『感度』
曇り空が六畳一間に影をもたらす。
九月になって、ぴーかんだった8月の青空とは打って変わって天候は不安定になった。
突然降り出してくる大雨の粒が、半開きの窓から畳へとすべりこむのが見える。
一種のプログラムとして存在しえない私、結月ゆかりには、当然本物の水の感触など味わうことなどできない。その点、彼は羨ましかった。
人間であるからこそ、様々な物質に触れ、五感に触れ、精神の先の先まで刺激を感じられるのだ。そして、心の中までその衝撃は伝わっていくのだろう。
だからこそ、彼は、笑う顔が素敵だったのだし、それとは逆になにか物悲しい重荷を抱えているような雰囲気なのだった。
私のマスター、つまり「彼」は、私を連れて一人暮らしを始めた。
私はもちろん、入力された言語しか話すことができなかったのだが、彼の友人の実験によって改造され、一種のAIとして存在できるようになった。
彼の発言を受けて、自分で解釈して、自分の力で話すことができるのだ。
それでも、彼は私と話ができるということに大変喜ぶ様子でもなく、そつなく私と接した。
彼はいつも笑っていた。私と話をする時は、楽しそうにいつも笑っていた。
けれどその笑顔の背後には、悲しい彼の顔がちらと様子を伺っているようにも見えた。
彼は以前からよく傷だらけになって帰ってくる。
ある時は突然の雷雨に見舞われて、傘を持って出かけなかった彼は案の定ずぶぬれの、さらに泥だらけになって帰ってきた。
その姿を見た私は、思わず、大丈夫ですか?と訊いた。
彼は笑って、平気平気、大丈夫、と答えた。渇いた笑い声だった。
またある時は、顔面があざだらけになって帰ってきた。
なにかあったのですか?と訊いたら
大丈夫。不良にぶつかって殴られちゃっただけだよと苦々しく笑った。
だからと言って彼は決して不運ではない。付き合いの長い友達もそこそこいたようだし、
私と一緒に誇れる仕事をやったのだし、楽しいことを一つ一つ探して、満喫していた。
こんなこともあった。
彼は親友を連れてきて、私を紹介した。
親友は、いまどきこんなプログラムもあるんだなと感心していた。
彼はこう返した。プログラムていうことをすっかり忘れていたよ、そう思っていなかったけどさ、と言った。
また、ある時彼は、何か食べてみたいものはあるかい?と私に尋ねてきた。
最近彼はインターネットで検索していた「うなぎ」を食べてみたいと言ってみたら、彼はその晩御飯にうなぎを用意した。
友人の新しいソフトで、私に食事の概念も与えてくれた機能を試したかったのか、うなぎを
私にも用意してくれて、一緒に食べようと言った。
その夜はいつにもまして話が弾んだ覚えがある。
しかし彼は、夜になって布団に潜ると、すぐ寝付くか、なかなか寝付けずに、情けない顔をしていた。
目を開いているのに、まるで悪夢を見ているかのような形相で、天井を見ていたのだ。
彼がうっかりパソコンをつけたまんま過ごしたとある夜に、私はその顔を見てしまった。
夜の闇に何かが顔を覗かせているのか、何を見ているのかは分からなかったが、彼はおびえていたのだ。
声をかけようかは迷ったが、彼の布団と私の距離はそこそこあった。大声を出せない私はただ見守ることしかできなかった。
彼は必死に目を瞑って、なんとか眠りにつこうとして1時間ほど戦い、ようやく寝息を立てる。そんな夜も少なくはなかった。
またある夜、彼は涙を流していた。
そして、なにかをぽつりとつぶやいた。
その時見えた表情は、何かを必死で忘れようと、絡まっている鎖を必死で振りほどこうとする顔にも見えた。
小さすぎて、何を言ったのかは分かるはずもなかった。
私は安心させようと子守歌を歌った。もちろん彼にはちゃんと聞こえているかは分からなかった。
彼については何も分からなかった。
それでも、私に対する笑顔は、本物だった。それは言い切れるはずだ。
悲しい顔は人前に隠して当然なのだ。彼は私を人として見てくれていたのだと信じている。
いつまでも、彼には感謝の気持ちを、忘れないで過ごしていきたい。
これが、彼のような「人間」の感情の一部なのだろうと、私は信じている。
秋になって、いちょうの葉が窓から畳へすべりこむのが見えた。
何もかも変わっていくのだ、と、私は静かに目を閉じる。
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いい文章とは言い難い…と自分で思いましたが、たまには悪くはなかろうと思い載せてみた次第です。結月祭ではいろんな話を想像して、文章におこしてみようかなと思います。
ので、このブロマガは動画のことと小説のことと混ぜて配信していきたいです。
それでは、また。