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映画猫はタマネギにあらず〜映画「CATS」を見てみた感想〜
※映画版「CATS」の感想です。
故に基本的に主観でありネタバレもあります。キャッツ!
といえば普段演劇の類を観ない人でも知っている超名作ミュージカル。
私も人生で劇団四季の公演に五回ぐらい観に行った(全部横浜のシアター)。
しかしミュージカルというのはスゴイ趣味で、行く人は同じ劇を300回とか400回とか観に行く。
故に私は泡沫に等しい存在なのだが、それでも好きな猫の紅茶缶とフィギュアを買うぐらいには思い入れがある。その「CATS」が映画化! ということで大いに興奮した。
極力ネタバレを避けつつ(といってもバレるようなネタもないけど)めっっっっっちゃ期待しながら映画館へ行く日を待っていたのだが、舞い込んでくるのはジェリクル酷評の嵐。「5点満点中たまねぎ」「犬登場以来最悪の出来事」なんて大喜利に始まり、挙句の果てにバズ狙いで未視聴なのに批判ツイートを垂れ流す輩まで現れる始末。
こういう人たちはちゃんと実写版「テラフォーマーズ」を見てから感想を言った私に謝ってほしい。で、先日字幕版と吹替版を観に行った。
大まかな印象としては……
なかなか良かったやん! DVD買お!
という感じ。
そりゃあ期待を裏切られた所、映画としてケチを付けたい所も大いにあるが、いずれも抱いていた期待を下回るようなものではなかったし、タマネギなんかでは全然ない(私がマンガ原作実写映画で鍛えられていたところもある)。だから、私としては舞台も映画も未視聴の方が風評だけで「ひどい映画」と断じている現状はとてもとても悲しい。
というわけで、旬を逃した感はあるものの、五回という少なめの観劇経験を元に舞台版と映画版を都合よく比較して感想を書いていこうと思う。少しでも映画にこびりつくタマネギの臭いを消す助けになれば幸いである。※便宜上、ニューヨークとかロンドンとか日本で公演されていたミュージカル版「CATS」を「舞台版」、2020年公開の映画「CATS」を「映画版」と表記する。
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★猫達の印象について
・ヴィクトリア…主人公猫
(フランチェスカ・ヘイワード)ロイヤル・バレエ団のプリンシパルだけあって顔、ダンス、スタイル、声をトータルして凄まじく美しい。それだけでミュージカル映画として見る価値はある。
役どころとしてはシラバブとコンパチされていたが、映画にするならそうなるよなぁ〜という印象。おとなしい感じだが、好奇心が旺盛な所もマンゴジェリーとランペルティーザのパートでよう表現されていたと思う。また、映画のために書き下ろされた楽曲「Beautiful Ghosts」は存外にマッチしていた。
しかし、主人公なだけあって彼女のバストアップが頻出するのだが、やはりツルツルの側頭部を見るたびにサンリオSFの「猫城記」が頭をよぎりギョッとしてしまう。耳って頭のシルエットでも相当大事なパーツなんだな、と思った。顔の横にタテガミでもあれば公開前の印象もだいぶ変わったのではなかろうか。
・マンカストラップ…リーダー猫
(ロビー・フェアチャイルド)申し訳ないが第一印象は「タテガミがないやん!」。
私の中ではマンカスといえばタテガミ、タテガミといえばマンカスなのだ。でも役どころとしては舞台版よりもずっとリーダーやってたと思う。舞台版同様、主役のパートはないが、画面に映る回数はグッと増えている。それだけに、マキャヴィティと戦うシーンが削除されたところだけが残念。
また、演じるロビー・フェアチャイルドはニューヨーク・シティ・バレエの元プリンシパルというスゴい人ということで、ヴィクトリアとのパ・ド・ドゥは息を呑むほどに美しい。
だけど、パンフレットでの扱いが小さすぎないか?
・ジェニエニドッツ…おばさん猫
(レベル・ウィルソン)食うんか〜〜〜い!
前評判をチラリと聞いてはいたので覚悟はしていたが。
しかし私はゴキブリにそこまでの嫌悪感がないので軽傷で済んだ。テラフォーマーズのおかげ。それよりもゴキブリ軍団のタップダンスがオミットされたほうが辛い。
軍靴に見立てたゴキブリ軍団のダンスは第一幕の見せ場の一つだと思っているけど、さすがにネズミやゴキブリを猫サイズにするのは難しかったんだろうか。まぁ、猫サイズのゴキブリが出てきたらそれはそれで批判されていたか。しかしそこらへんに目をつぶれば台所を所狭しと跳ね回るコミカルさはやはり素晴らしい。
毛皮キャストオフの解釈も舞台版とは違う方向性で映画ナイズされていたと思う。ジェリクルキャッツはゴキブリを食う!
・ラム・タム・タガー…つっぱり猫
(ジェイソン・デルーロ)キッチンで歌い始めたときは「このステージでタガーが?」と思ったが、場面転換してミルクバーでバックライトを受けて歌い始めた所で思わず笑ってしまった。タガーはプレスリー、ミック・ジャガーとモチーフの時代が一世代ずれているイメージがあったので、80年代の香り漂うバーで歌うのは2020年の映画としてしっくりきていると思う。
このタガーなら吹き替えのOfficial髭男dismはなかなかに合ってるんじゃないだろうか。それにしても、マキャヴィティもグリザベラもそうだが、「セクシーでパワフル」的な役どころにアフリカ系アメリカ人の役者をキャスティングしているのは意図があってのことなのだろうか。
・グリザベラ…娼婦猫
(ジェニファー・ハドソン)「メモリー」というのはスゴい曲で、デニーズの有線放送でJPOPバラードに混ざって流れるような曲である。そんな「メモリー」をどうしたものかと期待していたが、かすれるような声で歌うのは映画ならではでアリなんじゃないかと思う。
ただ、演出の雰囲気が舞台版とあまり変化がなかったので正直書くことがない。せっかくの「メモリー」なのにバストアップ多用なのはいかがなものだろうか。
それでもジェニファー・ハドソンと吹替版の高橋あず美の歌唱力で間が持ってしまうのだから、シンガーはスゴイ。・バストファージョーンズ…大人物?
(ジェームズ・コーデン)舞台版ではグルメな猫で曲調もゆったり……という感じだったが、映画版ではより俗っぽい、というか下品な側面にフォーカスが当たっていた。まぁ猫のグルメって本来そういうことで、「大人物?」の「?」にフォーカスを当てたということだろう。シーソーのシーンはおもろかったし、エビを飲み込むとこはウエッっとなった。
それにしてもゴミ漁りのシーンが長い! そして、ゴミ捨て場をイメージした舞台版のセットがとても忠実だったということがよくわかる。
ジェームズ・コーデンの番組の人気コーナー「Cross walk musical」をたまに見るけど、なかなかに笑えるので是非。
・マンゴジェリーとランペルティーザ…小泥棒
(ダニー・コリンズ&ナオイム・モーガン)ちょいちょい曲が変わるパートだが、曲は劇団四季の旧版と同じものだったので馴染みが深いのではないだろうか。私は旧版が好みなので嬉しかった。
映画版では純真無垢なヴィクトリアは他の猫たちと触れ合う中で猫の価値観を知っていくことで自分を見つけていく……みたいなストーリーが追加されているが、マンゴとランペルはヴィクトリアをスレさせすぎでは。映画化して大正解だったと思ってるパートのひとつで、舞台版では表現しきれてなかったイタズラというか悪行が映像化されたのはそれだけでウキウキする。それとも、人によっては説明過多に感じるんだろうか?
・オールドデュトロノミー…長老猫
(ジュディ・デンチ)すげえジュディ・デンチみたいな顔のおじいさんだなぁと思ったらジュディ・デンチだった。失礼しました。
これは知らなかったのだが、ジュディ・デンチはそもそもロンドンの初演でグリザベラを演じる予定だったがケガで降板してしまったらしい。映画化に際し再び重要な役を与えられたのは、99回死んだ猫の因果だろうか。
舞台版では灰色でお茶目だけど貫禄がある猫という感じだったが、映画版のほうは「神秘性」を重視している気がする。確かに神秘的な猫となると女優のほうが映えそうだ。ラストナンバー「猫からのごあいさつ」は、「スクリーンに映される巨大なジュディ・デンチに凝視される」という007でもそうそう味わえない経験ができる。
・ガス…劇場猫&グロールタイガー…海賊猫
(イアン・マッケラン&レイ・ウィンストン)ガスについてはもう、イアン・マッケランを持ってこられた時点でこちらの負けという感じ。吹替版が宝田明でさらに負け。
カメラの近い映画版ならではの細かな仕草の集合体は、かつて劇場のスターだった猫の表現として十分すぎると思う。舞台版ではバストファー・ジョーンズと同じ役者が演じるので結構ガタイが良かったりするのだが、映画版は痩せっぽちなのもまたイイ。グロールタイガーについては……グリザベラよりも浮浪者みたいになっているのと、いちおう海賊の船長だったのにマキャヴィティの手下になっているのでちょっと哀れだ。まぁ、公演によってカットされることもあるパートなので多少の歌があるだけでもマシなのかもしれない。
ちょっとばかし猫たちとの格闘シーンがあるのと、船から落ちる最期はせめてもの原作オマージュといったところか。それにしても、グロールタイガーをカットしたせいで後に歌詞に出てくるグリドルボーンが「誰やねん?」になってしまっているのはいいんだろうか。
・スキンブルシャンクス…鉄道猫
(スティーヴン・マックレー)私の推し猫なので、スキンブルが出てきた時点でこの映画に2兆点くらいあげたいというのが本音。
実のところ、映画を見る前は尺の都合もあるだろうしカットされるパートもありそう……と思っていた。その中でもスキンブルはいちおう人気ナンバーなのでカットはないやろ〜! とは思っていたが、グロールタイガーの扱いを見て内心でヒヤヒヤである。杞憂に終わって何よりだ。
舞台版の愛嬌ある気のいい猫っぷりとは打って変わって映画版では職人っぽい風貌に。映画版ならではの舞台移動にタップダンスも追加され、新しい側面を掘り起こそうという意志が感じられる。
特に、実際に「個室の特別寝台」で歌って踊ってくれるのは舞台版で物足りなかった部分なので、だいぶ満足している。中の人であるスティーブン・マックレーは英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルなのだが、インスタグラムで子煩悩ぶりを発揮してて大変微笑ましいので一度見てみてほしい。
それだけに、パンフレットの登場人物紹介で名前が一切出ていないことに憤っている。どういうことやねん!?!?
マンカス役のロビー・フェアチャイルドもそうだが、バレエダンサーは広報で押すには知名度が低すぎる、という判断なんだろうな……。・マキャヴィティ…犯罪王
(イドリス・エルバ&テイラー・スウィフト)脱ぐんか〜い! そして歌うんか〜い!
舞台版と映画版で一番印象が違う猫だと思う。
舞台版は毛糸のバケモンみたいな風貌で本当に犬をぶっ殺してそうだったが、映画版は歌詞にもある「ミステリアスキャット」という雰囲気に。
舞台版ではデャァッハッハッハッハッハッ! みたいに笑うばっかりだったので喋って攫って歌って踊る映画版のほうが「悪役」としては印象が強くなった気もするが、それでも小物っぽくなったのは考えものか……。
搦め手を使って暗躍する魔術師という感じで、「プリンセスと魔法のキス」のDr.ファシリエに近いと思う。悪のイメージも初公演の時から大分変わったということだろうか。目が緑なのはとても良い演出だ。ナンバーについては、ボンバルリーナ役のテイラー・スウィフトにホレボレするばかりだった。
ライトがギラギラでやや下品なステージに仕上がっているのは「ジェリクルキャッツ」という概念の崇高さと対照になってるっぽいけど、「ジェリクルキャッツ」の説明がないのでちょっと弱い感じだ。・ミストフェリーズ…マジック猫
(ローリー・デヴィッドソン)すげーファンが多い猫。
舞台版と違ってナヨい感じに仕上がっていることに解釈違いを起こしている人が多く見受けられる。私の中でもミストは結構自信満々なやつという印象なのだが、弱気ミストもなかなか好きだ。映画としてヴィクトリアと共に成長していく近い立ち位置のキャラが必要だったんだろうか。それよりも歌唱におけるタガーの役目をマンカスが担っているのに少々驚き。
途中でタガーが高音パートで割り込んできたときに「来るんか? 途中から来るんか?」と思ったCATSファンは多かろう。ミストの見せ場である連続回転についてはカットが惜しいと思いつつ、映画で延々と見せられてもどうかとは思うので、まぁ英断だったのでは。
★その他感想もろもろ
●反論したいところ
映画を見終わってから映画版に対する感想を色々と見てみたのだが、感想の中には舞台版を見ていない故の誤解が含まれているものが見受けられた。それについては既に多くの劇団四季ファンが反論しているところだが、私も言わずにはいられないのでここで吐き出しておく。キェェーーーッ!
まずはじめに絶対に書かなければいけないのが「ストーリー性が希薄」という批判について。これについては舞台版のファンからも既に多くの指摘、反論が上がっている。
さんざん言及されていることだが、そもそも「CATS」というミュージカルはT・S・エリオットが書いた詩集「キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法」が元となっている。英語版原作は下記のサイトでpdfが読める。
https://gutenberg.ca/ebooks/eliotts-practicalcats/eliotts-practicalcats-01-h.html
で、エリオットの原作はおおまかにこんな感じの内容。
「猫の名前って難しいですよね。猫が瞑想してるときは、自分の名前について考えてるんですよ」
「で、こんな猫がいるんですよ」
「こんな猫もいますよ」
「こんな猫もいますよ」
「こんな猫もいますよ」
「う〜ん、イヌと猫は違うな!」ここに楽曲と踊りを付け、エリオットの未発表原稿から「グリザベラ」という猫を追加し、長老猫・オールドデュトロノミーによって「ジェリクルキャッツ」に選ばれると天上に行けるという要素を強調したのが舞台版なのだ。
しかしながら、元々猫同士の掛け合いなど皆無の詩集という点をリスペクトした形なのだろうか、舞台化にあたっても猫同士の絡みはほとんど追加されなかった。それ故にセリフというセリフもほとんどないし、あっても観客である私達に語りかけるような形になっている。
これは構成としてバレエに近いように思う。バレエには基本的にセリフも歌詞もないが、ダンサーの身体と楽曲の調和をもってシナリオを補完できる。同じように、「CATS」とは極限まで磨かれたダンサーの肉体美から放たれるメッセージを鑑賞する非言語コミュニケーションミュージカルという側面がある。
だから、かねてより「CATS」を見てきた方は映画版を見てこう思ったのではないだろうか。
「セリフめっちゃある!」
そう、ストーリーとしては映画版のほうが厚くなっているというのが正解なのだ。
それとレビューの中に「『ジェリクル』という単語、設定の説明が無い」という批判があった。実はそんな説明は舞台版にもない。
というのも「CATS」は全体的に「神秘的な存在たる猫の世界の出来事」という雰囲気の作品。子供向けの詩集ということもあり、細かい心理描写とか理由付けはほとんど無い。実際、初めて舞台版を見たときは「へーそういう制度あるんだ猫界」くらいに思って見ていた。
それでも何度も足を運びたくなるのは、やはり楽曲とダンスの魅力が圧倒的でストーリーの欠如を補ってあまりあるからだ。人と似た部分はあるものの、やっぱり猫による猫のための物語なのである。
もしも
「『ジェリクル』という単語の説明なしに話が進むので置いてけぼりを食らう」
「猫が服を来ているのが理解できない」といった感想を持ったなら、それは例えるなら「桃太郎」に対して「桃が流れてきた理由がわからないから物語に没入できない」と言っているようなもの。そんなものはマクガフィンであり本質ではない。
作品である以上、製作者が初見の鑑賞者に配慮すべきという意見も然るべきだが、それは「CATS」というコンテンツそのものの特徴なので舞台版にも同様の批判を投げかけるべきだろう。なお、「ジェリクル」という言葉の意味については世界三都市でミストフェリーズを演じた堀内元氏のインタビューに詳しい。
https://www.chacott-jp.com/news/worldreport/tokyo/detail015792.html
●やっぱりカメラの存在は大きい
キャッツシアターはデカい。故に舞台上の役者と観客の距離が相当開くわけで、役者の細かな動きが逐一追えるわけではない。S席なんぞとても買えない貧乏人の私にはなおさらである。
反面、映画ではカメラが近くに寄るので目の動き、指の震えなんかがひとつひとつ見て取れる。例えばミストフェリーズの取り出したカードの持ち方が全然キレイじゃない、なんて演出は映像媒体じゃないとできない。こういう細かい演技によって映画版とは違う形でキャラ付けしている……というか、新しいキャラ解釈をするために映画という媒体を選んだんじゃないかと思っている。
映画版「CATS」はいわば「新訳」なのかもしれない。また、舞台版を見た人ならわかると思うが、「CATS」の楽しみのひとつが「脇役が暇そうにしているところを見る」というのがある。出番じゃないときに後ろで毛づくろいしたりアクビしている猫たちのおかげで「CATS」は常に見どころのある飽きない舞台になっているのだ。
映画版もちょいちょい背景がボケるものの後ろの方で猫がいろいろやってる場面があり、全てが均一に見える舞台の雰囲気をなんとか出そうとしているんだろうな……と感じた。映画版の制作陣もだいぶ苦心したポイントなんだろうと察する。ガスのパートで後ろの方で靴の手入れをするスキンブルがかわいい。
逆に、ダンスシーンに細かいカットが入るのはカメラ撮影の弊害だと思うし、私は好みではなかった。ミストの所でも触れたがダンスを長回しで見せられるのって結構飽きるものなんだろうか?
余談だが、ラストシーンでオールドデュトロノミーがこっちに語りかけてくるシーン。周りにいる三匹の猫がずっと様子をうかがっていて、先輩が残業してるせいでなかなか帰れない新入社員みたいに見えてすごく苦しかった。どうにかならなかったんか。
●いろいろ言われてる「CGの介入」について
さんざん叩かれているCGだが、やはり舞台では見られなかった「場所の移動」が行われるのは感動モノだった。
スキンブルは線路の上で踊るし、タガーはミルクバーで踊るし、特にマンゴジェリーとランペルティーザのパートについては実際に明時代のツボをひっくり返すシーンでは思わず「おおっ」と声が出た。本当に舞台版で表現したかったイメージのはこれなのではないか? とすら思っている。終始ロンドンのゴミ捨て場で踊るしかなかった舞台版よりもはっきりと魅力が上がった部分のひとつだと思う。
しかし同時に「アナログさが失われた」という批判もさもありなん、である。
かくいう私も舞台版の「アナログさ」が好きだし、映画版にはそれがなかった。ミュージカルというのはリアルタイムの表現である以上、どうしようもなくアナログで多くの問題を解決する。その象徴の一つがマキャヴィティである。
舞台版でもマキャヴィティは「瞬間移動」する。
会場が暗くなり、笑い声が響く中でバッ! とスポットライトが光ると、そこにはマキャヴィティが!
そしてライトが再び消え、今度は離れた所をライトが照らすと、そこにもマキャヴィティが!という感じで瞬間移動を表現しているのだ(説明が下手でごめんなさい)。要するに複数の役者がマキャヴィティの衣装を着て待機し、ライトで照らされるタイミングで飛び出しているだけなのだが、そこまでの会場の空気の高まりとクソでかい笑い声のせいでなかなかに緊張感があるシーンに仕上がっている。役者を隠すためなのか舞台版のマキャヴィティの衣装はだいぶ毛深い。
映画版のマキャヴィティはもっとサラッと、煙か砂のように消え去る。
確かに瞬間移動としてはこちらのほうが正しいが、見てる側としては「あっCGで消えた」となってしまい舞台版のような魅力は全然ない。「CGのせいで『作り物感』が出てしまう」というのははっきりと映画版が舞台版に負けている部分の一つだと思う。●「人間が猫のふりをする」という大嘘
とうらぶやテニミュで大分敷居が下がった感じはあるものの、我が国ではまだまだミュージカルは一般的な趣味とは言い難いというのが現状だと思う。少なくとも「なんで急に歌い出すの?w」なんて言葉が存在する以上、まだまだ違和感のある世界なんだろう。
あまりミュージカルの相場は詳しくないが、私は毎度「CATS」のチケットはちょっぴり頑張って買っている。C席で3300円、B席なら6600円、回転ギミック付きS席は12100円もする。しかもわざわざキャッツシアターまで見に行かないといけない。観に行くコストは映画とは段違いだ(見やすくなったという意味でも映画化した意味はあるだろう)。
それでもミュージカルを見に行く意味とは、なんだろう?
人それぞれだろうけど、私はもう、はっきりと「嘘をつかれに」行っている。舞台版「CATS」は終始大きな嘘をつき続ける。「人間が猫のふりをする」という嘘。
当たり前だが人間は猫ではない。舞台の上で起こることは全て作り物で実際に目の前にいるのは役者であり、シアターの内装はロンドンのゴミ捨て場を模しているが、それも全て業者が作ってセットしたものだ。そんなことはわかっていても、劇が始まり猫の光る眼が暗闇をうろうろとし始めた瞬間から、私達は確かに「猫」を見てしまうのだ。
少なくとも舞台版「CATS」において、「人間が猫のふりをする」という大きな嘘を現実にするためにその他の部分は全てホンモノで作られている。舞台の上で行われる日本トップの劇団に所属するプロの劇団員によるパフォーマンスにもごまかしは一切ない。ミストフェリーズの32回転もホンモノだ。
手作りとわかっていてもキャッツシアターの内装に貼り付けられたゴミのリアルさは見ていてうっとりとするし、横浜に見にいった時は毎回、壁に埋め込まれている「横浜ウォーカー」の星座占いをチェックしていた。リアルタイムの舞台という制限の中でそこまで凝り続けてようやく「人間が猫のふりをする」という嘘は現実になる。そうやって「空間に酔う」ことで嘘と現実が曖昧になる瞬間こそミュージカルの魅力だと思う。酔ってしまえばこっちのもので、ちょっとばかりのリアル……例えばグリザベラが天に登るために乗るゴンドラの骨組みが見えてしまったとしても、大きな減点とは思えないのである。
さて、映画版は「人間が猫のふりをする」という嘘を、どうやって現実にしただろうか?
実のところ、「現実にしていない」が正解だと思う。映画版はあの世界を「現実ではない世界」と描いているフシがある。ミルクバーなんて都合のいい施設があるのも、マタタビドリンクなんて人間が摂取するもんじゃないシロモノがあるのも、監督が「CATS」をファンタジーとして捉えた結果ではないだろうか。そしてそれはエリオットの原作により近い解釈ではなかろうか。
CGやダンスについても、舞台版が「人間が猫のふりをする」に挑戦したのに対し、映画版は「猫が人間になる」ことを選んだように感じる。嘘は嘘のまま、リアルとは切り離されたファンタジー映画として「CATS」を描いたのが映画版「CATS」だ……というのが私の結論である。それが商業として、また創作として良い判断だったのかどうかまではわからない。
★まとまらないまとめ
あらかた書きなぐったのでシメる。
「ポケットモンスター ハートゴールド/ソウルシルバー」というゲームの中で、ゲーム開発室の社長がこんなセリフを言う(一部抜粋)。
いまね むかし はつばいした ゲームを つくりなおしてるんだけど
これが なかなか むずかしくてねー
むかしの ファンの ひとたちは おもいでの ゲームを いじってほしくない だろうし
かといって おなじことを くりかえしても しかたないだろ?
なつかしくて あたらしい! そういうものを つくりたいんだ金属片に刻印して宇宙に放出したいくらいの名言である。これはもう、本当にごもっとも。
私がリメイクとか実写化の作品を見る際、気をつけていることの中に「リメイクの中に原作の幻影を追いすぎない」というのがある。
いろいろとマンガ原作の映画を見るが、他でもない監督自身が幻影に囚われてしまっているんじゃないか? っていうリメイクは案外多い。変に衣装だけ原作に近づけたせいでただのコスプレに見えてしまったり、なんの脈絡もなく再現シーンを突っ込んだせいで原作のカタルシスが台無しになってしまったり……。そして、逆に「ヴィジュアルとかシナリオが原作に似てない」作品のほうが面白かったりするのが原作付き映画の面白さだったりする。
犬が猫ではないように、舞台と映画は全く違う。
客から見える景色も舞台の作り方も役者に求められる演技もぜんぜん違う。だから表現が舞台版と「同じ印象」になってしまったらそれは映画版としては大失敗だ。
映画版「CATS」は(受け入れられるかはともかくとして)正しく監督の「解釈」という名の「偏見」が反映されていたと思うし、「ちゃんと」舞台版とは別物になっていた。そういう意味で、私は映画版「CATS」は舞台版「CATS」のリメイクとしては成功していると思うし、私は好きだ。舞台版が良かった! のなら舞台版を見ればいい。大井町に行けば週五でやっている。C席で3300円、B席なら6600円だ。ただしひとつ注意。コロナウィルスのせいで、今は猫達と握手できないらしい。
ジェリクルキャッツは予防がバッチシ!
おあとがよろしいようで。
シラス.
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西洋美術史オタク、シャニマスのイラストについて考える
先日、シャニマスで霧子の新しいサポートSRが出ましたね。
その名も「我・思・君・思 幽谷霧子」。
果たしてどんなイラストでしょうか?遠っ!
がっつりと大きく取られた背景の中にポツーーンと人がいる。たしかに印象的ですね。
……あれ? この構成、どこかで見たことがありますよね?そう。19世紀フランス・バルビゾン派を代表する画家、
ジャン=バティスト・カミーユ・コローです!
代表作「モルトフォンテーヌの思い出」なんか、人物の比率がほとんどそのままじゃないですか!!!!!!!!!!!!!!!!!シャニマスは間違いなくバルビゾン派の影響を受けている!!
終わり! 閉廷!!!!!!!!!!!!!などという茶番をやるために筆を執ったわけではありません。
シャニマスの絵、いいですよね。
ぜんっぜんプレイしてないですがツイッターによく流れてくるのでなんとなく見たことあります。実際、ソーシャルゲームの文脈の中ではかなり新鮮だなぁ、と。
だから必然的にいろいろな意見が飛び交うわけです。「シャニマスは美術作品」
「シャニマスは現代美術」
「これ最終的にアイドルいなくなるぞ」
「ディレクションの違いでは?」
「ユーザーの需要が変化したんじゃないの」
「リミッターを解除しただけ」
「デレステだって頑張ってるぞ」
「ミリシタはもともと上手い」などなど。まぁ、各タイトル間違いなく影響は受けているでしょう。
また、イラストの凄さに言及するブログ記事もいくつか上がっています。https://note.mu/kanohara/n/nfa805efc01f5
https://note.mu/gamecast/n/nf5be39506bed
https://me-scapes.tumblr.com/post/185309768179/shiny-colorsオタクにここまで考えさせるシャニマス、恐ろしい子……!
さて、私は趣味で西洋美術史を勉強しています。守備範囲はだいたい15〜20世紀のフランスを中心としたヨーロッパ美術。
「シャニマスは美術作品」という意見があると書きましたがそれは大正解です。正確には、この世に現れた「表現」は全て否が応にも美術史の系譜の中に組み込まれ、美術作品として評価してもいい状態になります。なのでシャニマスを美術史的価値観で鑑賞することは何も問題ありません。
というわけで、今回はコローに似たイラストも来たことですし、美術史オタクとしてシャニマスのイラストを見てて感じたことをメモっておこうと思います。
昨今のアイマスイラストの進化について、考える助けになれば幸いです。
★構図〜人物の面積比〜
シャニマスのイラストを論じる時に最も良く話題にあがるのが「構図」ですね。画面分割や三角構図など語れることはいくつかありますが、まだ手垢の少ない「人物の面積比」について見てみましょう。
大変誤解されやすいので初めに断っておきますが、美術史という大きなくくりで見ればシャニマスの構図の取り方は特に珍しいものではありません。例えばメインの人物を画面端に寄せる構図は、早くは16世紀フランドルのピーテル・ブリューゲル(父)の作品に見ることができます。なので、斬新さに言及する時は「ソシャゲとして見た時に」というマクラが必要です。
ソシャゲとして見た時に印象的な構図の例となるとやはり「メロウビート・スローダウン 三峰結華」でしょうか。ソシャゲはUIの都合などもありますから本当の一枚絵として論じるのは難しいのですが、それでもこれは思い切ってます。実際私も誰がメインかわかりませんでした。
メインの人物をあえて端に寄せる構図は、例えばピーテル・ブリューゲル(父)作「サウルの自害」などに見られますが、より効果的、あるいは作為的に用いられているのはやっぱりトマス・ゲインズバラ作「アンドリューズ夫妻」でしょう。
イギリスの画家ゲインズバラは「風景画家になりたいけど生活の為に肖像画を描いていた」という特殊なキャリアの持ち主です。なのでゲインズバラとしてはこれは風景画。アンバランスに描かれているアンドリューズ夫妻は完成品を見てどう思ったんでしょうか。
画家がこういった構図を取る場合、多くは「どっちかっていうと風景のほうがメイン」のときが多いですが、面積比を極端にすることで自然と粗密の対比が生まれ、結果的に小さい面積で書かれた人物の方にも注目が行くというオイシイ構図だったりします。そう考えると、「メロウビート〜」も、画面から受ける暑さ、気だるさはアイドルからでなく主に全体の色合いなどから受ける印象ですね。「背景だけで何かを語れる」という自信の表れです。
余談ですが、特にサポートSRにこういった構図の絵が多いことから、シャニマス的にはこういう構図は工数が少なくて済むんだな〜と邪推しています。
構図関係でもう一つ。
特にアンティーカのサポートアイドルイラストは、何人かが見切れたり後ろ姿になろうともメンバー全員が同じくらいの大きさでギュウギュウに描かれることが多い傾向にあります。意図的な画面作りであることは間違いないでしょう。
逆に、同じメンバー数の放課後クライマックスガールズでは見切れはほとんど起きません。それどころかアイドルをデフォルメしたりかなり後方に下げてまで顔が入るようにしています。メンバーの身長はアンティーカよりもバラバラなはずなのに。
絵画の世界では、同じ大きさ・情報量で描かれたものは同じような重要度を持っていると考えます。ここは難しいところで、「全員が同じ重要度」なのは全員が同じ大きさのアンティーカか全員の顔が入っている放クラのどちらなのか、迷うところです。ここらへんの判断はコミュをじっくり見た人に任せましょう。
また、「街角フラワーガーデン 白瀬咲耶」のように他のメンバーが遥か後ろに下がっている場合、他のメンバーから畏れ敬われているという暗示かもしれません。エモい。「メロウビート〜」についても、鑑賞者が誰メインの絵かわからないんですから、この絵を描いた人=ディレクションした人は「誰がメインかわからなくても構わなかった」ということになります。なのでこのイラストは「三人が等価値である」というコンセプトで制作されていて、残り二人を冷えた飲み物に喩えることで「残り二人はこの三人とは違う」と区別しようとしている、と考えることができますね。
こういった焦点のしぼり方の対比はバロック時代の肖像画に見ることが出来ます。
17世紀フランドル地方のバロック様式を代表する肖像画家、フランス・ハルスとレンブラント・ファン・レインを比較してみるとよくわかります。この時代に流行した集団肖像画は全員を均等に描くというお決まりがありました。基本的に全員でお金を出し合って依頼するものなので、そうでないと不平等だったわけです。ハルスの「聖ゲオルギウス市民隊士官たちの宴会」(上)はそのお決まりに忠実に描いていますね。
しかしアムステルダムの火縄銃組合の依頼で作られたレンブラントの「夜警」(下)は、あきらかに中央にいる隊長と副隊長に注目が行くように構図とライティングが調整されています。ちなみにその左側にいる女性はレンブラントの妻・サスキアという説があるんですが、何の関係もない女性が組合員よりも目立っちゃってるのでそこそこ不満が出たそうです。
★時間のずらし
シャニマスの更に大きな特徴に「時間のずらし」があります。Catch the shiny tailのイベント報酬サポートSSR「風野署長の一日勤務回想録 風野灯織」を見てみましょう。
なんと、フレームに入ったアイドルの写真「だけ」を映しています。回想録の名の通り「仕事が終わった後」の風景なんですね。
今までのアイマスのカードはライブ中、撮影中、休憩中……と、「出来事のピーク」の華やかさを切り取ってきたわけです。しかしシャニマスのカードは時折、アイドルたちのピークでない「余韻」とか「過程」をイラストとして提示してきます。それが如実に現れているイラストのひとつがサポートSSR「かしまし、みっつの願いごと 大崎甜花」。
初詣に向かうアルストロメリアの面々を描いています。しかし、同じガシャに実装されていたプロデュースSR「しじまに華ひととき 櫻木 真乃」はお参りで願い事をする瞬間をとらえています。プロデュースとサポートの価値の違いはありますが、少なくともこの時、シャニマスは出来事のピークよりもそこに向かうまでの過程に価値があると定義していた、と考えることが出来ます。
Catch the shiny tailイベにおいても風野署長がサポートSSRだったのに対し、同じく報酬だった「アイムカミングスーン 八宮めぐる」はサポートSRですから、あながち間違ってなさそうです。この対比に、私はスペインのフランシスコ・デ・ゴヤ作「マドリード1808年5月3日またはプリンシぺ・ピオの丘での虐殺」を思い出します。
ナポレオン率いるフランス軍がスペインを侵略した際の光景を、ゴヤが取材を元に描いたものです。泣き叫びながら命乞いするマドリード市民と無機質なフランス軍の対比が恐怖を引き立てていますね。
一方、この絵に影響を受けて描かれたとされるのがフランスのエドゥアール・マネ作「皇帝マキシミリアンの処刑」。
時代が変わりナポレオン3世の支援によってメキシコ皇帝に即位したマキシミリアンが、大統領フアレス率いるメキシコ軍によって処刑される瞬間を描いています。
ゴヤの絵からは無残に殺されていく運命の市民の痛ましさがこれでもかと伝わってくるのに対し、マネの絵のなんと平凡なこと。まぁ、マネを始め写実主義や印象派の面々はナポレオン3世に思うところがあったでしょうし、この切り取り方には彼への恨みのようなものを感じることもできるわけですが……。
出来事の決定的瞬間を描くだけが絵画ではない、と思い知らされるいい例です。★鑑賞者の立ち位置
最後に。構図と被る話になりますが「鑑賞者の立ち位置」について見てみましょう。
美術作品について考える時は作品そのものだけでなく「誰の・何のための作品か」も並行して考えます。芸術が鑑賞者なくして芸術たり得ないのと同じように、アイドルマスターのイラストにおいてもそのシチュエーションにおける我々の立ち位置は常に考えなければなりません。
この点に注目してみると、シャニマスは「鑑賞者の立ち位置が極めて無秩序」ということに気づきます。これはサポートよりもプロデュースアイドルの方に顕著です。「バッドガールの羽ばたき 西城樹里」は、腕の位置からして鑑賞者=プロデューサーの視点から描かれていることは間違いありません。アイドルイベントでもこの絵はプロデューサーが樹里の腕を引っ張るシーンに挿入されています。
しかし、「チエルアルコは流星の 八宮めぐる」はそうはいきません。水槽に映るこの角度のめぐるの顔を見ることができるのはめぐる本人だけのはず。つまりこれは「アイドルの視点」から描かれています。
個人的に一番メチャクチャやってると思ったイラスト、「カトレアの花言葉 有栖川 夏葉(フェスアイドル)」。雲やパンダなど現実に存在し得ないものが描かれています。ということは、「なんらかの媒体に載せるために加工された写真データ」ということになります。
という具合に、シャニマスは特にプロデュースアイドルイラストにおいて鑑賞者の立ち位置をコロコロと変えることで魅力あるアイドルの一場面を演出しているのです。
額縁という窓から景色をのぞく時、私達は望まずとも「その場にいる透明人間」となることがほとんどですが、時に画家は巧みなシチュエーション設定や画面構成で鑑賞者の立ち位置を操作することがあります。
立ち位置操作の代表と言えば、ディエゴ・ベラスケス作「ラス・メニーナス」ですね。スペイン国王・フェリペ4世の宮廷の一室を描いたこの絵。中央にいる王女マルガリータが目立ちますが、目を凝らしてみれば画面中央やや左に小さな鏡が。ここに映っているのは、他でもないフェリペ4世と王妃マリアナ。つまりこの絵は、いままさにベラスケスの前で肖像画のためにポーズをとっている国王夫妻の視点から描かれているのです。
前述の「チエルアルコ〜」にも同じ技術が使われています。この場合、鑑賞者をアイドル自身と設定することで我々という透明人間を消去しています。そうすることで純粋なアイドルだけの世界……つまり「孤独」をより強調している、と考えることができますね。
この「鑑賞者の立ち位置」の設定、ミリシタ・デレステとシャニマスの違いを語る上での大きなポイントだと考えています。
まず、ミリシタはグリマス時代から鑑賞者に「カメラマン・早坂そら」というアバターを与え、「カメラマンが見ることができる風景を描く」というルールを基礎に制作されています。当然オフショットなど「いつ撮ったんだよ」という例外はありますが、それでも「チエルアルコ〜」のようなアイドル視点からの構図は見受けられませんし、「カトレアの〜」のような特殊効果も人形や舞台セットとして描くことで「その場にある」という説明がされます。最近ではイラストとしての光の効果もレンズフレアなど「カメラから見えるもの」として描くことでうまく理由付けしています。一方デレステはかなりあやふやで、鑑賞者に確固たるアバターを設定していないため、カードごとにプロデューサー目線だったりスタジオのカメラマン目線だったり、あるいはいわゆる神目線だったりして、その点ではよりシャニマスに構造が近いです。しかしその「無秩序の秩序」ともいうべきカメラワークの自由さをシャニマスほど上手に使いこなしているカードが少ないため、残念ながら現状では付け焼き刃の後続という印象を持たれてしまっているように思います。
★存在の耐えがたい軽さ
構図・時間のずらし・鑑賞者の立ち位置の操作に注目してみて感じたのは、「シャニマスは、『ある出来事のピーク以外で起きたアイドルの感情の動き』がイベントやガシャの報酬に値すると考えていて、かつそこにプロデューサーがいない状況を肯定している」ということ。
言い換えれば、「アイドルがそこにいて青春してるなら、そこにプロデューサーはいなくてもいい」ということです。ここで重要なのが、アイマスにとって私達はパトロンでありお客様だということです。だからアイマスのメイン商品であるカードイラストは「必ず」私達の需要に応えるように作られています。
だとするならば、「アイドルがそこにいて青春してるなら、そこにプロデューサーはいなくていい」と考えているのは他ならぬ私達自身だということになってしまいます。
これ、アイドルと二人三脚でトップアイドルを目指すゲームとしてスタートしたアイドルマスターというゲームにおいてかなりの異常事態ですよね。プロデューサーの職務放棄みたいなもんです。アイマスの歴史の中で私達が変化していったならば、それは美術史的考察におおいに関係があります。なぜなら美術史は「変化」の歴史だからです。
美術史の中には、美意識……すなわち「何を美しいと思うか」という価値観が文化圏レベルで変わる時があり、そういった価値観の変化を先導するムーヴメントを「美術運動」と呼ぶわけですが、新たな美術運動が興る時には一つでなくとも必ず大きな原因があるもの。
だから今、ソシャゲという土壌でシャニマスのような表現が新鮮なものとして評価を得ている背景にはパラダイムシフトと呼ぶべき大きな価値の変化が起きた・起きているハズ。そしてその変化とは大体の場合「需要の変化」だったりします。私達の需要の変化について考えることでシャニマスの表現の意味がより深く理解できるなら、考えてみる価値はありそうです。
いったいなぜ、私達プロデューサーの存在は希薄になっていったのでしょうか?
★特別な体験
美術運動は基本的に現状を打破するためのカウンターカルチャーとして発生します。
例えば18世紀の美術様式、ロココが生まれた背景には貴族の繁栄がありました。ルイ16世とマリー・アントワネットが収めるフランスにおいて、貴族たちは直前のバロック様式に見られる説教じみた教訓の示唆よりもより華やかで享楽的な絵画を求めました。しかしそんなバラ色の絵画も次第に下品だと蔑まれるようになり、更にポンペイの発掘による歴史ブームとフランス革命に向かう政治不信の高まりが重なって、時代はギリシャ・ローマ時代の精錬された美を礼賛する新古典主義へと移り変わっていくわけです。そう考えると、私達も不満にまみれた日常を送っていますね。
高度経済成長やバブルの最中に私達の物質的欲求はピークを迎え、そこから徐々にモノへの欲求は衰退していきました。でも、人と関わる中で自己顕示欲を捨てることは難しいわけで……私達は家や車などに代わる、誰かに対して精神的なマウントを取れるものを探していました。
そこに現れたのがソーシャルゲームです。私達は恵まれていますが社会で一番を取れるほどではありません。ゲームの世界はそんな私達でもそこそこ頑張れば一番になれる場所だったんですね。それこそシンデレラガールズが始まったころ、ソシャゲはどれもモノ重視=豪華さ重視だったと記憶しています。お金をかければけるほどアバターがド派手になってみんなホメてくれます。しかし欲とは恐ろしいもので、自己顕示欲というやつは「絶対に」満たされません。満たしたと思っても他の何かを見つけたら途端に不安になる。負けないように更に金をかける。そのループです。結果、華美になる一方のロココ美術が衰退したようにユーザー達も経済的・肉体的・精神的に疲れてしまいました。こうしてソシャゲ文化は現実と同じように、精神的な満足感=勝利以外の喜びを重視する時代に突入したというワケです。
私がアイマス界で「あっ、みんな疲れてんな」と感じ始めたのは「サプボ」という単語が登場し始めたあたりです。確かデレアニのころだったでしょうか。
小早川紗枝などの例外があるにせよ、ボイスは基本的に「選挙結果に対して与えられるもの」という認識でした。しかしいきなりアイドルにボイスが付いてしまったことでその価値観は崩壊し、頑張ることの価値がわからなくなってしまった。今ではシンデレラガールという「トロフィー」そのものが形骸化している……なんていう意見も聞こえてくるようになりました。まるでバブルだこりゃ。
あるトロフィーの価値がなくなってしばらく経つと、人はまた新しく優位性を持ったトロフィーを求め始めます。しかし一度インフレを体験したプロデューサーは札束で殴り合うことの虚しさを思い知っている。だから私達のうち一部は「戦わない」ことを選びました。吉良吉影の言葉を借りるなら、「激しい喜びはいらない、そのかわり深い絶望もない、植物の心のような人生」を望んだわけです。
でも、戦うことをやめた私達がアイマスで何を楽しんでいるんでしょうか。
かなり抽象的ですが、多分「特別な体験」と呼ぶのが妥当だと思います。それまでは「勝つ」ことがオーソドックスな「特別な体験」でした。しかし、プロデューサー同士が交流したり二次創作が活発になるにつれて、特別な思いを得るためには必ずしも「勝つ」必要はないとプロデューサー達は気づいてしまった。だから「戦う」必要もなくなっていった。よりオンリーワン志向の強いアイマスが幕を開けたのです。しかしひとつ問題が。
戦うことをやめてなお、私達はプロデューサーなのです。つまり私達がその場にいるだけで、アイドルは職業としての「アイドル」になってしまう。それでは「何かが起きてしまう」。だから私達は、戦わないことと同時にその場から消え去ることを選んだ。そうすることで、アイドル達が私達に見せない表情を眺めようとしている……と、そう解釈しています。シャニマスだけでなくアイマスの素晴らしいカード絵を見ていると、アイドルは「絵になる」のではなく「そこにいるだけで周りを『絵』にしてしまう」存在なのだと実感しますし、シャニマスのイラストに「何も起きていない」あるいは「何かが起きていた」瞬間のものが多いのはそういった意図があるのだと私は睨んでいます。何も起きていなくてもアイドルが居さえすればその場面は十分に特別なのです。
シャニマスが「何も起きていない」瞬間を報酬と定義していると考えると、ミリシタとデレステとのシーンの切り取り方の違いも説明がつきます。
ポチポチゲーとして始まったふたつのタイトルはプラットホームを変えてもまだまだ苦労の末の豪華さで射幸心を煽るモノ重視タイプのゲームですから、トロフィーたるカード絵は「アイドルの感情のピーク」を切り取ったものになることが多いのです。
そこに空間の凪の瞬間を捉えることに秀でたシャニマスのイラスト手法をそのまま取り入れてもイラストとゲームのコンセプトに矛盾が生じてしまいます。ミリもデレも、それぞれのスタンスの中でどうにか新しい技術を取り入れようとしている……そんな段階なんだと思います。例えば下の「潮風の一頁 鷺沢文香」も、シャニマスで出ていたらおそらくこちらを向かずに本を読んでいたことでしょう。そこは優劣でなく、ゲームコンセプトの差です。私が「シャニマス優秀だなぁ〜〜」と思うのは、「私達が『私達は実は物質的な豪華さよりも精神的な満足感を求めている』ことに気づいた」ことにいち早く気づき、ゲームシステムとイラストに組み込む英断をしたというところです。
「プロデューサー」という名前の呪いに縛られた人たちは知り合いにも沢山います。そういった人たちに勝利以外のトロフィーを指し示したシャニマスはやっぱりスゴイ。★美術史オタクのまとめ
私が初めて冒頭の「モルトフォンテーヌの思い出」をルーヴル美術館の図録で見た時、まるで画面から風に揺れる木々のざわめきが溢れてくるような気がして、無性に懐かしい気分になったのを憶えています。しかし、私はフランス北部にあるモルトフォンテーヌの森に行ったことなどありません。行ったこともない場所を懐かしむなんておかしな話ですよね。
図録によると、「モルトフォンテーヌの思い出」の原題はフランス語で「Souvenir de Mortefontaine」というそうです。Souvenirは日本語の「お土産」「形見」「記念」に相当する、記憶をとどめるために残しておくものを指す単語です。
コローはよく旅をする画家で、様々な地方を訪れてはスケッチや写真を撮り、自宅に帰るとそれらを参考に自分が見た風景を「思い出」として描き残しました。こうしてコローが「感じた」記憶のモルトフォンテーヌの森は、地球の裏側にいる私の鼓膜の中で今もざわめき続けているというわけです。本当に優れた画家は、自分が感じた(「見た」ではない)景色の「におい」を筆で画面に表現することで、私達に同じ感覚を伝えることができるのだ、とその時に学びました。
そういう意味では、現行のアイマスタイトルの美術班はどれもその「におい」を表現できる技術を持っています。ただ、ゲームの指針、ディレクション、工数、イベントの収益目標など様々なハードルがゲーム開発にはあり、それぞれのタイトルに「あぁ、力を出し切れてないんだろうな」というイラストがチラホラと見受けられるのが現実です。
Twitterに流れてくる意見を見る限り、皆さんは「それぞれのタイトルのイラストを比較する」という行為に抵抗を持っているようです。それはおそらく、力を出し切れていないイラスト、いわゆる「アラ」がバレてしまうことへの恐れでしょうか。しかし美術史オタクとして言わせてもらいますと、同時代の作品こそどんどん比較していくべきです。
美術は、「美」という本当に存在するのかすらわからないものについて考える学問です。
だから本当は美術なんて全員わからないんですが、それでも、美しいものがなぜ美しいのかという好奇心を源に手探りで穴を掘り進んでいくような、そんな一面を持っています。
だから作品単体のみを手がかりに価値を考える絶対評価だけでなく、美術作品を当時あるいは前後の時代の作品や時代背景と照らし合わせることで「その作品は美術史の中でどのような立ち位置にいるのか」という相対評価を同時に下していく必要があります。自分の感覚のみを頼りに作品を評価しているようでは、美を論ずることは到底不可能です。
大事なのは、「『比較する』ことと『優劣をつける』ことは全く違う」ということ。これさえ踏まえておけば、美術品の比較はとても楽しいはずですよ。そして本当に価値あるものに出会えた時は、嫌いなものを嫌いと叫ぶのと同じくらいに良いものだと認めていくべきです。なぜなら、アイマスにおける全てのイラストは、他でもないあなたを喜ばせるために作られているからです。
★シャニマスはどこへ行くのか
最後に、美術史的な観点から「シャニマスのイラストは今後どこへ行きつくのか」を予想してみたいと思います。
「既成概念を破壊する」
「何も起きていない瞬間を描く」
「ユーザーがある種の無気力に陥っている」という特徴は20世紀に生まれた「ダダイズム」という美術運動のそれに似ています。
ダダイズムが生まれたのは第一次世界大戦中のスイス。世界全体を巻き込んだ戦争に無力感を覚えた芸術家達による戦争、武力への抵抗をベースに、無意識・無意味な美術を志し、それによる常識の破壊を作品のコンセプトとしています。やっぱり総選挙は世界大戦やったんや……。ツイッターなどを見る限り、「最後には画面からアイドルがいなくなるんじゃないか」と予想している方々が多いようです。確かに、遺留物や幾何形体で表現されるアイドルはなかなかエモいかもしれません。
……まぁ冗談にマジレスも野暮ですが、ダダの文脈で考えるとそれはあまり美しくないと思います。
ダダは「理不尽」を 大事にしており、モチーフが孕んでいる「意味」の難解な組み合わせで鑑賞者の価値観を混乱させます。故に、そもそもモチーフのもつ意味を汲み取れないようなレベルにまで抽象化するとは考えにくいのです。また、実は我々の大部分はカードに対して精神的な充足感よりも先に「かわいさ=性=セッ○ス」を求めているので、画面からアイドルの肉体が消えることはなさそうです。肉体を保ちながら理不尽さを出す。実は、そんな表現を可能にする技法がダダイズムにはあります。「レディメイド」です。
マルセル・デュシャン作「泉」で一躍有名になったこの手法。「レディメイド=既製品」の名の通り、「既製品(または少し手を加えたもの)をそのまま美術作品として展示する」というトンデモナイ手法で、デュシャン以降の美術を決定的に変えてしまった20世紀最大の問題作と言われています。
既製のものを用いて、肉体をもったアイドルを表現する。
これなら、なんかイケそうじゃないですか?
ということで、ちょっと作ってみました。
断言しましょう、将来的にシャニマスのイラストは、こうなるに違いありません!いかん、危ない危ない危ない……。
ご清聴ありがとうございました。
シラス.〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
というわけで宣伝の時間です。
西洋美術に関するクイズ番組「美術探偵シラス.」
今年の夏もやりますよ!「美術探偵シラス. 夏の美術館めぐりスペシャル」
7/27(土)22時よりうちのコミュで放送です!
ご興味のある方! ぜひとも起こしください! 問題も募集中ですよ!
↓企画用ブロマガ↓
https://ch.nicovideo.jp/sirasusirasu/blomaga/ar1393031
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稚魚、 #ミリオンライブSSR合同 の感想を書く
桜も散りはじめ毛虫の季節もいよいよか、という今日このごろ。いろいろとプライベートも落ち着きましたので溜まっていたタスクを消化する毎日です。
で、その一環で長いこと積んでいた同人誌を少しずつ消化しているのですが、つい先日、またひとつSS同人誌を読み終わりました。昨年末の冬コミで頒布され完売という素晴らしい結果を残したSS合同誌。
そう。
ミリオンライブSSR合同である。
「面白いSSしか載せてません」というウリ文句、サイコーですよね。
実は企画告知アカウントができたくらいの頃からウォッチしておりましてnoteの参加レポや主催エントリも読ませていただきました。村上春樹のミリオンSS見たかったなオイ。
私は年末は実家で過ごしますのでビッグサイトへは行けませんでしたが、電子版が販売されるということで迷わず購入させていただきました。で、遅ればせながら先日読了しました。
ええやんけ!!
かなり面白かったです! 六作家六作品がそれぞれ一万文字以上の力作を寄稿しており、標準サイズの合同誌ながら内容の密度は想像以上に濃かったです。
無料で公開されている作家様の初稿集+解説も読み終わりまして、溢れ出る熱意にあてられて思わず感想を書きたくなりましたのでこの度は筆を執ることとなりました。真剣に書きますよ、ええ。
*******●杏奈のはなしを聞いて
作者:和歌山狭山○あらすじ
眠たい目をこすりながら望月杏奈がベッドから出ると、家の様子がいつもと違う……
そう、ゲームのお供だったクッションがない。
寄りかかる場所をなくして、なんだか収まりの悪いまま事務所に向かう杏奈。
果たしてほんとに足りないものは何?○感想
いわゆる「ライナスの毛布」についての話。
読み始めはアイマスSSによくあるドタバタ騒ぎにでもなるのかと思ってましたが、杏奈にとってその"毛布"がどれぐらいの重要度か、というところの設定がとても絶妙。話を魅力あるものにしています。あって当たり前、しかし無ければ無いで困らない……けど物足りない。絶妙に何も起こらないまま始まるこのSSは第一話に相応しいと思いました。また、杏奈のけだるげな心理描写もさることながら、福田のり子の生活感がたまりませんね! セルフレジでお金を借りるシーンが特にお気に入りです。この本を冬コミで買われた方はこの後のシーンで思わず鍋をつつきたくなったのではないでしょうか。
○この一行が好き!
「目の前で家族のだんらんを見せつけられて、気さくな会話を聞かされて、その家の匂いがまとわりつく。温かくて甘い匂いに気分が悪くなる。」
※人の家の匂いって、なんというか、馴れ馴れしいですよね……。
*******●神の証明
作者:並兵凡太○あらすじ
空白の家で生まれ空白のまま育てられ、自己すら持たない"私"を導いたのは、
年端も行かぬ黒衣の娘――天空橋朋花。
しかし"私"の信仰とは裏腹に、下劣な民に犯されて、主が地へと堕ちていく。
"Domine Quo Vadis ?" 答えはすでに示されていた。
人が神と出会う時。相応しき空は、晴れか、曇か、それとも嵐か?○感想
とある悲惨な事情から天空橋朋花を崇拝することとなった"私"が主人公です。
タイトルからも分かる通りかなり宗教色が強い作品。"私"の一人称視点で話が進んでいくんですが、この"私"の独白のスピード感がとにかく素晴らしい! 下品な話ですが、まるで射精直前のような高揚感を保ったまま終わりまで突き抜けていく文章の勢いに興奮すら覚えました。余談ですが、こちらの作品は今回の掲載作品の中で最も初稿から変更された作品だそうで。初稿の方も読みましたが、確かにまるまるプロットから作り変えられており素人目から見ても物語の没入感がグイッと増していました。作品批評会の重要性はこの作品だけを見ても感じられると思います。
ただ、本当に朋花Pの感情を揺さぶりたいのなら、もっと"私"の造形を彼らの、ひいては我々のものに近づけたほうがよりエグいものになったのかなぁとは思いました。
明日は我が身です。くわばらくわばら。○この一行が好き!
「神が収まるにはあまりにも小さい器だと思った。彼女の偶像としての働きは私に感銘を受けさせるほどでそれを評価しこそすれ、しかしどこか残念な気持ちは拭えなかった。我が神にこの器は矮小だったということだ。」
※一段落まるまる好きです。衒学的な文章は良いですね。
*******●今、歩き出す君へ
作者:wizard5121○あらすじ
最上静香は舞台の袖から望月杏奈を見ていた。
ステージの上の彼女はまるで普段とは別人のように輝いて見える。
十四歳の静香は不安を抱えながら新しいステップへ進もうとしていた。
来週からは杏奈とのペアレッスンが始まる。
最上静香に残された時間は、あとどれほどだろうか。○感想
アイドルらしくステージとその裏の奮闘を描いています。直前の話が話なのでギャップにだいぶ癒やされました。話の大枠は「ステージに向かうアイドルの葛藤」というアイマスのSSではよく見る主題ですが、さすが批評会を経ているだけあって、文体がしっかりとしてとても読みやすい。そのおかげか最上静香を生意気なアイドルとして描くという典型的な扱いも古臭さを感じにくくなっています。
また、キャラクターの動作の描写が多く読んでいて場面が賑やかなのが印象的でした。プロデューサーが椅子でくるくる回ったり、杏奈がコタツで丸くなったり……。頭の中に動きが浮かぶからこそ心理の揺れ動きが映える、のかもしれません。○この一行が好き!
「ステージに立つ時は……アイドルの杏奈じゃないと駄目、だから……」
※杏奈が導き役であり導かれ役である、という構成が良いです。
*******●ぷっぷかぷりんは昼歩く
作者:鶏口○あらすじ
麗花ちゃんは変だ。けれど今日はいつもよりずっと変だ。
どうやら今日は「ルカク」を探しに行きたいみたい。
いつもカワイイ茜ちゃんは、いつも麗花ちゃんに振り回されてばかり。
麗花ちゃんを追いかけて、狭い東京を西へ東へ、不思議な旅のはじまりはじまり……。○感想
六話の中で唯一のハッキリとしたコメディです。作者本人の作品解説にもある通り、こちらに訴えかけるようなメッセージはほぼなく、ひたすら「北上麗花と野々原茜」の行動を書き続ける形。興味のままの飛び回りコロコロ場面転換していく文章はまるで北上麗花のコミュを見ているようです。765レーサーグランプリの北上麗花がこんな感じだった気がする。
それでも、最終的に爽やかな終わり方を迎えるのは、なんだかCメロで泣かせてくるギャグ曲みたいですね。他の話が全体的に濃い味付けですので、その中にこういった作品があるのは安心できます。ちょくちょく腕がもげそうになる茜ちゃんに悲哀を感じざるを得ません。
深いことを考えずに読める、そういうSSもあってしかるべきですね。○この一行が好き!
「以上、ルカクちゃんのショータイムでしたー! 皆様大きな拍手をー!」
※完全に予想外の展開でしたので、風呂で読みながら笑ってしまいました。
*******●特別じゃない夏の一日
作者:だぶれ○あらすじ
「初めてのお付き合いの話を聞かせてほしい」
星梨花の突然の相談に、馬場このみは苦笑する。
友人の莉緒と酒を飲みながら、彼女は過去を思い出していた。
このみの初めてのお付き合いは中学三年の夏だった。
少し背伸びをしすぎた中学生の、どうということはない、よくある話。
窓の外では、もう蝉が鳴き始めていた。○感想
「ほろ苦い失敗談」を中心に据えた話です。以前感想を書かせていただいたSSゴウドウボンといい、馬場このみは苦い過去を背負わせたら天下一品ですね。しかし今回のこのみの回想は、失敗談と呼ぶにはなかなかハード。それをスルスルと話していくこのみに綱渡りのようなスリルを感じていました。
しかしそこはそこ、作者が着地点をうまく設定しているおかげで読後感は思いの外あっさりとしていて、それが逆に中盤のドロドロとのギャップで異様な空気を作り出しています。解説を読む限り作者の方はそこまで設計されていたようで。まんまと掌の上で踊らされてしまいました。私が特に好きなのは小料理店の描写。イカソーメンやノドグロといった酒の肴をかなり上手に心理描写に絡めています。きっとお酒が好きな方なのだろうと楽しんで読んでいました。
○この一行が好き!
「ちょっと熱くなってきたかも。でも次に飲むの、地元のお酒でしょ」
このみは煮え切らない顔になった。
「ふーん、山口の時なのね。初彼氏」
※会話ですので三行で。この大人の掛け合いは私からは絶対に出せません。お見事です。
*******●Re/Princess
作者:たう○あらすじ
徳川家の長女として生まれたまつり。
その従兄弟である主人公は、まつりとのお見合いのため実家に呼ばれた。
名家の血のしがらみから自由を手にするため奮闘する二人。
「お姫様は、最後にかならず幸せにならなければならない」
果たして彼は、プリンセスを魔女の呪いから救うことができるのか?○感想
合同誌の最後を飾るのは主催のたう様の作品。
私はアイマスSSにおけるオリジナルキャラが結構好きなんですが、今作のオリジナルキャラ、姫を閉じ込める魔女役であるまつりの義理の母・徳川兎群(とむら)の造形が特に好みです。ケラケラと笑いながら主人公たちをあざ笑う姿は清々しいくらいの魔女。ケラケラ笑ってほしいなぁと思ったら本当にケラケラ笑ってました。ストーリーもコッテコテで下手するとただの茶番劇にしか映らなくなってしまいそうですが、それでも全体として読みやすく整っているのは、作者が「登場人物を与えられたロール通りに動かす童話のような読後感」というコンセプトに素直に従った賜物ではないでしょうか。
○この一行が好き!
「寂しそうに言い放つ姿は、残念ながら魔女というより、ただの母親のようだった。」
※哀愁のあるオリキャラはいいですね〜!
*******★合同誌としての感想
良かったですよ! この内容で千円は安い。
主催ならびに参加者が意図したものかはわかりませんが、それぞれの話の根底には「幸福」というテーマがあります。
登場人物たちは、ある時はチルチルとミチルのように身近な幸せを探したかと思えば、またある時は人生が変わってしまうほどの幸福のために魂を投げ売っています。そのような各々の幸福論をまとめた合同誌の最終話が「めでたしめでたし」で締めくくられるのはとても美しい。やはり主人公は(あらゆる意味で)救われるべきですね。また、本編を読んでいる段階から作家の皆様がSSというメディアに対して自分なりの「哲学」を持っていることがヒシヒシと伝わってきました。私は本編を読んだ後に初稿集+解説を読みもう一度本編を読み返したわけですが、それぞれの思惑がどのように文章に残りどのように削られたのか、その痕跡が見て取れるのはとてもワクワクします。
「SSを作る」ということに真正面からタックルできる作家が集まりそれぞれが腕を振るった結果、ここに強烈な熱量を持つアンソロジーが生まれました。このような事件がミリオンライブという界隈で起きたことは他に誇って良い出来事でしょう。
しかしそれ故に、文章以外の点をあまり褒められないのがとても惜しいです。まず、読み終わった後の一番の感想は「これ本にする必要あったんか……?」でした。
確かにそれぞれの掲載作品は素晴らしいものでしたが、これらの作品を一つの合同誌に集める必要性はあまり読み取れません。なんだかポータルサイトで閲覧数順ソートかけたあとの検索結果を上から順に読んでいる感覚です。おそらく書籍の頭から尻尾までを通してのテーマ、一貫性が明文化されていないからだと思います。またデザイン面についても疑問が残ります。デザイン担当の方を責めるつもりはございませんが、始めて表紙を見た時はどっかの高校の文化祭ポスターみたいだなと思いました。高校の文化祭では面白いSSは読めませんよね。だから初めて表紙を見た段階では「本当に面白いんか、この本」と思っていました。
これは予想ですが、おそらく主催と参加者が話し合った時間の大半は「掲載作品の質を上げる」ことに費やされ、肝心の「『SSR合同』という同人誌をどういう本にしたいか」という討論はほとんど行われていなかったんじゃないでしょうか。
その結果、魅力あるコンセプトの合同誌にも関わらず、いわゆるアンソロジーとしては並の完成度となっています。普通は同人誌に対してここまでは求めないのですが、企画告知noteで大きく出られてしまうとそれなりのレベルを期待してしまいます。主催は作品解説の中でこの合同誌を「荒野に送るモールス信号」と例えています。つまり、挿絵や表紙の美麗さ、参加者の知名度ではなく話の面白さだけを求める読者に向けて作られた本だ、と。
しかしその選民思想はnoteに書かれた「『SS本はどうして読まれないんだ』という疑問の打破」と真っ向から矛盾します。残念ながら多くのアイマスユーザーはモールス信号を受信する器官を持ち合わせていません。そのような方々に受け取れる波長に変換するために美しい表紙や豪華執筆陣(笑)が存在するのです。「内容の品質を保証する」という発想は同人誌のコンセプトとして個人的に超好きですが、その一方で「同人誌のコンセプト、装丁、表紙デザイン、イベント前までのサンプル等の出し方は内容以上に同人誌の売上を左右する」という現実を無視することはできません。SSの添削にかけたのと同じくらいその現実に向き合い続けることが、界隈の現状を打破する一つのアンサーとなるのではないでしょうか。
面白いSSしか載っていない合同誌は、それに相応しい姿を与え世に打ち出すべきです。今回寄稿された作家様六人はいかなる表紙イラストよりも魅力あるSS作品を書かれた六人です。きちんと読ませることができれば「表紙詐欺」などと言う人はいないでしょう。
喜ばしいことに、第二弾の制作が既に始まっているそうです。もちろん買わせていただきますので、ぜひとも電子版を頒布していただきたい所存でございます。
******
長々と綴ってきましたが、そろそろお開きということで。
最後は今合同誌において最も心に強く残った、並兵凡太様の作品『神の証明』のファンアートで締めくくらせていただきます。
お読みいただきありがとうございました。
シラス.
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