• 読書総まとめ1

    2017-07-10 10:19
    最後の感想文を書いた後、今まで何冊の本を読んだんだろう。
    物によっては、一日で読んでしまったものもあり、心に残らなかったものもあり、また感想を書くのが面倒なこともありで、随分端折ってしまった。
    今回は、心に残った本を総まとめで、しかもかいつまんでの感想文である。

    現在上映されている「ローマ法王になる日まで」を観るために、その予備知識として読んだ本。
    現在のフランシスコがどのような生涯をおくり、どのような経緯で教皇となったのかを描いている。まぁ自叙伝的な本。
    映画「ローマ法王になる日まで」は、彼の信仰生活の中のほんの一部、しかも軍事政権であった時代に政府に反対する者をかくまったり、密かに支援したりという左派的部分をことさらクローズアップしたものだったが、この本は彼の生い立ちからヨハネ・パウロ2世が崩御された後のコンクラーベで、既に上位に名が挙がっていたことなども克明に書かれている。
    また、彼の人柄を知る上でも参考になる。


    こちらは、筋ジストロフィーの病気を持つ「鹿ちゃん」こと鹿野靖明さんと、彼の世話をする多くの若いボランティアたちとの日々を描いたもの。
    札幌在住のフリーライターが書いて賞もとったらしい。
    とにかく「鹿ちゃん」のわがままっぷりに驚く。
    いや、体を動かせない彼にとって、それは「わがまま」ではなく当然の「要求」なのであるが、その世話をする大学生ボランティアの苦労を思うと改めて「ボランティアって大変!」と思う。
    でも凄いのは、ある意味「超わがまま」「超自己中心」「超気分屋」の鹿ちゃんの周りに、続々と大学生ボランティアが集まるということ。彼の人柄なのであろうか。

    これは完全に私の「趣味の本」。
    若かりし20代前半、どっぷりとはまったU.W.F.という団体のプロレス。たかだか1年半くらいで解散し、選手たちはそれぞれの団体を立ち上げたのだが、それは謎の多い事件だった。
    以前U.W.F.の若手レスラーであり、U.W.F.インターというU.W.F.解散後の新しい団体ではマッチメーカー(試合を組む担当)でもあった宮戸氏が、あの時、あの後、ファンの知らないところで何があったのかを書いたもの。
    以前、高田の暴露本的なものも読んだが、やはり立場が違えば受け取り方も違う。わかっているのは、それぞれが自分の立場で思い悩んだ結果だったということぐらいか。「真実」は一つじゃない。各々の心の中にあることが「真実」なんだな。

    衝撃的なタイトル。でも事実。
    事故死だと思っていた母親の死。
    大好きだった父親は、養父と母を殺した人だった。
    父親は死刑囚になった。絶対許すことのできない大好きな父親。
    ということで、父親の死刑を取り下げて欲しいと訴える本。
    小説に出てきそうな話が現実の世界にはあると思い知らされる。
    父親を憎んで、一度に両親を失って(父親は刑務所)、天涯孤独になって、そりゃあ荒れるのもわかる。許せないんじゃない。許したいんだな。
    でも、忘れないことの記念に背中一面に刺青入れるってどうよ?
    なんか違和感。それなら「趣味で入れました」って言われた方が「あ、いいんじゃない?」って言えるんだがな。

    障害者向けの性風俗があるっていうのは、前に読んだ本で知っていた。でも、この本を読んで、改めて性風俗のプロってすげーなって思った。障害者相手だからということではない。それは特殊なことじゃないと思うんだ。障害者にも性欲はあるんだから。
    「すげーな」と思ったのは衛生面。相手はお風呂に入れなかったりする人も多いので、タオルで拭いてからの行為なんだが、当然限界がある。細かい部分は拭けなかったり、相手のプライドに配慮してという場合もあるようだ。時にはチンカスまみれのJr.を口にしなきゃいけない場合もあるわけで…。素股も手でしごくのもできるけど、チンカスまみれのJr.を口にふくむなんざー無理。どれだけ奉仕的精神があってもムリっ。おみそれしました。







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  • 「神の小屋」読了

    2017-06-11 15:50


    この秋、「アメージング・ジャーニー」という映画がロードショーになる。以前上映されていた「沈黙ーサイレンスー」という映画ののチラシには、こう書かれてあった。「なぜ、弱きわれらが苦しむのかー」。その応答として「アメージング・ジャーニー」は位置する映画なのだというふれこみ。
    その映画の原作本が、この「神の小屋」である。
    総ページ数368ページ。かなり分厚い。海外のカタカナ表記が苦手な私は、最初この本を前に尻込みをした。初めて手にとった聖書のカタカナ表記の多さに拒絶反応を起こした時を思い出した。
    それでも、意を決して読み始めると、その展開の凄さ、内容の濃さに「次は?次は?」という思いになり、結果的に3日〜4日で読み終えた。

    少女ばかり狙う殺人鬼に愛娘を殺された主人公マックの苦悩と、神との対話によりその悲しみ、怒り、苦しみ、やり切れなさから解放されるまでを描いており、「現代のヨブ記」とも言われている。
    もちろんフィクション本だから、そこに書かれている「神(信仰)に関する価値観」は著者独特のものだとは思うのだが、読めば読むほど私の中で何かが生まれるような…何かに気づきそうな…そんな刺激を受けた。

    黒人女性の姿で現れるパパ(父なる神)、大工仕事に精を出す生き生きとしたイエス、見えそうではっきり見えず掴めそうで掴めない聖霊のサラユー(風)。台所で鼻歌混じりに料理を作る父なる神さまなんて、想像しただけでくすっと笑ってしまう。

    そして三位一体の神は、怒りと憎悪に満ちた主人公マックに語りかける。
    「私はこの世に善しかおいていない。それに善悪をつけてしまうのは、いつも『独立の道』を選んだ人間だった。『創造』を破壊し、その道を選んだ人間に、愛ゆえにその道に進むことを私は赦した。なのに人間は自分たちの思う通りにいかないといつも私に文句を言った」

    またイエスも言う。
    「私は『制度』をつくった覚えはない。『制度』をつくったのは神を演じたがる人々だ。私は『宗教』が嫌いだ。私たちが三位一体なら、人が作った恐怖の三位一体は『宗教・政治・経済』だ。だから私は『機構』なんていうのも嫌いなんだ」

    サラユーも続ける。
    「イエスは人を癒したり奇跡を行える力はなかった。だって人間として世に来たから。ただパパ(父なる神)の愛を信じただけだったのよ」

    人間を責めているわけではない。
    「それでも、私はあなたたちを愛している。世のすべての私の子たちを」
    「あなたが感じなくても、私はいつもあなたと一緒にいる。感じるか感じないかなんて関係ないの」

    この著者の信仰的価値観は自分と似ているな…と思った。
    信仰を持っていなかった小さい頃から、私の中に在る「神」は人が名前をつけられるような、定義づけられるような存在ではなかった。ただ、この宇宙の全てをその両腕で包み込んでいるような感じがしていた。
    旧約聖書「ヨブ記」の中に、以下のような文章が出てくる。テマン人エリファズの言葉だ。
    (神は)六度苦難が襲っても、あなたを救い、七度襲っても、災いがあなたに触れないようにしてくださる。
    ここを読んだとき、「どんな苦難も神さまが救ってくださるのだ」とは私は解釈しなかった。なぜそのような解釈をしたのか定かではないが、「私の知らない災いから、苦難から、神は救っていてくださる」と解釈した。
    それと同じことが、この本の中に出て来た。
    パパ(父なる神)が主人公に言う「あんたは見てもいないし、経験もしていないからわからないだろうけど、あんたが思っている以上に私はあんたの知らないところであんたを災いから救っているんだよ」との言葉だ。
    これが正解というわけではない。ただ「あぁ、やっぱり」と思った。
    私たちは小さなことで怒り悲しんだりもするけれど、本当はそれ以上の災難から知らないうちに救われている、いわゆる守られているんだなと。

    主人公のマックが結果的にどう解放されたのか、気になる方は実際に本を手にとって読んでみたらいいと思う。
    でもマックがどうなったかという結果が大事なんじゃない。結果に至る「経過」が大事な部分なのだろうと個人的には思う。

    願わくば、この感動が映画となったときに壊されませんように。


  • 「ご主人『立ち会う』なんて、そんな生やさしいものじゃありませんよ」読了

    2017-06-10 00:53

    戦前や戦後間もない頃は、近所に産婆さんがいて自宅で子供を出産するのは当たり前だっただろうが、現代社会において「自宅出産」や「助産所出産」というのは珍しい選択かもしれない。
    助産師は今でも育成されているけれども、そのほとんどが「病院」という場所で勤務しているのだろう。若い助産師が助産所を開いているという話は、私の周りでは余り聞いたことがないし、もし私が妊娠できたとしても、やはり病院での出産を望むだろう。

    この本は、その意思によって病院ではなく、助産所(第一子)と助産師に介助され自宅出産という道を選んだ夫婦の「出産ドキュメンタリー」である。

    個人的価値観として、ドキュメンタリー文章は淡々とそのことを読み手にわかりやすく書かれてあれば良く、データやら著者の見解的な文章は必要ないと思っているので、本の中の「アメリカの場合」や「イギリスの場合」という部分、データ分析文章は飛ばして読んだ。

    妊娠を経験したことがない私にとって、自宅出産に向けての諸準備や出産そのものを「すごいなぁ…」と思ったし、流産したときの扱いも手術によって子宮内をきれいにして次の受精に備えるのではなく、体に必要なくなったものが人間が持つ本来の治癒力によって、自然に体外に排出されるのを待つという選択をした夫婦に尊敬の念を持った。

    そして、これまた子供を持たない女であるがゆえの単純で浅はかな疑問なのだが、昔から「貧乏子沢山」という言葉があるように、子供が増えれば増えるほど生活費も相当かかるだろうし、ヨーさん(著者)自身もバイト生活→団体職員→作家という収入の安定しない生活をしているにもかかわず、なぜにそんなにも子供を増やすのだろう?と単純に感じてしまった。
    確かに自宅出産によって、「家族が増える」ということを子供に体験させるという志は理解できるのだが、子供が増えた分だけ将来第一子や第二子に負担がかかるということは想像しなかったのだろうか?
    「子供は国の宝」とはいえ、上の子供たちが下の子の面倒を見ることで擬似的父母となり、同級生と同じように学園祭を楽しめなかったり、家はうるさくて勉強ができないからと静かな場所を求めたり(子沢山の家の子は、有無を言わせず国公立か就職がパターン化しているので)、なんというか10代にして既に疲れ切った大人の顔をしている子供たちを見ると、なんとも言えない気持ちになるのだ(この著者は私の知り合い)。

    著者に失礼ながら大笑いしてしまったのは、その出産場面で、確かに著者にはそう聞こえたのかもしれないが、出産時の奥さん(キーちゃん)の痛みに耐えかねた叫びの声が「ギャー!」とか「ヒー!」とかではなく、「うえげおうーっ」とか「げおげおびおぇーっ」とか「おえおえおお!」「うおええげぇー」という音で表現されていて、キーちゃんを知っているからこそ「北斗の拳の『ひでぶー』よりひでぇじゃねーか」と大爆笑してしまった。申し訳ない。

    自宅出産や助産所出産はローリスクの妊婦しか受け入れておらず、ハイリスクな妊婦は病院での出産を義務付けられているようである。
    何をもってしてハイリスク・ローリスクと言うのかは、この本の中に書かれてある。
    そして、これには第四子までしか描かれていないが、実は既にこの夫婦には6人の子供が存在し、この夏には7人目の子供が生まれる。本の中で書かれた第一子の「プーちゃん」は大学一年生、「マーちゃん」は高校一年になった。
    キーちゃんも既に40を過ぎており、ハイリスク妊婦に入ってしまうのかもしれないが、今夏生まれる7人目をどこで産むつもりなのか、それは私もまだ聞いていない。