責めようとかそういうのじゃなくてね……。沖成にも責任があって、それを全うしようとする彼なりの気持ちがあるからね」

     音姫の言わんとしていることはわかる。だからこそ、彼への言葉に嘘を交えたくはない。……もしかするとその為にこうして音姫のところを訪れたのかもしれない。

    「ゆかりちゃんは、さ……。楽しかった?」
    「………………はい」
    「『月奏祭』に参加してさ、屋台をやって、色々なものを食べて、遊んで。踊りは一緒に踊れなかったけど、太鼓を叩いて……それで────」

     脳裏に、あの時の景色が鮮明に思い浮かぶ。
     欠けた月夜の下。鳴り渡る祭囃子。鼻腔を擽る炭の匂い。人の温もり。風の心地よさ。笑顔、笑顔、笑顔────
     一転して途切れた音。掛かる暗雲。起きた騒動。
     あのとき、私はただ楽しかった。嬉しかった。悲しかった。哀しかった。
     楽しい時間が過ぎ去るのが、終わってしまうのが。整った舞台が崩れるのが、沖成の……顔が。
     感情に任せた行動だったあの歌も、今思えば一つの思い出だ。
     楽しさを、寂しさを。あの一瞬を永遠に刻み込むために、何かを……私を──「ゆかり」を残すために。
     結果、終わったあとに少しだけ持て囃されたのも……そこに割って入ってくれた沖成も。すべてが夢のように鮮やかで透明で、綺麗だった。

    「新月は、星が綺麗だったね。ゆかりちゃんはあの時、空を見た?」
    「……はい」

     目を閉じると今でも鮮やかに思い出すことができる。
     まるで童話の世界のように夢の時間だった。
     心が澄んで、空気が凪いで。隣には大切な人がいて。あの時間が今も続いていればと幾度も想像を馳せた。
     同時に寂しくもあった。刻まれる時間が時計の針の音のように響いて、心を蝕み。見えない月が心の内の焦燥を掻き立てた。
     だから願ってしまったのだろうか。
     叶うはずのない願いを。儚く脆い一筋の希望を。
     願えば、想えば。その分だけ胸がキリキリと締め付けられる。

    「あの頃からだったっけ……。ゆかりちゃんが敬語を使い始めたのは」

     問い詰めるように、追い詰めるように。けれど優しく解きほぐすように。音姫の言葉が胸に染み渡る。
     どちらが本当の自分なのだろうかと時々思う。けれどそれも全て自分の一部なのだろう。
     心を絵にしたら、平面の生き物なんていない。色々な一面を持っていて、その中心にその生き物を成すものがある。
     月と同じで、裏側まで全部知るのは難しい。
     けれどそれでいいと思う。

    「最初はびっくりしたけど。でもそれもゆかりちゃんらしいなって、今は思うんだ」

     音姫が笑顔を向けて紡ぐ。 

    「わたしは、ゆかりちゃんが、好きだから」
    「私も、音姫さんが、大好きです」

     気づけば笑い合っていた。
     涙を隠すためなのかもしれない。心の底からの笑顔なのかもしれない。悲しみを見せないためかもしれない。
     どれでもいい。どうだって構わない。
     この気持ちに偽りはないのだから。
     だからこの言葉も真実だ。心の底からの、嘘も偽りもない、彼女へ捧げる感謝の気持ち。

    「いままで、ありがとうございました」



    *   *   *



     家に帰ると準備の整った食卓に全員が座って待っていた。
     慌てて手を洗い準備を済ませると席に着き手を合わせる。
     いつもと変わらない挨拶に少しだけ懐かしさを感じながらゆかりは昼食を食べ始めた。
     食欲はいつも通りで、喉も通る。どうやら音姫との会話で少しだけ胸の支えが取れたようだった。
     食べ終えて、食器を片付けると部屋に戻る。
     何もない簡素で寂しい部屋。この部屋とももうそろそろお別れだ。
     そんなことを考えながら持って出る荷物を確認する。
     と、そこでここへ来たときは何も持っていなかったのだと思い出す。増えたものは思い出とうさぎのお面だけ。
     手に取って顔に着けると視界が小さくなって少しだけ慌てた。

    「……ゆかり、今いい?」

     響いた声は襖の向こうから。
     そういえばあの新月の夜以降、沖成はまたこの部屋の敷居を跨ぐようになったのだ。と言っても最初の頃みたいに無用心にではなくしっかりと確認を取った上でなのだが。

    「はい、大丈夫ですよ」

     反射的に答えて、気づく。お面を被ったままだ。
     しかし沖成は待ってはくれない。襖は引かれ、お面姿のゆかりとご対面。

    「…………えっと、ゆかり……?」
    「いえ、その、これはっ……」

     お面を取ればいいだけのこと。しかし何を思ったかゆかりは被ったまま手をわたわたと振って言い訳を試みる。

    「たまたま目についたので出来心というか、なんというか……」
    「お面、取ったら?」

     言われてようやく気づく。謎のジェスチャーをしたまま数秒固まって、それからお面を取り外そうと手を伸ばす。
     そこで、思い至る。
     ここで外せば沖成に自分の顔が見えるわけで、そうするとおそらく赤面しているであろう表情が映るわけで──

    「……このままで大丈夫です」
    「本当に?」
    「大丈夫ですっ」

     語気強めにそう言ってのけると沖成は少し気圧されたように頷いて口を開いた。

    「え、えっと……。ゆかりは明日のこと聞いてる?」
    「……お月見のことですか?」
    「んと、それもなんだけど。お月見には月見団子が必要なんだよ」
    「団子、ですか?」

     小さく首をかしげる。すると何故か沖成は唐突に吹き出した。

    「……? 沖成さん?」

     追随するように再び尋ねると沖成は手を伸ばして制止を促した。

    「ま、待って……ゆかり。お面はっ、やっぱり、は、はず……ぷっ!」

     どうやらうさぎのお面で真面目に会話をするこの光景が面白おかしく映ったらしい。
     確かに客観視してみれば奇怪な風景だろう。
     仕方なしにゆかりはお面を外して置く。顔の赤面は途中で引いていたので問題はなかった。
     それでもしばらくは思い出し笑いを繰り返していたので、つられて幾度かゆかりも顔を綻ばせた。

    「……で、えっと、何の話だったっけ?」

     数分後、目尻に涙を浮かべて笑いの迷宮から返ってきた沖成がそう尋ねる。どうやら相当だったらしい。

    「月見団子が必要だという話だったと思いますけど」
    「あぁ、そうだ。……それで、ゆかりは聞いてた?」
    「いえ。お月見をするということは聞いてましたが」
    「そっか。その団子作り、ゆかりもやってみたい?」

     彼の提案に少しだけ考え込む。彼が勧めるということは素人でも可能なものいうことだろう。
     それにゆかりはおそらく断れない。それはきっとその誘いが沖成のものだから。どう答えればどういった反応を見せるのかがある程度予測できてしまうから。
     今見たいのは、彼の笑顔。悲しみは、いらない。
     その気持ちと同様に胸に衝動が湧いて上がる。
     興味がある。出来ることならやってみたい。好奇心。向上心。
     そういった感情が胸を埋める。

    「……はい。やり方を、教えてもらえますか?」
    「分かった」

     想像通りに、沖成は顔に花を咲かせる。
     その笑顔を見れるだけで、ゆかりはこの選択を受け入れることができた。



    *   *   *



     一通りの説明を聞き終え、雑談をしていると陽は傾き窓から差し込む光が弱くなっていることに気がついた。
     そろそろ夕食の準備を始める頃だろう。そう思って沖成との話を一旦切ると台所へと向かう。
     少しよれたエプロンを着けて手を洗うと半分に切られた人参がまな板の上に置かれた。

    「短冊切りにお願いできるかしら」
    「分かりました」

     笑顔で答えて包丁を取り皮を剥き始める。
     しばらく静かに料理をしていたが、自分の仕事が終わったのか沖成の母親は一息吐いてゆかりに話しかけてきた。

    「沖成から話は聞いた?」
    「はい。今から楽しみです」

     月見の返答は今朝、音姫の家に向かう前にしてある。その上で起こるであろう別れの悲しさも覚悟し終えた。

    「明日の準備は色々あるからゆかりさんも手伝ってくださいね」
    「分かりました」

     話をしながらの調理も今となっては慣れたものだ。過去に一度怪我をした時は沖成が大袈裟に慌ててこれまた一騒動あったりもしたなぁとふと思い返す。

    「……でもよかったの?」
    「…………はい。もう、決めたことですから」
    「そう」

     問いかけに胸の内で改めて反芻し決意する。返答に彼女は小さく笑って短く零した。
     それからしばらくして夕食も出来上がり、沖成を呼んで全員揃っての夕食を食べた。
     食べ終えるといつも通り片づけをして部屋へと戻る。と、襖の前で足を止めて方向を百八十度変える。
     目の前には同じ模様の扉。けれどこの先は沖成の部屋だ。

    「…………沖成さん、少しいいですか?」
    「うん、いいよ」
    「失礼します」

     断りを入れて戸を開け部屋へと入る。
     机に座っている沖成の横顔は何か考えていたのか、少しだけ難しい顔をしていた。

    「どうしたの?」

     しかし直ぐにいつもの顔に戻ってそう尋ねてくる沖成にゆかりは浮かんだ懸念を振り払った。
     先ほど頭に浮かんだ言葉を声にしようとする。すると唐突に胸の鼓動が激しさを増した。口の中がからりと乾き、喉が縛られたように声が出なくなる。
     握った手に汗が滲んでいて、緊張しているのだということに今更気がついた。
     けれど長々と沈黙していたのでは沖成も不思議に思う。

    「………………その、少し外を歩きませんか?」
    「うん、いいよ。じゃあ準備するから先に行っててくれるかな?」
    「……はい」

     頷いて部屋を出る。玄関まで行くと小さく自分の頭を小突いた。
     どうしてあの場で言い出さなかったのだろうか。そのつもりだったのに……。
     胸の鼓動はまだ収まらない。彼が来るまでにいつも通りを装わなければ。
     思えば思うほど緊張の糸は張り詰めていく。呼吸が苦しくなり胸の前で拳を握って俯く。

    「ごめん、お待たせ」
    「あ、はぃっ。……い、行きましょうか」
    「う、うん」

     背中に掛けられた声。
     突然の──思考外のことに思わず上擦った声が溢れて咄嗟に口を覆ってしまった。しかし止まっていては何も始まらない。
     視線を逸らしながら逃げるように玄関を出る。頬を撫でた温い風に少しだけ驚いて頭の上のフードを深く被った。
     やがて隣に沖成が並んで、二人で歩き出す。
     こうして歩くのはあの新月の夜以降初めてだ。機嫌を伺うように隣を覗き見ると同様にこちらを見ていた沖成と目が合って慌てて目を逸らす。
     顔が熱を持ち、心がざわめく。暗闇とフードのお陰で今の表情を見られないで済むことに少しだけ安堵した自分がいた。
     宛てもなく彷徨うように畦道を歩き回る。見上げた空からはほんの少しだけ足りない月が地上を見下ろしていた。

    「……何か、あったの?」

     隣からの声に小さく息を飲む。
     足を止めると数歩先で沖成が振り向いた。
     胸が苦しくなる。切ないほどに疼く。

    「そ、の……」

     苦しい呼吸がその先を歩ませまい制止をかける。
     言わないと……言わないと、悲しさが溢れてしまう。

    「…………楽しかったね」

     それは叫ぶように堰を切ろうとした言葉が紡がれるほんの数瞬前。
     いつの間にか俯いていた視界を上げると、そこには笑顔で佇む沖成の姿があった。

    「最初に会ったのはあの山の麓だったね」

     そう言って視線を向ける。つられてそちらに向くと雄大に聳え立つ色の疎らな山が鎮座していた。

    「あの時はびっくりしたよ。見たことのない服装に、綺麗な顔立ちで立っている姿が目に付いたときは思わず見とれちゃった」

     少し恥ずかしそうに語る彼の言葉にゆかりも思わず頬を染める。

    「それからうちに来て、一緒に色々なことをして、『月奏祭』にも一緒に参加して……。ゆかりと一緒だとね、色々なことが初めてのことみたいに楽しくて、嬉しかった」

     そうして浮かべる笑顔は今までに見たことないくらい優しく、そして儚かった。

    「太鼓を一緒に叩いて、突然の問題もゆかりがいつの間にか解決しちゃって。あの時に聞いた歌がね、今でも耳元に残ってるんだ」

     それはまるで走馬灯のように。記憶の欠片が次々と思い起こされ去来していく。

    「新月の日にはこうして一緒に外に出てお願い事もしたよね。いつ叶うかわからないけど、それでもいつか叶うって信じてるんだ」

     純粋な瞳が月の光を受けて煌く。誰よりも真っ直ぐで曇りのない視線がゆっくりとゆかりを射抜く。

    「だからゆかりのことも信じてる」

     その言葉に、胸に張り詰めていた緊張が次第に解けていく。やがてゆかりの感情は水面のように静かに落ち着いていった。
     今なら、言葉に出来る気がする。

    「あのね、沖成さん」

     どこか不安定な口調。けれどそれが積み重ねてきた自分なのだと納得することができた。

    「私、明日ここを離れようと思うんです」

     そうして紡いだ言葉に、沖成は静かに視線だけを返していた。

    「もう時間だから。これ以上いたらきっとみんなが悲しむことになるから。だから明日、ここを離れようと思います」
    「……わかった」

     静かな宣言の言葉に沖成はそう短く呟いた。

    「だったら、今日持ってきて正解だったね」
    「…………?」

     それから続けて再び笑顔を見せた沖成がポケットから何かを取り出す。
     広げた手のひらで差し出されたのは月の光を反射する小さな装身具だった。
     大きさは手のひらより少し小さいくらい。大小二つの丸をつなげて、それぞれの真ん中に桃色の透き通ったガラス玉をはめ込んだような可愛らしい小物。
     まるでそれはこの星と空に浮かぶ月を模したように感じた。

    「……これは?」
    「髪飾りだよ。ゆかりに似合うと思って。いつ渡そうかこの一週間ずっと悩んでた」

     脳裏に家を出る前の彼の横顔が過ぎる。

    「私のために、ですか……?」
    「村の外の店に頼んで作って貰ったんだ。似合うといいんだけど」

     差し出された髪飾りを静かに受け取ってフードを外す。
     吹いた風に顔の横の二房の髪束がゆらりと揺れた。
     頭の左側にパチリと音が響いて髪飾りが止まる。

    「……どう、ですか?」
    「よく似合ってるよ」

     彼の言葉に自然と笑みが浮かんだ。

    「ありがとうございます、沖成さん」
    「どういたしまして」

     笑いながら差し出された手を取って横に並んで歩き出す。
     残り少ない時間。過ごし方は限られている。けれどその時間が今は待ち遠しくもあった。

    「あと一日ですね」
    「そうだね」

     月の暦は、明日で満月を迎える。



    *   *   *



     眩しいほどの月の光が少女の体を照らす。
     頭に着けた可憐な髪飾りが小さく光を反射して輝いていた。
     そのガラス玉の表面にいくつもの火の明かりが映り込む。数は、ふたつ。
     音もなく燃え上がった火の玉の内一つが、音もなく散って消える。



     少女はただ、恋焦がれるように足りない月に見入っていた。



    ──────────────────────────────────────────



    ここまで長々とお付き合い頂きありがとうございました。
    本篇は月兎の物語、第四回目です。
    この物語を書き始めてそろそろ一ヶ月ほどが経とうとしています。書き始めた頃はあるのはプロットだけという何とも先行き不安な物語でしたが、とうとう次回で最終話となります。
    よろしければ最後まで一緒にお付き合いいただけると幸いです。


  • 【結月祭】月の兎と晦朔 -カイサク-【月兎の物語】

    2013-09-24 23:03


                     これは月兎の物語

    ──────────────────────────────────────────


     月。

     地球の衛星として宇宙に浮かぶ天体。

     古来よりその存在は殆ど推移を見せず、しかし永遠に変遷し続けている。
     故に神秘を表すと同時に、忌み嫌われるものの象徴でもある。

     月は三つの顔を持ち合わせていると言われている。
     満ちる月。満月。欠ける月。

     では欠けた月はどうだろうか?

     欠けて、欠けて、細く擦れて────やがて訪れる月のない夜。

     きっとそれにも意味はある。


    *   *   *


    「ゆかり。起きてる?」
    「うん。今行く」

     襖越しに声が響き、部屋の中から少しぽわりとした声が響く。
     少女が居候を始めてから半月。その朝に日課となった少年の声に、部屋の中で頭をゆらゆらとしていた少女はしっかりと目を覚ます。
     見慣れた部屋。嗅ぎ慣れた空気。半月の間に目にし、聞いた幾多の事柄が色鮮やかに脳裏に焼きついている。
     今では布団もしっかりと畳めるようになり、箸使いも最初の頃に比べれば随分と上達した。……と思いたい。
     少女はちらりと襖を睨む。
     先日、小さな騒動があった。
     多くは語らないが、裸ではなかったのが幸いだろうか。以降、少年はこの部屋の戸を引くことはなくなった。
     交わされる言葉は全て扉越し。面と向かって話すときもよく視線を外すようになった。挙動不審とはまさにこのことである。
     それからこの頃よく音姫と話すことが増えた。と言っても大概は数日前に終わった『月奏祭』についてのことではあったのだが。
     『月奏祭』と言えば、その翌日のことが記憶に新しい。少年が半日程部屋で横になっていたのだ。話を聞いたところどうやら腕が痛く、力が入らないとのことだった。居間で横になりながら時々「父さんめ……」と恨めしそうに呟いていた。
     そんな毎日。少年の母親の手伝いをして、話をしながら時間を潰して。
     時間は経てば早いもので、天から注ぐ日差しは少し柔らかくなり始め、山々は少しずつ紅を差し始めている。
     祭りの準備の最中にはこれからの時期は美味しいものが沢山あると音姫は少し苦しそうに笑いながら言っていた。
     祭りの頃と横顔の違う山を窓から見つめながらそんなことを考えていると、脳裏を少年の顔が過ぎり目的を思い出して慌てて廊下へと出のだった。


    *   *   *


     自分の席に着き、手を合わせて唱和する。隣に座るゆかりは当初と比べると随分と慣れた手つきで膳へと手を伸ばす。
     食事の席はいつも物静かだ。原因は沖成の向かいで岩のように厳しい顔つきで食事を摂っている父親だが、言い返しても言葉が通じなかったことがあったのでそれ以降忠言は控えている。
     やがて我先にと食べ終えた父親が席を立ち食器を片付けて部屋へと戻る。すると示し合わせたように二人の肩が少しだけ降りた。どうやら二人とも同じ心境らしかった。
     少しして二人も食べ終えると食器を片してそれぞれに部屋へと戻る。と、その途中で母親に呼び止められた。

    「沖成」
    「何?」
    「明日の夜、覚えてるの?」
    「あぁ、うん」
    「ゆかりさんにも伝えときなさい」
    「わかった」

     母親の言葉に頷いて前へ向き直るとゆかりと視線が合った。思わず反射的に逸らしてしまう。
     ゆかり自身はあの事件については既に整理がついているらしくいつもと変わらない。が、どうにも真面目な沖成には負い目があるようで今でも随分と引き摺っている。
     しかし今回ばかりはそうも言ってられない。母親の言葉ではどうやら今回はゆかりも一緒らしいからだ。早めに伝えておかないと祭りの踊りの時のように直前で慌てることになりかねない。
     どうにか意識を総動員して視線を元に戻す。

    「あっ……と、その」
    「ん?」

     小さく首を傾げる。仕草に顔横の綺麗な髪の毛が小さく揺れた。その刹那に、ちらりと覗いた白い首筋へと沖成の視線は奪われ、思わず息を詰まらせた。

    「…………沖成?」

     素足の足音が廊下にぺたりと響く。反射的に一歩引いてしまった。これでは漫才ではないか。
     現状を俯瞰した自分が見つめ心の内で叱咤する。

    「その、明日……なんだけど……て違う。説明、うん、説明」
    「…………?」

     奇怪な言葉の使い方に紫苑の瞳に疑問符が浮かぶ。

    「えっと、うちではね、半年に一度新月の夜に禊をするんだ」
    「みそぎ?」

     ゆかりの問いに頷いて続ける。

    「禊っていうのは簡単に言うと穢れを落とす儀式だよ。体に溜まった悪いものを祓って、健康に過ごせるようにっていうおまじないみたいなものかな。体に水を掛けて悪いものを落とすんだよ」

     沖成の説明に聞き入って頷くゆかり。

    「それを明日の夜、お風呂に入るときにやって欲しいんだ」
    「……何で月?」

     その質問は祭りの準備の時以来二度目だ。こんな短期間につくづく月に縁があるなぁと沖成は一人苦笑した。

    「月……えっと新月には昔から神聖な力があって、その力が体の汚れを落としてくれるって言われてるんだ。で、その汚れを落とすって言うところがお風呂と繋がって、体から汚れを払うために水を掛けるんだ」
    「水じゃないと、だめ?」

     小さな問いかけに頷く。どうやら冷たいものをというのが少し気に掛かったらしい。

    「……禊ってね、本当は神職の人が神事を行う際に滝に打たれることを言うんだ。けれどこの辺りには滝はないし、僕たちは神職じゃあないから、代わりにお風呂で水を使って体を流すんだよ。だから水のほうがいい、かな?」

     沖成の答えと提案にゆかりは小さく俯く。少し悩んでいるらしい。が、しばらくすると顔を上げ「わかった」と零したのだった。


    *   *   *


     安穏と朝を過ごし昼ごはんを食べてゴロゴロしていると電話の音が響き渡った。どうやら外に注文していた荷物が村の入口に届いたらしい。直ぐに静かに逃げ出そうと試みたが、ばったり母親に捕まり敢え無く受け取りに。仕方なしにゆかりと二人で外へと出ると途中で音姫の背中を見つけたのだった。それから三人で再び歩き出す。

    「音姫の家は禊するの?」

     陽の差す畦道を歩きながらゆかりは隣を歩く音姫に問いかける。
     前を歩く沖成は手押し車を押しながら耳を後ろへ傾けていた。因みに沖成の荷物は肥料など、音姫の家は珍しい食べ物を取り寄せたらしい。手ぶらだったところを見るに最初から他人に頼る気だったのだろうか。このままいくと沖成が一人で二件分運ぶことになりそうだ。過ぎった想像に辟易しながら気乗りしない足取りで前へと進む。

    「私の家はしないよ。……ってそうか明日新月かぁ」
    「……? 音姫の家、明日何かあるの?」
    「いや、新月には願い事をするじゃない?」

     沖成の問いかけに音姫が答える。話に花を咲かせて、それからこれから待ち受けるであろう労働に早く気づいて欲しい。

    「願い事?」

     が、話を横から攫っていったのはゆかりだった。

    「何にお願いするの?」
    「月に……新月にお願いするんだよ」
    「よく流れ星にお願いするよね」
    「わたしは現実味のある月の方が好きかなぁ」

     お願いと言って真っ先に思い浮かぶのは七夕や流れ星だろう。そう思い口を挟んでみるが取り合ってもらえなかった。

    「流れ星のお願いっていうのは天の隙間からこぼれ落ちた流れ星にするもので、そこにお願いすると天の神様に叶えてもらえるっていう考えを昔の人がしたりして、それが今に伝わる有名な願い事成就の話になっていったりするんだよね」
    「月は?」
    「新月のお願いっていうのは新月をゼロと例えて、月が満ちる度に力が溜まってやがてお願いが叶うって言われてる。それに新月は月の光がなくなるから星座や流れ星も見つけやすくなるしね。新月は悪いことばかりじゃないよ」

     どうやら音姫は話の中でゆかりの禊に対する気持ちに気づいて、それを和らげてくれたらしい。
     話を聞き終えたゆかりは家を出る時より少しだけ嬉しそうに頬を緩ませる。
     そんな様子の二人を目端で捉えながら沖成は一人必死に胸中で呟く。
     ……音姫さん、その優しさを少しでも労力へ回してはいただけないでしょうか。

    *   *   *


     結局、沖成の願い事は星にも月にも届くことはなかった。
     沖成と音姫の家。二度の往復を終えて沖成が家に戻ると先に帰っていたゆかりが台所で母親と料理をしていた。
     眺めていると食器を出せと巻き込まれたのでやることだけを終わらせて部屋へ篭る。
     戸を閉めて畳に転がると倦怠感が体を押しつぶすように押し寄せてきた。夕食間近なのでこのまま寝ては叩き起される。
     寝覚めの悪い思いをしないようにどうにか意識を保ったままぼんやりした頭で考える。
     時折頭を過ぎる人ではないものの影。それはよくゆかりと一緒にいる時が多く、彼女を見ていると胸がざわつくことがたまにある。
     あの感覚は何かに似ている気がする。焦燥感染みた感情が寂寥感のような何かへ変わっていく感覚。家畜が売られていくような消失感。
     窓から耳に届くセミの鳴き声は夕暮れ時のヒグラシへと変わっている。その音を静かに自分の部屋で一人聞いている。
     いろいろな偶然と感情が重なって、唐突に虚しくなる。
     これ以上考えていたら何かを失ってしまうかもしれない。胸の内に湧き上がる感情がそうブレーキを掛けて思考を現実へ引き戻した。
     それから喉が渇いていることに今更気づき、お茶でも飲みに行こうかと起き上がり部屋を出る。

    「あっ……」

     襖を開けると目の前にゆかりが立っていて、勝手に開いた扉に目を丸くしていた。

    「ご飯?」
    「うん、呼んできてって言われた」
    「分かった」

     短く言葉を交わしてゆかりの後を追う。視界の先で揺れる二つの長い耳がうさぎのようで少しだけその輪郭がぼやけて見えた。
     その後家族揃って夕食を摂り終えると風呂に入って部屋へと戻る。
     変わらない日々。平穏な日常。その中で気になることがあれば、それはきっと居候中の彼女についてだろう。先ほど区切った思考を別角度から再び思案を重ねる。
     彼女は未だ何も思い出さない。自分の名前も、どこから来たのかも。それはこちらが気になっても責めるほどに聞かないからだろうか。
     それとも既に思い出していて、それを言い出さないだけなのだろうか。
     考えれば考えるほど泥沼に嵌っていく。やがてそれが彼女を疑うことだと気がついて首を振った。
     その時、襖の先で小さな音が響いた。続けて廊下を歩く音。沖成の向かいの部屋は元々物置で、今はゆかりが使っている。
     時計に目をやると時刻は八時を回っていた。気になって部屋から顔を出す。
     聞こえるのは鮮明になった足音だけ。やがてそれも途切れる。最後に聞こえたのは玄関の方だ。
     逡巡して、それから沖成は部屋を出た。
     玄関へ向かうとゆかりが一人で靴を履いていた。

    「ゆかり……?」
    「何?」

     手を止めてこちらへ振り返る。その瞳はいつもと変わらない綺麗な紫色を湛えていた。

    「もう外暗いよ? どこに行くの?」
    「散歩。沖成も一緒に行く?」

     いつもと変わらない静かな口調でそう零すゆかり。彼女のその言葉に胸がざわつくのを感じた沖成は小さく頷く。

    「準備してくるから待ってて」
    「わかった」

     踵を返し部屋へ戻る。
     夏も終わりに近づき夜は冷え込む。半袖で歩き回れば風邪をひくだろう。それにこの辺りは山が多い。虫も沢山わくだろうから上下とも袖や裾の長い服を着た方がいいだろう。
     箪笥から薄手のそれを取り出して着替え、玄関へと戻る。一応両親には一言声を掛けてゆかりと合流した。

    「いこう」
    「うん」

     そうしてゆかりに引っ張られるように沖成は家を出た。


    *   *   *


     小さく虫の鳴く暗い畦道を二人で歩く。視界の先には頼りない懐中電灯の光が足元を照らし、時折小さな虫が横切っていた。
     隣を歩くゆかりの足に迷いはない。

    「その……ゆかりはいつも散歩してたの?」
    「うん」
    「何で?」
    「月が────」

     そう言って、ゆかりは空を見上げた。立ち止まって沖成も漆黒の天幕を仰ぐ。空には既に月はない。山の奥へと落ちている。

    「月…………?」
    「だんだん隠れて…………なくなるの?」 

     そう呟くゆかりの横顔が居場所をなくした子供のようで、沖成は胸がギュッと締めつけられた。

    「……大丈夫だよ。少しの間向こう側を向くだけ。また直ぐにこっちに顔を見せてくれるよ」
    「…………うん」

     俯いて手を握るゆかり。
     彼女の言動は以前と比べて不安定になってきている気がする。それが彼女の内的要因なのかそれとも外的要因なのかはわからない。
     けれど沖成の懸念は恐らく当たっているだろうし、彼女も自覚はしているのだろう。そんな時、刹那に見せる神秘的なほど遠くを見つめる瞳は沖成を惹きつける何かを秘めていた。

    「沖成は、月に、何をお願いするの?」
    「…………わからない」

     虚ろな口調で交わす言葉。意味もなくなりそうなほど曖昧で不確かな声が耳に届いているのかもわからない中続ける。

    「ゆかりは?」
    「…………わからない、けど……その時に、なったら」

     夢遊病のように呆然と空を見上げながら立ち尽くす。そうして降りた無言の時間が、ただ静かで心地が良かった。
     やがて空のどこかで星が尾を引いて瞬く。

    「流れ星……」
    「なにかお願いした?」

     問いにゆかりはくすりと笑う。当たり前だ一秒にも満たない内に三度願うなど、短くない限り不可能だ。

    「…………あ」

     ようやくそこで沖成は気づく。
     自分の願いがどれほど傲慢でどれほど身勝手なのか。
     これは、願ったところでどうなるものでもない。
     それでも心の底から願ってしまう。

     ────どうか、ゆかりがこのまま…………。


    *   *   *


     翌日の朝は少しだけ遅くに起きた。昨夜慣れない事をしたからだろうか。
     扉越しにゆかりへ声をかけるといつもと変わらない返事があった。まるで昨夜のことはなかったことのように。
     ちらりと脳裏に彼女の背中が浮かんで、慌てて振り払った。けれど胸を覆う暗雲は拭えずあまりいいとは言えない想像ばかりが頭を巡る。

    「……おはよう」

     そんなことをしていると背中に挨拶が掛けられた。
     振り向き同じ挨拶を返す。咄嗟だったがいつも通り振舞うことができた。

    「おはよう。いこ、もうご飯が出来てる」
    「うん」

     頷きを確認して食の場へと向かう。
     変わらない席について変わらない唱和をして。食べ終えれば食器を片付け部屋へと戻る。
     それまでと変わらない日々。そんな変化のない日常にどこか安心している自分がいた。


    *   *   *


     それから変わらない家の仕事をこなして、気づけばいつの間にか陽は傾き夕刻を示していた。
     家の中へと戻ると昨日同様ゆかりと母親が並んで台所に立っていた。少し危なっかしい後ろ姿を見ながら思案に耽る。
     彼女の挑戦精神は随分と強いほうだろう。積極的に物事に取り組み興味のあることには進んで学ぼうとする。居候の対価にと言えばそれまでだが、しかし半月一緒に過ごしてきた沖成からすれば彼女のそれは恩返しという枠を超えている気がした。
     じっと見つめていると手を止めたゆかりが不意に振り向く。当たり前と言えばそうだが彼女は白いエプロンを着けていた。初めて見る姿に胸がどきりと跳ねる。
     どこかミスマッチな、あどけなさと包容力を感じさせる雰囲気に目を奪われていると、ゆかりは棚からコップを出してお茶を注ぎ出してくれた。

    「飲む?」
    「……次からは注ぐ前に聞いて欲しいかな」
    「分かった」

     淡々とした返事をしてまたまな板の前へと戻る。いつも通りを装ったみたいだったが振り向きざまに見えた耳朶が赤く染まっていた。
     笑うと手に持った包丁がこちらに向きそうなのでどうにか堪えてお茶と一緒に飲み下した。


    *   *   *


     夕食が並ぶと席に着き全員で手を合わせて代わり映えのしない挨拶を唱和する。箸とお椀を手に取り、皿に盛られたおかずを口に運ぶ。
     全員が何も話さないのはいつも通りだが、今日だけはその空気が神聖に感じられた。
     それぞれが食事を片付けると順番に風呂へと向かう。両親が禊を終わり、次は沖成の順番だ。
     脱衣所で衣服を脱ぎ、湯気の立ち込めた浴室で桶に水を注ぐ。
     正式な作法としては掛け声などがあるがその辺りは全て簡略化されている。その代わり、時間を掛けて禊を行い体の穢れを祓うのが沖成の家の習わしだ。
     氷水のように冷えた水が体を伝う。突然の刺激に体が反射的に身じろぎをした。
     禊は複数回に分けるとき冷水を行う場所を心の臟より遠い場所から行う。そのため幾度か行うと温度に慣れたのか落ち着いて禊を行うことができた。
     禊を終えると一度体を温め、その後一般的な汚れを落としたあとで再び湯に浸かる。最後に桶に取った綺麗な湯で体を流して風呂から上がる。
     この一連の行為が禊を簡略化したものだ。
     体を拭って服を着ると、居間にいたゆかりに声をかける。彼女は小さく頷くと早足で自室へと戻っていった。
     火照った体を冷やすため、コップに注いだお茶を煽る。喉を冷たい流体が通り抜けるとひとつ息が漏れた。
     コップを片付けて部屋へと戻る。と、その途中──脱衣所の前を通り過ぎようとしたところで扉一枚隔てた向こうから声が掛けられた。

    「沖成……?」
    「どうしたの?」

     声はゆかりのもの。足を止めて言葉を返す。何か問題でもあったのだろうか?

    「やりかた……緊張して……忘れた」

     少しの間を空けて零れた声に胸を撫で下ろす。

    「良かったよ、大きな問題じゃなくて。えっと、まずは────」
    「だから教えて」
    「っ────!」

     そうして油断したのが悪かったのか……それとも良かったのか。次の瞬間には脱衣所の扉が開けられ、そこから伸びた白く細い華奢な腕が沖成の手を引っ張り部屋の中へと連れ込んだ。
     平衡感覚をうまく取れず前のめりになって床へと転がる。閉じていた目を開くとゆかりの素足が目に飛び込んで来て、脳内に数日前の事件がフラッシュバックした。
     刹那に顔が熱を持ち体が緊張で硬直する。

    「沖成……」

     そう呼ぶゆかりの声でさえ、沖成の耳には甘い風が撫でるように届いた。

    「沖成」
    「ゆ、ゆか────」

     声に耐え切れずに思わず顔を上げる。そこに立っているゆかりに────全身が服に覆われて……いるゆかりに再度硬直して。
     己の早とちりに勢いよく額を床にぶつけた沖成だった。


    *   *   *


    「……水を取った?」
    「うん」

     浴室に反響する声が沖成の理性を逆撫でする。
     いくら真面目で誠実たろうとしている沖成も、生物学上は列記とした男だ。こんな状況でいつも通りを振る舞えるわけはない。いや、真面目だからこその反動なのだろうか。
     沖成は今脱衣所に居た。浴室の扉に背を預けて床に座り込み、必死に他の何も目に入れないように下を向き続けている。
     壁──扉一枚を隔てた先には一糸まとわぬ姿のゆかりがいる。彼女は今禊の最中だ。
     あのちょっとした騒動の後、ゆかりに無垢な瞳で頼まれた沖成は仕方なく頷き、壁越しに禊の作法を教えるということになった。
     もちろん神に──月に誓って彼女の裸は見ていない。そう言った申告は互いの信用問題だろう。
     そういう経緯があって、信頼の上に今がある。

    「沖成、次は?」

     音を過去に置いて届くゆかりの声が嫌に敏感になった聴覚を擽る。沖成は張り詰めた緊張を一時も緩めないまま、震える唇でどうにか紡ぐ。

    「……まず、は……右足。次に、左足…………右肩、左肩の、順番で全体に……」

     沖成にはまるで拷問のようでもあった。目を上げれば彼女の衣服が目に付き、鼻には芳しい女性独特の匂いが漂う。浴室から漏れ出した暖かい空気は頬を撫で、耳には艶かしい水の滴る音が響く。
     無心になればなろうとするほど感覚は研ぎ澄まされ、背を向けているはずの彼女の身じろぎ一つでさえ想像できてしまう。

    「……終わったら?」

     しっとりと濡れた声が響き、思わず沖成は背を正す。

    「終わったら、普通にお風呂に入って……体を洗って……最後に上がる前に綺麗なお湯で体を流して……終わり」
    「わかった」

     これで沖成の役目は終わりだ。張り詰めた緊張をゆっくりと解きながら立ち上がる。足元が覚束無いのはずっと正座していたからだろう。
     静かにその場を離れ扉の取っ手に手をかける。

    「沖成」

     その瞬間に呼ばれた名前に、再び体を石のように固くする。
     極限まで敏感になった聴覚が、扉の向こうで息を整える彼女の呼吸を拾う。その吐息に呼応するように沖成の鼓動は跳ね上がり胸を打つ。

    「…………ありがとう」

     次いで放たれた言葉に無言で頷くと扉を開けて飛び出し、後ろ手に閉めて廊下にへたりこむ。
     ようやく呼吸を整えた頃にはゆかりが風呂から上がってきていて、慌てて自室へ駆け込んだのだった。


    *   *   *


     部屋で仰向けになって倒れていると外から声が掛けられた。

    「沖成、起きてる?」

     控えめな声は聞きなれたゆかりのもの。脳裏に先ほどのことが過ぎって躊躇したが、意を決して声を返す。

    「……どうしたの?」
    「散歩に、いかない?」

     ゆかりからの誘い。もしかすると彼女が彼女の意思で自分の何かに巻き込むのはこれが初めてだったのかもしれない。
     少しだけ考えてそれから起き上がり、箪笥へ向かう。

    「……ちょっと待ってて」
    「うん」

     袖と裾の長い上下を取り出して着替えると廊下へと出る。律儀にその場で待っていたゆかりと一緒に夜の村へと歩き出した。
     月のない夜。道を照らすのは道端につけられた人工的な明かりだけで、それも時々不安げにチカチカと明滅している。
     走行性の虫たちが光へ集まるように、二人は示し合わせたように闇へと向けて歩を進める。
     やがて足を止めたどり着いたのは二人が出会った山の麓だった。ここは村の外れということもあって明かりが点いていない。天体観測をするにはいい場所だ。虫が多いことを除けばだが……。

    「沖成は何をお願いするの?」

     ゆかりの言葉に少し考える。無病息災、億万長者……。咄嗟に思いつくものは在り来りなものばかりだ。
     けれどそんな欲望とは別に、胸の内に一つだけ確かな願いが疼いていた。

    「願い事は口にしたら叶わないって言われてるんだよ」
    「……そう」

     短い返答。静かな口調に沖成の心も自然と凪いでいく。

    「…………新月ってね、本当は月が昇らない夜のことじゃないんだ」
    「…………?」

     沖成の言葉に隣のゆかりが小さく首を傾げる。

    「月の昇らない夜は朔……朔日って言われる日なんだ。朔が過ぎて最初に見える月のことを本当は新月って言うんだよ」
    「今日は、新月じゃないの……?」
    「月の暦だとそうだね。でも一般的には月の昇らない日の夜が新月ってことになってるから、今日が新月でもあるんだ」
    「……願い事は?」
    「音姫の言ってた願い事は新月をゼロとして……ってことだったよね。だったら願い事をする日はゼロ……月が出ない今日がその日だよ」

     満天の星空の下、漆黒の暗幕を仰いだままそう語ってみせる沖成。その横顔を話を聞きながら見つめていたゆかりも、同じように空へと視線を向けた。
     暦はもうすぐ夏から秋へと移り変わる。温度が下がり、木の実や果実が熟れ葉は鮮やかに色づく。気持ちが少し寂しくなり、空気に僅かばかりの憂愁が滲む。
     実りと侘しさを帯びる季節。
     その境となる、新月──朔。
     夏の終わり、そして秋の始まり。
     意味を持つ、形のない月。
     ある意味では、始まりなのだろう。ここより始まり、満月を経て、新月に終わる。
     新月の、意味。

    「ゆかり」

     隣からの問いかけに少女は沈黙と共に頷いて瞳を閉ざす。
     願う。いつ叶うとも知れない希望を抱き、それを僅かな望みに託す。
     願う。思う。想う。描く。作る。造る。創る。
     その願いが、未来を紡ぐ。
     そう心より信じて────────


    *   *   *


    「何てお願いしたの?」

     帰り道。沖成は隣を歩く少女に意地悪に尋ねる。すると足を止めた少女は首を傾げて優しく笑った。

    「内緒ですっ」


    *   *   *


     月明かりのない山の麓。星の雨に打たれて立ち尽くす少女の姿。
     虫の音の止んだ刹那に、可憐で寂しい戦慄が小さく紡がれる。そのフレーズは祭りの踊り囃子。
     すると彼女の足元に提灯の灯りのようにいくつかの灯火が円を描いて燃え上がる。数はとを あまり いつつ。
     そうして湛えた火の玉の内の一つがロウソクの火のように儚く消える。


     少女はただ、月をなくした空をいつまでも眺めていた。


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    ここまで読んでくださった方ありがとうございます。
    本篇は月兎の物語、第三回目です。
    全五回に渡る小説もここでようやく折り返し地点です。よろしければ後半戦も一緒にお付き合いいただけると幸いです。
    次回の予定は相も変わらず未定の二文字。
    完結できるのか否か、そのあたりにも乞うご期待。