ホンダを超えた長友佑都
2005年に明治大学でサイドバックに転向してから、FC東京入団、北京オリンピック出場、ワールドカップ出場、イタリアセリエAのチェゼーナ移籍、名門中の名門クラブインテル入団までわずか5年でキャリアアップしたのが、長友佑都だ。
ここまで、急激にキャリアを這い上がってきた選手も珍しいだろう。セリエAに所属した経験のある、中田英寿、中村俊輔、小笠原満男などはJリーグや各世代の日本代表でも活躍し、早くからその才能に注目されていた。
それにひきかえ長友は、高校はもちろん、大学もスポーツ推薦ではなく入学している。大学すらスポーツ推薦にひっかからなかった選手が5年で世界トップレベルのクラブに入団するのだから、人間の可能性に気付かされる。
長友自身が「たいした才能もない自分から努力をとったら何も残らない」と語るように、努力の継続が結果を生んだのは間違いない。ビジネスも同じだが、継続した日々の積み重ねがある臨界点をこえた時に成功を掴むことができるのだ。成功する簡単なノウハウや情報などがある訳ではないのだ。
しかし、ただ努力を重ねただけでは、結果につながらず自己満足だけで終わってしまう可能性がある。結果を残すために同様に努力すれば良いかを必死になって考える必要があるのだ。努力と思考力の2つが合わさって結果が生まれることを忘れてはいけない。
長友の最大のストロングポイントは、スピードと持久力だ。通常、スピードがある選手は持久力が乏しく、持久力がある選手はスピードに欠けると言われている。
瞬間的に最大の力を発揮できる速筋が多いとスピードが速く、遅筋が多いと持久力に有利だからだ。ハンマー投げ金メダリストの室伏広治は速筋に恵まれ、100メートルを10秒台で走ることが可能だが、中長距離はまったくの苦手だと語っていた。
この相反する能力を兼ね備えた稀な選手がからこそ、世界トップクラスのインテルで活躍できているのだ。もちろん、最初から能力が備わっていた訳ではない。長友の家系には、母方の祖父、その弟に競輪選手、父方の祖父も明治大学出身のラガーマンがいる。
スピードやパワーに有利な速筋家系である可能性は高い。従って、持久力に秀でている訳ではないのだ。その証拠に中学2年のマラソン大会のときは、男子100人いたら50番台で文科部の生徒と変わらないくらいの順位だったと自身が語っているのだ。
持久力を伸ばすきっかけとなったのは、中学サッカーの顧問であった井上先生の「これから、駅伝やるで」の言葉だ。県予選が終わり、引退するはずがサッカー部3年を中心に駅伝チームをつくり、試合にでようと提案したのだ。
長距離走が苦手な長友は最初は躊躇したが、「サッカーで上を目指してるんだったら、スタミナつけんと、上に行かれへんぞ」と井上先生に言われ腹をくくった。結果、駅伝大会は県3位、長友自身は区間賞を獲得した。学校のマラソン大会では当然のごとく優勝した。
疲労骨折するチームメイトがでる程のハードトレーニングだったが、それ以外に自主トレも行い、みるみるうちに速くなっていったのだ。周囲の人間は、あれほど遅かった長友がトップの成績を残すのだから誰もが驚いた。
ここまで、猛トレーニングができたのは2つの理由がある。一つ目は努力のおもしろさを知ったことだ。長友自身はこう語っている。
「駅伝を走る毎日は、自分自身の新たな力に気付かせてくれた。目の前に目標を置き、それに向かって追い込んでいく。その作業、努力が嫌いじゃないということ、努力のおもしろさを知った。自分の中にあるストイックの根っこを発見できた」
もう一つは、サッカーから逃げた日々への未練だ。長友の入った中学のサッカー部はもともと不良のたまり場になっていた。井上先生が就任後、少しずつ改善していったが、長友が心を入れかえてサッカーに打ち込んだのは2年生の秋からだった。サッカーの日々に連れ戻してくれた井上先生への感謝、以前のような遊びに逃げた頃に戻りたくないという想いが努力を惜しみたくないという考えに至ったのだ。
スピードと持久力という武器を獲得した長友はサッカーで勝負したいと考え、サッカーの名門かつ進学校である東福岡高校に入学する。まわりは、スポーツ推薦選手が多かったが、実績のない長友は一般入試で入学した。高校では、スポーツ推薦の選手に埋もれないように、走るトレーニングの際はトップでゴールし監督にストロングポイントをアピールしていった。
スピードと持久力を伸ばしながら、次に取り組んだのは筋肉トレーニングだ。170センチと小柄な長友はこれ以上身長は伸びないと思い、当たり負けしないように本格的に筋肉トレーニングを始めた。朝5時に起床し、朝食前に自主トレ、放課後は全体練習、その後に自主トレと自分を追い込んでいった。そして、一対一で負けない体をつくりあげたのだ。
そして、スタメンの座を確保することに成功した。それだけではなく、将来を見据え、長友は勉強にも手を抜かなかったのだ。冬の選手権も控えるため、大学一般入試ではなく、指定校推薦で大学に進もうと考えていたからだ。レギュラーになったものの体も小さく、目立った才能を持たなかったため、スポーツ推薦の可能性は低かったからだ。
日々の激しいトレーニングの中、勉強にも手を抜かず、無事、明治大学政治経済学部への入学を勝ち取った。ここでも、惜しみない努力を続けたのだ。
大学入学後はヘルニアに悩まされた。歩くのも困難な時期もあり、サッカーのプレイどころではなく、スタンドで太鼓を打つ係をしていた位だ。アスリートとして体にメスを入れるのは、避けたかったため、まわりの筋肉を徐々に鍛えることでヘルニアを治すことにした。このトレーニングが高校時代に鍛えた身体、特に体幹を強くすることにつながった。
サイドバックにコンバートされた長友は、スピードと持久力、フィジカルを活かし、直ぐに大学では一目を置かれる存在となり、全日本大学選抜、ユニバーシアード代表、北京オリンピック予選の代表にまで選ばれた。そして、大学在学中にFC東京へ入団することになる。
170センチと小柄で体格や才能で目立つことはなく、大学のスポーツ推薦にもひっかからなかった長友だが、スピード、持久力、フィジカルと自分のストロングポイントを惜しむことのない努力で磨き、プロへの道を切り開いたのだ。
スピードと持久力、フィジカルを限界まで向上させる様は、F1に近いものがある。F1は極限まで無駄を排除したボディで300キロ以上のスピードで速さを競う。燃費効率も勝負を決める重要な点であることも似ている。長友の体は、無駄なぜい肉はなく、体脂肪率5%である。無駄のないボディで外国人選手に当たり負けすることなく、ピッチの上を疾走しているのだ。
F1のような研ぎ澄まされた能力を絶え間ない努力の末獲得した長友だが、それだけでは世界では通用しない。特に右サイドバックからのコンバートが世界で戦えるきっかけを与えてくれたのだ。
当時FC東京監督の城福浩の言葉が後押しした。
「ドーハの悲劇の頃からずっと左サイドバックには苦しめられてきたんだ。お前は右はできるだろう。お前が左もできるようになれば、苦しんできた日本サッカーの歴史に風穴を開けられる存在になるんじゃないか。もちろんその前に北京のメンバーに残らないといけないけどな」
右サイドバックから左サイドバックにコンバートし、左足のキックを日々練習することで、両サイドバックを高い次元でプレイすることができる稀有なプレイヤーに成長した。そして、北京オリンピック代表メンバーにも選ばれた。しかし、はじめての世界的な大舞台では大きな挫折を味わったという。
「グループリーグ3戦3敗で終わった北京オリンピックは、自分の中で占めている位置がとても大きい。あの時は大舞台に立っていることに腰が引けてしまい、何もできなかった。プレイを楽しむ感覚を持てないままで終わってしまったのがとにかく情けなかった。だからこそ、そこで気持ちを新たにすることもできている。二度とこういう後悔はしたくない。
これからはミスをしてもいいから何に対しても積極的にチャレンジしていこう。どんなことでもポジティブに考えていくべきだ。北京オリンピックのあと、そうなふうに考えた。つらい経験だったけど、あの経験がなければ、現在の自分がないのは間違いない。僕はいま、究極のポジティブマンになっていると自負している」
F1ボディ、左右サイドバックに加え、究極のポジティブシンキングを北京オリンピックの挫折から引きだしたのだ。この前向きなマインドは、世界トップクラブの一つであるインテルに入団した際にも役だっている。世界的なスター選手が集まるインテルの中でも、物おじせずに自分の能力を存分に発揮するために、チームに溶け込むことができたのだ。
「昔から僕は、ばかな真似をして人を笑わせることが多かったほうだけど、イタリアに来てから、そしてインテルに入ってからは、それまで以上に過激なバカになっている気がする。なぜかといえば、そうしてみんなに笑ってもらったりすることで、できるだけ早くチームメイトに馴染んでいかないと、自分のサッカーをすることができなくなるからだ。シーズン途中での移籍となったインテルの場合はとくにその意識が強かった。サッカー選手の場合、極端にいえば、チームメイトに溶け込まない限りはパスのひとつも、もらえなくなることがある」
この様に長友は、自分の実力を発揮できるように、チームメイトとのコミュニケーションを積極的にとっている。日本人プレイヤーは外国で、チームに溶け込むことが難しいと言われてきた。
言葉や国民性が原因とも言われるが、今まで外国リーグで活躍してきたプレーヤーは、小さい頃から才能溢れるエリートだったため、長友のように自分からコミュニケーションの輪に入る経験が少なかったとも考えられる。長友の挫折の連続であった不遇時代の経験がインテル入団後に活かされているのだ。
インテルでは、右サイドに世界的なプレイヤーであるブラジル代表のマイコンがいたため、主に左サイドバックでプレーし、マイコンが出場しない試合では右サイドバックを務めることもあった。もちろん、すぐにレギュラーに定着した訳ではない。それどころか、すぐに放出されるのではないかと最初は懸念していたと城福監督は言っている。
「3月あたりの時点で、佑都は来期インテルにはいられないと思っていましたね。それほどの技術の差を感じていたんです。もちろんインテルの選手たちというのはスキルがものすごく高いから当然ですね」
しかし、4月9日、第32節キエ―ボ戦で、長友の何かが開けたのがわかったと言う。
「でも、その技術の差というのを心の余裕でカバーできるとわかったのが、試行錯誤した後の4月でした。インテルに行ってから余裕を持つという部分でもうワンランク上へ成長したと思います」
長友はインテル入団後、スタープレイヤーと接している中で、彼らが大きな成功を収めているのは高い技術や能力だけが理由ではなく、すばらしい心を持っているからだと感じていたと言う。
「サネッティやエトーは恵まれない子どもや貧しい人たちを助けるためのボランティア活動を日々おこなっている。自分のことだけを考えて生きているわけじゃない。そんな彼らの心の余裕、その大きさを痛感する。
だから、ブレないし、なにがあっても動じないんだ。さまざまな激戦を戦い抜いてきたチームメイトたちのメンタルの強さは、経験を積んだから生まれたわけじゃない。心をみがき、心に余裕があるから身に付けられたんだ。彼らのメンタル・コントロールを吸収したいと考えていた僕は、その秘密に辿りつく。大切なのは、心の余裕、大きな心なんだと」
生活面でも練習でも、日々心の余裕をもつことを意識し、迎えたのが4月9日のキエ―ボ戦だったのだ。実際、ピッチの上では視野が格段に広がり、ひとつひとつのプレーに自信がやどり、のびのびやれていると実感を得られマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。
いい仕事ができたという達成感よりも、壁を乗り越える鍵を見つけたというよろこびがあったと言う。
「僕が直面していたのは、走力や1対1の強さ、フィジカルなどの技術的な部分では乗り越えられない壁。サッカー選手として、人間として、成長するために乗り越えなくちゃいけない壁だった。それを打開するためには、心をみがく必要があるとわかった」
長友は絶え間ない努力でスピード、持久力、フィジカルを兼ね備えたF1ボディをつくりあげた。しかし、世界トップではそれだけでは、通用しなかった。究極のポジティブマインドと心を磨くことが技術では越えられない壁を打開することに成功した。
かつて、F1界でホンダはエンジン提供で世界一の座を勝ち取った。しかし、純ホンダのワークスチームとして38年ぶりに参戦したが、優勝経験はあるものの、トップレベルには達しなかった。ホンダの技術を持ってしても世界トップで勝ち残るのは簡単ではないのだ。
長友はスピード、持久力、フィジカルでトップレベルになり、そこに究極のポジティブマインド、心の研磨を重ね、世界的なクラブでも地位を築いている。日本の技術の頂点であるホンダが成し遂げられなかった世界トップの地位を。
心は、強くなる 長友りえ ワニブックス
上昇思考 長友佑都 角川書店
長友佑都 スポーツ伝説研究会 汐文社
長友佑都の折れないこころ 篠幸彦 ぱる出版
なぜ日本人サイドバックが欧州で重宝されるのか 北健一郎 宝島新書
サッカー日本代表が一つの会社だったら リストラすべきは本田?カズ?ヒデ?
目次
序章 メンバー落ち
見せかけだけのエゴイスト 本田圭祐
もうビックマウスは叩けない ユニクロ
裸の王様からキングへ 三浦和良
小売の王様 セブン―イレブン
度を超えた成り上がり 中田英寿
すべてはマックのために マクドナルド
ホンダを超えた長友佑都
ビリからトップへ スズキ
ただのイケメン 内田篤人
心もイケメン 京セラ
史上初!選手兼監督で優勝 遠藤保仁
逆境からVへ 無印良品
終章 リスタート
ラストパス
著者プロフィール
1976年神戸市生まれ 明治大学農学部卒業後、2009年にチャンスメディア株式会社設立。
代表取締役社長に就任。
最新作は
「サッカー日本代表はドラッカーが優勝させる サッカー馬鹿よかかってこい」(5月16日発売)
著作には
「サッカー日本代表が一つの会社だったら リストラすべきは本田?カズ?ヒデ?」
「開業してはいけない 早期退職者を襲う甘い罠」
「脱サラ・独立を絶対に成功させるたった9つのコト」
「介護・教育・ニュービジネスのはじめ方」他
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