まえがき
あなたは結婚を考えたとき、「姓を変えたくない」と思ったことはありますか?
夫婦同姓を義務づける日本の制度に「古い」「不便だ」と感じる人もいるでしょう。そこで登場するのが「選択的夫婦別姓」です。聞こえは甘く、魅力的です。嫌なら選ばなければいい。別姓を望む人だけ選べばいい。一見、誰も損をしない制度に思えるかもしれません。
しかし、ここに大きな落とし穴があります。法律は単なる“選択肢”ではなく、社会全体を方向づける力を持っているのです。
法律が変われば、社会の空気も変わる。「同姓を選ぶ夫婦は時代遅れ」と見られる空気が生まれる。家庭の中では「同姓か別姓か」で新たな対立が芽生える。さらに制度の奥底に目を向ければ、戸籍という日本社会の根幹にまで影響を及ぼしかねない。
日本の戸籍制度は「家族」を単位とし、その頂点には天皇制があります。皇統の証明や系譜の維持に欠かせない仕組みが戸籍です。もし戸籍が「家」から「個人単位」へと崩れていけば、それは長い目で見れば天皇制の存在意義をも揺るがす可能性があるのです。
では本当に、私たちは「自由」という言葉の誘惑に流されていいのでしょうか? 事実婚を選ぶ人々の事情、グローバリズムの波、移民や帰化人との関係。すべてを踏まえて考えたとき、見えてくるのは単なる「選択肢」ではなく、日本の国体そのものを左右する岐路なのです。

第一章:選択的夫婦別姓の“甘い響き”とその裏側
なぜ「選べばいい」では済まされないのか
選択的夫婦別姓の議論において、もっとも多く聞かれる主張は「嫌なら選ばなければいい」というものです。賛成派は口をそろえて「選択制なんだから困る人はいない」「同姓を望む人はこれまで通り同姓を選べばよい」と語ります。一見、非常に合理的に聞こえます。
しかし、制度というものは中立的な存在ではありません。一度法律で認められれば、それは国が公式に「別姓も正しい」と宣言することにほかならないのです。社会はそのメッセージに敏感に反応します。
たとえば「同性婚を認める社会」と「認めない社会」では、個人の意識や空気がまったく違います。法律が変わった瞬間から、学校教育の教え方も、メディアの扱い方も、日常の会話すら変化する。つまり「選べばいい」と軽く言う人たちは、制度が持つ象徴性と社会的影響力を意識していないのです。
「同姓を選んだ人=時代遅れ」「夫婦同姓=男女不平等」というレッテルが必ず出てきます。やがては同姓を選ぶ人が少数派扱いされ、むしろ肩身が狭くなる。これでは「選択の自由」どころか、逆に自由が侵害されるのです。
家庭に持ち込まれる新たな対立
さらに深刻なのは、制度が家庭に持ち込む“対立の火種”です。
結婚を前にした二人が「同姓にするか、別姓にするか」で衝突する光景は容易に想像できます。今までは「結婚したら同じ姓」という前提があったため、議論すら不要でした。しかし制度が変われば、必ず二人で決める必要が出てきます。
「私はキャリアのために別姓にしたい」「いや、家族は同じ姓であるべきだ」――この時点で対立の種がまかれるのです。結婚は愛情だけでなく、生活の基盤を共に築く営みです。そこに制度が持ち込む“新しい選択”は、しばしば不必要な緊張を生み出します。
制度は本来、家庭を守り、安定を支えるためにあるはずです。にもかかわらず、選択的夫婦別姓は「家庭に分断を持ち込む仕組み」になりかねない。これでは本末転倒と言わざるを得ません。
「自由」という言葉の罠
賛成派は「多様性」「自由」「権利」という言葉を繰り返し使います。しかし、この言葉ほど便利で、同時に危ういものはありません。
自由の名の下に制度を変えれば、それが社会の秩序を揺るがす結果になることは歴史が証明しています。フランス革命しかり、ソ連の家族制度解体しかり。「個人の自由」を掲げながら、結果的に共同体は壊れ、社会は混乱しました。
自由とは無制限に広げるものではなく、共同体との調和の中で守られるべきものです。日本の夫婦同姓制度は、家族の一体感を保ちつつも、旧姓使用の拡大などで実質的な自由を保障してきました。つまり「自由がない」のではなく「すでにバランスを取っている」のです。
すでに存在する“選択肢”
実は、姓を変えたくない人には既に選択肢が存在します。それが 旧姓使用制度 と 事実婚 です。
旧姓使用については、職場の名刺・公的書類・銀行口座など、ほぼ全面的に認められるようになってきています。つまり「仕事に支障が出るから姓を変えたくない」という不安は、ほぼ解消されています。
また、法的婚を避けて事実婚を選ぶカップルも少なくありません。もちろん相続や税制の優遇は受けられませんが、それは「制度に背を向ける自由」を選んだからです。すでに自由は確保されているのです。
では、なぜあえて制度そのものを変える必要があるのでしょうか?
第一章まとめ
「選べばいい」という言葉は、一見シンプルで魅力的に響きます。しかし、その裏側に潜むのは、社会規範の変化、家庭の分断、新たな圧力の誕生です。自由を掲げながら、結果として自由を奪い、共同体を揺るがす――これが選択的夫婦別姓の本質なのです。
そして、ここからが本当の核心です。
選択的夫婦別姓の議論は、単に夫婦の姓の問題にとどまりません。実は日本社会の根幹である 戸籍制度、そしてその頂点にある 天皇制 までも揺るがしかねないのです。
👉 その本質的なリスクについては、次章で詳しく掘り下げます。

第二章:戸籍制度と天皇制 揺らぐ日本の根幹
戸籍の役割と「家」という単位
日本の戸籍制度は、世界でも独特の仕組みです。欧米の国々では「個人単位」で出生や婚姻が登録されますが、日本は古来より「家」を基礎として人々を把握してきました。
明治以降、近代国家を形成する過程で導入された戸籍制度は、単に国民を管理するためのものではありません。「家」という単位を通じて、血脈と系譜をつなぎ、最終的に天皇家へと至る国家全体の枠組みを示すものだったのです。
つまり戸籍は、日本人一人ひとりが「どの家に属しているか」を明確にし、家族の連続性を記録する仕組みです。結婚すれば同じ姓を名乗り、一つの戸籍に入る。それは「新しい家の誕生」を意味し、親から子へと命と名前を受け継ぐ。まさに戸籍は、日本人のアイデンティティの根幹を成してきました。
戸籍と天皇制の密接な関係
戸籍制度は、天皇制と切っても切り離せない関係にあります。
天皇家は「家」の頂点に位置づけられ、その皇統の正統性を保証する基盤が戸籍的な発想にあります。つまり「天皇家もまた一つの家である」という意識が、国民すべての戸籍と連続しているのです。
この枠組みは、戦後憲法で「象徴天皇制」となってからも続いています。国民が「家」という単位で社会に組み込まれることは、皇室の存在意義を支える文化的・社会的土台であり続けました。
ところが、もし戸籍が「個人単位」に崩されればどうなるでしょうか。
「家」という概念が希薄化し、やがて「天皇家=家の頂点」という位置づけも相対化されてしまいます。つまり、戸籍の解体は長期的に見れば 皇室制度の正統性そのものを揺るがす のです。
選択的夫婦別姓が投げかける影
選択的夫婦別姓は、一見すると小さな変化のように見えます。「ただ姓を選べるようにするだけ」と軽く言う人もいるでしょう。
しかし、その制度が導入されれば、同じ戸籍の中に別姓の夫婦が存在することになります。これは「家族=同じ姓」という戸籍制度の根幹を突き崩す行為です。
「戸籍にとって姓は単なる記号だ」と言う人もいますが、それは大きな誤解です。姓は血縁のつながりを表す社会的シンボルであり、戸籍においては家の連続性を示す最重要の要素です。ここを崩せば、戸籍の一貫性はたちまち失われ、制度自体の存在意義が問われることになるのです。
「天皇制解体」を直接目指しているのか?
賛成派の政治家や活動家が「天皇制を廃止する」と明言しているわけではありません。辻元清美氏や立憲民主党も公式にそうした政策目標を掲げてはいない。
しかし彼らの支持基盤を見れば、かつて「天皇制廃止」や「家族制度の解体」を唱えた左派思想や市民運動の流れをくむ人々がいることも否定できません。
つまり、「直接的に狙っている」とは言えないにしても、制度を一つずつ相対化していけば、結果的に天皇制の土台を揺るがす帰結は十分に想定できるのです。
帰化・在日問題と戸籍の相対化
さらに見逃せないのは、帰化者や在日の立場との関わりです。
日本の戸籍制度は「日本人であるか否か」「どの家に属しているか」を明確に示してきました。これは国民としての一体感を支えるものであると同時に、出自を確認する機能も果たしてきました。
一方、帰化した人や在日コリアンの中には「出自を問われたくない」「子や孫にルーツを意識させたくない」と考える人が一定数います。そうした人々にとって、「家や血縁を基盤にしない戸籍制度」への移行は好都合です。
もちろん、すべての人がそう考えているわけではありません。しかし、戸籍を個人単位にすれば“出自を問われない社会”が現実化する。これが、夫婦別姓推進派の思想と重なって見えるのです。
第二章まとめ
選択的夫婦別姓は、単なる「夫婦の姓の自由」ではありません。
それは戸籍という日本社会の骨格を崩し、長期的には天皇制の正統性をも揺るがしかねない。さらに、グローバリズムや移民問題とも結びつき、「出自を問わない社会」への道を開いてしまうのです。
つまり、この制度は 「自由の拡大」ではなく「国体の解体」 への第一歩。小さな変化に見えて、その影響は計り知れません。
👉 次章では、事実婚というもう一つの選択肢に焦点を当て、なぜそれを理由に制度を変えるべきではないのかを詳しく検証します。
第三章:事実婚という“もう一つの選択”の誤解
法的婚と事実婚の根本的な違い
まず押さえておきたいのは、法的婚と事実婚の決定的な違いです。
法的婚(婚姻届を提出した結婚)は、民法で明確に規定されており、配偶者には強力な権利と義務が与えられます。たとえば、配偶者は常に法定相続人であり、相続の優先順位では必ず含まれます。さらに、配偶者控除や相続税の非課税枠(最大1億6千万円)といった強力な税制優遇も認められています。健康保険や年金の扶養、住宅ローンの審査など、社会生活のあらゆる場面で「法的配偶者」という資格は絶大な効果を発揮します。
一方で、事実婚(内縁関係)には法的な保護はありません。配偶者控除もなければ、相続権もありません。長年連れ添っても、相手が亡くなったときに自動的に財産を受け継ぐことはできないのです。遺言がなければ、財産は子や親族に流れ、残されたパートナーには一円も残りません。
つまり、事実婚とは「自由」と引き換えに「保護」を放棄した選択です。
事実婚を選ぶカップルの動機
では、なぜ不利だと分かっていながら、事実婚を選ぶ人がいるのでしょうか。いくつかの典型的な理由を整理すると――
姓を変えたくないから
選択的夫婦別姓制度が存在しない現在、「姓を変えずに一緒に暮らす」ために事実婚を選ぶ人は少なくありません。
制度に縛られたくないから
「結婚は二人の気持ちの問題であって、役所に届ける必要はない」と考える人々。国家や法律に自分たちの関係を規定されたくないという思想的な理由です。
過去の婚姻経験や家族事情
離婚歴がある人が「もう法的な縛りは負いたくない」と考えるケース。親族との複雑な関係を避けるためにあえて事実婚を選ぶ人もいます。
経済的な事情
再婚すると年金を失う場合や、生活保護・医療制度の関係で法的婚が不利になるケース。あえて事実婚を選ぶのは、経済合理性からです。
宗教・思想的な立場
フェミニズムやリベラル思想の影響で「制度に依存しない関係」を望む層。
国際的な事情
国際カップルでビザや国籍に関する手続きが複雑な場合、事実婚の形をとる。
こうしてみると、事実婚を選ぶ理由はすべて「制度に入らない自由」を優先した結果であることが分かります。
小見出し3:事実婚の“不便さ”は自己選択の帰結
賛成派はよく「事実婚の人が不便だから制度を変えるべきだ」と主張します。しかし、これは大きな誤りです。
なぜなら、事実婚を選ぶ人は「制度に背を向ける自由」を自ら行使したからです。相続権や税制優遇がないのは、彼らが「法的な保護を受けない代わりに自由を取った」からに他なりません。
もし本当に法的な保護を求めるのであれば、婚姻届を出して法的婚をすればいい。それを避けている時点で、不便は自己選択の結果であって、国家や制度のせいではありません。
つまり「事実婚があるから制度を変えろ」という主張は、本末転倒なのです。
事実婚と夫婦別姓議論のすり替え
さらに問題なのは、事実婚と夫婦別姓議論が意図的にすり替えられていることです。
事実婚を選ぶ人の多くは、そもそも制度に依存しない価値観を持っています。つまり「結婚制度を利用したくない」人たちです。その人たちの存在を理由に「だから結婚制度を変えましょう」というのは、論理的に破綻しています。
「制度を使わない人がいるから制度を変える」というのは、学校に通わない人がいるから義務教育を廃止しようと言うのと同じ。制度を放棄する自由があるのは良いことですが、それを理由に制度自体を変えるのは筋が通らないのです。
「自由」の選択肢はすでにある
実は、選択的夫婦別姓の推進派が言う「選択肢の拡大」は、すでに存在しています。
仕事上は旧姓使用が認められている。
制度に入りたくない人には事実婚という選択肢がある。
つまり「嫌なら同姓を選べばいい」「不便だから変えろ」という賛成派の論理は成立しないのです。すでに自由はあるのだから。
第三章まとめ
事実婚は「自由」を選んだ結果、法的保護を放棄した形態です。その不便さを理由に、責任と保護を前提とする法的婚を変える必要はまったくありません。
むしろ「自由を取った人々がいる」という事実は、「制度の外に出る自由はすでにある」という証拠であり、制度を変える理由にはならないのです。
👉 次章では、この流れがさらに グローバリズムや移民問題 と結びつき、日本社会の基盤そのものを揺るがす危険性について掘り下げていきます。
第四章:グローバリズムと移民問題――見え隠れする意図
グローバリズムがもたらす「国境なき価値観」
いま日本社会を取り巻く最大の潮流のひとつが、グローバリズムです。
経済だけでなく、文化や価値観の面でも「国境を越えて同じルールを持つべきだ」という発想が強まっています。国際結婚や外国人労働者の増加は、その象徴です。
一見すれば「世界と同じように多様性を認める」ことは美しい理念に思えます。しかし、その中で日本独自の制度や文化が「時代遅れ」「ガラパゴス」と揶揄され、変革を迫られるのです。
選択的夫婦別姓も、この流れの中で「国際結婚では別姓が認められているのだから、国内でも認めるべきだ」という議論へとつながっています。
しかしこれは逆立ちした論理です。国際結婚は例外として認められているに過ぎず、それを制度全体に拡大するのは本質を見誤っています。
帰化・在日問題と「出自を問われない社会」
ここで見逃せないのが、帰化者や在日の問題です。
日本の戸籍制度は、「誰がどの家に属しているか」を明確に記録する仕組みです。これは日本国民としての連帯意識を形づくる一方で、外国にルーツを持つ人々にとっては「出自が分かってしまう不利益」として映ることもあります。
事実、帰化した人や在日コリアンの一部には「自分や子孫が出自を問われたくない」という思いを抱く人がいます。その視点から見れば、「戸籍を個人単位にすること」や「家という概念を相対化すること」は、自分のルーツを曖昧にする有効な手段です。
もちろん全員がそうだとは言いません。しかし、選択的夫婦別姓を含めた制度変更が「出自を問われない社会」を後押しすることは否定できません。
結果として、「国籍・血縁・家のつながりを意識させない社会」が作られていくのです。
制度解体の連鎖
ここで重要なのは、「夫婦別姓が単独で存在する制度ではない」という点です。
まず「家族制度」が相対化される。
次に「戸籍制度」が形骸化する。
その先には「皇室制度」が揺らぐ。
これは連鎖です。最初の小さな石を崩せば、やがて大きな岩盤まで崩れる。選択的夫婦別姓は、その最初の引き金になりかねないのです。
左派の思想的基盤には「家族制度の解体」「天皇制廃止」を唱えてきた系譜があります。賛成派の政治家が直接それを掲げていなくても、歴史的な思想の流れから見れば、制度を一つずつ崩していくことが最終的に国体の解体につながることは明らかです。
「多様性」という名の同調圧力
選択的夫婦別姓の推進派は「多様性」を掲げます。しかし、この「多様性」という言葉ほど皮肉なものはありません。
制度が導入されれば、「別姓を選ばない人=古い人」「男女平等を理解しない人」というレッテルが社会で広がります。つまり、「多様性」という名のもとに、逆に一つの価値観への同調圧力が生まれるのです。
これは移民政策でも同じ構図が見られます。「多文化共生」と言いながら、実際には日本人の側が自らの伝統を捨て、相手に合わせることを強いられる。夫婦別姓の議論も、「多様性」を口実に伝統を相対化する仕組みです。
自由の拡大ではなく国体の解体
ここまで見てきたように、選択的夫婦別姓は「自由を広げる」どころか、実際には――
家族の一体感を弱める
戸籍制度を形骸化させる
出自を曖昧にし、日本人のアイデンティティを崩す
最終的に天皇制の存在意義を揺るがす
という連鎖的な帰結をもたらします。
つまり、それは「自由の拡大」ではなく「国体の解体」の始まりなのです。
第四章まとめ
グローバリズムの波に飲み込まれる中で、日本社会は「多様性」「国際化」という言葉に弱くなっています。しかし、安易にそれに従えば、日本独自の家族制度、戸籍制度、そして皇室制度が揺らいでいくのは避けられません。
小さな自由を得る代わりに、私たちは大きなものを失うのです。
選択的夫婦別姓とは、その典型的な落とし穴なのです。
👉 次章(あとがき)では、ここまでの議論を総括し、読者に「どんな日本を次世代に残すべきか」という問いを投げかけていきます。
あとがき:私たちはどんな日本を次世代に残すのか
ここまで、選択的夫婦別姓の議論を「甘い響き」の裏側から検証してきました。
一見すると「自由の拡大」「多様性の尊重」に見えるこの制度が、実は社会全体にどれほど深刻な影響をもたらすのか――。改めて要点を整理してみましょう。
1. 制度は中立ではない
賛成派は「選べばいい」「嫌なら同姓にすればいい」と言います。しかし、制度が一度法律に刻まれれば、それは単なる選択肢ではなく「国の意思表示」となります。
「別姓も正しい」と国が宣言した瞬間、社会の空気は変わります。
同姓を選んだ夫婦は「時代遅れ」「男女平等に逆行」と見られるようになり、自由どころか逆に制約が生まれるのです。
制度は選択肢を置くだけで中立を装いますが、実際には社会全体の方向を決めてしまう。ここを見誤ってはいけません。
2. 家庭に持ち込まれる分断
これまで「結婚したら同じ姓」という前提があったため、家庭内での衝突はほとんどありませんでした。
しかし、選択的夫婦別姓が導入されれば「同姓か別姓か」をめぐって新たな議論が夫婦間に持ち込まれる。愛し合って結婚するはずの二人が、結婚前から「姓」を理由に対立する。これが果たして家庭の安定や幸せにつながるのでしょうか。
制度は家庭を守るためにあるべきものです。対立の火種を持ち込む制度は、その役割を果たしていないのです。
3. 戸籍制度と天皇制の基盤を揺るがす
日本の戸籍制度は「家」を単位に構築され、その頂点に天皇家があります。皇統の正統性や国民の一体感を支えてきたのは、この戸籍的な発想です。
選択的夫婦別姓が導入されれば、同じ戸籍内に別姓が混在することになります。これは「家族=同じ姓」という原則を崩し、戸籍制度を形骸化させる第一歩です。
長い目で見れば、戸籍の相対化は天皇制の存在意義にすら波及します。直接「天皇制廃止」を唱える人は少なくても、制度を一つずつ崩していけば、結果的に「国体の解体」へとつながるのです。
4. 事実婚という既存の自由
賛成派は「事実婚の人が不便だから制度を変えるべきだ」と主張します。
しかし事実婚は、そもそも「制度に背を向ける自由」を選んだ形です。
相続権も税制優遇もないのは、自由と引き換えに法的保護を放棄したからです。
それを理由に「制度を変えろ」と言うのは筋違いです。すでに「制度の外に出る自由」が存在している以上、法的婚そのものを変える必要はありません。
5. グローバリズムと移民問題との接点
最後に忘れてはならないのは、この議論がグローバリズムや移民政策と結びついている点です。
「多様性」「国際化」という美しい言葉の下で、戸籍や家族制度の相対化が進められています。帰化した人や在日コリアンの中には「出自を問われない社会」を望む人がいる。制度を個人単位にすれば、それが現実になるのです。
もちろん全員がそうだとは言いません。しかし、結果として日本社会の基盤である「家」「血縁」「戸籍」が解体され、最終的には皇室制度にまで波及する危険性を無視してはなりません。
読者への問いかけ
ここで改めて問いかけたいのです。
あなたは「自由」という言葉のために、家族の一体感を手放す覚悟がありますか?
あなたは「選べばいい」という安易な理屈のために、戸籍制度の意味を失わせてもいいと思いますか?
あなたは子や孫に、「出自も家族も相対化された社会」を残したいですか?
制度は小さな選択のように見えて、その影響は国のかたちそのものを変えてしまいます。
最後に
選択的夫婦別姓は、「自由の拡大」ではなく「国体解体の入り口」です。
それは家族を分断し、戸籍を曖昧にし、やがて皇室制度を揺るがしかねない――まさに国家の根幹に関わる問題です。
私たちは今、歴史の分岐点に立たされています。
「便利だから」「時代遅れだから」という軽い理由で、日本人が積み上げてきた家制度と国体を手放してよいのでしょうか。
どうか、考えてください。
あなたはどんな日本を、子や孫に残したいですか。
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※高倉 龍之介(政治フリージャーナリスト・映像クリエイター)