高校を卒業後、浅草の東洋劇場でコメディアンとして働き始めた頃のことだ。当時は見習いの「坊や」に給料なんて出ないから、ぼくはいつもお金がなかった。

 ただ、支配人から「こいつの面倒を見てやってくれ」と言われた「師匠」の池信一さんが、ぼくのことにちょっとは責任も感じていたんだろうね。半月に一度、舞台が終わった後に、

「欽坊、ちょっとこっちに来い」

 と、言って、1500円くらいをぽんと渡してくれたの。

 それは「お給料」というよりは「お小遣い」みたいな感じだったけれど、とにかく月に3000円は貰えていたわけだね。

 実は劇場に来たとき、支配人はぼくに「お給料」をくれようとしたの。コメディアンではなく劇場の「社員」として、雇うことにしようと考えてくれていたみたいでさ。それで渡された封筒には、なんと1万2000円が入っていた。ラーメンが1杯50円の時代だから、ぼくからすればすごい金額だった。

 でもね、あの頃は若かったんだな。「社員」というのが心に引っかかってさ。 
週刊文春デジタル