bubuさん のコメント
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『9番目の音を探して 47 歳からのニューヨークジャズ留学』でもふれた故・横行くにえさんのロス友人ユキさん。彼女はもう40年以上の歳月をロスで暮らしていて仕事は映画ライター。アカデミー賞やゴールデングローブ賞の投票権のある外国人記者クラブの一員でもある。くにえさんが亡くなる直前ユキさんは東京国際映画祭のため帰国されていて、僕たちは京都で落ち合い、くにえさんの病室を見舞った。くにえさんはもう意識がなく、しばらくご家族とくにえさんと共に時間を過ごした。 今から思うと不思議なご縁で、くにえさんのラジオを小学生の頃から大好きで聞いていた僕が、くにえさんが大阪の FM でディレクターをされているときゲストで出演、頂いた名刺を見て「もしかしてあなたはハニーちゃんですか?」と当時のニックネームで呼びかけてしまったのだ。「なんで知ってはるの?」そこからくにえさんと友人となり一緒に大切な思い出をいっぱい作った。くにえさんを通じて、ロス留学時代の彼女の親友、ユキさんと僕は巡り合ったのだ。くにえさんがいなかったら出会えなかったし、40代の激動の芸能界を平常心で乗り切れたのは、彼女たちのようなどこか淡々と自由に生きられる力がみなぎる人たちと知り合えたことが大きかった。 くにえさんは天に召された。ユキさんとは共有できる喪失感、無力感があった。大陸横断してロスに行ったときユキさん宅の離れに滞在し、ユキさんの手作りくにえ祭壇にお線香を上げている話などを庭のレモンの木の下で語り合ったものだ。あれから会う機会が少なくなりこの前すれ違ったのは成田空港でだったし、その前はマディソンスクエアガーデンコンサートの打ち上げ会場でだった。個人的な話をする機会がめっきり減って、どこかくにえさんのことも僕は忘れて日々を暮らすようになり、ずいぶん時間が流れることになる。
47歳でポップミューシャンのキャリアを捨て、ニューヨークのニュースクールへジャズ留学する。20歳のクラスメイトに「ジャズができていない」と言われ、猛練習をすれば肩を壊し。自信喪失の日々の中、ジャズの種を蒔き、水をやり、仲間を得て、ようやく芽が出てきた。マンハッタンからブルックリンに越してきて5年。相棒・ぴ(ダックスフント)と住む部屋には広いウッドデッキがある。まだまだ、ジャズを耕す日々は続く。「プルックリン物語」「大江屋レシビ」「アミーゴ千里のお悩み相談」など、ブルックリンから海を越えてデリバリー!
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