【結月祭】月の兎と晦朔 -カイサク-【月兎の物語】
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【結月祭】月の兎と晦朔 -カイサク-【月兎の物語】

2013-09-24 23:03


                     これは月兎の物語

    ──────────────────────────────────────────


     月。

     地球の衛星として宇宙に浮かぶ天体。

     古来よりその存在は殆ど推移を見せず、しかし永遠に変遷し続けている。
     故に神秘を表すと同時に、忌み嫌われるものの象徴でもある。

     月は三つの顔を持ち合わせていると言われている。
     満ちる月。満月。欠ける月。

     では欠けた月はどうだろうか?

     欠けて、欠けて、細く擦れて────やがて訪れる月のない夜。

     きっとそれにも意味はある。


    *   *   *


    「ゆかり。起きてる?」
    「うん。今行く」

     襖越しに声が響き、部屋の中から少しぽわりとした声が響く。
     少女が居候を始めてから半月。その朝に日課となった少年の声に、部屋の中で頭をゆらゆらとしていた少女はしっかりと目を覚ます。
     見慣れた部屋。嗅ぎ慣れた空気。半月の間に目にし、聞いた幾多の事柄が色鮮やかに脳裏に焼きついている。
     今では布団もしっかりと畳めるようになり、箸使いも最初の頃に比べれば随分と上達した。……と思いたい。
     少女はちらりと襖を睨む。
     先日、小さな騒動があった。
     多くは語らないが、裸ではなかったのが幸いだろうか。以降、少年はこの部屋の戸を引くことはなくなった。
     交わされる言葉は全て扉越し。面と向かって話すときもよく視線を外すようになった。挙動不審とはまさにこのことである。
     それからこの頃よく音姫と話すことが増えた。と言っても大概は数日前に終わった『月奏祭』についてのことではあったのだが。
     『月奏祭』と言えば、その翌日のことが記憶に新しい。少年が半日程部屋で横になっていたのだ。話を聞いたところどうやら腕が痛く、力が入らないとのことだった。居間で横になりながら時々「父さんめ……」と恨めしそうに呟いていた。
     そんな毎日。少年の母親の手伝いをして、話をしながら時間を潰して。
     時間は経てば早いもので、天から注ぐ日差しは少し柔らかくなり始め、山々は少しずつ紅を差し始めている。
     祭りの準備の最中にはこれからの時期は美味しいものが沢山あると音姫は少し苦しそうに笑いながら言っていた。
     祭りの頃と横顔の違う山を窓から見つめながらそんなことを考えていると、脳裏を少年の顔が過ぎり目的を思い出して慌てて廊下へと出のだった。


    *   *   *


     自分の席に着き、手を合わせて唱和する。隣に座るゆかりは当初と比べると随分と慣れた手つきで膳へと手を伸ばす。
     食事の席はいつも物静かだ。原因は沖成の向かいで岩のように厳しい顔つきで食事を摂っている父親だが、言い返しても言葉が通じなかったことがあったのでそれ以降忠言は控えている。
     やがて我先にと食べ終えた父親が席を立ち食器を片付けて部屋へと戻る。すると示し合わせたように二人の肩が少しだけ降りた。どうやら二人とも同じ心境らしかった。
     少しして二人も食べ終えると食器を片してそれぞれに部屋へと戻る。と、その途中で母親に呼び止められた。

    「沖成」
    「何?」
    「明日の夜、覚えてるの?」
    「あぁ、うん」
    「ゆかりさんにも伝えときなさい」
    「わかった」

     母親の言葉に頷いて前へ向き直るとゆかりと視線が合った。思わず反射的に逸らしてしまう。
     ゆかり自身はあの事件については既に整理がついているらしくいつもと変わらない。が、どうにも真面目な沖成には負い目があるようで今でも随分と引き摺っている。
     しかし今回ばかりはそうも言ってられない。母親の言葉ではどうやら今回はゆかりも一緒らしいからだ。早めに伝えておかないと祭りの踊りの時のように直前で慌てることになりかねない。
     どうにか意識を総動員して視線を元に戻す。

    「あっ……と、その」
    「ん?」

     小さく首を傾げる。仕草に顔横の綺麗な髪の毛が小さく揺れた。その刹那に、ちらりと覗いた白い首筋へと沖成の視線は奪われ、思わず息を詰まらせた。

    「…………沖成?」

     素足の足音が廊下にぺたりと響く。反射的に一歩引いてしまった。これでは漫才ではないか。
     現状を俯瞰した自分が見つめ心の内で叱咤する。

    「その、明日……なんだけど……て違う。説明、うん、説明」
    「…………?」

     奇怪な言葉の使い方に紫苑の瞳に疑問符が浮かぶ。

    「えっと、うちではね、半年に一度新月の夜に禊をするんだ」
    「みそぎ?」

     ゆかりの問いに頷いて続ける。

    「禊っていうのは簡単に言うと穢れを落とす儀式だよ。体に溜まった悪いものを祓って、健康に過ごせるようにっていうおまじないみたいなものかな。体に水を掛けて悪いものを落とすんだよ」

     沖成の説明に聞き入って頷くゆかり。

    「それを明日の夜、お風呂に入るときにやって欲しいんだ」
    「……何で月?」

     その質問は祭りの準備の時以来二度目だ。こんな短期間につくづく月に縁があるなぁと沖成は一人苦笑した。

    「月……えっと新月には昔から神聖な力があって、その力が体の汚れを落としてくれるって言われてるんだ。で、その汚れを落とすって言うところがお風呂と繋がって、体から汚れを払うために水を掛けるんだ」
    「水じゃないと、だめ?」

     小さな問いかけに頷く。どうやら冷たいものをというのが少し気に掛かったらしい。

    「……禊ってね、本当は神職の人が神事を行う際に滝に打たれることを言うんだ。けれどこの辺りには滝はないし、僕たちは神職じゃあないから、代わりにお風呂で水を使って体を流すんだよ。だから水のほうがいい、かな?」

     沖成の答えと提案にゆかりは小さく俯く。少し悩んでいるらしい。が、しばらくすると顔を上げ「わかった」と零したのだった。


    *   *   *


     安穏と朝を過ごし昼ごはんを食べてゴロゴロしていると電話の音が響き渡った。どうやら外に注文していた荷物が村の入口に届いたらしい。直ぐに静かに逃げ出そうと試みたが、ばったり母親に捕まり敢え無く受け取りに。仕方なしにゆかりと二人で外へと出ると途中で音姫の背中を見つけたのだった。それから三人で再び歩き出す。

    「音姫の家は禊するの?」

     陽の差す畦道を歩きながらゆかりは隣を歩く音姫に問いかける。
     前を歩く沖成は手押し車を押しながら耳を後ろへ傾けていた。因みに沖成の荷物は肥料など、音姫の家は珍しい食べ物を取り寄せたらしい。手ぶらだったところを見るに最初から他人に頼る気だったのだろうか。このままいくと沖成が一人で二件分運ぶことになりそうだ。過ぎった想像に辟易しながら気乗りしない足取りで前へと進む。

    「私の家はしないよ。……ってそうか明日新月かぁ」
    「……? 音姫の家、明日何かあるの?」
    「いや、新月には願い事をするじゃない?」

     沖成の問いかけに音姫が答える。話に花を咲かせて、それからこれから待ち受けるであろう労働に早く気づいて欲しい。

    「願い事?」

     が、話を横から攫っていったのはゆかりだった。

    「何にお願いするの?」
    「月に……新月にお願いするんだよ」
    「よく流れ星にお願いするよね」
    「わたしは現実味のある月の方が好きかなぁ」

     お願いと言って真っ先に思い浮かぶのは七夕や流れ星だろう。そう思い口を挟んでみるが取り合ってもらえなかった。

    「流れ星のお願いっていうのは天の隙間からこぼれ落ちた流れ星にするもので、そこにお願いすると天の神様に叶えてもらえるっていう考えを昔の人がしたりして、それが今に伝わる有名な願い事成就の話になっていったりするんだよね」
    「月は?」
    「新月のお願いっていうのは新月をゼロと例えて、月が満ちる度に力が溜まってやがてお願いが叶うって言われてる。それに新月は月の光がなくなるから星座や流れ星も見つけやすくなるしね。新月は悪いことばかりじゃないよ」

     どうやら音姫は話の中でゆかりの禊に対する気持ちに気づいて、それを和らげてくれたらしい。
     話を聞き終えたゆかりは家を出る時より少しだけ嬉しそうに頬を緩ませる。
     そんな様子の二人を目端で捉えながら沖成は一人必死に胸中で呟く。
     ……音姫さん、その優しさを少しでも労力へ回してはいただけないでしょうか。

    *   *   *


     結局、沖成の願い事は星にも月にも届くことはなかった。
     沖成と音姫の家。二度の往復を終えて沖成が家に戻ると先に帰っていたゆかりが台所で母親と料理をしていた。
     眺めていると食器を出せと巻き込まれたのでやることだけを終わらせて部屋へ篭る。
     戸を閉めて畳に転がると倦怠感が体を押しつぶすように押し寄せてきた。夕食間近なのでこのまま寝ては叩き起される。
     寝覚めの悪い思いをしないようにどうにか意識を保ったままぼんやりした頭で考える。
     時折頭を過ぎる人ではないものの影。それはよくゆかりと一緒にいる時が多く、彼女を見ていると胸がざわつくことがたまにある。
     あの感覚は何かに似ている気がする。焦燥感染みた感情が寂寥感のような何かへ変わっていく感覚。家畜が売られていくような消失感。
     窓から耳に届くセミの鳴き声は夕暮れ時のヒグラシへと変わっている。その音を静かに自分の部屋で一人聞いている。
     いろいろな偶然と感情が重なって、唐突に虚しくなる。
     これ以上考えていたら何かを失ってしまうかもしれない。胸の内に湧き上がる感情がそうブレーキを掛けて思考を現実へ引き戻した。
     それから喉が渇いていることに今更気づき、お茶でも飲みに行こうかと起き上がり部屋を出る。

    「あっ……」

     襖を開けると目の前にゆかりが立っていて、勝手に開いた扉に目を丸くしていた。

    「ご飯?」
    「うん、呼んできてって言われた」
    「分かった」

     短く言葉を交わしてゆかりの後を追う。視界の先で揺れる二つの長い耳がうさぎのようで少しだけその輪郭がぼやけて見えた。
     その後家族揃って夕食を摂り終えると風呂に入って部屋へと戻る。
     変わらない日々。平穏な日常。その中で気になることがあれば、それはきっと居候中の彼女についてだろう。先ほど区切った思考を別角度から再び思案を重ねる。
     彼女は未だ何も思い出さない。自分の名前も、どこから来たのかも。それはこちらが気になっても責めるほどに聞かないからだろうか。
     それとも既に思い出していて、それを言い出さないだけなのだろうか。
     考えれば考えるほど泥沼に嵌っていく。やがてそれが彼女を疑うことだと気がついて首を振った。
     その時、襖の先で小さな音が響いた。続けて廊下を歩く音。沖成の向かいの部屋は元々物置で、今はゆかりが使っている。
     時計に目をやると時刻は八時を回っていた。気になって部屋から顔を出す。
     聞こえるのは鮮明になった足音だけ。やがてそれも途切れる。最後に聞こえたのは玄関の方だ。
     逡巡して、それから沖成は部屋を出た。
     玄関へ向かうとゆかりが一人で靴を履いていた。

    「ゆかり……?」
    「何?」

     手を止めてこちらへ振り返る。その瞳はいつもと変わらない綺麗な紫色を湛えていた。

    「もう外暗いよ? どこに行くの?」
    「散歩。沖成も一緒に行く?」

     いつもと変わらない静かな口調でそう零すゆかり。彼女のその言葉に胸がざわつくのを感じた沖成は小さく頷く。

    「準備してくるから待ってて」
    「わかった」

     踵を返し部屋へ戻る。
     夏も終わりに近づき夜は冷え込む。半袖で歩き回れば風邪をひくだろう。それにこの辺りは山が多い。虫も沢山わくだろうから上下とも袖や裾の長い服を着た方がいいだろう。
     箪笥から薄手のそれを取り出して着替え、玄関へと戻る。一応両親には一言声を掛けてゆかりと合流した。

    「いこう」
    「うん」

     そうしてゆかりに引っ張られるように沖成は家を出た。


    *   *   *


     小さく虫の鳴く暗い畦道を二人で歩く。視界の先には頼りない懐中電灯の光が足元を照らし、時折小さな虫が横切っていた。
     隣を歩くゆかりの足に迷いはない。

    「その……ゆかりはいつも散歩してたの?」
    「うん」
    「何で?」
    「月が────」

     そう言って、ゆかりは空を見上げた。立ち止まって沖成も漆黒の天幕を仰ぐ。空には既に月はない。山の奥へと落ちている。

    「月…………?」
    「だんだん隠れて…………なくなるの?」 

     そう呟くゆかりの横顔が居場所をなくした子供のようで、沖成は胸がギュッと締めつけられた。

    「……大丈夫だよ。少しの間向こう側を向くだけ。また直ぐにこっちに顔を見せてくれるよ」
    「…………うん」

     俯いて手を握るゆかり。
     彼女の言動は以前と比べて不安定になってきている気がする。それが彼女の内的要因なのかそれとも外的要因なのかはわからない。
     けれど沖成の懸念は恐らく当たっているだろうし、彼女も自覚はしているのだろう。そんな時、刹那に見せる神秘的なほど遠くを見つめる瞳は沖成を惹きつける何かを秘めていた。

    「沖成は、月に、何をお願いするの?」
    「…………わからない」

     虚ろな口調で交わす言葉。意味もなくなりそうなほど曖昧で不確かな声が耳に届いているのかもわからない中続ける。

    「ゆかりは?」
    「…………わからない、けど……その時に、なったら」

     夢遊病のように呆然と空を見上げながら立ち尽くす。そうして降りた無言の時間が、ただ静かで心地が良かった。
     やがて空のどこかで星が尾を引いて瞬く。

    「流れ星……」
    「なにかお願いした?」

     問いにゆかりはくすりと笑う。当たり前だ一秒にも満たない内に三度願うなど、短くない限り不可能だ。

    「…………あ」

     ようやくそこで沖成は気づく。
     自分の願いがどれほど傲慢でどれほど身勝手なのか。
     これは、願ったところでどうなるものでもない。
     それでも心の底から願ってしまう。

     ────どうか、ゆかりがこのまま…………。


    *   *   *


     翌日の朝は少しだけ遅くに起きた。昨夜慣れない事をしたからだろうか。
     扉越しにゆかりへ声をかけるといつもと変わらない返事があった。まるで昨夜のことはなかったことのように。
     ちらりと脳裏に彼女の背中が浮かんで、慌てて振り払った。けれど胸を覆う暗雲は拭えずあまりいいとは言えない想像ばかりが頭を巡る。

    「……おはよう」

     そんなことをしていると背中に挨拶が掛けられた。
     振り向き同じ挨拶を返す。咄嗟だったがいつも通り振舞うことができた。

    「おはよう。いこ、もうご飯が出来てる」
    「うん」

     頷きを確認して食の場へと向かう。
     変わらない席について変わらない唱和をして。食べ終えれば食器を片付け部屋へと戻る。
     それまでと変わらない日々。そんな変化のない日常にどこか安心している自分がいた。


    *   *   *


     それから変わらない家の仕事をこなして、気づけばいつの間にか陽は傾き夕刻を示していた。
     家の中へと戻ると昨日同様ゆかりと母親が並んで台所に立っていた。少し危なっかしい後ろ姿を見ながら思案に耽る。
     彼女の挑戦精神は随分と強いほうだろう。積極的に物事に取り組み興味のあることには進んで学ぼうとする。居候の対価にと言えばそれまでだが、しかし半月一緒に過ごしてきた沖成からすれば彼女のそれは恩返しという枠を超えている気がした。
     じっと見つめていると手を止めたゆかりが不意に振り向く。当たり前と言えばそうだが彼女は白いエプロンを着けていた。初めて見る姿に胸がどきりと跳ねる。
     どこかミスマッチな、あどけなさと包容力を感じさせる雰囲気に目を奪われていると、ゆかりは棚からコップを出してお茶を注ぎ出してくれた。

    「飲む?」
    「……次からは注ぐ前に聞いて欲しいかな」
    「分かった」

     淡々とした返事をしてまたまな板の前へと戻る。いつも通りを装ったみたいだったが振り向きざまに見えた耳朶が赤く染まっていた。
     笑うと手に持った包丁がこちらに向きそうなのでどうにか堪えてお茶と一緒に飲み下した。


    *   *   *


     夕食が並ぶと席に着き全員で手を合わせて代わり映えのしない挨拶を唱和する。箸とお椀を手に取り、皿に盛られたおかずを口に運ぶ。
     全員が何も話さないのはいつも通りだが、今日だけはその空気が神聖に感じられた。
     それぞれが食事を片付けると順番に風呂へと向かう。両親が禊を終わり、次は沖成の順番だ。
     脱衣所で衣服を脱ぎ、湯気の立ち込めた浴室で桶に水を注ぐ。
     正式な作法としては掛け声などがあるがその辺りは全て簡略化されている。その代わり、時間を掛けて禊を行い体の穢れを祓うのが沖成の家の習わしだ。
     氷水のように冷えた水が体を伝う。突然の刺激に体が反射的に身じろぎをした。
     禊は複数回に分けるとき冷水を行う場所を心の臟より遠い場所から行う。そのため幾度か行うと温度に慣れたのか落ち着いて禊を行うことができた。
     禊を終えると一度体を温め、その後一般的な汚れを落としたあとで再び湯に浸かる。最後に桶に取った綺麗な湯で体を流して風呂から上がる。
     この一連の行為が禊を簡略化したものだ。
     体を拭って服を着ると、居間にいたゆかりに声をかける。彼女は小さく頷くと早足で自室へと戻っていった。
     火照った体を冷やすため、コップに注いだお茶を煽る。喉を冷たい流体が通り抜けるとひとつ息が漏れた。
     コップを片付けて部屋へと戻る。と、その途中──脱衣所の前を通り過ぎようとしたところで扉一枚隔てた向こうから声が掛けられた。

    「沖成……?」
    「どうしたの?」

     声はゆかりのもの。足を止めて言葉を返す。何か問題でもあったのだろうか?

    「やりかた……緊張して……忘れた」

     少しの間を空けて零れた声に胸を撫で下ろす。

    「良かったよ、大きな問題じゃなくて。えっと、まずは────」
    「だから教えて」
    「っ────!」

     そうして油断したのが悪かったのか……それとも良かったのか。次の瞬間には脱衣所の扉が開けられ、そこから伸びた白く細い華奢な腕が沖成の手を引っ張り部屋の中へと連れ込んだ。
     平衡感覚をうまく取れず前のめりになって床へと転がる。閉じていた目を開くとゆかりの素足が目に飛び込んで来て、脳内に数日前の事件がフラッシュバックした。
     刹那に顔が熱を持ち体が緊張で硬直する。

    「沖成……」

     そう呼ぶゆかりの声でさえ、沖成の耳には甘い風が撫でるように届いた。

    「沖成」
    「ゆ、ゆか────」

     声に耐え切れずに思わず顔を上げる。そこに立っているゆかりに────全身が服に覆われて……いるゆかりに再度硬直して。
     己の早とちりに勢いよく額を床にぶつけた沖成だった。


    *   *   *


    「……水を取った?」
    「うん」

     浴室に反響する声が沖成の理性を逆撫でする。
     いくら真面目で誠実たろうとしている沖成も、生物学上は列記とした男だ。こんな状況でいつも通りを振る舞えるわけはない。いや、真面目だからこその反動なのだろうか。
     沖成は今脱衣所に居た。浴室の扉に背を預けて床に座り込み、必死に他の何も目に入れないように下を向き続けている。
     壁──扉一枚を隔てた先には一糸まとわぬ姿のゆかりがいる。彼女は今禊の最中だ。
     あのちょっとした騒動の後、ゆかりに無垢な瞳で頼まれた沖成は仕方なく頷き、壁越しに禊の作法を教えるということになった。
     もちろん神に──月に誓って彼女の裸は見ていない。そう言った申告は互いの信用問題だろう。
     そういう経緯があって、信頼の上に今がある。

    「沖成、次は?」

     音を過去に置いて届くゆかりの声が嫌に敏感になった聴覚を擽る。沖成は張り詰めた緊張を一時も緩めないまま、震える唇でどうにか紡ぐ。

    「……まず、は……右足。次に、左足…………右肩、左肩の、順番で全体に……」

     沖成にはまるで拷問のようでもあった。目を上げれば彼女の衣服が目に付き、鼻には芳しい女性独特の匂いが漂う。浴室から漏れ出した暖かい空気は頬を撫で、耳には艶かしい水の滴る音が響く。
     無心になればなろうとするほど感覚は研ぎ澄まされ、背を向けているはずの彼女の身じろぎ一つでさえ想像できてしまう。

    「……終わったら?」

     しっとりと濡れた声が響き、思わず沖成は背を正す。

    「終わったら、普通にお風呂に入って……体を洗って……最後に上がる前に綺麗なお湯で体を流して……終わり」
    「わかった」

     これで沖成の役目は終わりだ。張り詰めた緊張をゆっくりと解きながら立ち上がる。足元が覚束無いのはずっと正座していたからだろう。
     静かにその場を離れ扉の取っ手に手をかける。

    「沖成」

     その瞬間に呼ばれた名前に、再び体を石のように固くする。
     極限まで敏感になった聴覚が、扉の向こうで息を整える彼女の呼吸を拾う。その吐息に呼応するように沖成の鼓動は跳ね上がり胸を打つ。

    「…………ありがとう」

     次いで放たれた言葉に無言で頷くと扉を開けて飛び出し、後ろ手に閉めて廊下にへたりこむ。
     ようやく呼吸を整えた頃にはゆかりが風呂から上がってきていて、慌てて自室へ駆け込んだのだった。


    *   *   *


     部屋で仰向けになって倒れていると外から声が掛けられた。

    「沖成、起きてる?」

     控えめな声は聞きなれたゆかりのもの。脳裏に先ほどのことが過ぎって躊躇したが、意を決して声を返す。

    「……どうしたの?」
    「散歩に、いかない?」

     ゆかりからの誘い。もしかすると彼女が彼女の意思で自分の何かに巻き込むのはこれが初めてだったのかもしれない。
     少しだけ考えてそれから起き上がり、箪笥へ向かう。

    「……ちょっと待ってて」
    「うん」

     袖と裾の長い上下を取り出して着替えると廊下へと出る。律儀にその場で待っていたゆかりと一緒に夜の村へと歩き出した。
     月のない夜。道を照らすのは道端につけられた人工的な明かりだけで、それも時々不安げにチカチカと明滅している。
     走行性の虫たちが光へ集まるように、二人は示し合わせたように闇へと向けて歩を進める。
     やがて足を止めたどり着いたのは二人が出会った山の麓だった。ここは村の外れということもあって明かりが点いていない。天体観測をするにはいい場所だ。虫が多いことを除けばだが……。

    「沖成は何をお願いするの?」

     ゆかりの言葉に少し考える。無病息災、億万長者……。咄嗟に思いつくものは在り来りなものばかりだ。
     けれどそんな欲望とは別に、胸の内に一つだけ確かな願いが疼いていた。

    「願い事は口にしたら叶わないって言われてるんだよ」
    「……そう」

     短い返答。静かな口調に沖成の心も自然と凪いでいく。

    「…………新月ってね、本当は月が昇らない夜のことじゃないんだ」
    「…………?」

     沖成の言葉に隣のゆかりが小さく首を傾げる。

    「月の昇らない夜は朔……朔日って言われる日なんだ。朔が過ぎて最初に見える月のことを本当は新月って言うんだよ」
    「今日は、新月じゃないの……?」
    「月の暦だとそうだね。でも一般的には月の昇らない日の夜が新月ってことになってるから、今日が新月でもあるんだ」
    「……願い事は?」
    「音姫の言ってた願い事は新月をゼロとして……ってことだったよね。だったら願い事をする日はゼロ……月が出ない今日がその日だよ」

     満天の星空の下、漆黒の暗幕を仰いだままそう語ってみせる沖成。その横顔を話を聞きながら見つめていたゆかりも、同じように空へと視線を向けた。
     暦はもうすぐ夏から秋へと移り変わる。温度が下がり、木の実や果実が熟れ葉は鮮やかに色づく。気持ちが少し寂しくなり、空気に僅かばかりの憂愁が滲む。
     実りと侘しさを帯びる季節。
     その境となる、新月──朔。
     夏の終わり、そして秋の始まり。
     意味を持つ、形のない月。
     ある意味では、始まりなのだろう。ここより始まり、満月を経て、新月に終わる。
     新月の、意味。

    「ゆかり」

     隣からの問いかけに少女は沈黙と共に頷いて瞳を閉ざす。
     願う。いつ叶うとも知れない希望を抱き、それを僅かな望みに託す。
     願う。思う。想う。描く。作る。造る。創る。
     その願いが、未来を紡ぐ。
     そう心より信じて────────


    *   *   *


    「何てお願いしたの?」

     帰り道。沖成は隣を歩く少女に意地悪に尋ねる。すると足を止めた少女は首を傾げて優しく笑った。

    「内緒ですっ」


    *   *   *


     月明かりのない山の麓。星の雨に打たれて立ち尽くす少女の姿。
     虫の音の止んだ刹那に、可憐で寂しい戦慄が小さく紡がれる。そのフレーズは祭りの踊り囃子。
     すると彼女の足元に提灯の灯りのようにいくつかの灯火が円を描いて燃え上がる。数はとを あまり いつつ。
     そうして湛えた火の玉の内の一つがロウソクの火のように儚く消える。


     少女はただ、月をなくした空をいつまでも眺めていた。


    ──────────────────────────────────────────


    ここまで読んでくださった方ありがとうございます。
    本篇は月兎の物語、第三回目です。
    全五回に渡る小説もここでようやく折り返し地点です。よろしければ後半戦も一緒にお付き合いいただけると幸いです。
    次回の予定は相も変わらず未定の二文字。
    完結できるのか否か、そのあたりにも乞うご期待。


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