• 『露神の祠』に見る、夏目友人帳の原作・アニメ版の差異

    2018-10-03 03:116

    どうも、瀬黒です。
    台風も過ぎ去り秋らしく涼しい季節となりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
    実は先日、愛読している漫画『夏目友人帳』(原作:緑川ゆき)の劇場版アニメ「劇場版 夏目友人帳 ~うつせみに結ぶ~」を鑑賞して参りました。


    夏目友人帳をご存じない方のため軽く説明しますと、妖怪の姿が見える主人公・夏目貴志が、彼を取り巻く人間と妖たちとの交流を経て、多くの想いを受け止め成長していくという一話完結型の物語です。

    原作を読み始めてから10年以上経ちますが、スクリーンで夏目友人帳の世界を堪能できるとは思ってもおらず、とても感激。こんなに穏やかな気持ちでシアターを後にしたのは久方ぶりでした。
    制作は大森貴弘監督をはじめとする「夏目友人帳」制作委員会の方々。脚本は村井さだゆきさん。そのほか美術からレイアウト監修まで、これまでアニメ版制作に携わってこられた豪華面子です。それだけに物語のテンポから世界観まで、お茶の間で観ていたTVシリーズと何ら変わりのない安定感と温もりがそこにはありました。劇場版というと、どうしても派手な演出が先行するせいで原作から浮いた存在になりがちですが、そんなことはなかった。いつもと変わらぬ「夏目友人帳」でした。

    暗闇に浮かびあがる巨大なスクリーン、周りを囲む大勢の観客たち―――劇場という特異な空間で観るということは、いつものお茶の間で観るのとはわけが違うので、当然作品の感じ方にも影響が及びます。仕事から帰宅して風呂上りに晩酌しながら鑑賞…というプライベート自堕落空間ではないので、正直少し緊張していました。ですが本編が始まって数分後、そんな環境の違いを忘れるくらい、気付けば昔懐かしい夏目友人帳の世界にすっかり没頭していました。まるで里帰りした時のような感覚…とでも言うのでしょうか。少し大袈裟かもしれませんが、それくらい心にすんなりと馴染む、懐かしさあふれる作品でした。




    さて、映画の感想もほどほどに、ここからは本題に入ろうと思います。
    夏目友人帳のアニメ版は多くの方々がご覧になられているとは思いますが、皆さん、
    …原作もちゃんと読まれていますか?

    「い、いや~、アニメで観たからいいかなって…」という西村みたくミーハーな御人もいらっしゃられるのではなかろうか?
    少し意地悪な質問を致しましたが、決してアニメ専念派を非難したいわけではありません。アニメ版を純粋に楽しみたいが故に、原作を敢えて避けている方もいるでしょう。
    ですが、実は原作とアニメ版では当然ではありますが色々と違いがあります。その違いを是非とも皆さんに知っていただきたく、この記事の執筆に至りました。
    それでは、原作第2話(アニメ版第2話)の『露神の祠』を例に、その差異をご紹介したいと思います。

    というわけで、ここからはアニメ版と原作2話についてのネタバレを含みますので、まだご覧になっていない方はご注意くださいませ。













    【※以下、ネタバレ注意】














    『露神の祠』とは?

    (©緑川ゆき・白泉社/「夏目友人帳」制作委員会)

    【ストーリー概略】
    主人公の夏目が亡き祖母から受け継いだ遺品〈友人帳〉――それは妖怪の名前が書かれた紙の束で、書かれた妖怪を意のままに操れるという代物であった。夏目が友人帳の名前を妖怪たちに返還しようと決意した矢先に現れたのが、露神と名乗る、翁面を着けた小さな妖であった。
    彼は山中の祠に住み着いた妖であったが、偶然日照りに苦しんでいた村人たちに祀り上げられ、信仰の力を吸って大きくなる。一時期は人間と同じ程の背丈であったが、時代とともに信仰は廃れ、現在は湯呑み大にまで縮んでしまっていた。
    彼には小さい頃から見守ってきた人間の女性・ハナさんが今では唯一の信仰者だった。
    紆余曲折あり友人帳の名前を返してもらった露神であったが、その後ハナさんが亡くなってしまう。唯一の信仰者を失った彼は、力を失うとともにそのまま安らかに消滅の道を選ぶのであった…。

    ……というお話で、個人的には大変気に入っている回だ。
    露神の声を担当された青野武さんは残念ながら既に他界されている。幼い頃からウルトラ怪獣大百科で大変お世話になった自分としては、とても思い出深い声優さんだったり(「これでキミも、怪獣博士だ!」は今でも脳内再生されるレベル)
    そんな『露神の祠』であるが、原作とアニメ版の双方を見比べた際、色々と違いが散見される。以下、主な相違点を挙げて行く。



    ①作中の季節の違い



    (アニメ版第2話より ©緑川ゆき・白泉社/「夏目友人帳」制作委員会)

    アニメ版は熊本県人吉市でロケハンした風景をモデルに使用しているため、美しい日本の原風景が観られる点も魅力の一つだ。
    アニメ版の露神の回の季節は夏で、主人公は半袖、ハナさんも日傘を刺している。ハナさんが露神の祠に具えるために持参した果物も桃である。
    では、原作ではどうだろうか?




    (原作第2話より ©緑川ゆき・白泉社)

    息が白くなるほど空気が冷たく、主人公もマフラーを巻いている。お供え物の果物は蜜柑。
    もうお気づきだろう…そう。冬になっているのだ。

    原作では冬の季節のお話だったりするのだが、アニメ版ではその真逆である。
    この違いはアニメ版放送時期が7月であったために夏の季節に設定が統一されたためだ。
    だが、こういった違いも中々に面白い。この面白さは原作を読んでいないと分からないはずだ。
    次に、露神の祠の原作において省略されてしまった台詞について紹介したい。





    ②アニメ版で消されてしまった、露神の最期の言葉

    主人公には妖怪の姿が見えるのだが、普通の人には彼らの姿も見えないし、声も聞こえない。シリーズを通して描かれるのは、そんな人と妖のディスコミュニケーションだ。
    妖怪と人間は、本来交わることのない存在。
    声が聞こえないのであれば当然互いの想いもすれ違ってしまう。
    それに加え、彼らとの間には時間的な隔絶がある。人間の寿命は、長寿な妖にとってはとても短命なものなのだ。故にその交流の先には、必ず悲しい別れが訪れる。
    この感情は人間にも通ずるものがある。以前、飼っていた愛犬を失った友人がいたのだが、悲嘆に暮れた彼は「もう二度と、犬は飼わない」と私に断言して以降、犬を飼っていない。これは悲しくも美しい決断だと、私は思う。

    露神の回では、そんな人と妖の関係性がテーマになっている。露神は他の土地に移れば延命が叶ったかもしれないのだが、彼は敢えて祠に留まり、ハナさんの生を見届けて自身も消滅する道を選んだのだった。
    実はこの『露神の祠』、露神の最期の描写が原作とアニメ版では少々違いがある。


    「――聞こえていたよ。ハナさんには、露神様の声が…伝わってた」
    「ありがとう、夏目…昔も今も、人とは可愛いものだねぇ…――」


    …この台詞の後、主人公達に礼を言って露神は消滅するのだが、原作ではこの後に主人公の相棒で同じ妖でもある斑(ニャンコ先生)との短い会話がある。




    (原作第2話より ©緑川ゆき・白泉社)

    …そう。この豚ニャンコ、「馬鹿め…」とか言いやがるのだ。
    斑から見れば露神の行為は愚かなものに映ったのだろう。同情心も多少含んでいるかもしれない。いずれにせよ非常に彼らしい台詞だ。
    それに対し露神は、微笑みながら「お前にも、いつかわかるよ」とだけ言い残し、この世を去るのだ。作中で斑から「じいさん」と呼ばれている描写があることから、露神が斑より高齢であることがわかる。長きに渡って浮世を見守ってきた身であるが故に辿り着いた心境だったのかもしれない。

    この露神と斑のやりとりは、個人的には消してほしくなかった描写だ。
    露神のこの台詞は、原作2話目にして斑に対してなされた、重要な問題提起であったはずだからだ。
    時の流れは人と妖で異なる――これをテーマにした話は以降も続く。
    作中に登場する妖の多くはそれを理由に人里を去り、人間と二度と関わりを持たないようになる。かなり少数ではあるが、人間の一生を傍で見届けようとする妖も現れる。いずれにせよ離別は避けられないのであるが、そんな中、主人公の隣にいる斑は一体どのような選択をするのか…ストーリーの根幹に関わる、重要な問いになってくるはずだ。





    ……などなど、原作とアニメ版、実は結構違いがあったりする。
    故に、原作を読んでいない方には是非読んでほしいのだ。
    時間の都合上、泣く泣くカットされたのであろう、原作にしかないメッセージがそこには多く溢れているのだ。季節や情景描写の違いなども味わえ、二度美味しい。
    アニメ版は原作のコマとコマの間のドラマが秀逸に描かれているほか、原作にはないより細かな背景や建物の描写に、吉森信さんが奏でる切なくも温もりある音楽が加わり、よりディープな世界観を表現している。
    だが、それをご覧になった後でも、あるいは前でも構わない。ハマった方は是非原作も手に取って欲しい。新たな発見や、物語へのより深い理解に繋がるはずだ。



    長くなってしまいましたが、以上がお耳に入れたかった原作とアニメ版の違いでした。
    最後に余談にはなりますが、劇場版の話をもう少し。劇場版は完全オリジナルストーリー(個人的には6期特別編『夢幻のかけら』と共通性を感じました)なのですが、島本須美さんと高良健吾さん両名の演技が世界観と見事にマッチしていて、感動もひとしおでした。また、作中に登場する大橋忍先生の切り絵が至極綺麗で…などなど魅力満載なので、まだ観られていない方は是非とも劇場へ足を運んでもらいたい。

    それでは今回はこの辺で。
    拙い長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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  • 創作世界に見る「ぼっち」の変遷

    2018-08-25 17:542


    どうも、瀬黒です。
    お盆は日本酒を飲みながら『湯神くんには友達がいない』(著:佐倉準)の最新刊を読んでゲラゲラ笑っているだけという、実に有意義な時間を過ごしました。
    そんな私が皆さんに、最近の「ぼっち」事情について少し語っていきたいと思う。



    今年の3月に幻冬舎から発売された書籍、『極上の孤独』(著:下重暁子)がベストセラーになったことは皆さんご存知であろうか?


    内容は孤独=悪ではないと豪語する、ぼっちをこよなく愛する著者がぼっちの素晴らしさを世に訴えるというものだ。

    これは実に素晴らしいことだと私は思う。

    ぼっちはいつの時代も社会悪として弾圧の対象とされてきた。
    だが時代は変遷し、ぼっちが一つのライフスタイルとして世間に認められつつあるのだ。
    その兆しがこの書籍のベストセラー化であると言える。

    これを機会に、下重先生に負けず劣らずぼっちを愛してやまないこの私が、ここ最近のぼっち作品の歴史について軽く振り返ってみたいと思う。





    そもそも、ぼっちには大別して2種類のタイプが存在する。

    それは能動型ぼっち受動型ぼっちだ。

    この二つはまったくもって別物であるので注意されたい。


    【能動型ぼっち】
    自らの確固たる意思でぼっちになっている存在。
    友達が欲しいとは露とも思っていない。いてもかなり厳選した少数のみ。
    鋼のメンタルを持っており、滅多なことでは動じない。
    ぼっちでも困らない、自給自足可能なスペックを身につけている、
    あるいはそのポジションを獲得している。


    【受動型ぼっち】
    自分の意思に反してぼっちになってしまった存在。
    友達は欲しいが内面的な理由でそれが叶わない。いつも孤独に苛まれている。
    豆腐メンタルのため、ストレスを溜めがち。
    コミュニケーション能力が低く、職場で周りに意図せず迷惑をかけてしまうことも。


    ぼっちの紳士淑女の諸君、いかがだろうか?
    自分がどちらに当てはまるか冷静に考えてみて欲しい。
    僕がこれからフォーカスを当てて行くのは前者であるが、もし後者に当てはまった方がいたら謹んで申し上げたい。…今すぐぼっちを辞めるべきだ。
    ぼっちをやっている人間というのはその方が幸せだからやっているのであって、ぼっちの時点で幸せを見出せないのであれば、それはぼっちに向いていないのだ。「自分はぼっちだ」などとSNSで嘆いている暇があったら、速やかに自己啓発本でも読んで色んな人に玉砕覚悟で絡みに行ってぼっちを脱する努力をするべきである。その方がきっと幸せだ。

    だが、ここまで言っても「そんなこと偉そうに言われてもこっちはどうしようもないねん」と憤った受動型ぼっちの諸君もいるだろう。

    だが残念ながら受動型ぼっちの諸君はぼっちを辞めるか、あるいはぼっちの魅力に気づき自ら進んで能動型ぼっちになるかの二択しか幸せになる選択肢が残されていないのだ。

    どちらも中々に酷な選択かもしれない。


    ここまで私が辛辣なことを言うのには理由がある。

    今までぼっちが悪として弾圧されてきた理由の大きな要因が、受動型ぼっちにあると思っているからである。

    世間一般の人間は能動型ぼっちと受動型ぼっちを区別しない。
    それらを混同するが故に、「ぼっちは本当は友達を欲しがっている」とか「ぼっちはコミュ力が低い」などという偏見が生まれたのである。正直、誰にも迷惑をかけずぼっちをやっている能動型ぼっちとしては、かなり迷惑な話である。受動型ぼっちのマイナスなイメージのせいで勝手に可哀想な存在と認識されてきたのだ。

    「いや、こっちはホントに心から友達欲しくねーんだよ…。
    受動型ぼっちはマジで早く友達を作ってくれ。頼むから」

    …これが能動型ぼっちの本音である。
    「友達ができない」のと「友達を作らない」のは全く異なる事象なのだ。



    さてここからが本題であるが、近年の創作世界史におけるぼっちとはいかなるものであったかを見て行きたい。

    みなさんは「ディオゲネス・クラブ」をご存じだろうか?



    ↑マイクロフト・ホームズの挿絵(シドニー・パジェット画)

    かの有名な『シャーロック・ホームズ』に登場するシャーロックの兄、マイクロフト・ホームズが創設した架空の会員制クラブである。
    そこでは座り心地の良い椅子や定期刊行物の最新号があったりと至れり尽くせりであるが、他の会員との会話は厳禁で、話題に上げることすら躊躇われる。

    ぼっちだって心地の良い空間でリラクゼーションに浸りたい。
    そんなぼっちたちのために作られた娯楽施設なのである。

    そんな感じで19世紀の創作物においても既にぼっちの存在は見てとれる。


    だが90年代に突入すると最強のぼっち収容施設が登場する。

    それは『すべてがFになる』(著:森博嗣)に登場する、真賀田研究所である。




    この施設は作中に登場する超天才プログラマー・真賀田四季が幽閉されている研究施設だ。

    真賀田研究所には優秀な研究者が集い、最新鋭の技術が湯水のように使える設備環境の下で精力的に研究を進めている。いわば科学者の理想郷みたいなところだ。彼女は人類で最も進んだ知能を持っており、それを売りに政府や民間組織と取引をし、自身をそこで厳重に隔離するようわざと仕向けた。

    それは何故か?

    彼女は早々に結論付けたのである。他者との交流など無価値であると。
    天才的な頭脳を持つ真賀田博士だからこそ許されるスタンスとも思えるが、これは明らかに典型的な能動型ぼっちである。最強スペックを持つ究極の能動型ぼっち、それが彼女だ。
    作者は彼女を生み出すことにより能動型ぼっちの基本理念を世に知らしめたのだ。


    しかしながら、この頃までの創作世界のぼっちとは、変わり者キャラのエッセンス的な要素でしかなかった。

    それはラノベや漫画においてはとても顕著である。
    例えばラノベにおいて主人公がぼっちであっても、ぼっちである状況を脱するべく努力し、仲間との友情を育み、冒険における苦難を仲間とともに乗り越えハッピーエンドを迎えるというのが昔は常だった。つまるところ、サブカルのメッカでもあるライトノベルや漫画の世界においても、ぼっちは悪と認識されていたのだ。

    後にぼっちという概念が世間に浸透してくると、それを面白おかしいハンディとすることで笑いを取る作品が現れる。

    その始まりが『野ブタ。をプロデュース』(著:白岩玄)である。





    この作品は受動型ぼっちの主人公が周囲の人間に補助され四苦八苦しながら、恋人や友達作りに奔走するラブコメディである。個人的な感想はここでは控えさせてもらうが、要は受動型ぼっちのお話なのである。芥川賞にもノミネートされ、ドラマも高視聴率を記録するなど一世を風靡した作品でもあるが故に、世間に「ぼっちは孤独で友達を欲している可哀想な生き物」という偏見を広めてしまった、諸悪の根源だと私は勝手に思っている。

    そうしてぼっちに対する風当たりが強まる中、この頃はまだ能動型ぼっちの存在自体が認知されていなかったために、ぼっち自体を肯定する作品はほとんどなかった。

    だが転機が訪れる。

    受動型ぼっちを嘲笑するのではなく、能動型ぼっちを称賛するスタイルの作品が次々と産声を上げたのである。

    それが、『人類は衰退しました』(著:田中ロミオ)や『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(著:渡航)といった作品群である。


    どちらの作品においても主人公は典型的な能動型ぼっちで、他者への関心は薄い上、他者に依存しないで済むライフスタイルを確立している強者である。彼らは幼少期からの経験から、人間が生まれながらにして持つ残酷性に辟易とした情を抱いてしまっており、自ら孤高の道を選んだのだった。「空気を読んで嫌な人たちと関わって暮らすくらいなら、ぼっちの方が楽じゃないか」と彼らはいち早く気付いたのである。そういえば「空気を読む」という言葉もこの頃流行ったものと記憶しているが、そんな中これらの作品は世間に堂々と反論したわけである。

    加えて、これらの作品で特に注目すべきは、主人公の周りの登場人物たちである。
    彼らはあろうことか主人公のぼっちとしての生き方を尊重し、一定の理解を示すのである。

    今までであれば「ぼっちは良くない。だから友達を作ろう」といった『野ブタ。をプロデュース』みたいな流れになるのだが、彼らはそうはならなかったのだ。

    これはまさに革新であった。

    能動型ぼっちが持続可能な存在として認められた、ぼっちがいても良い世界を描いた作品なのである。

    合理的な理由でぼっちを貫く主人公たち。
    私がこれらの作品を初めて読んだとき、「ああ、こういうこと思っていたのは実は俺だけじゃなかったんだ」という強い共感と安堵感を覚えたのを、今でも忘れない。
    それまで認知もされなかった能動型ぼっちを、彼らは救済してくれたのだった。


    これらぼっち界のサラブレッド達の疾走を皮きりに、ぼっち肯定作品が流行り出す。

    そうして極めつけが2012年。
    ぼっち界のダークホースとでも呼ぶべき作品が現れる。
    週刊少年サンデーで連載中の『湯神くんには友達がいない』(著:佐倉準)である。


    この作品の主人公・湯神裕二は野球部のエースで学業も優秀というモテ要素の塊みたいな男であるにもかかわらず、ストイックな程に孤独を愛している。タイトル通り、本当に友達がいないのである。
    だが、彼に友達がいないのは決して彼に魅力が無いからではない。当人に友達を作る気がさらさらないというだけの話である。そんな彼のぼっちに対するこだわりは尋常ではなく、先述した作品の主人公たちを軽く凌駕しているといっても過言ではない。

    例を上げると、以下こんな感じである。


    ↑他の方のブログでもよく引き合いに出されている、彼のパワーワード。
        個人的には公で声に出して読みたい日本語。それにしても、いい笑顔である。



    ↑修学旅行における班の人物相関図。まさかの全方位アウトオブ眼中。


    …などなど、他作品のぼっち主人公の追従を許さぬ、怒涛の迷言メーカーなのである。
    そんな彼の周囲にいる人間はどのような反応を示しているかというと、そのあまりの偏屈さと完全無欠さに、呆れてものも言えぬ状況なのだ。
    だが、彼は今流行りの「ぼっちの俺超格好いいぜ!」と勘違いしている見苦しいファッションぼっち共とは一線を画する。彼はただ、誰にも関わらず平和に暮らしたいだけなのだ。

    そんな孤独を愛する彼の力強い迷言集は、読者の心を惹きつけて止まない。



    湯上くんについてはまだまだ語り足りないのだが、そろそろこの辺でまとめに入らせてもらうとする。

    以上のように創作世界においてぼっちは古くから存在していたのだが、彼らが認知され、尚かつ肯定される流れが出来たのは意外にもここ最近のことなのであると私は認識している。

    『極上の孤独』のベストセラー化は、その流れをさらに加速させるだろう。
    能動型ぼっちが堂々と孤独を楽しめる住みよい世界というのは、実はもう目の前かもしれない。(まあぼっちからしてみれば世間の認識とか流行とか、ぶっちゃけどうでもいいのだが)


    そんなこんなで中々に支離滅裂な詭弁記事であったが、いかがだったであろうか?
    少しでも暇つぶしになったのなら幸いである。
    ちなみに本記事で紹介したぼっち肯定作品はどれも本当に素晴らしい内容なので、まだ読んでいない方は是非チェックして欲しい。様々な視点から、ぼっちの素晴らしさを改めて実感できるはずだ。あと単純にコメディ作品としても世間に対する皮肉が利いていて秀逸なので、是非とも手に取ってほしい。

    それではみなさん、良いぼっちライフを。


  • ハッカーズメモリー考察 ネットカフェの本棚の漫画ついて

    2017-12-24 04:032




    どうも、瀬黒です。
    先日ついに予約していた『デジモンストーリー サイバースルゥース ハッカーズメモリー』が自宅に届きました!
    これを楽しみに年末頑張って働いたと言っても過言ではない…。
    それくらい待ち望んだ作品なのですが、プレイして10分も経たないうちに
    制作陣のデジモンファンへ向けた粋な計らいを私は見つけてしまったのだった。


    というわけで、まずご覧になって頂きたいのがこちらの画像。



    こちらは冒頭のムービーのワンシーン。
    ネットカフェの店内を主人公が練り歩くシーンで、本棚を横切るこの一瞬の映像。
    左手側のコミックにご注目。
    古株のデジモンファンなら、見覚えがある方も多いだろう。

    そう。デジモンアドベンチャーVテイマー01である。


    Vテイマー01は、やぶのてんや先生執筆のデジモンシリーズ初のコミックス作品だ。
    連載は1999年にスタート。
    Vジャンプで連載されたということもあり、主人公のパートナーデジモンはやぶの先生オリジナルのデジモン、ブイドラモンが務めている。
    実はアニメ版でも登場する主人公、八神太一のデザインにもやぶの先生が携わっている。
    ーグルを装着したデザインは実は先生の発案だったとか。
    (詳しいお話はハカメモの公式ホームページにおいて、やぶの先生のインタビュー記事で閲覧できるのでそちらを参照されたい。)
    また、Vテイマー01で登場した敵デジモン、アルカディモンも本作に登場するとのことなので、今後どのようにストーリーに関わってくるのか注目したい。



    そして、もう一度先ほどの画像を見ていただきたい。



    今度は右側の一冊だ。
    こちらの特定にはかなりの時間を要した。
    なんせ裏表紙なので、ネットで探すのは表の表紙と違い困難を極めたために、古本屋までわざわざ足を運びようやく特定に成功。
    それがこちら。


    『デジモンワールド リ:デジタイズ エンコード』の2巻である。
    こちらは2012年に発売されたPSPソフト『デジモンワールド リ:デジタイズ』のメディアミックス作品だ。作画は藤野耕平先生。
    はじめは『地獄先生ぬ~べ~』でお馴染み、岡野剛先生の『デジモンネクスト』の裏表紙かと疑ったのだが、こちらだった。

    ちなみに裏表紙がこちら。


    敢えて2巻を登場させたのは、裏表紙のガオモンがちょうどいい位置に描かれていたためであろう。藤野先生の描くガオモンがとてもクールにキまってますね。

    このように、序盤からデジモンファンがニヤリとするファンサービスが盛り込まれている本作。
    今後も、このような小ネタを全て見逃さずにゲームを堪能していきたいところである。

    ちなみに、私が購入したのはデジモン誕生20周年を記念したこちらのアニバーサリーボックス。



    個人的には、これででこの価格はむしろ安すぎなのではと心配になるくらい充実した内容となっているので、デジモンファンには超おススメだ。(※バンナムの回し者とかではありません)
    前作を気に入った人間であればまず買って後悔することはないであろう一品。


    そんな感じで、以上がプレイしてさっそく気付いた点でありました。
    短い記事でしたが、今後もこういった小ネタを見つけたら解説していきたいと思いますので、
    宜しかったらまた覗いてやってください。


    それでは皆様、良いハカメモライフを!・・・珈琲でも入れようか?