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  • 最後の世迷い事。マイノリティ

    2021-05-30 12:50
    そういえばもう終わりなんだっけ、と思って書き出してみたのはいいものの、書きたいとおもったネタはもう半月以上前のもので、うろ覚えという…
    まぁ、私らしいっちゃーそうか。

    マイノリティーな話。

    しばらく前に「テレビなどのマスコミに対してどう思っているか?」などのアンケート結果みたいなのが出ていて、不信感持たれてるみたいなニュースを見かけたことがある。
    そのアンケートの中で、デモに対してもあまりいい印象が持たれていないという結果があり、総括として「多くの人にたいして不利益になるマイノリティーに対する印象はよくないようだ」という感じで纏められていた。

    それはなんか違う。って思ったのが第一印象だ。
    が、そのあと突き詰めたらそういう部分があるのはそうか、と思いなおった。

    例えば。
    性的マイノリティで女子トイレ使わせてほしい、って話があった。
    裁判になったりしてたけど、結局使えるようにはなったのかな?
    でも、同時にこれに関して、女子トイレを使っていた女性側から不平不満も出た。

    色んな理由はあるけれど、女性側からすればマイノリティの為に我慢せざるを得ない状況になった、って話は少なからずあるわけだ。

    だからこそ、デモに対しての総評はそういう部分もあるのだろう、と思い直したわけだが。
    …ただ、デモのイメージが悪いのは手段が目的になってるから、という思いの方が強いが。
    不平不満を叫ぶためにデモをする。鬱憤を晴らすために。海外ではそれを理由に店やなんかを攻撃するために、なんてイメージすらある。
    事実海外でデモから関係ない略奪に発展してSNS上で「欲しいものがあれば、デモに行こう」なんて皮肉が出てたこともあるらしい。
    …そりゃデモに対する印象はよくならないよなぁ…と思うのだが。

    さて、デモの話はおいておこう。

    マイノリティ。つまり少数派というのは、所謂生きづらい生活を強いられる立場にある。
    理由は簡単だ。
    少数派よりも多数派の人達が生きやすい生活を送るために基本的なシステムが組まれる。
    そのほうが、効率がいいからだ。

    故に、少数派は自分達にも生きやすいシステムを求める。
    しかしそれは、多数派が生きやすいシステムを変更して。または多くの場合多数派に今まであった恩恵を手放してもらう形を作らないと成り立たない。
    その上で少数派というのだから数が少ないので効率が悪くなる。
    だからこそ、少数派は余計に生きづらいのだろう、と思う。

    個人的な感覚として、平等なんて平等じゃないのだ。
    全員同じ順位にするなら、誰かに我慢してもらわなきゃならないし、ハンデをつけなきゃいけない。
    故に、絶対に平等じゃないほうがいいのだ。

    だがそれは、少数派が我慢すればいい、なんて話ではない。

    少数派が生きやすい状況を、多数派が我慢する形じゃない形で作るほうに持っていく必要があるのだ。

    例えるなら発達障害の人が生きやすい社会を考えたときに、多くの人は多数派の人が我慢することで発達障害の人を最低限働かせる形を考える。

    これが一つの間違い。

    認識の違いというか、言葉のイメージが先行しているからというのもあるのだが、発達障害というものは実は広く定義がある。
    もっといえば、得意不得意が極端というだけの発達障害もあるのだ。
    簡単に言うと、IQ140近い発達障害なんて人も存在する。
    故に、実は大学で教授をやってるような人にも存在するのだ。

    つまり。
    発達障害の人が働きやすい環境=多数派の人達よりも効率よくこなせる可能性。
    という場合も存在するのだ。

    そして発達障害はそれぞれダメなこと、大丈夫なことの幅が広く大きく分けて3つほど定義されてはいるが、そのいずれも中で細かく分類される。
    所謂、個性だ、なんていう言い方になることすらある。

    そう、個性。個性ならば、多数派にも多く存在する。
    故に境界が曖昧で、実は隠れや診断してない人を合わせると1割ほどは発達障害なんて言われることもある。

    そんな曖昧な境界線で曖昧な分類の少数派と多数派なのだ。
    結局、その人、その人の個性に合わせて柔軟にシステム組まなきゃ本当の意味で平等なんてことはないのだ。

    故に思う。
    少数派のために多数派が我慢するのを望むんじゃなく、少数派が活躍した結果多数派も助かる。そういう方向性。
    そういう、どちらにも利があるほうを模索するほうが実現しやすい方向なんじゃないだろうか。等と世迷い事を考える。

    おそらくその道を見つけることが、見つけることの難しさが、改善を求め声をあげて勝ち取るよりもはるかに難しいからこそ、選ぶ人がいないのだろうけども。


    極稀の更新でしたが、お付き合いありがとうございました。
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  • 視点が違う。けれど、着地点は同じ、に見える。

    2021-05-08 20:00

    我ながら、おかしな視点だとおもう。そんな話。

    漫画やアニメでよく「どういう展開がいいのか」みたいな希望や好みを書いているコメントをみかけることがある。

    それ自体はすごくよくわかる。私の好みは言いたいものだ。
    もちろんそれが、他人には興味ないだろうこともわかるのだが…もしかしたら同意が得られたり、違うという話が聞けたり…なんてことまで考えていなくても、どっかでそれを期待しているのだろうなぁ、と思ったりもする。

    で。
    「なんで主人公はチート能力もっているのか。」とか「なんで主人公が普通の人じゃだめなんだ」みたいなコメントを見かけたときに、私の中で何故か変な結論が浮かぶことがある。

    話にしづらい、とか盛り上がらないとか色々あるから作りづらいんじゃないか、っていうのが普通の反応なのだろうけども。

    私は何故かこう考える。

    普通の人も含めて多くの人が生きていて、たまたま波乱万丈な人にスポットが当たっているから主人公がそういう存在なんだろう、と。

    要するに、主人公を作るためにチート能力が与えられた、ではなく。
    主人公っぽい能力を持つ人を探し当ててスポットを当ててる。

    卵が先か、鶏が先か、って考え方に似ているように聞こえるかもしれないが、似てるようで大きく異なることがある。

    それは、主人公っぽい能力を持つ人にスポットを当てている、と考えて場合、他に候補となった人や候補にならなかった人がいる、ということだ。

    逆に主人公にするためにチート能力を追加した場合、極論その主人公一人で成り立つ。
    他の人が存在しなくていいのだ。

    さすがにそこまで極端になることはないから、どっちでも同じような世界観が出来る。
    …出来るはずなのだが。
    何故か私は、能力をもった人に主人公としてのスポットが当たっているだけ、という感じ方になってしまう。

    似たような世界観で成立するのだから、どちらになってもいいはずなのにね。

    考え方の癖なのだと思う。
    自分で一度見つけた、もしくは感じたものが当たり前のように次もそうだと感じる。
    悪く言えば、すぐに分かったようになってしまう感覚。
    よく言えば呑み込みのはやさ、になるのだろうか。

    そんな癖があると自分でもわかっていて、尚且つ自分の視点が人とは違う感じになっていることが分かっているからこそ、同じ世界観で話すことができる。

    根本の理解が違うとわかっているから、共通の世界観で話すわけだ。

    …なんて話をしていたら、思い出してしまうマンガの台詞がある。
    「自分が異端であるとわかっていれば常人のフリをすることができる」

    異端とはいえ、別に社会になにか及ぼすわけじゃないけれど。
    違うとわかっているから、合っているところで話して生活するわけだ。

    …同じ話をしているはずなのに、内容が、思い描いてるものが違う。
    軽くホラーみたいな話になってきたなぁ…

    書き始めたときは、こんな視点で見てます、程度の話だったはずなのにね。
  • 学校行くとか行かないとか。

    2021-04-22 13:47

    たまたま短い期間で似たような話題に触れたので思案してしまった話。

    まず最初に。人間関係やらで不登校になった人に対してどうこういう話ではないです。
    というかそういう人は不登校の時期があっても別にいいと思ってる。その経験が後にいろんな形でいきるもの。

    で、もう一つ。私は学校行った方がいいと思う立場で勝手な意見を言ってます。


    さて。学校行くとか行かないとか言う話。

    いわゆる、環境問題に対するデモとしていかない人だったり、youtuberで行かないと言った人だったりでちょこちょこ前から話題として上がるものなのだけど。

    これ、本質が全然違う議論になってることが多い気がしてしょうがないんですよね。

    例えば、とある漫画で海外の人が「本当に頭がいい人が学校行く必要なんてない」といったことを言っていた。
    これ単体でみれば、行かないでいい、という理由なのだと思う。
    同時に、ここに大きな問題がある。

    『本当に頭がいい人』、って誰が判断するんだ?と。

    本人がそう決めたとしよう。だから今行ってないんだろうと判断した場合…はたしてそれは本当か?とまわりは必ず訝しむ。

    簡単な話だ。周りの人が全員『本当に頭がいい人』『天才と呼ばれるような人』だけで構成されるなんてことはありえない。

    故に周りの人は『天才』を測る尺度なんてもってない。
    だから自分たちの経験に照らし合わせて忠告するのだ。そんな生き方できっこない、と。

    これだけなら『天才が理解されてないだけ』なわけだが…実際のところ、大半がそうではない。
    何故なら、天才じゃない人達が自分の経験に照らし合わせることができるから、だ。

    思春期…中学生くらいになると一部の人たちにはある種の全能感が起きる。
    成長に伴いある程度なんでもできるようになるからだ。
    そしてそれ故に、その時期自分が特別である、という感覚を得ることは少なくない。

    そう。つまりは。
    学校行く必要がないと判断した子供がいたとして。
    その子が自らを頭がいいからそれで生きていけると判断していたとしたならば。
    周りの人には「自分が過去に経験した思い出しただけでも恥ずかしい話」的なものに見えている可能性がある、ということだ。

    そして、多くの場合は実際にそうなのである。何故なら。
    『天才』と呼ばれる人が大勢いたのなら、『天才』ではなく、それは普通なのだ。

    そして多くの『天才』は『天才』として居続けることが出来ずに普通になる。
    それは『天才』が多いが故に普通になったのではなく。
    『天才』が『天才』じゃなかったから、なくなったから、普通になっただけだ。

    故に。この話の問題は何かと言われたら。
    『天才を測る尺度がない大衆』と『尺度を持たない故に天才と思ってしまう人』が同時に存在してしまうことなのだと思う。

    まだ、どちらかだけが間違っているのなら議論にもなるのだろうけどね。
    どっちも間違えてるなんてことが日常茶飯事で。
    同時に、答えが色々ある故にどちらも合っているなんてこともあるかもしれない。
    天才だって色々あるのだから。

    そのうえで私は、学校行っとけばいいのに、という意見だ。

    だって、最終的に自分で判断するのなら、自分で尺度を持たなきゃいけない。
    じゃぁ尺度ってなんだ?ってなったら、比較しかないんじゃないかなぁ?

    例えば、私はIQは変に高い。じゃぁ、頭いいのか?って言われたらそうでもない、と思う。
    だって大した学歴じゃないもの。
    運動は出来ると思ってたが、他にもっとできる人の話をきいて、そこで乗り越えようとは思わなかった。実際はそのうち超えてたから立ち止まる必要はなかったのだけどね。

    でもその辺も、比較する相手がいての経験だ。
    そしてそれが、尺度の一つで、自分の中の判断基準の一つだ。

    結局学校行ったほうがいい理由って、他人といること以外は特にないんじゃないか、なんて思ってしまうのだが…これ自体切り取ると変なイメージにしかならんから補足しとこう。

    集団に溶け込まなくて、学校でボッチだったとしてもそれはそれで意味があるし、人付き合い疲れまくって何のために、なんて思った人がいたとしてもそれ自体に意味があるからね。

    「やったことをやってないフリはできるけど、やってないことをやったフリはできない」

    知り合いの言葉だけど、実際経験したってだけでものすごい意味なんだと思う。
    だからこそ、その経験をすることを一般人としては勧めたいと思うわけです。

    まぁyoutuberで稼いだり経験自体も立派な経験だからそれ自体に文句は言わない。私が彼ら彼女らのことをよく知らないからこそそこはどうこう言うことじゃないし。

    比較対象が自分や自分のやっていることで、完結することで尺度を持っている人もいる。
    だから全部が全部比較対象がいるわけじゃない。

    ただ普通で生きていく人達が頭がいいと言われる人たちを理解できるとするなら。
    『天才』の尺度がない人たちに『天才』だという証拠、結果を出さなきゃいけない。
    その時は『天才だけど奇人』みたいな言い方に変わるだけかもしれないけど、私のように尺度がないからそう思ってるだけなのでは、みたいな誤解は無くなるのかもしれない。

    なんてことを、ぼーっと考えてしまった、というお話。