ただのイケメン 内田篤人
鹿島アントラーズ史上初の高卒ルーキー開幕スタメン、同クラブでの3連覇、北京オリンピック出場、南アフリカワールドカップ代表メンバー選出、ブンデスリーグ、シャルケ04移籍、23歳でのチャンピオンズリーグ日本人初のベスト4進出など、内田篤人の偉業を上げればきりがない。
端正なルックスから女性から絶大な人気を誇り、シャルケ応援ツアーでは、95人中90人が女性という色男ぶりにチームメイトから「日本のベッカム」と冷やかされたという。アマゾンの2013年カレンダー売上ランキングでは、AKB48につぐ2位と驚異的な人気ぶりだ。ちなみに10位以内には、サッカー選手だけでなく、スポーツ選手すらランクインしていないことからも圧倒的な人気ぶりは覗えるだろう。
勝利の女神もイケメンには弱いようで、内田篤人の運の良さは目を見張るものがあるのだ。中学時代の内田篤人は無名選手に過ぎなかった。所属していた函南中学校は県大会1回戦レベルのチームで、3年時に至っては地区予選で敗退し県大会にすら出場できなかった。高校では冬に行われる高校選手権にどうしても出場したいと考えた。
また、サッカーがだめでも勉強すれば良いと考え進学校である静岡県立清水東高等学校に進もうと考えた。同校のサッカー部は名門として知られ、1980年代には大榎克己、長谷川健太、堀池巧を擁し全国高校サッカー選手権大会で優勝もしている。近年では高原直泰を輩出している。
ここで、運を味方する。それは、高校受験制度が変更され、一般選抜1回だった受験制度が前期・後期の2回制に変わったのだ。前期試験では、学区が廃止され、幅広い学生を受け入れるようになった。函南中学の恩師、佐藤文昭氏はこう語る。
「清水東に行きたいって聞いたときは、晴天の霹靂だったよ。清水東のセレクションに内田が受かる確率は1%くらいと思っていたからね。けど、内田はラッキーだと感じたよ。この子の代から、受験制度が変わって、それで受かったんだから。もしも、前期・後期試験がなければ、今の内田はなかったかもね。歴史上の英雄じゃないけど、内田には運を味方につける何かがある」
次の運は、「U―16日本代表早生まれセレクション」だ。これまで、内田篤人は、ナショナルトレセンはおろか、県トレにも選ばれていない。しかし、この早生まれの選手のみを対象にした新しい試みで声が掛ったのだ。清水東高校時代のサッカー部恩師、梅田和男氏はこう言っている。
「早生まれセレクションの書類が来たとき、早生まれって誰がいるかなって探したら、内田ともう一人しかいなかった。もちろん、受かるつもりで、内田を行かせてはいませんよ。代表に選ばれる可能性があるかなっていうよりも、いろんな選手を見ることで、刺激になれば、と思っただけです。そういうところに行けば、いろんな選手を見られますからね。選ばれるとは思わないけど、勉強してこいよ。そういう感じで内田を送りだしました」
予想に反し、2004年8月、内田篤人はU-16日本代表の初選出された。ここにも幸運があった。当時のU-16日本代表にはサイドの選手が不足していたのだ。もし、中学時代と同様のフォワードで受けていたらおそらく選出されなかっただろう。内田本人も自身の選出には驚いている。
「サイドハーフだったので、タテに仕掛けての1対1の勝負。他には何もできなかったから、もう呼ばれないと思っていたので、代表に呼ばれた時にはビックリしました」
年代別代表に加え、静岡県選抜にも選ばれた内田篤人は、清水東と3チームで休まずに出場しつづけ、頭角を現した。高校3年時には、「高校サッカー界有数のサイドバック」という評価を受け、Jリーグ6~7のチームからオファーを受けていた。その中から一番強いチームを選んだ。Jリーグで一番多くのタイトルを獲得している鹿島アントラーズだ。日本代表で活躍していた名良橋晃が在籍し、内田潤という選手も前任の監督から信頼を獲得し試合に出ていた。
しかし、新任のパウロ・アウトゥリ監督は、攻撃型のブラジルのサイドバックタイプとして、内田篤人を開幕スタメンで起用したのだ。高校時代のチームメイト、多々良敦斗氏も内田の運の良さに驚いている。
「開幕戦で、あんなに早く鹿島で試合に出るとは思わなかった。内田には運がありますよ、あの強運はもの凄い。全部がいい方向に向かっている。日本人の監督だったら無理だったんじゃないかな。けど、外人って使うじゃないですか。いくら若くても。運があるよなあ」
開幕戦で好プレーを見せた内田篤人は、そのまま右サイドバックに定着した。両親を招待した第4節のヴァンフォーレ甲府戦では、プロ初得点も決め親孝行も果たしている。
2年目には、名良橋晃がブラジル代表のジョルジーニョから受け継いだ伝統の背番号である2番を譲られる。そして、一時期、首位浦和レッズとは勝ち点10の差を付けられていたが、みるみるうちに追いつき、第33節の直接対決でも1―0で勝利し、最終節を清水エスパルスに3―0で快勝し奇跡的な大逆転優勝を遂げた。鹿島アントラーズは念願の10冠を達成した。そして、Jリーグ3連覇、北京オリンピック出場、ワールドカップ南アフリカ大会日本代表選出、シャルケ04移籍、日本人初のチャンピオンズリーグベスト4などの偉業を成し遂げた。
勝利の女神をも魅了する痩身のイケメンサッカー選手は考え得る限りの運を掴み取ってきた。内田篤人のクールな佇まいから、順風満帆の選手生活に見えるがそこには壮絶な戦いの日々があったのだ。
内田篤人は、プロ2年目の苦悩を自身の著書でこう語っている。
「息苦しさが続いていた時期、眠れない夜に選手寮の屋上に足を向けたことがある。屋上から飛び降りたら、どれだけ楽か。空をとべたら、気持ちいいだろうな。そんなことを考えていた。でも、屋上の出口の鍵が閉まっていたため、飛び降りることはできなかった」
1年目から、常勝チームのレギュラーを任され、想像以上の精神的プレッシャー、体の披露を受けていたのだ。不安な日々は続き、睡眠薬を飲まずに寝ることはできなくなっていたのだ。
試練は続き、3年目には、原因不明の吐き気に襲われるようになった。怪我と吐き気が重なり、練習ができなくなった。まるでベテラン選手の様に、試合と休みを繰り返すようになり、いずれ他の若手選手に追い抜かれてしまうとの危機感に苛まれたのだ。
そして、環境を変える必要性を感じ、海外移籍に踏み出したのだ。海外移籍する場合、内田篤人には譲れない条件があった。鹿島への恩返しだ。鹿島に1億円を超える移籍金が支払わなければ、移籍できないように契約書に明記した。
「1年目から、鹿島で試合に出させてもらって、リーグ3連覇も経験させてもらった。それでじゃあ移籍するねというのだから、僕の心情として、少なくとも億単位のお金を残さないと移籍できなかった。例えば移籍金3000万円程度のオファーなら、きっぱり断る。鹿島に相応の見返りがない移籍は絶対しない!と心に決めていた」
最近、契約が切れるタイミングで移籍する0円移籍が若手を中心に増えてきているが、内田篤人は、自分を育ててくれた鹿島への感謝を忘れていないのだ。自分自身が死ぬほどつらい状況に追い込まれているのにも関わらず、周囲への感謝、恩返しの気持ちを忘れないとはなかなかできることではないだろう。
それでも、一度母親に対し暴言をはいてしまったことがあると著書で語っている。
「プロに入って2年目のシーズンのオフだった。帰省してリビングでくつろいでいると、お母さんが色紙を抱えてきた。これ、書いてくれない?結構な枚数があって、それを見た僕は咄嗟に言っちゃった。
これじゃ、オレが休めねえじゃん。帰ってきてこれじゃ、オレはどこに帰ればいいの?もう帰ってこねぇ。
あっ。言ったそばから後悔した。お母さんだってアツトのサイン、欲しい人いますかー?と募集したわけじゃないし、近所とかいろいろな付き合いがある、さまざまな人たちから頼まれるのだからしょうがないのは想像がつく。お母さんも断っても、これだけになっちゃって・・・・と言っていた。文句を言ったのは僕だけれど、言った瞬間に涙がでそうだった。なんてひどいことを言ってしまたのか。と」
つらい時期に実家に帰り、色紙の山を見て、母親に怒りをぶつけてしまった。内田篤人の心情は誰でも理解できるのではないだろうか。ましてや19歳の若者である。
内田篤人は、この様にまわりの人々にも感謝を忘れずに気を配る、気の優しい、目立つことが好きではない、少し人見知りの青年だ。この青年がどの様にして屈強な外国人が世界中から集まるブンデスリーガ―で結果を残したのだろうか。
練習では自分を知ってもらうこと、みんなを見ることを心がけていたと言う。
「どちらかというと、自分を知ってもらうことを重視していた。ウチダはこういうスタイルで、こういうプレイはできるよって。それは普段の生活でもそう。オレはいいヤツだから、静かでいいヤツだから話かけないでって(笑)僕は佑都さんみたいに、がんがん輪に入っていくタイプじゃないからね。なるべく目立たない様にしていた。チームメイトの性格もよく見ていた。コイツは文句言うな、コイツは人のせいにするなって。
(中略)
言葉ができないから、意志疎通の手段としてノートも使った。自分の位置を書いて、ここ私ね、次に味方の位置を書いて、ここユーねって。これが良かったか分からないけど、僕もちょっとはコンタクトとりたいんだなって分かってくれたと思う。最初に感じていた違和感も、試合をこなしたり、練習を重ねていくうちに、だんだんイメージ通りになっていった。のんびりやっていこう、と思ったのがよかったんだろうね」
内田篤人は、この様に語っているが、練習に取り組む姿勢や試合でのプレイでチームメイトや監督にアピールし認められてきたのだろう。左足を骨折した時や扁桃炎になり2日間もなにも口にできずに38~9度の熱が出た時でさえ、監督に試合はできるかと聞かれ、「体調は悪いけど、できます」と答えている。この様な、姿勢を貫くことで、監督からは「ミスターノープロブレム」というニックネームをつけられたのだ。なにがあっても試合にでるという信頼感を与えることに成功したのだ。
また、内田篤人が出場している試合で、右サイドの攻防では9割近い勝率があるというデータがある。世界屈指の選手、ファルファンがいるので右サイドが強いのは疑問の余地はないが、内田篤人が出場していない試合では勝率がぐっとさがるのだ。得点やアシストなどの目に見える結果は残していないが、チームの勝利に貢献するプレイを行っているのである。
内田篤人は、どんどん前に出てアピールする選手ではないが、どんなことがあっても試合に出る姿勢、チームのための献身的なプレイで監督やチームメイトからの信頼を獲得しレギュラーとして活躍しているのだ。どんなに自分が苦しくても、表には出さずたんたんとクールに振舞うのだ。よほど、強い心がないとできないことだろう。
しかし、強い心を持つ内田篤人でも、大きな嘘をひとつついたことがある。3年目から続いた原因不明の吐き気についてだ。取材記事を読むと、ガムを噛みながらプレーすることで吐き気が止まったと言っていた。しかし、それは嘘だったのである。
「ガムを噛みながらプレイすることで吐き気が止まったと嘘をついてプレイしていた。それは吐き気について、周りにとやかく言われるのが面倒だったのと、もうひとつ理由があった。千葉での代表合宿のときに、心配した両親がホテルに会いに来てくれた。そのとき、お母さんから受け取った荷物のなかに手紙がはいっていた。
大きくて頑丈なカラダに産んであげられなくてゴメンね。そう書いてあった。目頭が熱くなった。お母さんにそんな思いをさせてしまっていた自分にすごいショックを受けた。そこから、嘘でもいいからとりあえず吐き気は止まった、と言うようにした」
自分にとって大切な人を悲しませないために、自分はつらい思いをしているのにもかかわらず、些細な、そして優しさに溢れた嘘をついたのだ。
こんなに、苦しいときも自分で苦しみを受け止め感謝の気持ちを忘れずに、努力を重ねてきた選手に勝利の女神がほほ笑まない訳はない
。内田篤人は、見た目だけでなく、心も正真正銘の純然たるただのイケメンだ。稀代のイケメンを無視し、通り過ぎることのできる勝利の女神など存在しないだろう。
参考・抜粋文献
僕は自分が見たことしか信じない 内田篤人 幻冬舎文庫
内田篤人 夢をかなえる能力 黄慈権 ぱる出版
フットボールサミット第10回 KANZEN
サッカー日本代表が一つの会社だったら リストラすべきは本田?カズ?ヒデ?
目次
序章 メンバー落ち
見せかけだけのエゴイスト 本田圭祐
もうビックマウスは叩けない ユニクロ
裸の王様からキングへ 三浦和良
小売の王様 セブン―イレブン
度を超えた成り上がり 中田英寿
すべてはマックのために マクドナルド
ホンダを超えた長友佑都
ビリからトップへ スズキ
ただのイケメン 内田篤人
心もイケメン 京セラ
史上初!選手兼監督で優勝 遠藤保仁
逆境からVへ 無印良品
終章 リスタート
ラストパス
著者プロフィール
1976年神戸市生まれ 明治大学農学部卒業後、2009年にチャンスメディア株式会社設立。
代表取締役社長に就任。
最新作は
「サッカー日本代表はドラッカーが優勝させる サッカー馬鹿よかかってこい」(5月16日発売)
著作には
「サッカー日本代表が一つの会社だったら リストラすべきは本田?カズ?ヒデ?」
「開業してはいけない 早期退職者を襲う甘い罠」
「脱サラ・独立を絶対に成功させるたった9つのコト」
「介護・教育・ニュービジネスのはじめ方」他
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内田篤人がついたやさしい嘘を暴く!!アップしました!