• 「Ghost of Tsushima」クリア後レビュー

    2020-07-20 12:322

    この記事は「Ghost of Tsushima」のクリア後感想です。ネタバレを避けてはいますが、
    完全ネタバレNGという方はブラウザバックしてください。

     「Ghost of Tsushima(以下ツシマ)」のメインストーリーをエンディングまでクリアしたので、本作の良い点や悪い点、魅力とプレイ感覚について適宜他のゲームと比較しながら、感想レビューを書いていく。
     この記事では、本作の要素を大まかに「世界観」「アクション」「クエスト」「ストーリー」の四つに分けてそれぞれレビューする。あくまで好き嫌いを含んだ個人的な感想だということを心に留めつつ、これから購入する際の参考にしたり、購入者は自分のプレイ感覚と比較して楽しんだりして欲しい。

    -世界観-
     時は鎌倉、場所は対馬。日本人ですらピンとこない設定であり、それも描かれるのは蒙古(モンゴル)が日本へと攻めてきた元寇である。紋切型で外国ナイズされた(ときに歪んだ)日本観を押し付けがちな海外の和風ゲームがこういった設定を選ぶ時点で異色といえるし、主人公は武士や侍でなく「冥人(くろうど)」と呼ばれる。一体どんな世界観に仕上がっているのか、それだけで興味を惹かれた方も多いだろう。
     主人公である境井仁は、誇り高い境井家の武士として蒙古の侵略に立ち向かうが、蒙古の圧倒的な戦力の前に対馬の武士はほとんどが虐殺され、ひとり戦に生き残った仁は島と民を守るため、独力で蒙古に立ち向かう。はじめ「武士の誉れ」を重んじて戦っていた仁は、圧倒的な蒙古の軍勢を前に、だんだんと闇討や毒といった卑劣な手さえも使う「冥人」としての戦いに身を落としていくことになる。こうした「武士」としての生き方を捨てることで逆説的に「武士」のあり方を浮き彫りにしていく語り口については、「ストーリー」の章で触れる。

     一言でいえば本作の世界観は、「露骨な非現実性を削いだ和風ファンタジー」である。妖怪や幽霊といった怪異が出てきたりはしないし、美男美女ばかりが出てくるわけでもないものの、息を呑むような絶景は誇張されたファンタジーであり、実際の歴史を踏襲しているわけでもないという点では、間違いなくフィクションでもある。しかし本作をクリアしてなお、それを欠点と考える人は少ないだろう。向かい合うだけでも時代劇のような画になる殺陣、(大げさなほど)美しい自然を前に和歌を詠む風流、狐や鳥に導かれた先で出会う新しい発見。その見え方がときに外国人的であり、しこりを感じることもあるとはいえ、いずれもファンタジーでしか表現し得ない領域であり、他のゲームにない独自の体験を提供してくれる。特に剣戟アクションの出来映えは見事なものであり、睨み合う時の間、敵の刀を受け流す動作、人を斬った時の確かな手応え、とどめを刺して血を払う動作、どれをとっても映画のワンシーンと見まごう出来で、一度でも時代劇に惹かれたことのある人ならばそれだけでこのゲームに引き込まれるはずだ。本来なら必要ない納刀や礼といった動作も任意で行うことができ、適度なロールプレイを実現してくれる。
     一方でツシマの世界観が絶賛できる点ばかりかというとそうでもない。「ストーリー」の章でも触れるが、NPCは没個性的でキャラクター性がなく、喋り方も現代語と古語をごちゃまぜにした使い方で不統一感があり、いちいち引っかかるところが多かった。また佳景を前に和歌を詠んでいるのに和風というより中華的な音楽が流れてきて強烈な違和感を覚えたりもした。これらは、個人的にあまり良い印象を受けなかった点である。

    -アクション-
     本作の戦闘システムを一言でいうと「アクションは劣化SEKIRO、ステルスは劣化アサクリ」という感じなのだが、これらの戦闘システムに関しては個人的にはそこそこ満足している。なお、以下は難易度「難しい」でプレイしたうえでの感想である。
     アクションは、弱・強攻撃、ガードと回避とジャンプという、SEKIROやFor Honorに代表されるベーシックな方式である。特にSEKIROや仁王の影響が濃く見られ、「ジャストガードで受け流し→切り返し」が基本的なループで、仁王のように敵のタイプに合わせて型を切り替えて攻撃できる。ガード不可の危険な攻撃を回避かジャンプで避けるシステムはSEKIROからそのまま輸入されているが、このシステムは(SEKIROに影響され急いで導入したのか)ゲーム内の説明がほとんどなく、特にジャンプで避ける攻撃はSEKIROをプレイしていないプレイヤーにとってははじめただの理不尽な攻撃にしか感じられないだろう。またガード不可攻撃をうまく避けてもリターンが少なく、最悪ガードされて終わることがあるというのも攻撃を捌く爽快感が感じられず、調整不足を感じる点である。型を切り替えるシステムも、乱戦の中で切り替えながら戦う楽しみ方はあるものの、連打ゲーになりがちで、戦闘に深みを与える要素としてはあまり上手く機能していない。しかしながらガード不可攻撃に注意しながら攻撃を捌き切り返すアクションは単純ながら中毒性がある。特にボス戦では敵の攻撃を覚えながら確実に捌いていく必要があり、倒した後には確かな達成感が得られ、オープンワールドゲームの戦闘システムとしては水準以上の出来であると感じた(たとえそれがSEKIROの劣化コピーだとしても)。
     また仁は「冥人」としてクナイや煙玉などの暗器をサブウェポンとして用いることができる。クナイは複数人にガード不可のダメージを与えつつしばらく怯ませられるし、煙玉は周囲の敵が一気にステルス待機状態になるので最大三人を連殺できる。いずれも安全に一瞬で戦場を制圧できるほど強力だが、それゆえ純粋にアクションを楽しみたいプレイヤーは封印することになるだろう。のっぴきならない状況に追い込まれたときの逆転の一手として使うくらいがちょうど良いと個人的には感じた。
     また本作独自の要素として、「一騎打ち」というのがある。敵陣に正面から入り、△ボタンを押し込んで、自分に敵の攻撃が当たる直前にボタンを放すと一撃の下に葬り去れるという単純なシステムだが、失敗するとHPが大幅に削られた状態で乱戦になるハイリスクハイリターンな仕様であり、後半になるにつれ敵がフェイントを入れてきたり攻撃速度が上がってきたりしてそれなりに難しくなってくる。私は終盤まで一騎打ち→乱戦の流れでもそこまで苦労しなかったものの、反射神経やアクションに自信がない人はステルスで確実に数を減らしていく戦略になるだろう。とくに後半は敵の数が多いので、乱戦しても時間を浪費するだけであり、ステルス主体になることも多かった。
     仁が「冥人」として戦うためのステルス要素ははっきりいって杜撰で、敵は何もない場所で孤立して尻を向けるし、死体を見ても少し騒いだら何事もなかったかのように持ち場に戻るし、地獄耳を習得すると敵の位置を常に把握できるようになる。アサクリやメタルギアなどのステルスゲームに慣れた人ならばあくびが出る難易度ではあるが、アサクリもスキルが揃ってくれば似たようなものなので、個人の経験や好みによって評価が分かれるポイントだと思う。私は敵の配置を見てどういう順番で倒すか考えるだけでも楽しめるタイプなので、こういった難易度でもそれなりに楽しむことができた。
     ここまでツシマの戦闘システムを他のゲームと比較してこっぴどく言ってきたが、それでも私はこの出来には満足している。なぜなら各要素それぞれの比較対象はそのジャンルに特化したゲームであり、昨今のオープンワールドゲームの戦闘システムの水準からすれば、(独自性や革新性は薄いものの)バランスがとれていてかなりの出来であることは間違いないからである。近年の比較対象としてもっとも近しいステルスゲームは「アサシンクリード オデッセイ」だと思われるが、あちらはステルスゲームとしてのクォリティは高いもののアクションはおまけ程度であり、英雄の一撃などのスキルを獲得するとほとんどワンパターンで攻略できるほどだった。アクションゲームとして近しい「SEKIRO」にはアクションの面白さや奥深さでは遠く及ばないものの、あちらのステルス要素は比較的薄く、敵情を把握する手段もなければ主人公を見るや騒ぎ立てて仲間を呼ぶこともほとんどない。これらのAAAタイトルと比較しても、アクションとステルスのどちらに比重を置く人でもそれなりに楽しめるという点では、「Ghost of Tsushima」は優れたゲームであると感じた。

    -クエスト-
     本作のクエストはメインクエストの「仁之道」、サイドクエストの「浮世草」、特別な技や装具を得られる「傳承(でんしょう)」の三つに分かれている。
     「仁之道」や「浮世草」ではゲームプレイとしてはあまり面白くないウィッチャー風の探索パートが多かったり、少しでもいるべき場所から離れると「元の場所に戻れ」と注意が出て鬱陶しかったりして、退屈さや不自由さによるストレスが多々あった。もっともいずれのクエストも仁や脇役のストーリーを追うことが主眼に置かれているし、仁がいきなり任務を放棄して神社探索など始めだすと不自然ではあるのだが、「元の場所に戻れ」と出る境界線は攻略の幅すら狭めるような厳しさであるので、もう少しプレイの自由度に幅を持たせてよかったと感じた。
     「傳承」は退屈なサブクエとは一転して個性的な遊びや試練が用意されていて、最後には強者との一騎打ちが待ち受けている。試練を達成しながら個々の伝承を追うだけでも面白いし、クリアすれば強力な技や装備といった報酬が得られるので、モチベーションも維持しやすい。水墨画風のアニメーションと(本編と違って)統一感のある古語で語られる伝説は、メインストーリーに組み込まなかったのが疑問なほどのクォリティである。青いマーカーを見つけたらメインクエストをほっぽりだしても向かってしまうほどの魅力がそこにある

    -ストーリー-
     「世界観」の章でも触れた通り、本作は「武士の誉れ」を重んじて戦っていた仁が卑劣な手さえ使う「冥人」としての戦いに身を落としていく物語である。そう、美麗でリアリティある侍活劇を描いたはずの本作の主人公は、侍の道を捨て、あれほど忌み嫌った蒙古と同じようなやり方に手を汚していくのである。このストーリーラインを聞いた人は、「ほんとうに武士や侍らしい戦いが見られるのか」と不安になるかもしれないが、安心して欲しい。本作はどこまでも「武士道」や「侍らしさ」を描いた物語であり、仁が「冥人」に堕ちることによって、むしろそれと対比される「武士道」や「侍らしさ」の何たるかが浮き彫りになるような構成になっているのである。とくに、武士道を重んじる志村と冥人に堕ちる仁の美しい二項対立は、日本の作品ですら触れたことのなかった部分に光を当て、武士道の欠点や不条理といった深い影をも浮かび上がらせ、いままで誰も成しえなかった境地に達しているとすら言える。この点は、優れたストーリーテリングの手法として、高く評価されるべきだと私は思っている。
     一方でツシマのストーリーには欠点もある。島民は見た目も会話も没個性的でキャラクター性がないし、特に敵の蒙古は、彼らの考えも物語性もほとんど見えて来ず、主人公のストーリーに深く絡んでくることもないので「都合のいい単なる敵役」としか見ることができなかった。名前のある登場人物もキャラクターが一貫しておらず言動や行動が右往左往したり、本来主人公に向けるべき感情を向けなかったりその逆もあったりして、「ストーリーを思い通り進めるための都合の良い駒」としか感じられない部分も多々あった。
     しかしそれらを差し引いても、本作の孕むメッセージ性や深く記憶に残る物語は、すこしでも武士道や時代劇に興味がある人ならば手に取るべきであると言えるくらい、じゅうぶん価値あるものであると私は思う。

    -まとめ-
     本作は独自性の薄い戦闘システムや退屈なサイドクエスト、個性のない登場人物といった少なくない欠点を抱えながらも、それを補って余りある魅力を放った作品である。秀麗な自然描写や映画のワンシーンのような殺陣、優れたストーリーテリングと重厚な物語は、剣術や時代劇に興味がある人だけでなく、ふだん和風ゲームやオープンワールドを遊ばないプレイヤーでさえ触れてみるだけの価値がある。
     個人的に点数をつけるならば85/100ほどで、完璧で斬新なゲームとはいえないが、本作でしか味わえない体験はふんだんに盛り込まれていると断言できる。比較対象として類似のゲームに個人的な点数をつけるなら、SEKIROが95点、アサクリオデッセイが85点、アサクリオリジンズが80点、ウィッチャー3が75点、仁王が70点といったところである。
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  • 【考察】ダークソウル全体を貫く根本原理について

    2019-10-05 02:395
     この記事は、ダークソウルというゲームを根本から規定し、あらゆる設定や物語を生み出す元となっている基本原理について考えてみようという趣旨の記事である。そんなものがあるのかと訝しむフロムファンがほとんどだと思うが、これが唯一絶対の解釈だと言うつもりはないし、宮崎氏自身そうやって想像の余地を狭めてしまう事には否定的なので、これから語られる内容をあなたに押し付けようというものではない。ただし、より多くの人に納得してもらえるように、考察の根拠となる部分は明確に提示していくつもりである。

     フロム作品の特徴として、プレイヤーはアイテムテキストや会話から得られる断片的な情報をつなぎ合わせて自由に考察を広げていくことができるという性質がある。ネット上に無数に転がる考察群は、そういった情報をつなぎ合わせて考えうる一つひとつの出来事や物語について個々人の解釈を提示するものがほとんどである。しかし、ダークソウル全体の物語を規定し、生み出している原理の部分について考察してみようという趣旨のものは、ほとんど存在しないように思う。その理由はそれがあまりに抽象的であるからかもしれないし、目の前に見えている具体的な物語よりもその本質に迫ろうという人自体少ないからかもしれない。
     しかし、物語の背後に明確な「原理」が存在するならば、それさえ掴んでしまえばあとのことは全て芋づる式に理解できるはずである。これから述べるのはそういった至極単純な原理であるが、抽象的な概念というのは単純なものほど理解しにくいので、しつこいほど丹念に、具体的な例を交えながら説明していく。
    古い時代

    世界はまだ分かたれず、霧に覆われ 灰色の岩と大樹と、朽ちぬ古竜ばかりがあった

    だが、いつかはじめての火がおこり 火と共に差異がもたらされた
    熱と冷たさと、生と死と、そして光と闇と

    そして、闇より生まれた幾匹かが 火に惹かれ、王のソウルを見出した

    最初の死者、ニト
    イザリスの魔女と、混沌の娘たち
    太陽の光の王グウィンと、彼の騎士たち
    そして、誰も知らぬ小人

    それらは王の力を得、古竜に戦いを挑んだ
    グウィンの雷が、岩のウロコを貫き
    魔女の炎は嵐となり
    死の瘴気がニトによって解き放たれた

    そして、ウロコのない白竜、シースの裏切りにより、遂に古竜は敗れた
    火の時代のはじまりだ

    だが、やがて火は消え、暗闇だけが残る

    今や、火はまさに消えかけ 人の世には届かず、夜ばかりが続き
    人の中に、呪われたダークリングが現れはじめていた……
     鮮烈で陰鬱な世界観を感じさせる、ダークソウルのプロローグである。この記事でこれから述べていくダークソウル世界の原理というのは、この「はじめての火がおこり 火と共に差異がもたらされた」の部分であり、そこから逸脱することはない。しかしこの部分についてじっくりと考え、理解を深めるほど、ダークソウルの物語全体を考察する際に、物語や出来事がそうなった理由が明確に見えてくるのである。
     まずはこの「はじまりの火」について、宮崎氏がダークソウルDLCのラジオ:
    で述べている内容をまとめてみよう。

    ・火があると影があるから差異が生まれた
    ・差異が無くなった世界を知覚するのは哲学的に難しい
    ・世界から"火"が消えても"明かり"が消えるわけではない(概念的な火)
     このことから、「はじまりの火」とは「物理的(プラズマ的)な火」のことではなく、世界に差異をもたらした「概念的な火」であることがわかる。では、この「概念的な火」とは具体的に何を意味するものであろうか。
     プロローグでは「はじめての火がおこり 火と共に差異がもたらされた。熱と冷たさと、生と死と、そして光と闇と」と語られる。このことについて宮崎氏が火があると影があるから差異が生まれた」と言っているのは、ごく単純なことのように思えるかもしれないが、このことについてじっくり考えていくほど、この世界を定義する原理が見えてくる。

     「闇」はどんなときに生まれるだろうか。光の存在しないただ真っ暗な空間を想像してみると、もしそこで生まれた赤ん坊がいたら、その赤ん坊には「闇」を見つけることはできないはずである。周りはただ真っ黒で、世界を区別するものはないのだから、その人には「闇」という認識すら生まれないはずである。何も見えないのと同じなのだから、視覚以外の感覚に頼った「世界」が構築されるだろう。
     もっとわかりやすく考えてみよう。世界に存在する全てのものが「全く同じ赤色」の世界だったらどうだろうか。全てのものが同じ色で、光や影すらないのだから、そこにいる人間は目に見えるものを区別することはできないだろう。 目の前にテレビや筆箱があっても「ただただ均一な世界」しか見えず、ものを認識することはできない。そこに生まれた赤ん坊には「赤色」という認識すら生まれないはずだ(赤色と区別されるものが無いのだから当然である)。
     この世界に突如として「青色」のものが現れたらどうだろうか。そこには「差異」が生まれるから、ここで初めて「赤色」は「青色」と区別されることで、「赤色」として認識できるようになる。赤色と区別されるところの「赤色でないもの」があって初めて、「赤色」という色が認識できるようになる。人間は「あるもの」を認識するとき、それ以外のもの」と区別することで認識しているということである。逆に言えば、「差異」つまり「それ以外のもの」がなければ、あるものをあるものと認識することはできないのである。熱と冷たさと死も同様である。もし人間が死なない生物だったとしたら、「死」だけでなく「生」という概念も存在しなかっただろう。

     これまでは火があると影があるから差異が生まれた」という言葉を漠然と捉えていたかもしれないが、始まりの火は具体的にはこういった原理で世界を生み出したのである。 火は影(闇)を生み、熱は冷たさを生み、生は死(最初の死者ニト)を生み出した。 より正確にはそれらの「差異」がそれらの「存在」を生み出したのである。
     このようにして考えると、「はじまりの火が弱まる」ということの意味も明らかになってくる。 火が弱まれば、それが生む「差異」も曖昧になるから、ものの区別は曖昧になり、なにも存在しない世界に戻っていく。生と死が曖昧になり(不死人が生まれる)、空間が曖昧になり(ロスリックにあらゆる土地が流れ着く)、そして時間が曖昧になっていく(ロスリックにはあらゆる時代のものが同時に存在する)。 「火を継ぐ」というのは、この消えかかった火を再び熾すことで曖昧になった差異を再び明確にするということだ。ただしそれは永遠に続けることはできず、先延ばしに過ぎず、火はだんだんと弱まっていく。なぜだろうか。
     このことを理解するために
    少し脇道に逸れてみよう。ロスリックにはなぜ薪の王たちの故郷“だけ”が流れ着くのだろうか?  それは火を継ぐことによる差異の再認識というのは、「火を継ぐ薪の王たちの認識できる範囲」でしか起こりえないからだ。
     「火を継ぐ」ことによって、薪の王たちは「あらゆるものの差異」を再定義、再認識する。これによって曖昧になりかけた差異が再び明確になるので、世界は延命される。 弱まった火が強くなれば影は濃くなり、強くなった熱はより明確な冷たさを生む。しかしそれは火を継ぐ「薪の王」が認識する範囲でしかありえない。なぜなら「世界を認識する存在」なしに差異は生まれないからである。目が見えなければ色の差異は生まれず、鼻が利かなければ匂いの差異は生まれず、認識する存在がいなければあらゆる差異は生まれない。ゆえに、差異が再定義されるのは世界を認識する存在(薪の王)が差異を知覚できるものだけでしかない。したがって、薪の王の記憶に残っていない場所はだんだんと差異が曖昧になって消えていく。逆に記憶にはっきりと残る「故郷」だけが残り、ロスリックに流れ着くのである。

     火継ぎの度に薪の王の火が届く範囲の世界は再定義され差異が明確になるが、それ以外の場所は差異が再定義されないので、どれだけ火を継ごうと世界はだんだん狭く、曖昧になっていく。ゆえに火継ぎはその場しのぎの延命に過ぎないのである。ダークソウル3の世界では火は陰り、もはや火継ぎは絶えかけている。

    「火は陰り、王たちに玉座なし」 

    継ぎ火が絶えるとき、鐘が響き渡り 古い薪の王たちが、棺より呼び起されるだろう
     この世界の始まりの原理を明確にするだけで、ロスリックに薪の王たちの故郷が流れ着く理由や、火継ぎは延命でしかなくいずれ火が弱まって世界が終わる理由まで理解することができた。この原理が働いているのはこれらの事象だけではなく、ダークソウルのストーリーを形作っているあらゆる物事がこの原理に沿って起こっていると解釈できる。

    篝火の薪は不死人の骨であり

    その骨は稀に帰還の力を帯びる
    骨となって尚、篝火に惹かれるのだ

     例えば、闇のソウルを宿した名もなき小人たちの子孫である不死人たちは、なぜ火に惹かれ、火を継げるのだろうか?
     これは闇が光(火)から生まれたからである。光があって初めて闇(人間/人間性)と光の差異が生まれ、明確になる。 光は闇を塗りつぶしてしまうものではなく、強い光こそが深い闇(人間性)を生む。その意味で光は闇の故郷であり、火は人間の故郷なのである。ゆえに深いダークソウルを宿した不死人は火に惹かれ、火を求める。
     「火継ぎ」はこれとは逆に、人間性の濃い闇がはじまりの火をはっきりさせる例である。深い闇は光を吸い込んでしまうものではなく、燃え盛る炎をより明確に力強くするものである。ゆえに深いダークソウルと人間性を宿した不死人は火を継ぎ、消えかかったはじまりの火を再び熾すことができる。
     また無印では人間性(闇)を篝火(光)に捧げることで生身に戻ることができる。これは亡者になって曖昧になった闇を光で照らすことで再び差異をはっきりさせていると解釈できる。

     別の例でいえば、なぜ聖職者は人間性をため込みやすいのだろうか。聖職者は神や奇跡という「光」を扱う職業である。ゆえにそれだけ明確な差異が生まれ深い「闇(人間性)」が生まれ溜め込まれることになる。逆に言えば闇(人間性)が濃いほど光(聖職者や薪の王としての力)も強くなると考えられる。エルドリッチが人喰いで人間性を溜め込んだり、挙句の果てに遥か長い苦行と知ってなお神を喰らいはじめたのは、そういった背景があると考えられる。
     一見闇から一番遠いように見える聖職者たちが「深み」や「おぞみ」に魅入られ、深みの主教たちとしてエルドリッチを信奉するに至ったのも、強い信仰(光)ほど深い闇を生むことによると考えられる。

     
     このように「はじめての火がおこり 火と共に差異がもたらされた」原理を明確にしていくと、なぜそうなっているのかはっきりとわからなかった部分が明らかになってくる。人物それぞれの物語を楽しむだけでなく、その背後全体に貫かれた原理から、ダークソウル世界の全体像が見えてくるのである。むろん、最初に述べた通り、これが唯一無二の絶対的解釈であると主張するつもりはない。
     あくまで一つの解釈として、以上の考察がダークソウルファンたちの想像を広げる一助になれば幸いである。
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     ここからはオマケです。小難しい話でももっと読みたい!という方のみどうぞ。

     こういった原理について考えると、宮崎氏の「差異が無くなった世界を知覚するのは哲学的に難しい」という発言についても明確に理解することができる。
     上記の考察で、人がなにかを認識(知覚)することは、差異を認識することであると述べた。であるならば、「差異が無くなった世界」を認識するのが困難/不可能であるということは、至極当然な理屈である。
     しかしラジオで宮崎氏はこうも言っている。「火が起こる前の竜の時代と、火が消えた後の時代は違う」。一見どちらも差異がない時代なのだから同じに思えるかもしれないが、このことについても同じ原理で理解することができる。「火が起こる前の時代」とは、あらゆる認識が生まれる前、つまり「闇の中で生まれた赤ん坊」と同じ状態である。赤ん坊は「光」を知らないので「闇」という認識すら存在しない。それに対し「火が消えた後の時代」とは、「光を知った赤ん坊が再び闇に放り出された状態」である。光を知っている人間が闇の中に放り出されれば「闇の中にいる」と認識できるだろうし、赤色を知った人間が赤色の世界に放り出されれば「赤い世界にいる」と認識できるだろう。それと同様に、火が消えた時代とは「あったものがない」、無-存在の時代なのである。それに対して火が起こる前の竜の時代は「あるという認識すらない」、非-存在の時代と言えるだろう。

     こういった世界の認識における原理について、ソクラテス以来二千年以上にわたって哲学者たちは考えを巡らせてきた。その中でもこういった原理を明確に定式化したのはドイツの哲学者ヘーゲルである。ヘーゲルは「A」というものを認識するとき、必ず「非-A」を経由して「A」を認識する、という認識の運動を「正-反-合」と言い表し、「弁証法」と呼んだ。日本の哲学者であれば、西田幾多郎鈴木大拙といった哲学者がこういった原理を発展させている。詳しく知りたい方は本人の著作や解説書を読むことをおすすめする(なお、ヘーゲルの著作は特に難解な部類といわれているのでまずは簡単な解説書から入ることを強く推奨する)。宮崎氏が火と差異の話を「哲学的」な話だと言ったのはこういった認識論的な解釈が必要だからであると考えられる。