• 人には無限の可能性がある。という言葉

    2019-09-13 22:21

    人には無限の可能性がある。

    簡単に調べたから違うかもしれないが、松下幸之助の言葉らしい。
    そして同時に多くの意見、タイトルが並ぶ。

    松下幸之助曰く「人はダイヤの原石である。」
    とある人曰く「この言葉はハッタリの一種である。」

    軽く並ぶ検索結果のタイトルをみるだけでも、賛否が並ぶものでした。

    …少し覗いてみたら、思いっきり被ってるものやそちらに流されそうになる記事があったのでちょっと後悔しましたが。

    人には無限の可能性がある。

    ならば突然大統領になれるのか?
    なれるわけがないだろう。と批判しているような意見も当然あるけれど。
    それは無理に可能性を狭めているだけだったりする。

    だってそれは、否定したいがためのその人の精一杯の無理難題だ。

    言い換えれば屁理屈なわけだが、屁理屈でいいなら簡単になれてしまう。
    だって何の大統領かも言っていないのだから。

    結局、屁理屈は屁理屈での泥沼のような争いになる。
    それこそ、限界というわけだ。

    それじゃ無限の可能性はないのか?
    結論から言うとあると思ってる。

    だってその屁理屈を言った人がもし数年前なら。
    数十年前なら。
    その屁理屈を言う事がなかっただろうから。

    限界は最初からあったわけじゃない。
    自分で見つけてしまったわけだ。
    あるいは
    見つけたと思い込んでいるものだ。

    ならば見つける前の状態に、可能性はないと言えるのか?

    才能がなかった?努力が足りなかった?生まれが悪かった?
    全部否定することはできないけれど、同時に否定できないのならそれが真実というわけでもない。
    だってそれらがあったとしても、できた可能性はあるのだから。
    つまりはそれは可能性が0になる理由ではない。

    …とまぁ、他の情報に流されて偉そうに言ってしまっているわけですが。

    私は本来この言葉を後ろ向きな言葉として捉えていた。

    だってそうでしょう?可能性が無限にあるということは、自分に限界を感じていないということだ。
    限界を感じていないときってどういうときだ?って考えた時、一番に浮かんだのが「それに挑戦していない状態」だったからだ。

    何も挑戦していなければ可能性は無限大。
    つまりそれは、やればできるのに、という割とありがちな言い訳の一つに成り下がってしまう

    そしてそれこそが、書き始めようと思った時の私の結論…のハズだった。

    それが僅か10分足らず。
    誰の言葉か一応検索してみようと開いた検索ページで、目に付いたタイトルのページを開いて文章を流し読みしただけでどちらかと言えば肯定派になってしまっている。

    文章ってのはすごいね。

    …と、思うと同時に。
    未来ってのは予想なんて簡単に超えていく。
    あぁこれこそが、「無限の可能性」ってやつなんだろうか。

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  • 何故か始められるとき。

    2019-08-30 12:46
    我ながら思う。

    話題がないときに、書いているのは何故なのか?

    何か他に話題があったときはあったんじゃないか?
    ここ数日の間、思いついたことがあったんじゃないか?
    その時に書いてないのに、なんで今話題もないのに書くんだ?

    そんなことが稀にある。…というか、よくあるとも言える。

    そして大体は行き場を失い、着地点が見当たらない。

    自由落下するか、とりあえず「ここをキャンプ地とする!」とするか、そもそも発射なんてしてないよ、という体にするか。

    その多くは特に何も起こらない。

    故に思う。なんでそんなどうでもいいときに書き始められてしまうのか、と。
    ネタがあるときに書き始められていないのに、と。

    結論は特に見当たらない。

    ただただ自分でも不可思議なだけなのだ。

    そしてそれが、自分というわけのわからない生き物なのだろうなぁ、などと。
    納得するくらいしかできないのである。
  • 球数とケアと流れ。

    2019-08-30 12:37

    気づけばやっぱり迷走してるなぁ、と思いつつ。

    甲子園も終わり、球数制限の話題が少し煮詰まって放置され始めたころですが…
    新しい話題が無くなってきたからか、放置されないために少し論点がずれた話題が追加されつつありますね。

    まぁ真新しい話題がないとニュースとして出せないからなのだろうけども、そのために論点がずれていくのはどうにかならないものか…。

    とある監督さんの談話。

    「怪我をさせたら意味がない。」
    そういう話をしていて、そりゃぁそうだろうと思いました。

    が、やっぱりというかなんというか。論点がずれている。

    球数は絶対に超えないようにしている。
    ケアは自分に返ってくる。
    そんな話をいくつかしているのだけれども…それは、すべてではないんですよね。

    例えば、球数は絶対超えないようにしている。
    それ自体は方法としてアリではないか?という議論の一つ。
    …だけれど、それがすべてではない。
    だって球数投げなくても連投するならそれも負担であることは間違いないのだから。

    エース級を二人育てるのが難しいけれど、球数は超えないようにと言っているこの監督さん。

    この場合、言葉そのまま受け取るならその二人はほとんどの試合投げてることになる。
    年によっては5人で回していたという話だが…何イニング投げたかで話していたのが印象的で、登板間隔や連投の方にはあまり意識が向いていなかったように感じる。

    そして、ケアは自分に返ってくるという言葉。
    ケアを練習メニューに取り入れ、それを手を抜くか一生懸命やるか。
    それは自分に返ってくるし、ちゃんとやるだけ怪我のリスクは下がると。

    とあるスポーツ医療にかかわる人がなにかのインタビューで言っていたことがある。
    「選手の体は千差万別で、個別にケアしなくてはいけないし、明確な答えはない。」
    要するに、ケアは万全です、ということは難しいのだ。

    そしてリスクが下がっても、怪我というのは起こりえる。
    「ケアは自分に返ってくる」という言葉だけが独り歩きすると、まるで「怪我したのはケアを真面目にしなかったからだ」なんて誤解を招いてしまう。

    現にこの監督さんが二人の投手で回していた今年、もう一人投手がいたが怪我をしていた。その投手がいれば3分割していた、なんて話をしている。
    …その選手はケアを十分にしていなかったのか?という話に繋がりかねない。とまでは言わないが…その選手にとって、このインタビュー記事はあまりいい思い出にはならないだろうなぁ、とは思う。その選手自身に、ケアの手を抜いていた自覚があるようならいいのだが…。

    まぁ、そんな感じで。

    球数制限を守っていることを悪く言うわけでは無い。
    けれど、球数制限を守れば連投しても登板間隔なくてもいいというわけでもないのだ。

    球数制限をなんでやるのか?

    今あるのは、それが選手のケアに繋がるんじゃないか?ということだ。
    それはケアの方法であり、また方法のうちの一つでしかない。

    ケアを何故重点的にやるのか。

    リスクを下げる手段の一つだからであって、怪我をすべて防げるというわけではないのだから、怪我をしたらケアをしていなかったわけではない。


    良くも悪くも書き手の意志は流れを作る。
    書いてる人が流れに沿う言葉を選ぶのだから当たり前だ。

    それに関係ない位置からだからこそ、気づけることも多いのだろう。
    それこそ橋の上から川の流れを眺めるように。

    気づいたところで、橋の上では川の水に触れないのだが。