※映画版「CATS」の感想です。
故に基本的に主観でありネタバレもあります。
キャッツ!
といえば普段演劇の類を観ない人でも知っている超名作ミュージカル。
私も人生で劇団四季の公演に五回ぐらい観に行った(全部横浜のシアター)。
しかしミュージカルというのはスゴイ趣味で、行く人は同じ劇を300回とか400回とか観に行く。
故に私は泡沫に等しい存在なのだが、それでも好きな猫の紅茶缶とフィギュアを買うぐらいには思い入れがある。
その「CATS」が映画化! ということで大いに興奮した。
極力ネタバレを避けつつ(といってもバレるようなネタもないけど)めっっっっっちゃ期待しながら映画館へ行く日を待っていたのだが、舞い込んでくるのはジェリクル酷評の嵐。
「5点満点中たまねぎ」「犬登場以来最悪の出来事」なんて大喜利に始まり、挙句の果てにバズ狙いで未視聴なのに批判ツイートを垂れ流す輩まで現れる始末。
こういう人たちはちゃんと実写版「テラフォーマーズ」を見てから感想を言った私に謝ってほしい。
で、先日字幕版と吹替版を観に行った。
大まかな印象としては……
なかなか良かったやん! DVD買お!
という感じ。
そりゃあ期待を裏切られた所、映画としてケチを付けたい所も大いにあるが、いずれも抱いていた期待を下回るようなものではなかったし、タマネギなんかでは全然ない(私がマンガ原作実写映画で鍛えられていたところもある)。
だから、私としては舞台も映画も未視聴の方が風評だけで「ひどい映画」と断じている現状はとてもとても悲しい。
というわけで、旬を逃した感はあるものの、五回という少なめの観劇経験を元に舞台版と映画版を都合よく比較して感想を書いていこうと思う。少しでも映画にこびりつくタマネギの臭いを消す助けになれば幸いである。
※便宜上、ニューヨークとかロンドンとか日本で公演されていたミュージカル版「CATS」を「舞台版」、2020年公開の映画「CATS」を「映画版」と表記する。
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★猫達の印象について
・ヴィクトリア…主人公猫
(フランチェスカ・ヘイワード)
ロイヤル・バレエ団のプリンシパルだけあって顔、ダンス、スタイル、声をトータルして凄まじく美しい。それだけでミュージカル映画として見る価値はある。
役どころとしてはシラバブとコンパチされていたが、映画にするならそうなるよなぁ〜という印象。おとなしい感じだが、好奇心が旺盛な所もマンゴジェリーとランペルティーザのパートでよう表現されていたと思う。また、映画のために書き下ろされた楽曲「Beautiful Ghosts」は存外にマッチしていた。
しかし、主人公なだけあって彼女のバストアップが頻出するのだが、やはりツルツルの側頭部を見るたびにサンリオSFの「猫城記」が頭をよぎりギョッとしてしまう。耳って頭のシルエットでも相当大事なパーツなんだな、と思った。顔の横にタテガミでもあれば公開前の印象もだいぶ変わったのではなかろうか。
・マンカストラップ…リーダー猫
(ロビー・フェアチャイルド)
申し訳ないが第一印象は「タテガミがないやん!」。
私の中ではマンカスといえばタテガミ、タテガミといえばマンカスなのだ。
でも役どころとしては舞台版よりもずっとリーダーやってたと思う。舞台版同様、主役のパートはないが、画面に映る回数はグッと増えている。それだけに、マキャヴィティと戦うシーンが削除されたところだけが残念。
また、演じるロビー・フェアチャイルドはニューヨーク・シティ・バレエの元プリンシパルというスゴい人ということで、ヴィクトリアとのパ・ド・ドゥは息を呑むほどに美しい。
だけど、パンフレットでの扱いが小さすぎないか?
・ジェニエニドッツ…おばさん猫
(レベル・ウィルソン)
食うんか〜〜〜い!
前評判をチラリと聞いてはいたので覚悟はしていたが。
しかし私はゴキブリにそこまでの嫌悪感がないので軽傷で済んだ。テラフォーマーズのおかげ。
それよりもゴキブリ軍団のタップダンスがオミットされたほうが辛い。
軍靴に見立てたゴキブリ軍団のダンスは第一幕の見せ場の一つだと思っているけど、さすがにネズミやゴキブリを猫サイズにするのは難しかったんだろうか。まぁ、猫サイズのゴキブリが出てきたらそれはそれで批判されていたか。
しかしそこらへんに目をつぶれば台所を所狭しと跳ね回るコミカルさはやはり素晴らしい。
毛皮キャストオフの解釈も舞台版とは違う方向性で映画ナイズされていたと思う。
ジェリクルキャッツはゴキブリを食う!
・ラム・タム・タガー…つっぱり猫
(ジェイソン・デルーロ)
キッチンで歌い始めたときは「このステージでタガーが?」と思ったが、場面転換してミルクバーでバックライトを受けて歌い始めた所で思わず笑ってしまった。タガーはプレスリー、ミック・ジャガーとモチーフの時代が一世代ずれているイメージがあったので、80年代の香り漂うバーで歌うのは2020年の映画としてしっくりきていると思う。
このタガーなら吹き替えのOfficial髭男dismはなかなかに合ってるんじゃないだろうか。
それにしても、マキャヴィティもグリザベラもそうだが、「セクシーでパワフル」的な役どころにアフリカ系アメリカ人の役者をキャスティングしているのは意図があってのことなのだろうか。
・グリザベラ…娼婦猫
(ジェニファー・ハドソン)
「メモリー」というのはスゴい曲で、デニーズの有線放送でJPOPバラードに混ざって流れるような曲である。そんな「メモリー」をどうしたものかと期待していたが、かすれるような声で歌うのは映画ならではでアリなんじゃないかと思う。
ただ、演出の雰囲気が舞台版とあまり変化がなかったので正直書くことがない。せっかくの「メモリー」なのにバストアップ多用なのはいかがなものだろうか。
それでもジェニファー・ハドソンと吹替版の高橋あず美の歌唱力で間が持ってしまうのだから、シンガーはスゴイ。
・バストファージョーンズ…大人物?
(ジェームズ・コーデン)
舞台版ではグルメな猫で曲調もゆったり……という感じだったが、映画版ではより俗っぽい、というか下品な側面にフォーカスが当たっていた。まぁ猫のグルメって本来そういうことで、「大人物?」の「?」にフォーカスを当てたということだろう。シーソーのシーンはおもろかったし、エビを飲み込むとこはウエッっとなった。
それにしてもゴミ漁りのシーンが長い! そして、ゴミ捨て場をイメージした舞台版のセットがとても忠実だったということがよくわかる。
ジェームズ・コーデンの番組の人気コーナー「Cross walk musical」をたまに見るけど、なかなかに笑えるので是非。
・マンゴジェリーとランペルティーザ…小泥棒
(ダニー・コリンズ&ナオイム・モーガン)
ちょいちょい曲が変わるパートだが、曲は劇団四季の旧版と同じものだったので馴染みが深いのではないだろうか。私は旧版が好みなので嬉しかった。
映画版では純真無垢なヴィクトリアは他の猫たちと触れ合う中で猫の価値観を知っていくことで自分を見つけていく……みたいなストーリーが追加されているが、マンゴとランペルはヴィクトリアをスレさせすぎでは。
映画化して大正解だったと思ってるパートのひとつで、舞台版では表現しきれてなかったイタズラというか悪行が映像化されたのはそれだけでウキウキする。それとも、人によっては説明過多に感じるんだろうか?
・オールドデュトロノミー…長老猫
(ジュディ・デンチ)
すげえジュディ・デンチみたいな顔のおじいさんだなぁと思ったらジュディ・デンチだった。失礼しました。
これは知らなかったのだが、ジュディ・デンチはそもそもロンドンの初演でグリザベラを演じる予定だったがケガで降板してしまったらしい。映画化に際し再び重要な役を与えられたのは、99回死んだ猫の因果だろうか。
舞台版では灰色でお茶目だけど貫禄がある猫という感じだったが、映画版のほうは「神秘性」を重視している気がする。確かに神秘的な猫となると女優のほうが映えそうだ。
ラストナンバー「猫からのごあいさつ」は、「スクリーンに映される巨大なジュディ・デンチに凝視される」という007でもそうそう味わえない経験ができる。
・ガス…劇場猫&グロールタイガー…海賊猫
(イアン・マッケラン&レイ・ウィンストン)
ガスについてはもう、イアン・マッケランを持ってこられた時点でこちらの負けという感じ。吹替版が宝田明でさらに負け。
カメラの近い映画版ならではの細かな仕草の集合体は、かつて劇場のスターだった猫の表現として十分すぎると思う。舞台版ではバストファー・ジョーンズと同じ役者が演じるので結構ガタイが良かったりするのだが、映画版は痩せっぽちなのもまたイイ。
グロールタイガーについては……グリザベラよりも浮浪者みたいになっているのと、いちおう海賊の船長だったのにマキャヴィティの手下になっているのでちょっと哀れだ。まぁ、公演によってカットされることもあるパートなので多少の歌があるだけでもマシなのかもしれない。
ちょっとばかし猫たちとの格闘シーンがあるのと、船から落ちる最期はせめてもの原作オマージュといったところか。
それにしても、グロールタイガーをカットしたせいで後に歌詞に出てくるグリドルボーンが「誰やねん?」になってしまっているのはいいんだろうか。
・スキンブルシャンクス…鉄道猫
(スティーヴン・マックレー)
私の推し猫なので、スキンブルが出てきた時点でこの映画に2兆点くらいあげたいというのが本音。
実のところ、映画を見る前は尺の都合もあるだろうしカットされるパートもありそう……と思っていた。その中でもスキンブルはいちおう人気ナンバーなのでカットはないやろ〜! とは思っていたが、グロールタイガーの扱いを見て内心でヒヤヒヤである。杞憂に終わって何よりだ。
舞台版の愛嬌ある気のいい猫っぷりとは打って変わって映画版では職人っぽい風貌に。映画版ならではの舞台移動にタップダンスも追加され、新しい側面を掘り起こそうという意志が感じられる。
特に、実際に「個室の特別寝台」で歌って踊ってくれるのは舞台版で物足りなかった部分なので、だいぶ満足している。
中の人であるスティーブン・マックレーは英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルなのだが、インスタグラムで子煩悩ぶりを発揮してて大変微笑ましいので一度見てみてほしい。
それだけに、パンフレットの登場人物紹介で名前が一切出ていないことに憤っている。どういうことやねん!?!?
マンカス役のロビー・フェアチャイルドもそうだが、バレエダンサーは広報で押すには知名度が低すぎる、という判断なんだろうな……。
・マキャヴィティ…犯罪王
(イドリス・エルバ&テイラー・スウィフト)
脱ぐんか〜い! そして歌うんか〜い!
舞台版と映画版で一番印象が違う猫だと思う。
舞台版は毛糸のバケモンみたいな風貌で本当に犬をぶっ殺してそうだったが、映画版は歌詞にもある「ミステリアスキャット」という雰囲気に。
舞台版ではデャァッハッハッハッハッハッ! みたいに笑うばっかりだったので喋って攫って歌って踊る映画版のほうが「悪役」としては印象が強くなった気もするが、それでも小物っぽくなったのは考えものか……。
搦め手を使って暗躍する魔術師という感じで、「プリンセスと魔法のキス」のDr.ファシリエに近いと思う。悪のイメージも初公演の時から大分変わったということだろうか。目が緑なのはとても良い演出だ。
ナンバーについては、ボンバルリーナ役のテイラー・スウィフトにホレボレするばかりだった。
ライトがギラギラでやや下品なステージに仕上がっているのは「ジェリクルキャッツ」という概念の崇高さと対照になってるっぽいけど、「ジェリクルキャッツ」の説明がないのでちょっと弱い感じだ。
・ミストフェリーズ…マジック猫
(ローリー・デヴィッドソン)
すげーファンが多い猫。
舞台版と違ってナヨい感じに仕上がっていることに解釈違いを起こしている人が多く見受けられる。私の中でもミストは結構自信満々なやつという印象なのだが、弱気ミストもなかなか好きだ。映画としてヴィクトリアと共に成長していく近い立ち位置のキャラが必要だったんだろうか。
それよりも歌唱におけるタガーの役目をマンカスが担っているのに少々驚き。
途中でタガーが高音パートで割り込んできたときに「来るんか? 途中から来るんか?」と思ったCATSファンは多かろう。
ミストの見せ場である連続回転についてはカットが惜しいと思いつつ、映画で延々と見せられてもどうかとは思うので、まぁ英断だったのでは。
★その他感想もろもろ
●反論したいところ
映画を見終わってから映画版に対する感想を色々と見てみたのだが、感想の中には舞台版を見ていない故の誤解が含まれているものが見受けられた。それについては既に多くの劇団四季ファンが反論しているところだが、私も言わずにはいられないのでここで吐き出しておく。
キェェーーーッ!
まずはじめに絶対に書かなければいけないのが「ストーリー性が希薄」という批判について。これについては舞台版のファンからも既に多くの指摘、反論が上がっている。
さんざん言及されていることだが、そもそも「CATS」というミュージカルはT・S・エリオットが書いた詩集「キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法」が元となっている。英語版原作は下記のサイトでpdfが読める。
https://gutenberg.ca/ebooks/eliotts-practicalcats/eliotts-practicalcats-01-h.html
で、エリオットの原作はおおまかにこんな感じの内容。
「猫の名前って難しいですよね。猫が瞑想してるときは、自分の名前について考えてるんですよ」
「で、こんな猫がいるんですよ」
「こんな猫もいますよ」
「こんな猫もいますよ」
「こんな猫もいますよ」
「う〜ん、イヌと猫は違うな!」
ここに楽曲と踊りを付け、エリオットの未発表原稿から「グリザベラ」という猫を追加し、長老猫・オールドデュトロノミーによって「ジェリクルキャッツ」に選ばれると天上に行けるという要素を強調したのが舞台版なのだ。
しかしながら、元々猫同士の掛け合いなど皆無の詩集という点をリスペクトした形なのだろうか、舞台化にあたっても猫同士の絡みはほとんど追加されなかった。それ故にセリフというセリフもほとんどないし、あっても観客である私達に語りかけるような形になっている。
これは構成としてバレエに近いように思う。バレエには基本的にセリフも歌詞もないが、ダンサーの身体と楽曲の調和をもってシナリオを補完できる。同じように、「CATS」とは極限まで磨かれたダンサーの肉体美から放たれるメッセージを鑑賞する非言語コミュニケーションミュージカルという側面がある。
だから、かねてより「CATS」を見てきた方は映画版を見てこう思ったのではないだろうか。
「セリフめっちゃある!」
そう、ストーリーとしては映画版のほうが厚くなっているというのが正解なのだ。
それとレビューの中に「『ジェリクル』という単語、設定の説明が無い」という批判があった。実はそんな説明は舞台版にもない。
というのも「CATS」は全体的に「神秘的な存在たる猫の世界の出来事」という雰囲気の作品。子供向けの詩集ということもあり、細かい心理描写とか理由付けはほとんど無い。実際、初めて舞台版を見たときは「へーそういう制度あるんだ猫界」くらいに思って見ていた。
それでも何度も足を運びたくなるのは、やはり楽曲とダンスの魅力が圧倒的でストーリーの欠如を補ってあまりあるからだ。人と似た部分はあるものの、やっぱり猫による猫のための物語なのである。
もしも
「『ジェリクル』という単語の説明なしに話が進むので置いてけぼりを食らう」
「猫が服を来ているのが理解できない」
といった感想を持ったなら、それは例えるなら「桃太郎」に対して「桃が流れてきた理由がわからないから物語に没入できない」と言っているようなもの。そんなものはマクガフィンであり本質ではない。
作品である以上、製作者が初見の鑑賞者に配慮すべきという意見も然るべきだが、それは「CATS」というコンテンツそのものの特徴なので舞台版にも同様の批判を投げかけるべきだろう。
なお、「ジェリクル」という言葉の意味については世界三都市でミストフェリーズを演じた堀内元氏のインタビューに詳しい。
https://www.chacott-jp.com/news/worldreport/tokyo/detail015792.html
●やっぱりカメラの存在は大きい
キャッツシアターはデカい。故に舞台上の役者と観客の距離が相当開くわけで、役者の細かな動きが逐一追えるわけではない。S席なんぞとても買えない貧乏人の私にはなおさらである。
反面、映画ではカメラが近くに寄るので目の動き、指の震えなんかがひとつひとつ見て取れる。例えばミストフェリーズの取り出したカードの持ち方が全然キレイじゃない、なんて演出は映像媒体じゃないとできない。
こういう細かい演技によって映画版とは違う形でキャラ付けしている……というか、新しいキャラ解釈をするために映画という媒体を選んだんじゃないかと思っている。
映画版「CATS」はいわば「新訳」なのかもしれない。
また、舞台版を見た人ならわかると思うが、「CATS」の楽しみのひとつが「脇役が暇そうにしているところを見る」というのがある。出番じゃないときに後ろで毛づくろいしたりアクビしている猫たちのおかげで「CATS」は常に見どころのある飽きない舞台になっているのだ。
映画版もちょいちょい背景がボケるものの後ろの方で猫がいろいろやってる場面があり、全てが均一に見える舞台の雰囲気をなんとか出そうとしているんだろうな……と感じた。映画版の制作陣もだいぶ苦心したポイントなんだろうと察する。ガスのパートで後ろの方で靴の手入れをするスキンブルがかわいい。
逆に、ダンスシーンに細かいカットが入るのはカメラ撮影の弊害だと思うし、私は好みではなかった。ミストの所でも触れたがダンスを長回しで見せられるのって結構飽きるものなんだろうか?
余談だが、ラストシーンでオールドデュトロノミーがこっちに語りかけてくるシーン。周りにいる三匹の猫がずっと様子をうかがっていて、先輩が残業してるせいでなかなか帰れない新入社員みたいに見えてすごく苦しかった。どうにかならなかったんか。
●いろいろ言われてる「CGの介入」について
さんざん叩かれているCGだが、やはり舞台では見られなかった「場所の移動」が行われるのは感動モノだった。
スキンブルは線路の上で踊るし、タガーはミルクバーで踊るし、特にマンゴジェリーとランペルティーザのパートについては実際に明時代のツボをひっくり返すシーンでは思わず「おおっ」と声が出た。本当に舞台版で表現したかったイメージのはこれなのではないか? とすら思っている。終始ロンドンのゴミ捨て場で踊るしかなかった舞台版よりもはっきりと魅力が上がった部分のひとつだと思う。
しかし同時に「アナログさが失われた」という批判もさもありなん、である。
かくいう私も舞台版の「アナログさ」が好きだし、映画版にはそれがなかった。
ミュージカルというのはリアルタイムの表現である以上、どうしようもなくアナログで多くの問題を解決する。その象徴の一つがマキャヴィティである。
舞台版でもマキャヴィティは「瞬間移動」する。
会場が暗くなり、笑い声が響く中でバッ! とスポットライトが光ると、そこにはマキャヴィティが!
そしてライトが再び消え、今度は離れた所をライトが照らすと、そこにもマキャヴィティが!
という感じで瞬間移動を表現しているのだ(説明が下手でごめんなさい)。要するに複数の役者がマキャヴィティの衣装を着て待機し、ライトで照らされるタイミングで飛び出しているだけなのだが、そこまでの会場の空気の高まりとクソでかい笑い声のせいでなかなかに緊張感があるシーンに仕上がっている。役者を隠すためなのか舞台版のマキャヴィティの衣装はだいぶ毛深い。
映画版のマキャヴィティはもっとサラッと、煙か砂のように消え去る。
確かに瞬間移動としてはこちらのほうが正しいが、見てる側としては「あっCGで消えた」となってしまい舞台版のような魅力は全然ない。「CGのせいで『作り物感』が出てしまう」というのははっきりと映画版が舞台版に負けている部分の一つだと思う。
●「人間が猫のふりをする」という大嘘
とうらぶやテニミュで大分敷居が下がった感じはあるものの、我が国ではまだまだミュージカルは一般的な趣味とは言い難いというのが現状だと思う。少なくとも「なんで急に歌い出すの?w」なんて言葉が存在する以上、まだまだ違和感のある世界なんだろう。
あまりミュージカルの相場は詳しくないが、私は毎度「CATS」のチケットはちょっぴり頑張って買っている。C席で3300円、B席なら6600円、回転ギミック付きS席は12100円もする。しかもわざわざキャッツシアターまで見に行かないといけない。観に行くコストは映画とは段違いだ(見やすくなったという意味でも映画化した意味はあるだろう)。
それでもミュージカルを見に行く意味とは、なんだろう?
人それぞれだろうけど、私はもう、はっきりと「嘘をつかれに」行っている。
舞台版「CATS」は終始大きな嘘をつき続ける。「人間が猫のふりをする」という嘘。
当たり前だが人間は猫ではない。舞台の上で起こることは全て作り物で実際に目の前にいるのは役者であり、シアターの内装はロンドンのゴミ捨て場を模しているが、それも全て業者が作ってセットしたものだ。そんなことはわかっていても、劇が始まり猫の光る眼が暗闇をうろうろとし始めた瞬間から、私達は確かに「猫」を見てしまうのだ。
少なくとも舞台版「CATS」において、「人間が猫のふりをする」という大きな嘘を現実にするためにその他の部分は全てホンモノで作られている。舞台の上で行われる日本トップの劇団に所属するプロの劇団員によるパフォーマンスにもごまかしは一切ない。ミストフェリーズの32回転もホンモノだ。
手作りとわかっていてもキャッツシアターの内装に貼り付けられたゴミのリアルさは見ていてうっとりとするし、横浜に見にいった時は毎回、壁に埋め込まれている「横浜ウォーカー」の星座占いをチェックしていた。
リアルタイムの舞台という制限の中でそこまで凝り続けてようやく「人間が猫のふりをする」という嘘は現実になる。そうやって「空間に酔う」ことで嘘と現実が曖昧になる瞬間こそミュージカルの魅力だと思う。酔ってしまえばこっちのもので、ちょっとばかりのリアル……例えばグリザベラが天に登るために乗るゴンドラの骨組みが見えてしまったとしても、大きな減点とは思えないのである。
さて、映画版は「人間が猫のふりをする」という嘘を、どうやって現実にしただろうか?
実のところ、「現実にしていない」が正解だと思う。映画版はあの世界を「現実ではない世界」と描いているフシがある。ミルクバーなんて都合のいい施設があるのも、マタタビドリンクなんて人間が摂取するもんじゃないシロモノがあるのも、監督が「CATS」をファンタジーとして捉えた結果ではないだろうか。そしてそれはエリオットの原作により近い解釈ではなかろうか。
CGやダンスについても、舞台版が「人間が猫のふりをする」に挑戦したのに対し、映画版は「猫が人間になる」ことを選んだように感じる。嘘は嘘のまま、リアルとは切り離されたファンタジー映画として「CATS」を描いたのが映画版「CATS」だ……というのが私の結論である。それが商業として、また創作として良い判断だったのかどうかまではわからない。
★まとまらないまとめ
あらかた書きなぐったのでシメる。
「ポケットモンスター ハートゴールド/ソウルシルバー」というゲームの中で、ゲーム開発室の社長がこんなセリフを言う(一部抜粋)。
いまね むかし はつばいした ゲームを つくりなおしてるんだけど
これが なかなか むずかしくてねー
むかしの ファンの ひとたちは おもいでの ゲームを いじってほしくない だろうし
かといって おなじことを くりかえしても しかたないだろ?
なつかしくて あたらしい! そういうものを つくりたいんだ
金属片に刻印して宇宙に放出したいくらいの名言である。これはもう、本当にごもっとも。
私がリメイクとか実写化の作品を見る際、気をつけていることの中に「リメイクの中に原作の幻影を追いすぎない」というのがある。
いろいろとマンガ原作の映画を見るが、他でもない監督自身が幻影に囚われてしまっているんじゃないか? っていうリメイクは案外多い。変に衣装だけ原作に近づけたせいでただのコスプレに見えてしまったり、なんの脈絡もなく再現シーンを突っ込んだせいで原作のカタルシスが台無しになってしまったり……。そして、逆に「ヴィジュアルとかシナリオが原作に似てない」作品のほうが面白かったりするのが原作付き映画の面白さだったりする。
犬が猫ではないように、舞台と映画は全く違う。
客から見える景色も舞台の作り方も役者に求められる演技もぜんぜん違う。だから表現が舞台版と「同じ印象」になってしまったらそれは映画版としては大失敗だ。
映画版「CATS」は(受け入れられるかはともかくとして)正しく監督の「解釈」という名の「偏見」が反映されていたと思うし、「ちゃんと」舞台版とは別物になっていた。そういう意味で、私は映画版「CATS」は舞台版「CATS」のリメイクとしては成功していると思うし、私は好きだ。
舞台版が良かった! のなら舞台版を見ればいい。大井町に行けば週五でやっている。C席で3300円、B席なら6600円だ。ただしひとつ注意。コロナウィルスのせいで、今は猫達と握手できないらしい。
ジェリクルキャッツは予防がバッチシ!
おあとがよろしいようで。
シラス.
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