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記事 11件
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 最終回 沢部ひとみ 「いいことだけ考える」

    2019-10-10 05:00  
     二〇一八年の春、市原さんはNHKの『おやすみ日本 眠いいね!』の朗読を再開したり、宮沢賢治の『よだかの星』の朗読を引き受けたりと、仕事への復帰に意欲を燃やしていた。
     最後の一年間、自宅でのリハビリを見守った理学療法士の大沼晋太郎さんは、市原さんの頑張りに驚いたという。
    「最初は左足の踝(くるぶし)が固まってしまっていて、歩くのは無理だと思いました。でも、なるべく足の裏を床につけて、地面に触る感触を取り戻すようにしてもらったら、少しずつ足首が動くようになったんです。手すりにつかまって立つ練習をしているときに、おどけてお尻をフリフリしたり、お茶目な方でした」
     しかし、体調は秋を境に下降していった。
     自分がいちばんそのことをよくわかっていたのだろう。十一月半ば、街路樹が紅葉した葉を落としていく頃、自身を流れに浮かぶ枯れ葉に喩え、「まだ水底に沈んではいないし、少しはきれいな枯れ葉だけど、若いころはあんなに身体が動いて活躍もしたのに、どうにもならないものね」とこぼしたこともあった。
     盲腸炎を起こして入院したのはその十日後である。 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第23回 沢部ひとみ 「落ちていく時の花もある」

    2019-10-03 05:00  
     市原さんが病に倒れたのは、二〇一六年十一月初めのことだ。全身の痛みや痺れに襲われ、自己免疫性脊髄炎の疑いで都内の病院へ入院した。
     入院当初、私はまだ市原さんの半生を綴った『白髪のうた』(春秋社)の編集中で、病室のベッドに横たわる彼女にインタビューすることもあった。「今、どんなお気持ちですか?」と聞くと、「屈辱よ。屈辱以外の何物でもないわ」と答えたことを覚えている。市原さんは、人一倍、体のよく動く人だった。ことに若いころ舞台に立った市原さんは、「舞台を飛び回る」という表現がぴったりだった。立つ、起き上がる、歩く……。健康な時には思いのままできたことが、何一つできない。その情けなさ、悔しさがこもっていた。 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第22回 沢部ひとみ「樹木葬なら土に還って、その辺を自由に漂っていられるでしょう」

    2019-09-26 05:00  
    「樹木葬ってどう思う?」
     二〇一四年の五月末のある日、市原さんは親交のあったゴダイゴのリーダー・ミッキー吉野さんにそう問いかけた。夫の塩見哲さんが亡くなったのは同年四月。市原さんは、「塩見を骨壺に入れて暗く冷たいコンクリートに納めるのはどうしてもしっくりこないの。樹木葬なら土に還って、その辺を自由に漂っていられるでしょう」とごく身近な人たちに話し、以前からテレビで見た樹木葬(墓石の代わりに樹木を墓標とする埋葬法)のことが気になっていたという。
     ミッキーさんは一九七六年に市原さんの出演映画『青春の殺人者』の音楽を担当して以来、九〇年代には塩見さん演出の芝居の音楽も手がけている。その後もショーライブ『二人だけの舞踏会』や『たそがれの舞踏会』では共演もした。家族ぐるみで付き合った、ミッキーさんが語る。
    「塩見さんの亡き後、市原さんは空虚感に囚われ、ずっと家に籠もったまま。仕事もヤル気になれず断っていたと聞いていました。だから彼女を元気づけるために、一緒に外に出かけようと思ってご自宅を訪ねたんです。市原さんは樹木葬が気になっていたようなので、それができるお寺を探しに行くことになりました」 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第21回 沢部ひとみ「独り身は強くなりますよね。なんか甘さがなくなる」――夫を亡くし、独り暮らしを始めた頃に

    2019-09-19 05:00  
     二〇一四年四月に夫の塩見哲さんが亡くなった後の市原さんは、仕事をすべて断わり、外に出るのは散歩だけという毎日を送っていた。その当時のことを、こう語っている。
    「塩見が亡くなってからすぐに、実の妹が『千葉の家に来ない?』って言ってくれたんです。『一緒に暮らそう』って。でも、『ありがとう。もう少し一人でいるわ』って言った。城が変わってしまうというか、世界が変わってしまうから、そういう気になれなかったんです」
     そんなとき思い出すのは、大阪の浪曲師の広沢瓢右衛門の言葉だったという。市原さんが一九七八年に芸術座公演の『ちょんがれお駒』の役作りのため、浪花節のレコードを聴き漁った時、瓢右衛門さんの声に最も惹かれ“追っかけ”までした。 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第19回 沢部ひとみ 「桜も富士山も好きじゃないの」――二〇一四年、夫の死後間もない時期、親しい人たちに

    2019-09-05 05:00  
     二十年程前のある日、市原さんの所属事務所に突然、文化庁から電話がかかってきた。「市原悦子さんに紫綬褒章をさしあげたいのですが、お受けになりますか?」。マネージャーの熊野勝弘さんが市原さんに聞くと、「いらないわ」と言う。
    「どう断わりましょうか?」
    「あなたが考えなさい」
     国が「勲章をくれる」というのに、あまりに素っ気なく「いりません」と断ったのでは角が立つ。あれこれ考えた挙げ句、「いまだ未熟です。賞をいただくのに値しません」と応えた。文化庁の職員は「分かりました」と言ったが、それっきり賞の話は来なくなった。「市原さんに『断りました』と報告したら、『ああ、そう』とそれだけ。(文化庁の)ブラックリストに載ってるんじゃないか」と、彼は笑う。 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第17回 沢部ひとみ 「入れ歯になっても、この番組だけは続けようね」

    2019-08-21 05:00  
     市原悦子のこの連載も十七回を迎えた。これまで読者から最も反響が大きかったのが、『まんが日本昔ばなし』を扱った週だ。大人子どもに関係なく、全国に根強いファンがいるからだろう。一九七五年に始まり二十年間続いたこの番組では、実に千四百七十本もの作品が放映された。市原さんと俳優の常田富士男さんが、すべての登場キャラクターの声を演じた。二〇一一年に『まんが日本昔ばなし』の代表作を集めたDVDボックスが発売されたとき、二人は対談でこうふり返っている。
     常田さんが「僕は、初回からずっと二十年間、『今日で(番組を)降ろされるんじゃないか』と、いつもびくびくしてました(笑)。 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第16回 沢部ひとみ 「女が幸せじゃなきゃ、男も幸せにならないのよ」

    2019-08-08 05:00  
     テレビに出る芸能人には、「政治の話は色がつく」と嫌う風潮がある。だが市原さんは、そんな風潮をどこ吹く風とやり過ごす豪胆なところがあった。例えば五年前の二〇一四年七月八日付けの「朝日新聞」では、こんな発言もしている。
    「集団的自衛権を使うことが認められましたね。『自衛』とか『戦争の抑止力』とか信じられない。原発事故への対応もあやふやなまま、国は原発を輸出しようとしている。被爆者、水俣病患者を救済しましたか。『国民の命と財産を守る』と言っても空々しい。先の戦争で犠牲になった三百万人の方々がどんな思いで死んでいったか。戦争によって人の心に何が起こったか。それを知れば、私たちがこの先どうすべきか見えてくると思います」
     戦争の恐ろしさを肌で知る世代が、次々と彼岸へ旅立っている。市原さんもその一人だ。 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第15回 沢部ひとみ 「マンネリに染まると俳優として痩せちゃうのよ」

    2019-08-01 05:00  
    「悦ちゃんの初舞台は僕が演出した『りこうなお嫁さん』の主役アイ・アイ。可愛らしい顔つきのくせに、いざというと、悪気もなく、ずばずば物をいい、舞台度胸は抜群、全く気持ちのよい児だった」
     若い日の市原さんについてこう語ったのは、俳優座の重鎮で新劇界に絶大なる影響を与えた演出家の千田是也である。彼は一九五七年に俳優座に入団した市原さんを自身の演出作品に何年も連続で起用した。そのため市原さんは「千田さんの秘蔵っ子」と呼ばれた。並み居る劇団員の中には羨み妬む人もいただろうが、当の本人はまるで無頓着だった。
    「私は周りがよく見えないんですね。周りが私をどう見ているのかも分からない。『恵まれている』『すごい抜擢』なんて言われてもね。ただ目の前のことをやるだけで、『あれ、この役をやるの!? 大変だ! 歌わなきゃ! 踊りもある!』と自分の役に精一杯なんです。東野英治郎さん(俳優座の創設者の一人・俳優)が『この子は興味のないことは馬耳東風だから、何を言っても聞いてないよ』と、おっしゃったらしいですね」 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第14回 沢部ひとみ 「世の中が荒れるほど、愛や信頼が大切だと思うの」

    2019-07-25 05:00  
     市原さんは「私、ずっと稽古だけして本番がないといいわ」と言って、共演者にあきれられるほどの稽古好きだった。
     とくに二十代前半は、自分の体力の限界も知らずに跳ね回っていた。それが俳優座入団四年目、『セチュアンの善人』の稽古中に突然倒れ、救急車で済生会中央病院に運び込まれた。担当医は、俳優座から付き添ってきた舞台部の塩見哲さんを呼び、「膵臓が壊疽(えそ)になりかかっています。急性膵臓炎の疑いがあるので、そのつもりで処置しますが、いいですか」と尋ねた。「お願いします」と塩見さんは応え、それで四時間ごとにお尻に太い針で、クロロマイセチンを注射する治療が始まった。『セチュアンの善人』は俳優座の創立者の一人でもある小沢栄太郎が演出を担当していた。市原さんは主役のシュイ・タとシェン・テの男女二役で、劇中歌も歌う大役を務めることになっていた。 
  • 優しいやまんば 市原悦子のことば 第13回 沢部ひとみ 「人には、美しい瞬間と醜い瞬間があるだけ」

    2019-07-18 05:00  
     市原さんは俳優座養成所二年生のとき、幼いころから慕っていた兄を喪っ(うしな)た。「千葉の顔」事件もこの年のことだ。
     そのころ俳優座には、往年の二枚目スター、森雅之が客演していた。彼は悦ちゃんも思わずうっとりしてしまう憧れの俳優だった。稽古は毎朝九時に始まり、一カ月間続いた。
    「養成所の授業が五時に終わると、すぐ森さんのいる稽古場に走って行きました。窓ガラスにベターッと顔をつけて、一センチくらい開けた窓の隙間からセリフを漏れ聞いて、毎日じーっと、お稽古を見てました。それで森さんも自分に興味を持ってるってわかったんでしょう。ある日、森さんが近づいてきて、『明日から舞台稽古でもう稽古場には来ないから、楽屋にいらっしゃい』っておっしゃったの。もう『はい』も『うん』もない。田舎者だし、ドキドキするだけで……。次の日、私、行っちゃったんです、よせばいいのに(笑)」
     楽屋の入口に立つと、役者がずらっと一列に並んで化粧をしており、その一番端に森雅之が座っていた。